ページ番号1006113 更新日 平成30年2月16日

エネルギー文明史 ―その 2 ―エネルギーを巡る文明の興亡―

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レポートID 1006113
作成日 2004-01-30 01:00:00 +0900
更新日 2018-02-16 10:50:18 +0900
公開フラグ 1
媒体 石油・天然ガスレビュー
分野 エネルギー一般
著者
著者直接入力 田中 紀夫
年度 2004
Vol 37
No 1
ページ数
抽出データ エネルギー文明史 ―― その2  ?エネルギーを巡る文明の興亡?エネルギーコンサルタント,元日本エネルギー経済研究所研究員田 中 紀 夫筆者は2002年に「エネルギー環境史」(ERC出版)を著し,人類誕生から現代に至るエネルギーと文明のかかわりについてまとめました。原書は3分冊からなる大部なものであるが,前号の「概要」に続き,今号では「エネルギーを巡る文明の興亡」について素描し,次号以降で「エネルギー環境史」,「エネルギー生活史」について掲載する。はじめに240万年に及ぶ人類史において,エネルギーは文明の興隆と衰亡にどのような関わりを持ってきたのでしょうか? 人類が使ってきたエネルギーの変遷について,筆者は三つの革命的な変化があったと観るのですが,本稿では,それぞれのエネルギー変遷と文明の変容について素描を試みます。文明とは何を意味するのでしょうか? 文明とは,その時代の科学や技術の水準を前提にして,食料,住居,衣類の量と質の状態,農業の形態,エネルギーの態様,明かりの種類,輸送の手段,製造加工の状態,さまざまな生活の様式,そしてこれらを反映する文化を含めた人々の行為の総体を表すものと考えます。そして文化とは,当代の文明の中にあって美しさを求める手工芸,建築,絵画,音楽,映像・演劇,文学などの芸術活動の総体を表すものと考えます。新しいエネルギーが登場すると,それに伴って新しい技術が現れ,これに出くわした人々は,新しい工作,生活,制度,考え方,それらを土台にした従来と異なる文化を創り,そして総体としての新しい文明様式が創り出されます。エネルギーの登場が革命的であればあるほど,それまでの文明を革命的に変革し,これに呼応した新しい文化が創りあげられてゆきます。歴史に登場したエネルギーの態様によって,当代の文明と文化が形作られ,エネルギーの変革の規模によって,文明と文化の双方の態様は相応の影響を受け,その量と質を形作ってきました。第1部 1次エネルギー革命と文明の興亡第1章 火を巡る文明の興亡れき人類の祖先はアフリカ南部に誕生し,その後長い時を経て,脳は,現代人に近いホモサピエンスの半分程の750gになって直立歩行し,あ石器を作るようになりました。このらい石の礫頃は,あらゆる感覚器官を研ぎ澄まし,駆使しなければ生き延びることはできず,鋭い官能を持っていたはずです。自然エネルギーを所与として生きる原始人類にとって身近なエネルギーは人体の筋力であり,外界では太陽が最大のエネルギー源,次いで動物や風や川の流れのエネルギーでした。しかし,人類は今日までエネルギーの実在を意識せずに過ごしてきており,エネルギーとしての働きを人類史にはっきりと結び付けて理解したのは,拙著が出された2002年になってからのことでした。ルソーは『人間不平等起原論』の中で原始人類について,「武器は使用されず放置され,す石油/天然ガス レビュー ’04/1・3―186―逑ヲげられないことを知って,木の枝や葉で小屋と寝床を造り,裸だった者が着物を着て,その日暮らしの生活から,肉を干し,木の実を貯....蔵して冬に備えることを覚え,ついに暖をつく.....る術を発見した。この結果,巨大な進歩を遂げ,熱帯の住人をはるか後方に残すことになった」と記しています。火を使って孤高の生物の道それまでは未開の文明の下で動物と争ってきましたが,火を利用できたことで圧倒的に優位に立ち,「万物の霊長」と自負する道に入ったのです。善悪両刃の剣になる強力なパワーを手にして,強烈な「第1次エネルギー革命」が起こったのです。りょうばこの結果,余裕ができた人類は,闘争心に支喜怒の配欲が加わって,火のエネルギーを嗜欲感情を満たすための戦闘手段として,同類の人類にまで向けるようになりました。しこうおさこうして火を手にしてからの人類は,とりわや側近たちが出現して,火のエネルけ部族の長ギーを確保して有利な立場に立ち,他の部落までも支配できるようになったために,できるだけ多くの薪を持ち,森を広く囲い込もうとしました。 穏便だった原始人たちも,火のエネルギーを目の当たりにして,これを扱えるようになってからというものは,闘争心をあらわにする「野蛮人」の様相を呈するようになったのです。争いの手段は強靭な筋力で,これと火を使って森を他者から奪って支配し,その中に住む獰猛な動物を使って脅迫もできるようになって,人類の争う姿が目立つようになってきたのです。きょうじんどうもうバビロンの街原始人と動物べての憎悪を野獣に向けた。深い森が太陽から守り,冬や豪雨の厳しさには粗末な隠れ場で身を守り,木陰で生活した。ため息を吐くことなしに,夜の平和を過ごした」と書いています。人も他の動物と同じエネルギーを使って行動しており,地球の両極のように太陽エネルギーの希薄なところでは,アザラシやペンギンよりもひ弱で,一日たりとも生きてゆけません。あまてらすおおみかみ『古事記』には,天を照らす神が怒って,岩戸に閉じこもって闇に覆われたため,困った他の神々は明るさを取り戻そうと,刺激的な踊りを見せたところ,天照大御神は戸の外に出て再び明かりが取り戻せた,という神話があります。農業の豊かな収穫を念じて,太陽を崇めた人々の心情が伝わってきます。原始人にとって太陽は文明の中心にありました。史上最大の発見:火の使用人類が最初に火を利用したのは50万年前の北京原人とされますが,第2間氷期に登場した直立猿人(ピテカントロプス・エレクトス。知能はゴリラと現代人の中間)のジャワ原人などについて,ハンチントンは『気候と文明』で,「家がなく,火を知らなかった裸の野蛮人は,春の初めから夏の終わりにかけて,熱帯の暖かな住みかを出て,だんだん北方へ移動した。9月に入り,夜の寒さが身にしみるようになるまで,彼らは常夏の国を後にしたことに気付かなかった。日一日と寒さは厳しくなり,ある者は南に向かい,元のふるさとに戻れた一握りの子孫は,未開で野蛮な状態にとどまった。別の方向にさまよった者は,小集団を除いてみな死にはだ絶えた。この小集団の人々は,膚を刺す寒さか―187―石油/天然ガス レビュー ’04/1・3oビロンの興亡今,イラクでは米英主導の新国家が建設中ですが,この地は人類最古のメソポタミアの文明が登場した国で,その中心地バビロン(バグダッド南方)では,火を使って土器を作る文化が生まれました。主要エネルギー源は小枝や枝草で,太い樹木の木炭を焼いて作る煉瓦は貴重品だったので,これを確保するために,他の村落と協調し共存する暮らしから,エネルギー源の森林を囲い込もうとして争いが起こってきました。紀元前4000年頃には,樹木を燃やしたエネルギーで銅と錫が登場し,文字が発明されてメソポタミア文明が記録される時代になりました。を作る冶金術を混ぜて青銅やきんじゅつせいどうれんがすずしかし,青銅を合成するには溶解の過程で高温にする炉が必要だったので,薪の量を増やし,森林の伐採量を一挙に増やしました。