ページ番号1006095 更新日 平成30年2月16日

エネルギー文明史 ―その1

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レポートID 1006095
作成日 2003-11-30 01:00:00 +0900
更新日 2018-02-16 10:50:18 +0900
公開フラグ 1
媒体 石油・天然ガスレビュー
分野 エネルギー一般
著者
著者直接入力 田中 紀夫
年度 2003
Vol 36
No 6
ページ数
抽出データ エネルギー文明史 ―― その1(エネルギーコンサルタント,元日本エネルギー経済研究所研究員)田 中 紀 夫著者は2002年に「エネルギー環境史」を著わし,人類誕生から現代に至るまでのエネルギーと文明の関わりについてまとめている。原書は3分冊からなる大部なものであるが,今号では原著の概要を記し,次号から3回にわたって「エネルギーを巡る文明の興亡史」,「エネルギーによる自然環境の変化の歴史」,「エネルギーによる生活面の進歩の歴史」について掲載する。序章 有限な化石資源に支えられる現代文明現代文明は,有限にもかかわらず安価な化石エネルギーとウラン・エネルギーに支えられ,このエネルギー資源無しにはいっときも存続できません。30年前のオイルショック,北朝鮮の暗い夜,米国で起こっている停電騒動などはその証拠です。エネルギー不足が日常化すれば,私たちは簡単に中世の時代に戻って自然エネルギーに頼る質素な環境に置かれます。豊饒なニッポン石炭と蒸気を結びつけてから300年,石油を争った第2次世界大戦から60年余り,石油危機から30年経ちました。日本はいま史上もっとも豊かなエネルギー供給を受け,おびただしい石油化学製品や電気製品に囲まれ,豊饒な物質生活を享受しています。卑弥呼や古事記の時代,平家や源氏の時代,金閣や銀閣の寺がつくられた時代,そして浮世絵が描かれた江戸の時代に生きた人々には想像もできない,すばらしい科学技術の恩恵を受ける時代にいます。しかし日本の外に一歩出ますと,途上国ではそう簡単にエネルギーを手に出来ないことを実感しますが,日本に帰ると豊饒エネルギーの恩恵を忘れてしまいます。21世紀はエネルギーの国際的な割り当てが起こりますが,それはエネルギーと環境問題から現代文明のエネルギー飽食を修正せざるを得なくなるからで,本稿では,この問題を人類史のなかでどう位置づけるかを考えてみます。240万年の人類史において,原始人は周囲の自然をおもんぱかる慎重な生き方をしていましたが,火の発見と利用の「第1次エネルギー革命」のあと,蒸気と化石エネルギーを手にした「第2次エネルギー革命」を経て,石油と電気を組み合わせた200年前の「第3次エネルギー革命」からは大胆不敵恐いもの知らずになっています。第2次世界大戦後の大量エネルギー消費時代を約50年とすれば,240万年に対する50年,すなわち午前0時に人類が誕生したとすると,この大量エネルギー消費時代は23時59分58秒2の一瞬に相当し,蒸気と石炭の第2次エネルギー革命が起こって,人口が10億人の大台にのった1830年頃の産業革命からは170年余り経っていますが,それでも23時59分53秒9という瞬時にいます。追い詰められて動く人類エネルギー史を振り返りますと,エネルギー不足が深刻化して困窮し,エネルギー利用の弊害が出てどうしようもなくなって初めて次のエネルギー対策を講じています。21世紀を展望しますと,①発展途上国を中心に世界的に増え続けているエネルギー需要に対して便利な化石エネルギーは減衰する時期を迎えますが,まだこれに代わるエネルギーには見るべきものがない,②化石エネルギーを現在のように大量に燃やし続けると地球は温暖化し次世代の対策費用が増えてゆく,の2点です。―53―石油/天然ガス レビュー ’03・11Gネルギーが不足してくれば一定量しか使えない時代になりますが,以下で人類とエネルギーの関わりの歴史にヒントを求めてみました。石器をつくりながら野獣の餌食になって,過酷な生態系の食物連鎖に組み込まれ,他の動物と同じに瞬時をどう生き延びるかに懸命でした。第1章 火を手に入れた人類――第1次エネルギー革命本章では50万年前の人類による火の発見を最初のエネルギー革命ととらえ,その経緯をみます。エネルギー利用面で革命的だとみたのは,頭脳が未発達だった原人類が火に近づいて火を自分のために使い,それまでの生活を一変させたからです。この時から同僚だったチンパンジー,オランウータン,ゴリラとは生活ぶりを変え,他の生物とも歩む道を大きく分かつ要因になったからです。原始人と火のエネルギーヒトはアフリカの森で400万年前に立って2本足で歩き始め,240万年前に現代人につながる人々が登場しました。その後8万年前までに年平均気温が3?4度下がる氷河期が4回も訪れましたが,暖かいアフリカには氷河はなく,あらい礫最初に出会ったエネルギーは太陽と風と人力自然の森のなかを生きていた人類が,最初に出会ったエネルギーは太陽でした。輝く太陽を浴び,果実や木の実の豊富な森に住み,信号めいたコトバを交わしたことでしょう。食べ物や住みかを巡って獣や動物と闘いに明け暮れ,感覚器官を駆使しなければ生きてゆけませんでしたから,ひ弱な現代人に比べるとはるかに鋭い感覚を持っていました。森林や洞窟に住んで,木の実,草の根,小動物や魚の生肉を食べ,山野を駆け巡り,川を泳ぎ,風や日陰に憩いを求める行為は,自然エネルギーを与えられたものとして受け入れる生活でした。太陽に劣らず大事なエネルギーは人間の筋力で,2つのエネルギーを組み合わせて生きており,他の動物と同じエネルギーで行動した生きものでした。太陽エネルギーが豊かで温暖な住みか,猛獣の来そうもない崖の上や高い木の上を探して生き延びていたのです。エネルギー消費の推移90二〇〇〇年(cid:0)石油/天然ガス レビュー ’03・11―54―ホの発見への道のり60万年前の第2間氷期には,直立猿人(ピテカントロプス・エレクトス。知能はゴリラと現代人の中間)のジャワ原人や北京原人が登場し,手指が発達し石器を使い,他の動物より進んだ脳をもつ人類が登場しました。石器文化が進んだ旧石器時代・中期の50万年前,旧人類と呼ばれる人々は火を利用できるようになりました。彼らは前から落雷や樹木の摩擦で燃える恐ろしい山火事を体験し,植物や動物を焼きつくす強力な熱と光のパワーを知っていたでしょう。幾日も燃え続ける原始林の火事は生活を脅かす恐ろしい事件で,本能で行動していた原人にとって火は命がけで立ち向かった正体不明の恐ろしいパワーでした。東アフリカ・ケニアの140万年前のチュソワンジャ遺跡からは7センチほどの焦げた粘土片が見つかっていますが,鳥の糞が自然発火した可能性もあって,山火事の跡なのか焚き火の跡なのか,確認できていません。彼らが初めて火を手にしたのはこの燃える火を恐る恐る他の木に移したときで,樹木の発火を知ってお互いに伝達し合い,火に接近しているうちに慣れ,保存する手立てをするようになったのでしょう。火に近づく人類知覚を持つ生きものなら獣や鳥でも火は認知していたはずですが,人類だけが火を保存しいつでも作れる方法を発見したのは,考古学上では50万年前の中国の北京原人(シナントロプス)の頃とされます。もっと早く使っていたのかもしれませんがそれ以前の証拠はないのです。革命的だった火の利用イリンはこの頃の人類を『人間の歴史』で,「北京原人は,自分で火を起こすことはできなかったが,・・・山火事のあとなどでくすぶる燃えさしを拾い,大事に持って帰った。・・・たき火のそばには,石の武器や,狩猟で殺されたけものの骨のかけらなどがある。火と狩猟―― 人間はこの2つのもので,氷河の襲来に答えた。・・・夜は明るく照らし,冬は暖かくしてくれる太陽を燃やした。