科学的な知識のないシュメールやアッシリア文明の曙時代の当時,経験と勘で青銅という合金を作ったのであり,冶金術の先駆けでした。シュメール時代のメソポタミア文明の最古の物語「ギルガメシュ叙事詩」には,ギルガメシュ王が,薪のエネルギーを自由に手にし,新しい青銅という金属で武器を作って権勢を広げるために,家臣エンキドウをそそのかし,森の番人フンババを殺して,森を思いのままに乱伐する様子が書かれています。こうして王は,女神イシュタル,黄金の馬車,瀝青(アスファルト),油脂,穀物などを手に入れ,栄華と歓楽の日々を送りました。森林のエネルギーを手に入れるために行った40世紀前のギルガメシュ王の恐怖統治は,同じチグリス・ユーフラテス川の肥沃れきせい神聖な火を持つギリシャ人の地の末裔となって出現したサダム・フセイン元大統領が,現代文明の帰趨を握る石油エネルギーを手にして行った独裁統治に引き継がれていたのでしょうか。きすうほあたいまつ,火明ギリシャ悲劇のアイスキュロスの作品には,かりが登場し,紀元前500年随所に松明頃のギリシャ人は,神聖な火を家の奥にある部の点屋の中心に置き,大事な神棚のような竃処火は,その館の主に任せていました。かまどやかたローマ文明に対する反省強烈な火を手にして新しい文明を創り始めた人々も,ローマ時代になると反省の心も出てきました。しゃしまんえんが蔓延カリギュラ帝やネロ帝の下で諸悪を体験してし哲学者になったセネカは,貪欲や奢侈たローマを嘆き,原始人の生活を次のように回顧しました。「原始人は共同で自然物を享受し,原始人には貧しい者がいなかったが,貪欲が貧困を導入し,多くの物を手に入れようとしてすべての物を失った。我々は万物を持ち,土地は耕作もしないのに今より肥沃で,強い者が弱い者に手をかけず,貪欲な者が他人から物を取ることもなく,武器は使用されず,人間の血で手が汚されることなく,憎悪は野獣だけに向けられた。ところが今,不安が我々を責め苛む。原始人は都市の家を持っていなかったが,自由に吹き抜ける空気,岩や樹木の柔らかい影,透明な泉,人工が加えられず走って行く川,自然のままで美しい牧草地―こういう景色の中に素朴な手で磨かれた茅屋があった」と記したのです。セネカが生きたローマでは,火を日常的に使うようになりましたが,猛獣を競技場に放って人と格闘させ興奮を求めるという爛熟した風潮になりぼうおくさいなローマ時代の宴会風景石油/天然ガス レビュー ’04/1・3―188―ワした。現代のエネルギー飽食の文明に比べると物質生活は遥かに劣ったものでしたが,それでも原始の自然と共生した生活を懐古したのです。火のエネルギー源は有限火のエネルギーは明かり,猛獣への防御,調理,暖房など多くの用途に使われましたが,その元は森林の薪で,人口が増え過ぎない限り不足することはなかったのです。しかし,都市が造られ四大文明が発生してからは,森林の伐採テンポは速まり,次第に火のエネルギー源も有限になってきました。インダス文明は紀元前2300年頃に登場し,前1800年頃に衰退したのですが,中心都市の一つ,モヘンジョ・ダロの城壁の煉瓦を焼き固めたのは,薪による火のエネルギーで,この文明の興亡は,インダス川の洪水の度に都市を再興するため煉瓦を焼いたために,森林を乱伐して消失させてしまったためとされます。いらか日本では8世紀初頭の大宝律令で唐風の国家を造りました。司馬遼太郎は『空海の風景』で,庁舎の甍が波立つ風景は唐文明そのものだったと書いています。屋根瓦は防護と景観を美しくする新製品で,火のエネルギーを巧みに窯に閉じこめないと作れない貴重品であり,当時の文明を象徴する文化様式でした。かま火のエネルギーの便利さに耽溺した人類は,森林の衰退という難題に出くわしたのですが,当時の人口は少なかったため,影響はまだ地域内にとどまっていました。火による環境破壊火を求めて森を追った人々は,メソポタミア奈良時代の瓦ならからエジプトへ,ローマを経て南ヨーロッパの落葉樹の楢の原生林に入りましたが,豊かな森林がエネルギーを十分供給してくれました。とはいえギリシャ時代には森林枯渇が起こり,ローマ人によるガリア(北イタリアからフランス南部の地域)遠征では次々に森林が削られました。ローマ文明を形作る道路や街を造り,松脂や樹脂の製造,建物や橋の建設,河川を移動するための筏や舟の材料,鉄工所での鉄器の製造,ガラスの製造,共同浴場など,エネルギー源としての材木が必要だったからです。まつやにいかだ12?13世紀の中世のヨーロッパでは,特に冶金術が発達して森林が伐採され,更に中世文明の利器となった斧や鎌が開発され,森林は更に減少しました。おの闘う相手が減って自然を支配できる自信を得た人類は,森羅万象に対する慎重な観察や配慮の心を弱め,感覚を使う機会が減り,官能も衰えてきました。視力や聴覚が低下してさまざまな動植物の動きを察知できなくなり,多くの植生に鈍感になってきました。「考える人」にはなりましたが,自然に思いを致さなくなる「ひ弱な葦」になってきたのです。それは,諸物に受け身に過ごした感覚の鋭い自然人が,火を手にして荒々しい側面を表出する文明人へと変貌することでもありました。へんぼう第2章 人力エネルギーを巡る興亡 人類は誕生以来,食物を絶えず消化して人体にATPエネルギーを蓄え,これを脳や神経や筋肉に伝え,物を動かし運び,谷を巡り,山を登り,水に潜り泳ぐという人体エネルギー消費の動作を営々と続けてきました。これは,生物が35億年前に地球上に登場して以来,生き物に共通の生体エネルギーの消費活動で,このエネルギーのコントロールは生物が元気に生きている限り,自由自在に,微妙かつ機能的・効率的に行われます。人間の筋力エネルギーは,原始人の頃から現代人の労働に至るまで,文明と文化を築く上で太陽に次ぐ原初のパワーでした。―189―石油/天然ガス レビュー ’04/1・3シ人のエネルギーを使う人力エネルギーは,①自分のために使うことから始まり,②余裕があれば他人のためにも使い,③貪欲が昂じてからは他人のエネルギーを強制して使い,「規制がなければ何でもする」行動の原型が固まってきました。貪欲は,次第に狩猟や漁労に励んだ遊牧民にも根づき,火のエネルギーを手にしてからは,③のように他集落の家畜や人間までを掠奪し,人が人を支配して人力を使わせる奴隷が登場する文明となりました。りゃくだつ奴隷は,他人よりたまたま優位に立った古代人が,その文明の中で,自らの趣向のため,人力エネルギーを手近に置いて権益を確保するために,戦争すらも厭わなくなった人類の悪しき所産といえます。ルソーは『人間不平等起原論』の中で,他人の援助が必要になって人力の価値に気付いてから,人の世から平等は消え,私有が生まれ,汗で原野を開拓しなければならなくなり,奴隷と貧困が芽生え生長した,と記しています。古代遺跡は人力エネルギーメソポタミア文明の神殿や王宮,エジプト文明のピラミッドやスフィンクス,黄河文明を引き継いだ万里の長城などの建造物,マヤ文明の祭祀場といった巨大建造物は,すべて人力エネルギーによって造られています。旧約聖書の「創世記」には,大洪水を方舟で逃れたノアの子孫が,地に満ちてバベルの塔の街を造り,子孫アブラムは,羊・牛の群れ,ろば,らくだ,そして男女の奴隷を所有したと記されています。はこぶね奴隷エネルギーを活用したエジプト文明は,奴隷を売却,交換,遺贈し,ファラオ・ラメセス3世は,捕虜や妻子たちにも「余」という焼き印を押して奴隷の目印にしました。あまり人は1日に約2,000kcalほどの食物エネルギーを摂って動きますが,このエネルギーは馬が作業する馬力の12分の1です。馬力は,文字通りHorse Powerと呼ばれ,1馬力は75kgの物体を1秒に1m引き上げる仕事量です。日本人は1日・1人当たり約11万kcalの人工のエネルギーを消費していますから,10時間労働の人力エネルギーでまかなうと207人の奴隷に匹敵します。奴隷エネルギーのギリシャ文明奴隷は,戦争による捕虜や敗戦国の国民,懲役囚だったとされます。万里の長城は紀元前400年頃の戦国時代から秦の始皇帝の頃まで築造されましたが,延べ1,000万人の作業員が駆り出され,その半数は工事中に死んだとされます。奴隷制度は,ギリシャの都市国家やローマ帝国の頃に最も浸透したとされます。アリストテレスは「命ある道具」,「声を出す道具」と呼び,奴隷はギリシャ文明の根幹を支え,歴史に残る多くの知識人が才能を発揮できたのは,彼らが筋肉労働や家内の雑事を代行したからといえます。かい荷役や機械の動力の他,船の櫂を漕ぐエネルギーとしても人力が使われました。ガレー船と呼ばれる帆と人力を交互に使う船では,風のエネルギーが使えないときは奴隷や重罪の囚人の人力で動いたのです。後期アレキサンドリア時代の紀元50年頃には,風車でオルガンを鳴らすアイデアがあったようですが,労働を減らしたという記録はあり青銅器時代の陸上輸送ひきうす馬の引く回転碾臼石油/天然ガス レビュー ’04/1・3―190―ワせん。無尽蔵で安い奴隷労働が存在する限り,風車へのニーズは生まれず,発明家にとって「必要は発明の母」にはならなかったのです。奴隷依存で退嬰したローマ文明ローマ帝国は戦争で支配した人々を奴隷にし,ギリシャ文明より更に奴隷労働に依存するようになり,領土を拡大している限り奴隷供給は続き,ローマ文明の主力エネルギーは無尽蔵に思えました。紀元前100年頃のローマの技術者は,現在の水車と同じ製粉所を考案しましたが,動物よりも人力のエネルギーの方が遥かに使いやすかったため,実用化されませんでした。カエサルやオクタヴィアヌスの時代には戦争も減ったため奴隷の値段は上がり,紀元100年前後のトラヤヌス帝のときに三大陸にまたがるローマ史上最大の領土を持ちましたが,自由人へ解放される奴隷も増え,供給には陰りが出てきたのです。人件費が上昇してきたため,人力を代替するエネルギーが模索され,帝国内の川辺には水車の粉挽き場が現れ,4世紀末にはローマ市内にも登場しました。労働者が奴隷から自由労働者に代わってきたのは,アウレリウス帝のような仁政によるのではなく,自由労働者の方が安くなったためともされます。しかし,人力エネルギーは他のエネルギーに優先して使われており,水車や風のエネルギーを大がかりに利用することにならないまま時間は経ってゆきました。奴隷エネルギーに依存したローマ文明は,富を独占した少数の貴族と貧しい膨大な数の奴隷と一般庶民から成り,中産階級が存在しない二極化した社会で,エネルギー供給の主力を人力に置いたため,長く持続できる文明基盤は形成ガレー船でオールを漕がされる奴隷されなかったといえます。ウオールバンクは『ローマ帝国衰亡史』で,ギリシャ・ローマ社会は技術水準が低かったため奴隷なしでは維持できず,さまざまな生産部門で使役されたため人力以外に向かう科学的関心も低く,ローマ社会に根本的な変革をもたらす新生産力が生まれることも無く,国内市場は衰え,社会は商業の衰退と人口の減少に悩み,ついには階級闘争で消耗するに至った,と記しました。中世文明の人力エネルギーは農奴ローマ文明が衰退した後,ヨーロッパは長い中世社会に入り,支配者は皇帝から各地の領主に変わりました。人々は土地に縛りつけられ,人力エネルギーで農作業をする労働者は「農奴」と呼ばれました。才能ある技能職人(アルティザン)に変貌して利益を追求できた者は,人力エネルギーを新分野に使うようになりました。しかし,ヨーロッパのほとんどの農民は,人力を領主に捧げ,朝から土に触れ,種を蒔いて耕し,刈り入れ,晩になれば掘っ立て小屋に帰って,黒パンと草の根と水で命をつなぎました。パリやロンドンで暮らす貴族たちの華やかな生活には程遠く,土と埃にまみれたブリューゲルやミレーの絵に描かれた農民生活でした。ほこりましこう17世紀初頭には,紅茶やカカオといった嗜好品の普及で砂糖の需要が高まり,中南米諸国に農園が開かれ,製糖事業も登場しました。製糖には,広大な土地,家畜エネルギー,原住民を上回る膨大な人力エネルギーが必要で,列強国は安い人力を西アフリカの黒人奴隷に求め,奴隷船が大西洋を行き来し,白い砂糖が黒い奴隷を引きつけたとされました。人道上の非難が高まって,イギリスが法律で奴隷貿易を禁止したのは1806年,イギリス植民地の奴隷解放は1833年のことでした。米国に残った奴隷エネルギーアメリカの開拓史は1620年のメイフラワー号から始まりましたが,奴隷制度は1863年の開放宣言まで2世紀半も続きました。1850年のアメリカの人口は2,300万人で,この過半は奴隷でした。また,南北戦争が始まった1861年頃,―191―石油/天然ガス レビュー ’04/1・3u風と共に去りぬ」の舞台として有名なジョージア州の人口の44%は奴隷でした。家畜のように鎖をかけられ,アフリカから奴隷専用船で大西洋を渡って運ばれた奴隷は1,500万人とされます。リンカーン大統領の開放宣言によりアメリカが奴隷制度を転換したのは1863年,憲法が修正されたのは1865年,そして法律で平等が確保されたのは,それから99年も経った1964年の公民権法によってでした。建国以来続いたアメリカ文明のエネルギーの恥部といえます。日本の人力エネルギーぬ ひさんしょうだゆう日本でも奴隷に近い人力エネルギーがあったことは,欧米諸国の例外ではありません。耶馬台国の女王・卑弥呼に統治された西暦3世紀,と呼ばれて使戦争による捕虜などが奴隷や奴婢役され,身分の低い階層をつくりました。大和朝廷時代にも奴婢がいた他,もっと貧しい浮浪者もいました。牛馬が農耕できる装具が普及していなかったため,農作業に奴隷エネルギーが使われていました。1081年頃の白河天皇時代の奴隷は,森鴎外の『山椒大夫』に書かれており,没落した一家が人買いにだまされ,荘園に売られて奴婢になる物語です。関連する動力器具が未発達だった頃の人の心からは,憐憫という素朴な情は弱められ,追い出されていたのです。エネルギー文明史を回顧するとき,私欲から使われた人力エネルギーの存在を看過することな快楽追はできず,人々の恣意的な貪欲と執拗求をみることができ,特権を維持して,規制がなければ何でもして快楽を得ようとする私たちの悲しい心を忘れることはできません。れんびんしつよう古代エジプトの戦闘用二輪馬車次大戦のドイツ軍には270万頭の軍用馬がいました。20世紀に入って石油を使うジープや戦車や航空機が登場するまで,馬は軍隊にとって必須の装備でした。第2次大戦時の日本を含むアジア地域の軍用馬は,欧州と米国それぞれの3分の1だったとされます。農耕馬が盛んだったのは20世紀前半で,イギリスとフランスには各350万頭,アメリカには2,500万頭,ドイツには300万頭いました。日本の馬は1930年(昭和5年)頃に159万頭いましたが,農家や商家がほとんどを私有し,北海道の32万頭から奈良県の750頭まで各県に広く使われていました。牛は150万頭で,鹿児島県の10万頭から富山県の1,600頭までこれも広く飼われていたようです。