・・・石の小刀や石べら,火打ち石のかけら,動物の割れた骨,炉の炭や灰などが,砂や粘土に混じって残っている」と書いています。この頃の人類の先祖たちは2つの木片をこすり合わせて火をおこし,潅木,小枝,枝草,家畜糞などに移す発火法を会得し,さらに長い時間を経て火打ち石を見つけました。かんぼく火のエネルギーで他の生きものと異なる道にこうして火を手にした人類は,獰猛な動物から身を守り逆に攻撃できるようになって,生態系の食物連鎖からひとり離脱する道に入ったのです。当時の人間たちを襲った野獣のトラが1997年末の地球上にどれだけ生息しているか調べると,100年前に比べてもわずか5%の7500火をおこす原始人―55―石油/天然ガス レビュー ’03・11ェになっています。たきぎしゃくねつのおき(薪脳がさらに発達するにつれ,予熱した石,が燃えて炭になったもの)を使灼熱い,泥を塗り固めた炉を作り,火鉢を考案し,4大文明が登場する頃になると,火を早く起こすための団扇も作りました。うちわふいご,鞴火を使って調理すれば細菌が死滅し,食べられる動物や植物の数は著しく増え,摂取するエネルギーも高まりました。火を利用することで雲に覆われて月明かりのない暗黒の怖い夜も明るくなり,寒い季節も暖房の役割をしてくれました。こうして人類の行動範囲は一挙に拡大し,人口も増加の道に入りました。人類史にとって革命的な発見と発明で,第1次エネルギー革命と云える大変革をもたらしたのでした。また長い時間が経過し,5万年前の第4氷河期末にはネアンデルタール人に次いでクロマニヨン人や周口店上洞人などホモサピエンス(新人類。脳は1500ccと現代人と変わらない)が出現しました。彼らは火と道具を使って洞窟生活を営み,寒さをしのぎ,動物の着色絵画を描いています。こうした芸術を残しながら,原生森や洞窟の中で他の動植物とともに,謙虚に自然環境と共生していました。続く後氷期に入りました。この新石器時代から人類は洞窟を出て集落の生活をするようになり,薪炭エネルギーの需要が増え,森の伐採が目立つようになりました。人類が自然環境を目立って侵食するようになったのは,火を自由自在に使えるようになったこの時期からといえます。プロメテウスが持ち帰った火『ギリシャ神話』によると,空と山頂を支配する神ゼウスは人間を罪も知らぬ無知と暗闇のなかにおき,ゼウスの子エピメテウスは動物には勇気,力,早さを与えましたが,愚鈍で野蛮な人間を哀れんだ兄プロメテウスは,父ゼウスを無視して,天に昇って太陽の火を盗って人間界に持ち帰りました。ゼウスは怒り,罰としてプロメテウスを永劫に岩場に繋ぎ鷹の餌食にし,エピメテウスにはパンドラという魅惑あふれる女性を創って使わしました。プロメテウスが持ってきた火で人類は動物を征服しました。蠱惑なパンドラはエピメテウスの眼を盗んで禁断の壷を開けたところ,おびただしい「禍」というモノが壷から飛び出して地球の隅々に広がりましたが,壷の底に一つだけ「希望」というモノが残っていたというのです。こわくわざわい1万年前になると氷河期が終わり,現代までプロメテウスが持ち帰った太陽の火は,食料,火を工夫する人類石油/天然ガス レビュー ’03・11―56―⊥ーの場所,体温調節用の植物や毛皮など動物の生存条件を超える人類だけが得たモノ,火のエネルギーでした。火は人類の生活を一変させた火を操作できるようになった人間は光と熱を得て,生存するうえでゆとりができ,脳をさらに発達させ,他の動物にない思考,創造,喜び,悲しみ,ねたみ,うらみなどが加わりました。そして火を崇拝する敬虔な宗教心は廃れませんでした。動物としての闘争心を含む自己保存本能はありましたから,火のエネルギーを嗜欲喜怒の感情を満たす暴力的手段としても使うようになり,善悪の両刃の剣になる強力なパワーを手に入れたことにもなりました。7000年前になると,食料を定期的に収穫する農耕を覚え,家畜の飼育を始め,自然界のものを積極的に利用し,農耕と牧畜生活で定住する新石器時代に入りました。5000年前のメソポタミヤ文明の中心地バビロン(バグダッド南方)では火を使って土器やレンガの街をつくり,織物をする定住文化が残されています。畏敬された火のエネルギーパワーあふれる火は,強い明かりと高い熱を同時に出しましたから,当初から人々は恐怖感を抱き,畏敬すべき崇拝の対象にしました。ローマ時代の「炉の神」ヴェスタ神に奉仕する乙女たちの仕事は火を守ることで,守られた火は重要さを体験するため,1年に1度,一端は消プロメテウスの絵されて再点火されるという盛大な儀式が催されました。紀元前500年頃のペルシアの「火の神」アフラ・マズダを崇めるゾロアスター教はマズダ教とも呼ばれ,南北朝の頃の中国に伝来し祓教または拝火教と呼ばれました。はいかきょうけんきょうともがらイスラム教の聖典コーランには,「火は不信心な者を焼く業火(地獄の猛火)」とされ,「不義の徒どものために火を用意し,火の幕で彼らを取り囲んだ」,「罪を犯した者どもは業火を見て,自分たちがそこへ落ちこむのを確信する」といった表現があります。インドの拝火教・バラモン教は釈迦(紀元前4?5世紀頃)の仏教が登場する前から存在した宗教で,「火は天が食物を摂るための消化器で,火に供物を投げ込めば,煙や炎になって天に登り,天は喜び,福をさずける」としました。ひのかがびこのかみひのかぐつちのかみひのやぎはやおのかみ日本の火に関する記述は古事記にあり,火の焼く力を神格化した火之夜芸速男神,輝く威力,光り輝く火の神霊を神格化した火之火玄毘古神が登場します。男根に見としての火之迦具土神立てた先の尖った細い棒の火鑽杵を,女陰に見立てた小さい穴をあけた火鑽臼に押し当て,左右の手で回転させながら揉んで火をき鑽りだす発火法がありました。摩擦熱のエネルギーで火を起こすことを生命の誕生に結びつけたもので,日本の火が神格化された時代を彷彿とさせます。ひきりきねひきりうすきほうふつ1次エネルギー革命の意義火はそれまでのエネルギーと違って,元の樹木や周辺の動植物までも一瞬のうちに焼き消ゾロアスター神殿―57―石油/天然ガス レビュー ’03・11オ,灰にしてしまう強力なパワーをもっていますから,この火を制御するようになってから,闘う相手が減って視覚,聴覚,触角など生体的な器官は衰えだしました。「考えるひ弱な葦」になってゆくことは,自然を鋭く把握できずに環境を滅ぼし始める道に入りこみ,自然環境に身を寄せて順応する長かった道からはずれつつあるともいえます。第2章 蒸気と石炭が森林枯渇を救う ――第2次エネルギー革命本章では,18世紀後半に起こった石炭と蒸気によるエネルギー革新を人類史における第2の「エネルギー革命」とし,この中味を整理します。石炭を活用する蒸気エネルギー機関を発明したからで,自然エネルギーしか使わなかったそれまでの手作業の長閑な社会を激変させてしまったからです。のどか古代文明も森林を乱伐した火のエネルギーの元はワラなどの植物や乾燥させた家畜糞のほか森林の薪が重要でした。人口が増え過ぎない限り,森林というエネルギー源は不足することはありませんでした。しかし紀元前3000年頃に都市が造られ,メソポタミア,エジプト,インダス,黄河の4大文明が発生する頃には森林は過剰伐採され,火のエネルギーギルガメシュの石版源も有限な資源になってきました。紀元前4000年頃の人類史上最古の文学とされるメソポタミアの『ギルガメシュ叙事詩』には,シュメール人が煉瓦を作るためのエネルギーとして森林を乱伐して山が荒廃し,チグリス・ユーフラティス河が氾濫し,森林枯渇を反省して焼き煉瓦でなく日乾し煉瓦で作った城で生活しようとする記述があります。紀元前2000年頃に鉄器が作られるようになると,森林伐採の勢いはさらに大きくなりました。インダス文明は,紀元前2300年頃に登場し500年後に衰亡したとされますが,中心都市のひとつモヘンジョ・ダロでは焼き煉瓦で要塞や城壁がつくられています。