しかし,馬は機械エネルギーのように頑丈でなく,1日の作業も18時間がせいぜいで,活躍できる年月も5年ほどでした。イギリスの馬は年間400万t(トン)のオート麦と干し草を食べ,必要な土地面積は6万km2とされ,現実には輸入穀物に頼ったようです。アメリカも同様で,農地の4分の1に相当する36万km2(日本の面積にほぼ同じ)を馬の飼料用に用意しなければならず,馬力は土地の制約から限界に近付いて第3章 戦争に使われた馬のエネルギー第2次大戦の大東亜圏内の軍馬は欧州と米国のそれぞれ3分の1しかいなかった牛,馬,羊などの家畜エネルギーも,古来から文明の一翼を担ってきました。なかでも軍用の馬としてはローマの2輪戦車が有名でしたあぶみし,7世紀になると鐙が発明されて騎馬戦が行きょうどわれる武具になりました。匈奴やモンゴル帝国の騎馬軍は恐れられました。第1次大戦のイギリス軍には120万頭,第2石油/天然ガス レビュー ’04/1・3―192―ォ晒造られ,12世紀にかけて丘陵・山岳地帯に林立しました。ビール原料の麦芽のすりつぶしや染料になる樹木の葉や皮をひきつぶし,ラシャのし(布地を水の中でたたいて縮め強くすること),金属の鍛冶,製材,フイゴ,砥石,旋盤などの動力用エネルギーに使われました。西ローマ文明が衰亡した後の400年の間,水車は多くの工業分野に浸透し,奴隷エネルギーの替わりをして肉体労働を軽減する水車文明を築くことになりました。搗ひさらたんやしかし,水車は自然の水量に頼らねばならず,年中一定の水流のある場所は限られており,水車小屋の持ち主の間での争いも増えたようです。14世紀ヨーロッパのほとんどの村では,領主が建てた水車を粉屋が賃借しましたが,ここでのトラブルも目立つようになりました。2次エネルギー革命までの重要なエネルギー16世紀になると水車の応用範囲は更に広がり,アルプス地方やスカンジナビア半島では大規模な銀や銅の鉱業が発展しました。1758年にイギリスの技師エヴァレットが作った新型水車は,織物のけばを切る工程に使われたため,手内職か じ や鍛冶屋で使われた水車おり,代替エネルギーを探さなければならない状況になっていきました。人々の求める文明の進展に,馬のエネルギー供給が追い付かない状況でした。とはいえ,動力としての馬力は,1950年代に石油を使うトラクターが登場するまでは,農作業と陸上輸送の主力エネルギーでした。第4章 水車エネルギーの興亡中世に入ると,風と水のエネルギ?が利用され始めましたが,このエネルギーは人類にとって,その後に興った文明の中で工業の型を決める重要な因子になりました。風水エネルギーの登場で奴隷の役割は低下し,奴隷エネルギーに依存してきたギリシャ・ローマ文明も変質しました。人間の権利を平等にする機会を広げ,新しい多くの職業からなる分業体制の萌芽が作られ,複雑な工業文明に向かう出発点になったからです。水車は「ミル(粉挽き場)」と呼ばれ,企業社会文明の基礎である「工場」の代名詞になるほど,中世までの農村を基盤にした牧歌的な文明の基盤を大きく変貌させることになったのです。ほうが中世の水車工業とトラブル1086年のイギリスのトレント川とセヴァーン川南岸の3,000町村には,50家族に1台に相当する5,624基もの水車が回り,田園生活を中心とする文明の中にすっかり溶け込みました。水車を自分の土地に建てると収入が増えるため,小川の近くでは製粉用の水車小屋が次々に小麦をひく水平水車日本の水車―193―石油/天然ガス レビュー ’04/1・3買Bーナスの誕生(ボッティチェルリ 15世紀)配者アイオロスはそよ風から激しい貿易風,疾風,ハリケーン,台風まで幾つもの風を派遣できる神です。ゼウスと戦ったテュフォン(Tyhon)は渦巻きの父で,激しい旋風で人を苦しめた王です。春に雪を溶かし暖かい雨をもたらす西風の神はゼピュロス(上図の左にいる男),嵐と災いを好み難破に歓喜する暴れ者の北風はボレアス,暖かいが疫病や農作物をなぎ倒す雨や雹を運ぶ南風のノトスもいました。風と向き合って生活したギリシャ文明の情感がギリシャ文化の風に乗ってきます。ひょうギリシャのヘロドトスは『歴史』の冒頭で,「フェニキア人はアラビア海からうつって遠洋航海に乗り出し,エジプトやアッシリアの貨物を運んでは各地を廻った」と書いています。へさき風のない時や逆風の時は,奴隷エネルギーので進んだのです。風力と人力で動く,舳先が魚のめかじき(ガレオス)のように尖った船を「ガレー船」と呼び,相手の船に体当たりする戦艦だったようです。舵に進歩がなく風下しか進めなかったため,風上に向かうときは大勢の人力エネルギーの櫂によって進みました。こういう貧弱な舵取りの技術水準が,奴隷制を維持させた文明を形作る上で重要な要因だったのです。櫂かかじいのどか長閑な日本の帆船 日本では西暦460年頃の雄略天皇の時代,朝鮮や中国に向かう帆船が登場しました。600年ゆうりゃく2000年前のローマのガレー船の10万人もが失業し,彼らは新工場に放火して不満をあらわにしました。更に1次産業革命の只中の1769年,イギリスのアークライトが作っの導入に対しても,た水力と畜力で作動する織機手で羊毛を梳いてきた5万人の労働者は議会に対し機械導入反対の大規模デモをしました。しょっきすほんまちみさとやますそ江戸時代後半から興った大阪の工業は生駒山のの水車エネルギーを求めて移動し,天満町,などの人力による油絞り業も,水車を,三郷の三郡にうつっ山裾本町使う摂津てしまい,大きな打撃を受けました。の国の武庫,菟原,八部てんまちょううさぎはらせっつむ こや べ日本の水車全盛時代は,明治・大正から昭和初期まででした。明治時代の1890年代に蒸気機関が登場したのですが,当初は水車が設置できない所で水の汲み上げに使われていました。水車は蒸気の登場で駆逐される運命にあったのですが,ワットによる改良蒸気機関の登場で日本でも普及のテンポを速めたのです。第5章 風エネルギーによる帆船の興亡風のエネルギーは風速の3乗に比例し,風速(秒速)5.5mの風は100W/m2のエネルギーを持ち,風速が10倍の55mの台風級だと1,000倍の100kW/m2になることが現代科学で分かっています。しかし,以前の人類は経験で得た感覚で,①帆を付けた舟で川を移動し,②箱を風で回してエネルギーを取り出そうとし,③気球,グライダー,航空機を作って空を飛びました。風に乗った文明と帆船 よし風のエネルギーを利用して舟を動かしたのは紀元前6000年頃とされます。その様子はエジプトのナイル渓谷に描かれており,動物の皮やパ草で編んだ四角い横帆をマピルスの木の束,葦ストから吊り下げて風をあて,筏や舟を移動させたようです。紀元前3500年頃には,帆掛け舟がエジプトや地中海の東部(レバノン辺り)に現れ,紀元前3000年頃のエジプト人は,東地中海からアラビア海まで航海したようです。紀元前2000年頃になると,長さ54m,幅18mもある120人乗りの大型船があったとされます。ふうじんギリシャ神話には「風神」が登場し,風の支石油/天然ガス レビュー ’04/1・3―194―ノ初めて遣隋使を長安に送って以来,隋朝には4回,唐朝への遣唐使は15回も訪ねています。中国沿岸まで航海する東シナ海の旅は日本から3,000里(約12万km)も離れ,朝鮮半島を掌握していた新羅を経由するにせよ,死を覚悟した命懸けの大冒険航海でした。順風のときは帆でか走れますが,逆風のときは帆柱を倒して舷側らたくさんの櫓を出し,50人程の漕ぎ手の人力エネルギーで進む一種のガレー船でした。げんそく7?8世紀の頃の遣唐使帆船による大航海時代 帆船によってアフリカ大陸が発見され,珍しい品々を他に先駆けて自国の文明に運び込んで利益を挙げる者が出てきました。『東方見聞録』を書いたマルコ・ポーロ(1254?1324年)は,モンゴルを訪ね日本を東方の「黄金の国ジパング」として紹介し,ヨーロッパ人は,世界の文明はヨーロッパ,アフリカ,アジアの三大陸の上にできているとみました。ほ舟に舵が登場したのは8世紀の中国と13世紀と舵で,ジクザのヨーロッパで,この頃から帆クしながら風上方向に進めるようになりました。そして,11?12世紀になると,羅針盤が登場し,舵も更に改善され,帆に風のエネルギーを受けるだけで,世界を周航できる大航海時代の文明に入ったのです。15世紀頃からは三角帆を3本マストに付け,カラベル船どの方向からの風にも前進できるカラベル船によって遠洋航海が可能になって国際交易が広まり,地球の一体化につながってゆきました。羅針盤に時計が組み合わされて,航海術は飛躍的に進歩しました。順風満帆の美しい帆船 1490年代には四角の横帆を3本マストに付けた,長距離航海用の大型のキャラック船と呼ばれる美しい帆船が登場しました。コロンブスが使った長さ23mのサンタマリア号もキャラック船で,コロンブスは1492年に大西洋を横断してアメリカ大陸を発見しました。1620年にイギリスからアメリカに新天地を求めた人々を乗せたメイフラワー号も,キャラック型帆船でした。風のエネルギーがアメリカ文明を開花させる土地を見付けたのでした。1833年頃には,クリッパーと呼ばれる帆船が登場しました。長さが幅の5?6倍もあり,高い3本マストに帆をいっぱいに張った美しい高速船で10ノット(時速18km)を超えるスピードを出し,ニューヨークから中国へ片道3カ月で帆走しました。1870年頃に走行したカティサーク号は,長さ64mもある美しいクリッパー船で,17ノット(時速31km)で中国茶をイギリス文明に持ち運びました。こくこの頃の江戸・大阪間を1,000石の米(1石は約180I,重さにして約150t)を運んだ千石船があり,乗組員15人,10日で輸送しましたが,陸上で運ぶと馬1,250頭,馬子1,250人を連れて15日を要したとされます。風のないときは人力で漕ぐにしても,風のあるときは広がった帆に順風を受けるので,江戸文明における風のエネサンタマリア号―195―石油/天然ガス レビュー ’04/1・3泣Mー効率は断然高かったのです。太平の眠りを覚ました蒸気船19世紀初頭に,フルトンは,石炭を燃やす蒸気船クラーモント号を作ってハドソン川(ニューヨーク・アルバニー間の240km)を32時間(4ノット=時速7.5km)で航行しました。蒸気でピストンを動かして,船体の両側に付けた二つの水車を回して水を漕ぐ船です。1819年には,蒸気船サバンナ号がアメリカからイギリスまでの大西洋を29日で横断し,1838年にはシリウス号が登場して,蒸気エネルギーだけで大西洋を15日で横断しました。1853年(嘉永6年),浦賀沖にペリーが率いる4隻の蒸気船がやって来て,鎖国文明にまどろんでいた江戸っ子を覚醒させ,中国などアジア貿易を広めるため日本政府から船で使う石炭の貯蔵所の許可を取りました。1869年にスエズ運河が開通すると,航海距離は短くなり,石炭補給港も少なくなって,蒸気船の効率は更に向上しました。消えゆく帆船の哀感1875年頃からは蒸気船時代になり,船を動かすエネルギーは風や人力から石炭に替わりました。パナマ運河が開通した1914年には,風力エネルギーを利用する帆船はわずか8%になり,世界の船舶が使うエネルギーの89%は石炭に,3%は石油になりました。船も,20世紀初頭には化石エネルギーに依存する20世紀型文明に入ったのです。更にその後,回転エネルギーになるタービンが開発され,石油ディーゼル機関も登場したため,石油を使う船舶は戦艦を含めて増え続け,黒船石油は第1次世界大戦の帰趨を決め,石油文明の扉が開かれました。1939年に石油を使う船は16%に達し,第2次大戦に突入しました。日本の帆船も自然の風に身を寄せて帆走し,気長でなければ船便は利用できませんでした。蒸汽船が登場してきたとき,港の人々は,それまでの航路も使ってもらえるものと喜んだのですが,最短航路を取る汽船は上陸してくれなくなり,忘れ去られた港がたくさん出て岬は僻村になってしまいました。へきそん古来から使われてきた帆船も,18世紀には主役の座を降りて,石炭による蒸気船に道を譲りました。この蒸気船も,あっという間に汽車の進出を受けました。島国・日本の周りには自由に走れる海があったのですが,鉄道は沿岸に並行して敷設されたため,人々は船より正確に動く列車に乗り換えたのでした。第2次大戦後は,石油ディーゼル機関の船に一挙に替わってゆくのですが,2次エネルギー革命で勃興し始めた新しい文明のすさまじい転変の速さが目立つ時代でした。第6章 風車で廻った文明の興亡風を動力にした最初の風車は,今から3000年前のエジプト文明のアレキサンドリアにあり,風を受ける頭部は固定されて一定の風向きに合わせて設置されたようです。2世紀の中国・後漢文明の頃には仏教儀式用の風車があり,木製の羽根車が垂直軸の回りに付けられて,どの風向きでも動きました。実用的な風車が登場したのは7世紀のイスラム文明で,風車がヨーロッパ社会で見られるようになったのは12世紀後半,中東に行軍した十字軍によってもたらされたようです。風車が利用されたのは,水車が使えない流れの弱い所や冬に川が凍ってしまう場所でした。人力や家畜を除き,エネルギーが安定的に供給される水車は当時の文明において主力エネルギーで,風任せのエネルギーは補助用に使われました。12世紀から増え出した風車の興亡1180年頃の風車は製粉用で,フランス北西のノ石油/天然ガス レビュー ’04/1・3―196―泣}ンジー渓谷に記録がありますが,箱型で風の方向に合わせて動きました。すでに使われていた水車と競合することになり,1190年頃のイギリスの風車は支配層だった僧侶から「違法」として止めらました。その後の風車は僧院の敷地内に独占されたため,一般市民が製粉業を営めるようになるのは後のことでした。風車が出すエネルギーは水車並みの2?8馬力,オランダの塔型風車で6?14馬力でした。風車は適度な風が吹いたときしか動きませんから,場所が制約され,稼動率は水車よりも低かったのです。塔型風車が広く普及したのは16世紀からで,これにはネーデルランドの技師たちの開発努力がありました。16世紀のスペイン文明の人情と風物を『ドン・キホーテ』に描いたセルバンテス文学は,当時の風車を書いています。主人公と従者は,立ち並ぶ30?40の風車を発見し,騎士道精神で1人残らず皆殺しにして,勝利品で富裕になろうとしました。大きな風車の翼が動き始めたとき,愛馬の疾さで風車目がけて襲いかかったのですが,風は恐ろしい勢いで翼を回したため,槍はくだけ,馬も乗り手も放り出されて転げてしまう,というくだりがあります。セルバンテスは,風を受けて回りだしたときの風車エネルギーと小さな人間のエネルギーの格差,新しく登場した文字通り不自然な人工物体の文明の萌しに対して,自然を基盤にする農村風の文明になじんできた人々が抱く本能的な拒絶反応を描いたといえます。きざじょうりょくかし南フランスの古都,ニーム生まれの19世紀の自然主義作家ドーデーは,当時の風車を巡る人々の生活情景を『風車小屋だより』に書いています。