インダス河の洪水の度に,都市を再興するため森林が消失されたことが推測されます。ヨーロッパでは,紀元前2500年頃には薪によるエネルギーを使って銅の精練が行われ,紀元前2000年頃には青銅が普及し,地中海沿岸の森林は乱伐の様相を呈し始め,荒廃した地域も出てきました。火のエネルギーを多用することで森林の衰退という自然環境の悪化を引き起こすことになったのですが,当時の人口はまだ少なかったため影響は地域内にとどまっていました。ギリシャ・ローマ文明も森林を枯渇させた『ギリシャ・ローマ神話』には,美の女神ヴィーナスが森を抜け小山を越えて野兎や牡鹿の猟をしたとされ,ギリシャ・ローマには豊かな森のあったことが推測されます。紀元前2000年頃のミノア文明時代のギリシャ・クレタ島はナラ,カシ,マツのうっそうとした森におおわれていましたが,青銅器などをつくるため森が切り払われ,土壌の劣化が起こり,穀物の生産力は低下して飢餓が生じ,食人まで起こって,ミノア文明は滅亡したとされます。紀元前300年頃のイタリアやシシリーでも急速な森林伐採で荒地が目立ち,イタリア南部の港では上流の森林破壊で土砂が河川に流れこみ,港街は衰退したとされます。調理や明かりや暖房のために火を使うと灰になりますから,伐採を毎日続けざるを得ず,森石油/天然ガス レビュー ’03・11―58―ム破壊で文明が衰亡した例は中国の殷王朝,マヤ,エチオピア,イースター島などでも伝えられています。日本で743年に建立が始まった奈良・東大寺の大仏の仏像に使われた金属は,銅443トン,ハンダ8トン,練金390トン,水銀2200トンとヨーロッパの森林の衰退図現在のヨーロッパに原生林はない中世のヨーロッパは大開墾時代と呼ばれ,6世紀のベルギーでは森林を木炭の生産拠点にしたため9世紀初には原生林は消滅し,今のヨーロッパの森林は乱伐された後に再生された森林で,原生林はありません。11世紀のイギリス南東部の森林も切り払われ,13世紀初頭のヨーロッパ西部に広がっていた肥沃な森林も一掃されました。神聖な火を持つギリシャ人森を追いかけた製鉄工場―59―石油/天然ガス レビュー ’03・11ウれ,これに要した木炭は4630立方メートルとされています。16世紀初頭のフランスの森林面積は国土の35%ありましたが,16世紀末に460ヵ所もの製鉄所ができたため,17世紀央には25%に減少し,木材価格は上昇し続け,17世紀後半にルイ14世は森林の伐採制限の勅令を出しました。しかし冶金業は成長したため乱伐は続き,フランス革命の起こった18世紀末の森林面積はさらに減りました。18世紀初のロシア地方には海水を煮詰める製塩工場が1200ヵ所もあったため,周辺の林は伐り尽くされ,300kmも離れた森を伐採する事態になったとされます。イギリスはエネルギー危機になったヨーロッパ大陸よりも森の少なかったイギリスの製鉄業は,薪や炭を求めて移動し,16世紀には全国的にエネルギー不足となり,政府は森林伐採を禁止し,植林計画を始めましたが成果は出ませんでした。森林枯渇はヨーロッパ大陸にも起こり,19世紀後半にはアメリカでも生じました。17世紀末の日本,徳川綱吉の元禄時代の光熱エネルギーは薪炭が主力で,森林が減り続けたことを反省して伐採制限を行ない,伐採後30年は手つかずにして再生林として保護しました。しんたん薪炭エネルギーの不足から森林の少なかったイギリスでは,木材価格が上昇し始めたため,他国よりも真剣に他のエネルギーを探さざるを得なくなりました。薪炭価格上昇で石炭エネルギーに向く注目されたのは,黒い固まりの石炭エネルギーでした。すでに3000年前のギリシャや中国,1900年前のロ?マ時代はもちろん,8世紀に書かれた日本書紀にも記述があり,人々は石炭を知っていました。しかし,この黒い固まりの火力は強過ぎて臭いも強く,制御が難しいので,木炭の方が好まれていましたが,石油・ガスに比べると身近に扱えるエネルギーでしたから,化石エネルギーのなかでは最初に利用されました。ヨーロッパ大陸に先駆けてエネルギー危機になったイギリス人を,石炭へ向かわせることになったのです。「必要が発明の母」になり,他国に比べて50年も早く第2次エネルギー革命による第1次産業革命を起こしました。人類誕生から50万年も続いた森林エネルギーへの依存はこれで一段落し,石炭という有限な化石エネルギー資源の活用に力点が移り始めたのです。石炭の登場でイギリスは,1540年代から100年間は煉瓦,製塩,醸造,造船,精糖,石けん製造工場でエネルギー転換が起こり,経済活動は飛躍的に発展し「初期産業革命」とも呼ばれました。1709年にダービー親子は,コークスを使って鉄の原料になる銑鉄の製造に成功し,1780年代には,ヘンリー・コートが新しい鉄の製法を開せんてつ石炭の出来るまで石油/天然ガス レビュー ’03・11―60―ュしました。イギリスの製鉄業は,救世主を得てヨーロッパの森林乱伐の危機も救われ,エネルギー危機も緩和されることになりました。とはいえ,森林不足から木材価格の高騰に見舞われた1550年代からコートの新たな製鉄法の開発までには約230年も要しており,溶鉱炉が操業停止に追い込まれた1710年代からでも70年も経ました。画期的なワットの蒸気機関の登場蒸気エネルギーについては,紀元70年頃にアレキサンドリアの研究家ヘロンが記録を残していますが,産業用の機械に蒸気が応用されたのは1600年も後のことです。17世紀末には揚水ポンプ,18世紀初頭にはピストン・ポンプが発明され,約70年後の1781年になって,ジェームズ・ワットがピストンの上下運動を回転運動に変える画期的な技術特許を取りました。これで工場の機械が簡単に操作できる革命的な技術になったのです。蒸気エネルギーは,今日まで約300年にわたって,現代文明の象徴の電気を製造するための主要なエネルギー媒体になりましたから,蒸気機関が完成した1781年はエネルギー史の記念すべき年になります。人力や風車や水力などのエネルギーを使う,ヘロンの蒸気エネルギー利用図ワットの蒸気機関手づくりで長閑に進む文明から,地下に埋蔵される,有限なエネルギー資源に依存しながらも大きなエネルギーを掴み,疾走する文明へと移行することになりました。筋力を上回る強大なエネルギーで新しい技術システムが誘発され,列車,蒸気船,航空機などを次々に登場させました。このエネルギー革命で新産業を興したイギリスには創業者の富が蓄積され,大英帝国が築かれました。木炭から石炭・蒸気へ移行したこの第2次エネルギー革命は,イギリスからヨーロッパ大陸へ波及し,約50年後の19世紀半ばには大西洋を越えてアメリカに渡り,日本にはペリー来航後の1867年(明治初年)以降に伝わってきました。蒸気自動車を阻止しようとした動き イギリスの18世紀後半には蒸気による3輪自動車,19世紀初には,人が乗れる蒸気自動車とスチブンソンによる炭坑用の蒸気機関車が作られました。しかし,1861年に蒸気自動車法が作られ,最高時速を市内8km,市外16kmにする速度制限が設けられ,1865年には赤旗法条令が施行されて,蒸気自動車が来たことを通行人に知らせるために,日中は赤旗を持ち,夜は灯火を提げて,自動車の前60メートル先を先導しました。これは,スピードで馬車に勝てなくするためで,蒸気機関車は路上から追われて鉄道に活路を見出したのです。31年後になって法律が改正され,先導者も不要になり,最高時速も19kmへと引き上げられました。―61―石油/天然ガス レビュー ’03・11C自動車19世紀後半に蒸気船は帆船を代替した くなったようです。この頃の船は,風のエネルギーを利用した帆の船,水かけ船,人力エネルギーを利用した櫂かき車とスクリュー船が走っていました。