場所は南仏プロヴァンス州のローヌ川の林生する丘の上の粉挽きの流域,松と常緑樫風車小屋の親方が,蒸気機関という2次エネルギー革命の大波に飲み込まれてゆく話で,親方の後を継ぐ者はなく,風車の効率の低さからエネルギー革命の敗者になってゆく盛衰悲話です。人々は大規模工場に雇用され,のんびりした家内工業と田園生活の文明に別れを告げ,都市に集まって暮らす新しい産業文明に足を踏み入れました。次の文明がどのようなものになるかを予想し,対策を立ててこの文明に入ったわけではなく,単に効率の良いエネルギーが見つかって,生産効率の高い工場ができるからと切り替えたに過ぎません。ドーデーは,そうした文明,ひいては文化の急激な変化に対する心残りを『風車小屋だより』として書き残したのでしょう。1785年カートライトの力織機を使った工場蒸気機関を使った工場で働く労働者ヨーロッパの風車は,次第に家内工業的な田園生活に入ったのですが,18世紀に入ると2次エネルギー革命が起こって,蒸気機関で動く挽き臼機械によってあっという間に取って代えられる運命が待っていました。うすひ箱型風車塔型風車第2部 2次エネルギー革命と文明の興亡1800年代に起こった第2次エネルギー革命(第1次産業革命)は,火のエネルギーに並んで重要なエネルギーだった筋肉を使う人力エネ―197―石油/天然ガス レビュー ’04/1・3泣Mーの大部分を機械エネルギーに替えましたが,そのエネルギー源の顛末について見てみましょう。てんまつ中国の殷王朝,マヤ,エチオピア,イースター島などの文明があります。ヨーロッパの原生林は消滅した紀元前3000年頃のヨーロッパ西北部には,楢,,ブナ,シナノキなど温帯落葉樹林があり,中西部の95%は森林に覆われていましたが,次に集まる人々が増え,森第に平原と森林の地境が開墾されだしたのです。楡にじざかいれヨーロッパの中世は大開墾時代とも呼ばれ,森林の伐採が加速され,6世紀のベルギーでは,森林を木炭の生産拠点にしたため,800年頃には原生林は消滅しました。11世紀にはイギリス南東部の森林やケンブリッジ周辺の森林のほとんどは切り払われ,1200年頃のヨーロッパ西部に残っていた豊かな森林も一掃されました。現代ヨーロッパの森林は乱伐された後に再生された森林で,原生林はありません。火薬は森林を救済できずヨーロッパで森林枯渇が起こっていた頃,火薬エネルギーが登場したのですが,この火薬は火の代わりをして森林の乱伐を防ぐことはできませんでした。678年にシリア・ダマスカスを都にしたイスラム教のウマイヤ文明の軍船は,東ローマ文明の帝都コンスタンチノープル(330年までビザンチオンと呼ばれ,コンスタンティヌス帝が遷都して改名,現イスタンブール)を海上から攻撃しましたが,逆に「ギリシャの火」と呼ばれる火炎放射器で撃退されました。この火炎は,を混ぜた液体に石油を加えた硫黄新兵器で,火薬の先駆けでした。,松脂,硝石しょうせきまつやにいおう火薬は7?10世紀の中国・唐代に発明され,10世紀末の宋代に製造法が記録されています。13世紀には,火薬と鉄砲の組み合わせがシルクロードを通ってイスラム文明圏に伝わり,その後ヨーロッパに伝来しています。1330年頃のドイツの修道僧が粉状の火薬を発明し,翌年イタリアの戦闘で火器として使いました。1340年頃になると,鉄で固めた臼のような大きゅうほうが作られ,これに火薬を詰めて飛ばす砲の臼砲大型兵器が登場しています。ビザンチン帝国と第7章 森林エネルギーと中世文明の盛衰 森林枯渇による古代文明の変遷古代オリエント地方で銅を本格的に使い出した紀元前3500年頃から,交易される品物である家畜や獣の皮は金属に替わってゆきましたが,それは冶金術が考案され,火で石を金属に変える文明になったからです。金属を溶かすエネルギーは森林からの薪や木炭で,森林伐採は加速されました。特に青銅を使い始めた紀元前3000年頃から,森林はどんどん減少しました。紀元前2300年頃のインダス文明は豊かな森に包まれていましたが,森林枯渇から約500年で衰亡したようです。巨大寺院や宮殿にはたくさんの煉瓦が使われ,その煉瓦を焼き固めるために大量の薪が使われて森林が減り,土壌が裸地になって食料が減り,外敵の侵入に対する抵抗力が落ちたとされます。ギリシャやローマにも豊かな森があり,紀元前2000年頃のローマやエジプトは,樫,ブナ,松,杉など,常緑樹と落葉樹の交ざった森林に覆われていたようです。,楢かしならギリシャでは紀元前650年頃から,イタリアやシシリーでは紀元前300年頃から,いずれも急速な森林伐採で荒れ地が目立つようになり,上流の森林破壊によって侵食された土砂が河川に流れ込み,それが河口に運ばれて堆積し,港が埋まって港街も衰退しました。森林破壊が文明を衰亡させた他の例として,森を伐採する人々石油/天然ガス レビュー ’04/1・3―198―煬トばれた東ローマ文明の「ギリシャの火」は,700年もの間,イスラム軍の石や弓による攻撃を退け続けました。しかし,執拗なイスラム文明は,1422年になるとオスマン帝国(1299年建国,現トルコ)になって帝都を包囲しました。1453年にマホメット2世が攻撃したコンスタンチノープルは三重の城壁でしたが,世界初の砲兵隊長となったマホメットは,火薬の巨砲でその城壁を攻め落としました。巨砲とは,300kg を超える石を数百m飛ばす装置で,30両の馬 車を60頭の牛でつないで引っ張り,巨砲が横倒しにならないように両側に200人ずつ兵士が並んで支え,その列の前には250人の別の作業要員が道をならし,橋を修理し構築したようです。巨石を飛ばすには強力な火薬が必要で,この火のエネルギーがローマ文明最後の東の帝都を陥落させたのでした。この攻略をギボンは『ローマ帝国衰亡史』で,古来の石と矢を投げ飛ばす武器と,近代の火砲の弾丸と城破りの槌が城壁に向けられた,と書いています。つちエネルギーに生殺されローマ文明せいさつじかい西ローマ文明は,東ローマ文明より977年もしまし前に奴隷エネルギーに依存し過ぎて自壊たが,東ローマは帝都をコンスタンチノープルに移して,数世紀にわたって人力エネルギーとギボンのいう「ギリシャの火」を使って,敵の攻撃を防ぎました。しかし,新しい火薬エネルギーを使ったオスマン軍の砲撃で,堅塁だった城壁も大破され,陥落しました。けんるいかんらく西ローマ文明は奴隷エネルギーを「偏重」しへんちょうたが故に滅び,東ローマ文明は「ギリシャの火」で防御されたものの,「火薬という新しい化学エネルギー」によって滅ぼされました。両文明ともエネルギーによって踊り,幕を引かれ,歴史の舞台から消えました。16世紀にスペインが南米を征服したのは火薬を詰めた鉄砲で,原住民の弓矢と投げ槍に打ち勝ったためです。古来の騎士たちは,この「悪らつな硝石」,「騎士らしくない闘い」に対し声高く抗議し,人間を破壊する最も極悪非道なモノは大砲だとして,この新型兵器に驚き,苦しみ,強く非難しました。森林の衰退とエネルギー危機17世紀に森林枯渇に直面したイギリスは,スウェーデン,ロシア,デンマークから木材輸入を増やし,新植民地になったアメリカからも輸入を始めましたが,輸出国側の森林は伐りつくされたと伝えられています。ほとんどのイギリス人は「木材はスウェーデンなど北欧や海外から簡単に輸入できる」と思っていたようです。1717年にウェールズで新設された溶鉱炉では,木炭が調達できず4年も操業停止し,その後も燃料不足で年間250日しか操業できなかったようです。他の溶鉱炉も2?3年に1度は操業短縮されました。