かい19世紀初頭,アメリカのフルトンは2つの外輪をもつ蒸気船を造り,平均時速8kmで走行させ,各地の川や運河で蒸気エンジン船が広がり,1816年からは海に就航しました。蒸気船の速度は時速10km程度で,4頭立て馬車の16kmより遅いけれども,運賃は安く,天気がよければ水上の旅は快適で,馬車はあまり利用されな19世紀央には鉄製の船,19世紀後半には鋼鉄製の2000トンを超える帆船と鉄製の軍艦が登場し,帆船に比べて蒸気船の輸送効率はドンドン向上しました。船体が木材から鋼鉄に変わり,船舶が使うエネルギーも薪炭から石炭に代替され,石炭を使う蒸気船は,1807年にフルトンが改良した船の頃から1936年に石油によるディーゼル機関が登場するまで,約130年余り続きました(ただし,軍艦は第1次世界大戦前に石油に切り替っています)。フルトンの蒸気船石油/天然ガス レビュー ’03・11―62―@械の固まりの鉄道へ不安が高まる1814年のスチブンソンが創った蒸気機関車の登場で,馬車の客が鉄道に移ってしまう恐れが出て,その後16年間は反対運動が起りました。英国王立学会では,「列車の速度が時速48kmを超えると,車室に空気が入らなくて乗客を窒息させる」とし,別の委員会は「鉄道沿線の牛が,ほえたてる怪物に恐れて乳の出が少なくなる」と報告しました。1841年に開通した鉄道の布設時に,テームズ河畔にあったイートン・スクールは強硬に反対し,5kmも離れて敷かれました。日本でも東海道線が布設された際,岡崎市が反対したため,線路は遥か離れて設置されました。新しい巨大技術が革命的であればあるほど,それから受ける恐怖感は,これを上回るメリットが生じない限り短時日に消し去ることはできませんし,利益を得る者と損害をこうむる者も発生しますから,対立抗争は絶えません。馬車から鉄道への輸送エネルギー革命 1820年頃の鉄道の競争相手だった駅馬車は,ほこりだらけのでこぼこ道を時速16kmで走りながら最盛期を迎えていました。徒歩では1日30kmしか進めず,人力エネルギーの飛脚,風と人力のガレー船,動物エネルギーの郵便馬車でも1日160kmが限度でした。イギリスの鉄道は反対運動を経ながらも,馬車に比べて値段も安く快適で,運河に比べても目的地の近くまでゆけましたから,鉄道を利用する人は徐々に増えました。1855年のパリとマルセーユ間の鉄道は時速96kmで走れ,時速60km程の現代の競争馬からみても,蒸気は馬力を追い抜いたのです。アメリカでは南北戦争終了後の1869年に大陸横断鉄道が完成し,1905年にはヨーロッパとアジアを結ぶシベリア鉄道が開通し,その後の60年間は蒸気鉄道が陸上交通の主役でした。蒸気機関車という「鉄の馬」は,馬力を超え,馬とヒトの食料の奪い合い問題も解決し,この効用から世界に広く普及し始めました。2次エネルギー革命の意義蒸気と石炭へのエネルギー転換が革命的だった理由は,①熱エネルギーを蒸気エネルギーに転換することで,②機械施設が導入されミル(家内作業場)がファクトリー(機械工場)へ変わり,③上下運動が回転運動に換わる熱力学が応用され,④人力エネルギーを使う奴隷・下僕・貧しい労働者たちの肉体酷使の労働が減っスチブンソンの蒸気機関車―63―石油/天然ガス レビュー ’03・11ナ盛期の馬車ターミナル中世に蓄積された技術が花開いたて人の公平・平等性が向上し,⑤水力や風力エネルギーの立地制約が無くなって工場の立地場所を自由にし,⑥森林枯渇を救い,⑦多くの分野で機械による生産を増やし,鉄道を興し,海上の船舶交通を拡大し,電気を登場させる土壌を創ったからです。人類史において画期的な新エネルギー文明が興ったのです。ぎ第2次エネルギー革命と第1次産業革命の花が開いた背景で見逃してならないことは,それ以前の1000年に及ぶ中世に培われてきた火薬,羅針盤,天体観測儀ぎ車,木製の歯車と伝導装置,時計,毛織物用の機械,ポンプ機械,冶金術などの発明や進歩が積み重なっていたことでした。そして,①多様な技術の蓄積があり,②追い詰められた状況から次への,帆船やきんじゅつの舵,紡はんせんかじつむ蒸気機械工場で働く人々石油/天然ガス レビュー ’03・11―64―W開が必要性だった,③技術も社会もりんかい臨界状況を経て一挙にブレイクスルーされたことでした。とはいえ第1次産業革命も現代からみるとゆったりした時間のなかで展開されており,ハイテンポな現代の情報革命とは雲泥の差でした。自然人から人工人への道に踏み込むまた第2次エネルギー革命は,①それまでの再生可能な自然エネルギーへの依存から,長くても数百年で使いきる有限な化石エネルギー資源を活用し始め,②強力なパワーを発揮するエネルギーのため,そのまま使うと亜硫酸ガス(SOX)や炭酸ガス(CO2)が排出され,人体や気象にマイナス作用をすることにもなりました。人類は自然環境に対して自由な挑戦をしてきましたが,当代を生きた人々が自然の奥深さを科学的に理解したうえで対応したわけではなく,科学技術を含めた人類の知恵の限度を示しています。2次エネルギー革命と1次産業革命を経て人々の感覚は変化し始め,文明の利器という人工物体の普及によって,視覚は低下し,騒音が増えて微細な音に鈍感になり,自然物と触れ合う必要が減って指や身体の触角が鈍感になり,無機質物体に慣れてゆくという道を歩むことになりました。頭脳だけは発達し,肉体や筋肉や感覚器官など諸器官の低下により,自然環境に受け身で順応している植物や生物のような生体的な生き方は失われ,「ひ弱な考える葦」への道をひた走り始めたといえます。自然環境と共存し生体の諸器官を全駆動する「自然人」からは変容し,人工構造物に囲まれて人工的な思考を高める「人工人」へ移り始めたことを意味しています。第3章 石油・ガスと電気の登場――第3次エネルギー革命本章では,第3次エネルギー革命の中味を整理します。第2次エネルギー革命で農耕社会から離別した人類は,新たな機械文明という産業革命を興したものの,夜の生活は暗く,交通手段は人類誕生以来いまだに足を酷使するものでした。しかし電気が発明されて照明に使われると,夜の明かりを手にし,動力に応用されて工場作業は一変し,電気鉄道の登場で新たな交通手段を得ることになりました。加えて石油による自動車や航空機,ガスによるパワフルなエネルギーが登場し,人々の生活はさらに高度化しました。電気と石油・ガスを組み合せた新エネルギーシステムは,人類史において第3次エネルギー革命と云える全く新しい文明を登場させ,生活や行動範囲を劇的に変貌させることになったのです。そして,ミクロの世界の核エネルギーも登場してきました。第1節 暗やみからの解放――明かりのエネルギーれきせい古代オリエントの頃から,石油の残さ物の瀝青(アスファルト)が薬や接着剤として使われ,900年代のイスラム社会の『千夜一夜物語』新文明に眼を見張る人々―65―石油/天然ガス レビュー ’03・11ノ銅製の石油ランプがアラジンの魔法のランプとして登場しました。天然ガスは,紀元前1500年頃からカスピ海のアゼルバイジャンの街バクーのゾロアスター教寺院で燃えていた記録があります。かみよ日本では,古事記に書かれた神代の頃から,植物や動物の油を小皿に入れて燃やして光エネルギーにしました。石油は,天智天皇が即位した668年に「越の国の燃ゆる土と水を献上」と伝えられ,ガスについては1700年頃に,越後地方で地中から出る「風くそうず」(石油の呼び名の臭水に対して気体の特徴がでています),つまり天然ガスが出るとされました。くそうず1600年代のヨーロッパの街は日没と共に闇に覆われ,ほとんどの路地は月夜の晩を除いて真っ暗闇の危険な暗黒街になり,かっぱらい,追剥ぎ強盗が横行しました。1710年代のアメリカからは照明用のでは動物の油が使われ,獣脂蝋燭だけでなく洗濯用の石けんも作られ,室内用の照明エネルギーは蝋燭が主流でした。じゅうしろうそく1718年にパリで初めて石油を使った街灯用の照明ランプが使われ,パリ警察は夜9時から一晩中,家の窓にランプを出しておくようお触れを出したので,商店,酒場,たばこ屋などは夜11時頃まで営業できたそうです。1765年になると,パリのかなり広い地区に街灯用の石油ランプが普及し,フランス革命のときも街を照らしていたそうです。石炭ガスをガス灯にしたスコットランド人のマードック(蒸気機関の最初の製作者)で,ラトウールの「大工の聖ヨゼフ」「ガス灯の父」と呼ばれています。たいまつかがりびあんどんい ろ りちょうちん,篝火日本の江戸時代には,室外では松明,業種油等を利用した行灯,室内では蝋燭,行灯,囲炉裏などが使われ,ヨーロッパやアメリカ人に比べて,ずっときめ細かな工夫をこらした照明器具を創りだしました。,提灯太陽が沈んであたりが暗くなれば寝てしまうのが人々の通常の生活で,太陽エネルギーの明かりを有効利用するサマー・タイムを,役人のお仕着せではなく江戸の人々が独自に行なって,早寝早起きの生活をしていました。1850年になると石炭を乾留して作ったパラフィン油が石炭油として売られ,1859年にドレーク大佐が新しい原油掘削方法を開発してからは,ケロシン(灯油)溜分にしみ込ませ,ガラスのホヤ(覆い)をかぶせた灯油ランプが売り出され,石油ランプは鯨油ランプを代替してゆきました。を平織り灯心りゅうぶんとうしんげいゆ明治時代に石油・ガスから電気へ移行1872年(明治5年)に横浜で初のガス灯がつきましたが,エネルギー源は石炭を乾留したガスでした。明治7年には東京に石油灯,12月にはガス灯がつきました。ひろう電灯が灯ったのは,それから5年後で,現在の霞が関ビルの北側にあった東京大学・工学部構内でアーク電灯が披露されました。アーク電灯は,炭素棒の両端が白熱状態になってアーク(電気の弧)状の白熱した光を出す電灯です。日本で灯ったのと同じ1878年,パリ万国博覧会でも点灯されました。蝋燭や行灯や石油ランプで生活してきた江戸の人々にとって,アーク灯の明るさは石油ランプ60個分に匹敵しましたから,照明における大革命となりました。この頃から石油,ガス,電気の3つの灯りが競争関係になりましたが,明治期(1868?1911年)を通じて石油の街灯がもっとも多かったのですが,明治期の後半(1890年?1911年)になると,ガスと電気が増えました。1879年に,エジソンが京都の竹を炭化したフィラメント電球をつくり,アーク灯よりもまばゆくなく800時間も長く点灯できました。大正石油/天然ガス レビュー ’03・11―66―Aーク灯の実験エジソン電球と竹製のフィラメントがる世紀の始まりでした。1900年のアメリカの動力エネルギーに占める電気は4%で,蒸気,石炭,石油が主力エネルギーでした。しかし電気製品,市街電車,地下鉄などが増えるにつれて電気の販売価格が安くなり,40年後の1940年には70%に普及しました。3次エネルギー革命の意義 明治23年(1890年)の東京・上野の勧業博覧会には電車が登場し,浅草の12階建てビルに7馬力の電動機で動く初のエレベーターが登場しました。電気によって,身近なコンセントから明かりも動力も簡単に取り出せ,①工場や事務所が街琥珀の吸引時代(1912年以降)に入ると,3390度まで溶けないタングステン電球が出現し,電気による照明の優位性が固まりました。1923年(大正12年)の関東大震災はマグニチュード7.9(1995年の阪神大震災はマグニチュード7.2)の巨大な揺れとなり,石油ランプやガス・パイプの破損による火災が多発したため,震災後の東京の明かりは,安全度が評価されて電気が主流になりました。第2節 電気の発見と応用――第3次エネルギー革命の分担者照明エネルギーとして地歩を固めた電気は,すでにギリシャ時代のターレスなどの哲学者らによっておぼろげながら分っており,琥珀を摩擦すると瞬間的に電気が発生することでした。1800年代の100年間は,電気の研究が開始され,新発見や発明が次々に重ねられ,電気の革命的な利用への基礎が作られる時代でした。1900年のパリの万国博覧会は「光とエネルギー」がテーマで,光と動力としての電気の利用が広―67―石油/天然ガス レビュー ’03・11セんらんなかにも設置でき,②通勤・通学時間は短縮され,作業時間が増え,家事労働が軽減し余暇・団欒時間が増え,③薪炭,石油,ガスなどは代替され,④新しい電気製品が医療,福祉,産業,輸送など多様な部門に応用され,⑤福祉や衛生環境がよくなって長寿命化に貢献し始めました。火,蒸気に次ぐ人類史における第3次のエネ話が加わり,さらに半導体チップの小型化で,①微細な動作をするロボット機能の向上,②コンピュータと通信が連動したインターネットにより21世紀はさらに情報通信の革新による第3次産業革命をもたらす新文明期を迎えつつあります。ルギー革命になったのです。第3節 石油の時代同時に企業社会は変貌することになり,第2次産業革命をもたらしました。これに電信・電浅草の凌雲閣――3次エネルギー革命の分担者20世紀の文明は電気と並んで石油エネルギーで支えられ,いわば石油の世紀でもありました。1970年代の2つの石油危機で石油シェアは減ったとはいえ,2000年では世界エネルギーの38%,日本では50%を占め,次の石炭(それぞれ26%,18%)を大きく引き離しています。石油製品は,自動車のガソリンや軽油,航空機のジェット燃料油,発電所や工場や漁船の重油,郊外住宅やタクシーのプロパンやブタンガス,道路舗装のアスファルト,機械の潤滑油など身近に使われています。とくにナフサは,ナイロン,テトロン,ポリエチレン,塩化ビニールなどに姿を変え,おびただしい身の回り品になり現代文明を形づくりました。石油は旧約聖書の時代から使われた石油とガスは,人類が火を扱えるようになって以来,地下に埋蔵されていることは分ってい昭和初期の東京神田須田町の夜景石油/天然ガス レビュー ’03・11―68―ワしたが,使い方が分かりませんでした。機械で原油を掘ることに成功してからです。紀元前3000年頃のバビロン(現在のイラク・バグダッド南方)には膨大な瀝青(天然アスファルト)が在ったと記録され,エリコ(現在のヨルダン川西岸の街)の城壁にも使われました。『旧約聖書』の創世記(7章ノアの洪水)」の箱舟を作る際に「箱舟の内側と外側にチャン(瀝青)を塗れ」と書かれています。エジプト,パレスチナ,イスラエル,イラクなど産油地帯近くには古代から石油がにじみ出ていたことでしょう。ペルシアの砂漠地帯マスジッド・イ・スレイマン(現在のイラン南西部)には,紀元前700年頃からゾロアスター教のマヅダ神をまつる寺院が建立されています。1908年からは中東屈指のマスジッド・イ・スレイマン油田が開発され,石油ガスの燃えつづける火に向けて,敬虔な礼拝が続いてきたものと思われます。けいけん19世紀央に機械掘りで石油の価値が出る樹木や石炭に比べて石油は扱いが不便なエネルギ?で,長い間,宝の持ち腐れでした。人類に貢献するエネルギーになるのは,1859年になってアメリカのドレーク大佐がペンシルバニア州のタイタスビルで,蒸気エンジンを使う掘削ドレーク大佐この頃の石油は照明用の灯油ランプに使われましたが,精製された灯油を木の樽(バレル)に入れ馬車に積んで運んでいました。輸送手段は鉄道,川のバージ(底の浅い平べったい舟),パイプライン,海上のタンカー(石油運搬用の占用船)へと発展しました。現在のエクソン(エッソ)・モービル,シェブロンなどの母体会社スタンダード石油の創始者ロックフェラーは消費地とを結ぶ手段として鉄道を買い占め,全米石油事業を支配するスタンダード石油トラストをつくりました。蒸気自動車,電気自動車から石油自動車へ19世紀後半のイギリス製蒸気自動車(石炭だき)が登場した後,灯油バーナーの蒸気自動車が売り出されました。