イギリス製鉄業は,17世紀後半から18世紀初めまで薪や炭の供給地の森林を求めて移動しました。他方,軍艦を増やしたいイギリス海軍は,国家資金を投入して植林計画を始めましたが,努力が実って効果が出るには100年以上もかかり,恒常的な森林不足,慢性的なエネルギー危機に直面していました。13世紀の中国の火薬をつかったロケット森を“食べて”広がる村落と工場―199―石油/天然ガス レビュー ’04/1・3?、そくパリが50万人でしたから,江戸文明の過密さは既に相当なものでした。光熱用エネルギーの主が工夫されて使われ,江戸っ力は薪炭で,蝋燭子は現在の千代田区と中央区辺りに密集し,渋谷や新宿はのどかな農村風景だったようです。森林が減り続けたことへの反省から,木炭用の森林は伐採後30年間は手付かずの状態で保護され,再生林として幕府,各藩とも伐採制限をしたようです。第8章 森林を救った石炭の登場石炭は製鉄業を隆盛させた石炭は,3000年前のギリシャや中国,1900年前のロ?マ時代はもちろん,8世紀に書かれた日本書紀にも記述があります。この黒い固まりは,石油やガスに比べて操作は容易で身近に扱えるエネルギーでしたから,化石エネルギーの中でも最初に利用されました。せんてつ1709年,ダービー親子はコークスで高品質の鉄を作る銑鉄の製造に成功し,1735年には石灰石を混ぜて,コークスの硫黄分を除くことにも成功しました。石炭だけで良質の鉄を作ることに成功したのは,ダービー親子のコークス利用から48年も経った1783年になってからです。ヘンリー・コートが,反射炉を使って銑鉄の炭素を少なくするパッドル法と,ローラーにかける圧延法を開発したからです。あつえんコートの続けざまの発明により,イギリスの製鉄業は衰退から立ち直り,ヨーロッパ文明の森林乱伐の危機も救われ,エネルギー危機も解消しました。それまでの森林依存文明は,石炭に依存する新しい化石依存の文明に移行することになりました。石炭・蒸気が20世紀を開いた蒸気と石炭へのエネルギー転換が起こった1700年代後半は,人類のエネルギー史において火の発見に次ぐ大きなエネルギー革命となりました。その最大の成果は,それまでの文明の形成において主力だった人力エネルギーを補完す る,革命的なパワーを持つ便利な機械動力を登場させたことです。18世紀?19世紀,特にアメリカ独立戦争からナポレオン戦争の時代,イギリスとスペインでは戦艦用の木材不足が深刻になり,建材,家具,,容器などの不足,馬車の部品不足,煉瓦・タイル,とりわけ鉄鋼を生産するエネルギーの不足が起こりました。樽たる大革命が起こった1789年頃のフランスでも森林破壊は続きましたが,人々は森林不足というエネルギー危機には眼を向けず,風雅を美徳とし勤労を侮蔑する風潮が続いていました。当時の文明を支えたエネルギーは,人力,畜力のほか自然に依存する水車・風車がありましたが,減ってきたとはいえやはり森林からの薪炭エネルギーでした。こうしたイギリスの森林枯渇というエネルギー危機はヨーロッパ大陸に広がり,19世紀後半にはアメリカでも起こりました。200年前に先進国で発生した森林衰亡の危機は,広域的な自然環境破壊という点において,現代の化石エネルギーの大量消費に起因する地球温暖化問題と類似性を持つ先例といえます。日本の薪炭エネルギー事情眼を転じて17世紀末の日本を見ると,五代将軍・徳川綱吉の治める元禄時代で,手作りの文明下できめ細かな江戸文化が花開き,いわゆる副将軍・徳川光圀の隠居,6万戸焼失の江戸の大火,赤穂浪士の討ち入りが起こった頃でした。江戸の人口は約100万人,ロンドンは70万人,反射炉の断面図森林不足は欧米諸国に広がる石油/天然ガス レビュー ’04/1・3―200―レっこう蒸気機関研究家のフランスの物理学者カルノーは,大英帝国の勃興期にあった1824年に「イギリスから蒸気機関を奪うことは石炭と鉄を奪うことであり,イギリスの富を奪い,巨大なイギリスの国力を叩きつぶすことだ」と語りました。木炭から石炭・蒸気へ移行した2次エネルギー革命は,イギリスからヨーロッパ大陸のドイツ,フランスへ波及し,約50年後の19世紀半ばにはアメリカ合衆国へ,日本にはペリー来航の1867年(明治初年)以降に渡りました。このエネルギー革命で新たな産業を興したイギリスには創業者の富が蓄積され,19世紀初頭からは世界の工場となって「大英帝国」が建設されるエネルギーになったのです。2次エネルギー革命の急展開は,メリットとして,①所得が上昇し,②新たな商品も登場し,③福祉水準も向上しました。他方,デメリットとして,④スラムなど社会的不平等が広がり,⑤公害が増え,⑥大多数の人心が荒廃しつつある,とみたマルクスらは,過激な社会改革思想を広げることになりました。2次エネルギー革命を支えた石炭はその後,アメリカやロシア,中東の石油の登場で役割を蒸気エネルギーで変わるOいくすじもの煙がたなびく鉄鋼工場低め,120年後の1970年代には世界に占める石炭シェアは3割に下がりました。ドーデーの「風車小屋」を止めた石炭炊き蒸気ポンプも,使い易い石油の登場によって急速にその地位を奪われたのです。このようなエネルギー転換もエネルギー革命と呼ばれますが,長いエネルギー史から見れば,次章で見る第3次エネルギー革命の中に含まれる「小エネルギー革命」でした。人類史上の「3大エネルギー革命」は,小さなエネルギー革命が集まって展開されてゆくのです。第3部 3次エネルギー革命と文明の興亡第2次エネルギー革命で農耕文明から離別した人類は,機械文明という新産業社会を興したものの,夜の生活は依然として暗く,また交通手段は足を酷使し続けており,人類誕生以来変わっていない分野でした。しかし,電気が発明されて照明に使われると,日没後も昼のような明かりが得られ,動力にも応用されて工場の作業は一変し,電気鉄道の登場で新たな交通手段まで得ることになりました。スイッチ一つで得られるクリーンな新エネルギーが登場したため,人類史上最も快適な文明生活を営めることになったのです。加えて石油による自動車や航空機,ガスによるパワフルなエネルギーが登場し,人々の生活は更に便利で快適な石油文明を味わえるようになりました。この電気と石油,ガスを組み込んだ新エネルギーシステムは,人類史において第3次エネル―201―石油/天然ガス レビュー ’04/1・3Mー革命となる新文明を登場させ,企業活動や生活行動範囲を劇的に変貌させることになったのです。第9章 暗さから明るさへの革命原始人が火と出会ったのは樹木が燃えるのを見たときで,それは昼間の太陽光よりは暗いけれども,夜の月光よりも明るく輝くエネルギーでした。人類は,薪のエネルギーをそれから今日まで50万年にわたって営々と使い続けてきました。旧文明のくらい明かりわりき木を割って使う「割木」による明かりの次に現れたのはオリーブ油で,紀元1世紀頃のローマ文明には馬にまたがる戦士を浮き彫りにした素焼きランプがあり,布にオリーブ油を染み込ませて燃やし明かりにしていたのです。石油の残さ物のアスファルト(瀝青)は,古代オリエント時代から薬や接着剤として使われており,中世初期,900年代のイスラム文化の民話『千夜一夜物語』には,銅製の石油ランプが「アラジンの魔法のランプ」として登場しました。精製されない原油が使われ,持ち運びの便利なランプの明かりが人々を夜の闇から少しばかり解放し始めたのです。