同じ頃,最初の電気自動車(電動3輪車)が作られ,電池40個で80kmまで行ける電気乗り合い自動車も定期運転を始めました。19世紀末のロンドン,パリ,ニューヨークなど主要都市の陸上輸送は,馬車,運河の船,鉄道列車,蒸気自動車,電気自動車など多彩な交通手段が競合していました。1886年にダイムラーが内燃機関を発明して石油が自動車に利用され,ドレーク掘りの開始から37年後の1896年にヘンリー・フォードがガソリン車(T型フォード車)の大量生産に成功しました。ガソリン自動車が大量生産され,一般大衆に普及し始めました。電気自動車と蒸気自動車はT型フォード車の登場で価格競争に敗れ,20世紀初頭から姿を消しました。革命的なアメリカの自動車普及灯油や軽油を使うトラクターがアメリカの農業分野に登場して,大量収穫が可能になり,人力と畜力による伝統農業は石油を使う現代農業に移行し始めました。アメリカの広大な大地の戸口から戸口をつなぐ自動車が普及し,公共鉄道は衰退しました。アメリカの自動車の登録台数は,T型フォード車の試作から20年後の1916年に340万台,33年後―69―石油/天然ガス レビュー ’03・11フ1929年に2310万台と,世界の石油自動車の78%はアメリカにあり,普及台数はアメリカは5人に1台,以下イギリスは30人,フランス33人,ドイツ102人,日本702人,ソ連6130人でした。石油の宿命 ?生産調整の難しさ?アメリカで原油が発見されると,人々はアメリカ中を掘削したため,原油は過剰生産になって価格は崩落し,このために生産が減少すると逆にすぐに高騰しました。1860年のペンシルバニアの西部原油は日量45万バレル掘られ,翌年1月にバレル当たり10ドルでしたが,1862年の年間生産量は約7倍の300万バレルになったものの,同年初には10セントに下落し,生産制限すると12月には4ドルに上がり,1863年3年9月には7ドル台に急騰しています。原油生産者は歓喜の絶頂から奈落のどん底へ瞬時に一変することは日常茶飯事で,ドレーク大佐も10年たらずで乞食の生活になるという激しい価格変動をしました。1910年代の石油枯渇への危惧1910年代に新発見が一段落してくると,原油価格は上がり気味になり,1920年は前年比50%石油製品の多彩な用途石油/天然ガス レビュー ’03・11―70―ァするとして,1934年に価格統制と強制買い上げ権限をもつ石油産業法を施行しました。1937年(昭和12年)には人造石油製造事業法をつくって,6年後の1943年(昭和18年)に石油消費の半分を石炭による人造石油でまかなう,とい1932年末の世界の原油埋蔵量(単位:万トン)(cid:0)も上がって3ドルになり,1913年に比べて7年で3倍に高騰しました(1970年代の石油危機並みの上昇)。米国地質研究所所長は,「消費を減らすか海外供給源に頼らざるを得ない」と警告しました。ある上院議員は,「アメリカ海軍の燃料を石油から石炭に戻すように要求した」とされます。追い詰められた石油会社は,石油探査を進めた結果,テキサス,ルイジアナ,オクラホマなどの他,カリフォルニア,ワイオミングでも新原油を発見し,1922年からは再び石油王国に戻りました。石油と第2次世界大戦日本は,1931年(昭和6年)に満州事変を引き起こしたため,アメリカでは日本製品(主として生糸,他に陶器,白熱電球,鉛筆,歯ブラシ,くぎなど)の不買運動が起こり,1932年には英連邦諸国から日本製品に懲罰的な関税が課せられました。原料と輸出市場を確保する必要から満州に着目せざるを得なくなり,政財官界の腐敗などから文民統制が出来ず軍部主導になった日本は,石油供給の6割を担っていたスタンバック石油(今日のエッソ,モービル石油)やライジング・サン石油(今日の昭和シェル石油)から自オイルラッシュの風景―71―石油/天然ガス レビュー ’03・11、非現実的な目標を作りました。戦略物資としての石油ろこうきょう1937年の蘆溝橋事件から始まった日中戦争は日本経済を軍需生産を優先する体制に変え,1939年(昭和14年)には電力も不足し始め,石炭・木炭・石油(灯油)も軍需用が優先され,家庭用エネルギーは不足してきました。1940年(昭和15年)の日本の輸入額の1位は綿花(15%),2位が石油(10%),3位が機械(8%)で,石油と機械のほとんどはアメリカからの輸入でした(ちなみに,第2次石油危機時1980年の石油輸入額は44%と戦前よりも高いのですが,2002年は14%です)。1940年1月になると,アメリカは日米通商航海条約を破棄しましたが,石油とくず鉄は民間レベルでは輸入されていました。それでも11月には全国6大都市で砂糖とマッチは切符による配給制になり,1941年4月には米が通帳による配給制,5月からは木炭が通帳配給制,酒は切符配給制になりました。1940年の日本のエネルギー供給量は6340万トン(2000年の11%)で,うち石炭66%,水力発電16%,薪炭10%,石油はわずか7%でした。この石油の450万トンは照明用の灯油,民間用の自動車ガソリンにも使われましたが,大部分は戦闘機,戦艦,戦車,輸送用トラックなど軍事用でした。石油の輸入先は80%がアメリカ,10%がオランダ領東インド諸島(現在のシンガポールやインドネシアのスマトラ島,ボルネオ島など)からで,国産原油は数%でした。1941年に石油輸入は遮断される日本が仏印(南部インドシナ=現在のベトナム)へ軍艦を進駐させたため,1941年(昭和16年)5月,アメリカは国家非常事態を宣言して日本資産を凍結しましたが,仏印への進駐が続行されたので,8月から日本向け石油製品輸出は全面禁止され,日米関係は断絶しました。エネルギー供給を遮断された日本政府は,一般乗用車のガソリン使用を禁止し,報復措置としてアメリカとイギリス大使館向けの暖房用石油を供給停止するという小技を出しました。現実離れした見通しと人造石油計画田中申一の『日本戦争経済秘史』によれば,企画院の想定では1941年10月の石油備蓄は905万klで,開戦して1年間の消費量を550万kl(海軍で250万kl,陸軍で60万kl,民間で240万kl)と見込み,1年7ヵ月はもつとみました。『海軍戦争検討会議記録』によれば,軍事政権は1941年12月に,開戦して3年間で,国内生産は石油の一滴は血の一滴石油/天然ガス レビュー ’03・11―72―?N20万kl,人造石油は1年目30万,2年目70万,3年目150万kl,占領地からの石油が30万,244万,277万klとし,合わせて80万,334万,667万klを確保するとして,3年後でも備蓄石油は100万kl残るとしました。しかし企画院は東条内閣への報告で,石炭液化油を年産520万トンにするには,石炭3000万トン(国産炭の53%),鋼材225万トン(粗鋼生産の3分の1),当初資金38億円(政府支出の3分の1,軍事支出の57%),労働者38万人(総労働者の1割),関連する人材の養成と技術の整備など7年の準備期間を要し,国防上の欠陥が生じるとみました。現実妥当性のない構想であり,追い詰められてから「砂上の楼閣」の代替エネルギー生産計画を立てても効果はなく,感情的精神論に道を譲らざるを得なくなりました。満州事変に突入する前の,遅くとも1925年(昭和初期)頃から,エネルギー問題の脆弱性を冷静に理解していれば,エネルギー史も昭和史も変わっていたことでしょう。石油確保のために太平洋戦争に突入封鎖された石油を確保するため,1941年12月,軍事政権は真珠湾の米国軍事基地を奇襲攻撃して太平洋艦隊の戦闘能力を奪い,ボルネオ島の石油精製所と油田を奪取することにしました。石油事情を知る者にとって,豊富な石油を持つアメリカという巨象に兵隊アリの日本が仕掛けた無謀極まりない戦闘行為であり,大局観のない政策としか云いようがありません。米国はハワイの兵たん基地を復旧し,海空軍により日本軍の石油輸送路を寸断し,1942年6月のミッドウエー海戦に敗れた日本の石油輸送船は,太平洋艦隊により航行不能になりました。日本向け石油輸送は,1943年第2四半期に最大になりましたが,1944年同期には半減しました。失った石油基地を奪還できる可能性はなく,この時点で和平交渉がなされていれば,本土のみじめな物不足,度重なる大空襲,原爆投下に至らなかったでしょう。1945年の石油輸入は殆どゼロに落ち,戦略上もっとも重要な石油の供給を断たれた日本の敗戦は,1944年夏には決っていました。戦時下の国内では物資の厳しい割り当て1943年(昭和18年)に南方占領地のほとんどを失い,石油の搬入も不可能になり,本土では政府から,じゃがいも,大豆の食べ方が伝えられ,空き地を利用して食料自給する通達がなされました。この年製造された合成石油は目標の8%で,しかも半分以上は満州産で,翌1944年からは海上輸送も遮断され,本土への搬入すらできなくなりました。民生用石油は4万klになり,ガソリン車は木炭や薪に切り替えられ,工業用の油は大豆,ピーナッツ,ココナッツなどに代用され,燃料用アルコールはじゃがいも,砂糖,日本酒で代用しました。同年6月のマリアナ海戦では石油不足で戦艦が参加できず,アメリカ空軍が29機失ったのに日本は273機失っています。航空機用ガソリンもなくなって飛行訓練にも事欠き,松脂とアルコールを混ぜたほか,船舶燃料もボルネオ島の原油をそのまま使い,石炭だきエンジンをつけた輸送船を復活させました。豊饒な石油を持つアメリカの勝利は戦前に明らかアメリカ軍は,太平洋上にタンカー(燃料輸送船),工作船,補給船,タグボート,浮きドッグ,浚渫船,はしけ,貯蔵船などからなる巨大な海上軍事基地を設けて,米国本土から豊饒な石油を送り込みました。1944年後半にグアム島が攻撃基地になったとき,ここには毎日2万klの航空燃料が搬入されていましたが,日本軍の全航空機燃料を集めてもこの15%しかなかったのです。1945年4月には航空機燃料用に雑穀,サツマイモ,ジャガイモが大増産され,国民向けの配給は打ち切られて,工場を動員してアルコールを造る計画に入ったとされます。石油は消え,ガス,電気,石炭,木炭など全てのエネルギーが不足し,海軍は松根油を使って飛行機を飛ばそうとして松根油ガソリン4800kl分を造り,他にもメタノール,クレオソート,油脂,脂肪酸エステルなど,あらゆる石油代替物が動員されました。―73―石油/天然ガス レビュー ’03・11ト国機動部隊の艦載機は青函海峡の輸送船まで全滅させ,海上輸送を帆船で行なう徴用令を出しました。1945年7月1日の石油備蓄は13万klになり,本土の生活は深刻になり,原爆の洗礼を受ける前に死滅状態でした。1941年12月の開戦時と1944年1月の主要な戦艦(空母,戦艦,巡洋艦,駆逐艦,潜水艦)を比べると,日本は233隻が半分以下の101隻になり,アメリカは337隻が773隻へ日本の8倍近くになって,およそ戦争の継続は不能状態にもかかわらず,かき集めた粗悪燃料でカミカゼ特効作戦を行ないました。東京では燃料配給もストップし,廃材のみならず書物まで燃やして暖を取る有様でした。5月にB29爆撃機510機が東京中心部を空爆し,首相官邸始め市街地の半分は消失,16万4000戸全焼,62万人が罹災し,横浜も焼夷弾で攻撃され全市が灰燼に帰しました。8月には広島・長崎に原爆が投下され,8月15日に軍事政権は無条件降伏し,満州事変から15年に及んだ大戦争はようやく終わりました。エネルギー政策を欠いた太平洋戦争戦前のエネルギー政策を顧みますと,①政府の確固としたエネルギー政策は無く,②国民もエネルギーの需要と供給の実態を知らされないまま軍事政府に寄り掛かり,③エネルギーの政策決定は国民と乖離した軍関係者,政界,財界が密室で非合理的,非民主的になされ,④追い詰められて切羽詰った状況下でなされた結果,悲惨な大戦争という「つけ」が軍人以外の無辜の国民に回わされた,という悲惨な史実になりました。満州事変前後の政策決定が政財官界から軍主導になり,エネルギー関連の諸政策が長期を展望することなくなされたこと,とりわけエネルギー政策の無策が悲劇の淵源になったと云えます。エネルギー政策の態様は,文明の在り処を決めるという厳粛な史実です。中東石油あっての戦後の石油文明戦後世界の復興は,米国の国務長官マーシャルが提唱したマーシャル・プランにより,中東の豊富な石油を使ってゆくことになり,復興のエネルギーの担い手になったのはイギリスのBP,イギリス・オランダのダッチ・シェル,アメリカのエクソン,ソーカル,モービル,ガルフ,テキサコなどセブン・シスターズでした。1960年にはベネズエラ,イラン,イラク,サウジアラビア,クウェイト4ヵ国はOPEC(石油輸出国機構)を創りましたが,加盟国のほとんどは中東産油国でした。中東諸国の政治的・軍事的な争点はイスラエル問題で,1948年のイスラエル建国以来,パレスチナ民族との領土紛争は納まらず,1948年,1956年,1967年と3度にわたる中東戦争(パレスチナ民族・アラブ諸国対イスラエルの戦争)が起こりました。1967年の6日間戦争では,ゴラン高原,ヨルダン川西岸,シナイ半島がイスラエルに奪取され,パレスチナ人を支援するアラブ諸国の不満は次第に高まりました。オイルショックとポスト・オイルショック経済水準が回復してきた1973年,アラブ産油国は経済大国化した日本もターゲットにする,5月26日の東京大空襲石油/天然ガス レビュー ’03・11―74―zメイニとサダムのお札輸出国別に減産するという石油戦略を発動し,日本はショック状態になりました。この年の世界の石油シェアは47%(旧自由世界では44%),原油生産に占めるOPECシェアも42%(旧自由世界で63%)で,OPECが原油生産を落とせば,西側消費国の石油供給に支障が出て価格を容易に引き上げられる状況でした。1979年にはイラン革命の余波で石油輸出が減り,世界の石油価格は再び高騰しました。世界がこのようなエネルギー事情になったのは,石油王国だったアメリカが変貌したからで,1970年にニクソン大統領は初のエネルギー教書を出し,今後は石油輸入国になることを明らかにしたのです。中東産油国は,OPEC原油を代替するエネルギーがないことを調べ,アメリカと親しいイスラエルへ圧力をかけるため石油戦略を発動する準備に入ったのです。1973年10月,第4次中東戦争が勃発し,同時にOAPEC(アラブ石油輸出国機構)は,米国とイスラエル支援国に対して石油の輸出制限を発動しました。1973年に約2ドル/バレルだった原油は10ドルへ4倍値上げされ,1980年には13ドルから34ドルへ2倍半に値上がり,消費国は石油節約と石油に代わるエネルギーの開発に取り組みました。石油価格の高騰に対して市場メカニズムで対応したのです。70年代の石油危機に日本は,①輸入石油に石油税を課し,②原子力発電と輸入天然ガス・石炭など石油代替エネルギーの導入政策を加速し,③石油備蓄の増強と石油開発努力を促進させました。しかし1985年になって,アラビア湾岸産油国の原油値下げ戦略がなされ,プラザ合意でドル以外で購入される原油価格が大幅に下がりました。1997年以降は1972年の実質価格すら下回る状況になり,1990年代は石油需要の復帰とOPEC回帰が生まれ,石油代替エネルギー導入も停滞しています。今後の石油発見の行方石油危機以降は,OPECに対する危機感と原油価格の高騰によって,多くの地域での探鉱活動が活発になり,原油埋蔵量は高まりました。コンピュータの飛躍的な発展で探査・生産技術が向上し,効率的な原油回収が出来るようになっています。石油の究極埋蔵量は4兆バレルとされ,回収できるのは40%ほどですから,可採埋蔵量は2兆バレルです。既に生産された量が6000億バレルなので,残る埋蔵量は1兆4000億バレルです。うち2000年末で1兆バレルが確認されていましから,新規埋蔵量は4000億バレルになります。しかし,前提の回収率40%が1%上がるだけで,400億バレルも埋蔵量は増えます。とはいえ,化石エネルギーは有限資源であることに変わりはなく,今後はコストのかかる辺境の土地や海が探鉱され,ヘビーオイル,油母けつ岩油(オイルシェール),タールサンドなどに対象が移ってゆくことでしょう。第4節  原子力の登場――ミクロ世界のエネルギー利用人類は,1920年代から分子を構成する原子の組換え技術に挑戦し,ウランという鉱物の中の微小な原子核に微小な中性子を衝突させると,原子核は分裂し,膨大な熱エネルギーが発散することを知りました。原子力エネルギーの発見で,エネルギー史は全く新しいステージに突入しました。―75―石油/天然ガス レビュー ’03・111世紀に本格化しようとしている細胞内の遺伝子を医学に応用しようとするナノテクノロジーの前段階に起こった,人類が必然的にたどりついた微小世界の科学技術でした。第2次大戦が産んだ原子力エネルギー1930年代末から原子核が瞬時に連鎖分裂することがわかり,1942年に原子爆弾の製造可能性が証明されました。ヒットラー登場や列強による植民地分割の時代背景から,原子力エネルギーが軍事利用に優先されたことは,エネルギー史の悲劇といえます。アメリカ政府はナチス・ドイツによる原爆開発を恐れ,1942年に資金と人を原爆開発に集中するマンハッタン計画を始め,1945年に原爆実験に成功しました。ナチス・ドイツという悪魔を駆除するために,核爆弾という別の悪魔を造ったのです。原子爆弾の衝撃的な登場日本の敗戦を決定づけるため,米国は無辜の日本人の前に,実験直後の原子爆弾を落としました。その破壊規模はすさまじく,TNT爆弾(トルエンと硝酸を原料にしたトリ・ニトロ・トルエン爆弾の略)2万トン分に相当し,B29爆撃機4000機が同時に空爆するエネルギーでしたから,年末までに死亡した人は広島で20万人,長崎で10万人と,全世界に空前絶後の脅威をもたらしました。トルーマン大統領の国際管理の構想トルーマン大統領は,1946年,アメリカが率先して原爆を廃棄し,国際原子力開発機構をつくって原子力エネルギーを管理し,違反には処罰できる構想を打ち出しましたが,米ソ冷戦構造から,この提案は水泡に帰しました。1949年にソ連が原爆実験に成功してアメリカの原爆独占は4年で終わり,1952年にはイギリスが,1960年にはフランスもプルトニウム爆弾を開発し,1964年には中国もウラン爆弾の実験をしました。世界は原爆製造に歯止めをかけられないまま,核は拡散する怖れが出てきました。1953年のアメリカの平和利用への転換表明日本の真珠湾攻撃から12周年記念日の1953年12月8日,アイゼンハワー大統領は,国連本部で「平和のための原子力」という演説をし,核分裂物質を国際機関で管理し,軍事利用を制限し,平和的に利用しようと提案しました。1956年に国連総会で国際原子力機関(International AtomicEnergy Agency)が創設され,日本を含む70ヵ国が調印し,1957年にウィーンで新機関が発足しました(2001年央の加盟国は,132カ国)。1970年に発効した核兵器不拡散条約(NPT条約,Non-Proliferation Treaty)は,1967年時点で核を保有していた米,ソ,英,仏,中国の5ヶ国以外に核が拡散しないよう条約加盟国に査察を義務づけ,平和利用に限って助力するとしたのです。しかし,1974年に核不拡散条約に加盟していないインドが核実験を行なった後,パキスタン,イスラエル,北朝鮮などは,核保有疑惑がありながら国家主権を楯に査察できず,条約の限界が生じています。原子力施設の事故と今後1974年に原子力施設の大事故がアメリカのペンシルヴァニア州のスリーマイルアイランド発電所で,1985年にはソ連ウクライナのチェルノブイリ原子力発電所で起こりました。日本では1995年に高速増殖炉「もんじゅ」のナトリウム漏れ事故,1999年には東海村のウラン加工工場の核分裂事故が起こり,新規の原子力発電所の建設はストップしています。ともあれ,2001年末で世界の原子力発電所は432基も設置され,能力は3億6600万kW,発電電力は13兆9000万kWh,世界の総発電量の19%を占め,世界の総エネルギー消費(90億トン)のうち7%も占めるに至りました。原子力エネルギーと日本戦渦にまみれたエネルギー不足下の生活は悲惨なもので,戦後は「鉄腕アトム」に象徴される原子力エネルギーに夢を託しましたが,夢はまだ現実のものになっていません。エネルギー飽食を止められない限りは原子力発電を容認せざるを得ず,化石エネルギーを補石油/天然ガス レビュー ’03・11―76―ョするエネルギーとして存続しなければなりません。次代の人々に向け,よりよいエネルギー遺産を残す責務があるからです。終章 エネルギー史の終わりに1940年代以降,ガソリン溜分(ナフサと呼ばれます)の分子を化学的に分解し結合するようになって,膨大な数の石油化学製品が産み出されました。電磁波の研究の後,1945年,ウラン原子の分裂崩壊の際の巨大な原子力エネルギーを爆弾にする実験がなされました。生物学の分野では,細胞中の染色体と呼ばれるミクロ世界に研究の手を伸ばし,1953年,アメリカのワトソンとクリックは,遺伝子の分子構造を突き止め,人の遺伝的な形質や病気の先行きまでわかり,人体改造までできる可能性が出てきました。この年はアメリカのアイゼンハワー大統領が原子力の平和利用を打ち出し,ソ連が水爆の実験を行いました。人類は,火の発見で他の植生と異なる道に入り,ひとり地球や宇宙の構成物に接近し,ここ100年の加速度的な歩みの中で物質の究極を操エネルギー史の特徴―77―石油/天然ガス レビュー ’03・11?オようとしています。宇宙的な営みのなかで,地球に誕生した生き物の人間だけが大脳を発達させ,人工構造物体を次々に創りあげ,森林や湖沼や大気といった自然環境を改変し,いま生き物の形態すら変えようとしています。目先の便利さと快楽を求めるあまり,地球の執事(スチュワード)の役割から植物,生物,ひいては自らの子孫を考慮できない偏狭な支配者になりつつあり,自然と共生するナチュラル・ヒューマニズムを体現する智慧ある支配者には見えません。エネルギーと人類の現代的な関わりにつきましては,拙著「飽食のエネルギー」(日本経済評論社)に詳述しましたのでここでは触れませんが,現代人は自然人から人工人への道に入りつつあり,現代は重大な岐路にあります。21世紀は,これまで疾走して獲得した物質中心の文明のうえに人生の充実感や至福感を加えるために,「自然環境と共生する新たな文明を創造する」ことになるでしょう。日本人やアジア人が古来より自然を観て創りあげてきた智慧を行動に移してゆくことが求められており,とりわけ真摯に生きる人々を取り巻く制度が公明正大に決められるよう,政治を監視し参画することが肝要です。欲望を横溢させている今日の歩み,その一歩一歩の積み重ねは明日の地球に生きる人々の環境を創っています。この単純な事実こそがエネルギー史の原点にあるように思えます。石油/天然ガス レビュー ’03・11―78―
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2003/11/30 [ 2003年11月号 ] 田中 紀夫
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