この文明期の油は高価で,例えば仏教行事に費やされた油の代金を見てもおびただしいものがあり,空海も貴族や豪族に寄進を求める際に「暗黒は生死の源」という嘆,遍明は円寂の本へんみょうきしんみなもとえんじゃくもと願書を書いています。ヨーロッパの夜は動物の油で照らされたたいまつ木に樹脂を塗るとよく燃え,樹脂をたくさん含む松の木を燃やすと一層明るくなることに気付いた人々は,松明を工夫しました。粘土や石の入れ物に油を入れ,浸した布を燃やして明かりを得たのですが,燃え残りの煙と煤が部屋にこもって壁を黒ずませたため,芯を高温で溶かした油の中に浸してそのまま固め,必要なとき火をつけると燃える蝋燭が創作されました。ろうそくすすじゅうしこの頃のヨーロッパ文明下の照明は,牛,羊,馬,豚の脂が使われました。魚の脂はにおい,煙,変質しやすさなどから獣脂より安かったようで,日本でも,江戸の貧しい人々には鰯の搾り油が使われたようです。16世紀末からは北極海のスピッツベルゲン基地でアメリカや日本も加わって捕鯨を行い,鯨の脂が照明に使われるようになりました。いわし貴重な蝋燭から油の照明へ18世紀後半のフランス王宮の夜にはたくさんの蝋燭が飾られましたが,庶民は1本の蝋燭で過ごし,客のある時だけ2?3本を灯したようです。ヨーロッパ文明の暗い夜は,消灯から夜明けまで鎖を張って通行は禁止され,武器の携行を禁止されたところもありました。独り歩きと呼ばれる石油ランプをする者のために,角灯灯して家まで送る「送り屋」という職業が登場しました。物々交換の市や聖書物語が上演されるとき,事件が起こったときなどは,家の前に角灯をつけるよう役所から指示されました。かくとう松明を燃やす越の国の燃ゆる土と水石油/天然ガス レビュー ’04/1・3―202―Kス照明も最初は怖がられたしずつ明るくなりました。天然ガスの炎は,紀元前1500年頃のカスピ海バクーのゾロアスター教寺院で,礼拝と信者の火葬用に使われたとの記録があります。『日本書紀』には,天智天皇が即位した668年に「越の国の燃ゆる土と水を献上」したという石炭と石油の記述があり,1700年頃の越後地方には,」あるいは「風くそうず」地中から出る「陰火(石油の呼び名は臭水),すなわち天然ガスがあったとされます。くそうずいんかこうこう1812年には世界初のガス会社「ロンドン・アンド・ウェストミンスター・ガスライト・アンド・コークス会社」が設立され,工場からガス管を使ってガスを運び,ガス灯をつけました。翌年の大みそかの夕刻,石炭によるガス灯がロンドンのウェストミンスター橋に付けられて辺りを煌々と照らしましたが,ロンドン子はガスの明かりを恐がって誰も橋を渡ろうとしなかったそうです。固形で身近に扱える石炭と違って,ガスはつかみどころのない不気味な感じを与え,取り扱いの難しいエネルギーというイメージが強かったのです。木製のガス管から毒物が漏れ出るといった噂が絶えず,新しいガスエネルギーに対する人々の不安は抑えらなかったため,ガスの風評は芳しくなく,新事業に挑戦する人々の苦労は大変なものでした。しかし,時間の経過と共にガスの安全性は評価されて人々の不安も静まり,ガス灯の明かりを認める人は増えました。11年後の1823年,ロンドンのガス灯は52カ所に増えて,街の夜も少ロンドン・ウエストミンスター橋1820年代にはアメリカのボストンやニューヨーク,ドイツのベルリンにもガス灯が設置され,日本では1872年(明治5年)に横浜の外人居留地で点灯しました。第10章 電気と電信・電話の登場のろしが開いたインターネット時代飛脚,のろしなどの通信手段を使っていち早く情報を得れば,安全や利益が確保されます。それは季節商品や株式,スポーツ競技や深刻な戦争,暴風雨や大災害などについての情報です。通信情報は,当代の文明の興亡に大きな影響を与えてきました。21世紀は,コンピュータ通信革命によって急速なグローバル化が進行中ですが,20世紀初頭に蒸気と電気を使った2次エネルギー革命が世界に広がったことは,グローバル化現象の先駆けでした。それまでは,風力エネルギーに押された帆船による大航海時代を通しての世界化があり,更にそれ以前は風力や水力によって地域が拡散し拡大しましたし,原初の火の文明は燎原の火のように1次エネルギー革命を広げました。人類史においてエネルギー革命を体現した当代のある地域のささやかな技術であっても,それが普遍的で有用なものである限り,いずれ境界を越え世界に広がってグローバル化されてきました。エネルギー史は現代に近付くにつれ,世界に広がるスピードも加速されています。のろし 烽火―203―石油/天然ガス レビュー ’04/1・3d気と電信・電話が情報革命の基礎固め手につかめず,眼に見えない電気に対する科学者の探求は,体験や実験で積み重ねられ実相に肉薄してきました。1800年代の100年間は,エネルギーや電気に関する発見や発明が次々に重ねられ,革命的な電気利用の文明への基礎固めの時代になりました。1820年代にはアンペアの法則,オームの法則が発見され,1840年代になるとジュールによってエネルギーを熱に換算する方法が,ドイツのマイヤーとヘルムホルツによってエネルギーは形を変えるが総量は同じとする「エネルギー保存の法則」が発見されるなど,電気の基本原理が次々に確立されました。電気は照明や動力に活用される一方で,別の電信と電話の新文明を派生させました。①モールス信号による電信,②人の話し言葉を伝える電話の発明でした。イギリスのファラデーは,1821年に電動機,1831年には発電機の重要な原理を発見しました。この頃は第1次産業革命のただ中で,商業が発達し始め,商売の相手や仲間にいち早く用件を伝えるニーズが高まりました。最も早い伝達手段は馬車,次いで蒸気機関車でした。汽車が到着する先の駅に緊急連絡するために駅間に中継所を設けて,狼煙信号,伝書バトなどで連絡したのです。,手旗のろしてばたて,これ見よがしに白扇を頭上にかかげて通り,欧米思想に魂を奪われた人々に対する軽蔑の心を表した,との記述があります。電話機に発展するまでには,ボルタの電池からは115年,ファラデーの発電原理の発見からは55年も経過しています。1901年にはイタリアのマルコーニが無線で大西洋を越えて通信することに成功しています。電信と電話は照明,動力,電化製品と合体され,電気による第3次エネルギーを経て第2次産業革命と呼べる大きな文明の革新を興し,経済的,社会的な仕組みを変えています。それは,パソコンを使うことで,個人が瞬く間に世界の情報を手にすることのできる情報通信の「眼前30cmの革命」となって,いま増幅し拡大中の大きな変革を加速させています。第11章 石油文明の勃興石油は,『創世記(14章の10)』に「シデムの谷には瀝青の穴が多かった。ソドムとゴムラの王は逃げようとしてそこに落ち込んだ」と記されています。『出エジプト記(3章の2)』には「モーゼが群れを追って神の山ホレブに来ると,ヤホバの使いがめらめらと燃えている柴の中にイスラエル人のエジプト出国恐がられた空中の電信線この頃,まだ自然が中心だった文明の中に電信線が布設されたとき,人々は電信線は空気から電気を奪って雨を減らし,豊作がなくなると恐がり,電信線を壊す騒ぎを起こしています。明治9年(1876年)の熊本城の近くの情景として,電信線の下を通る時は汚れがうつるといっ明治28年頃の家並みと電柱石油/天然ガス レビュー ’04/1・3―204―サれたが,不思議なことに柴は燃え尽きない」と書かれています。いずれも現代の産油地帯に,昔から石油がにじみ出ていたことが示唆されます。つるべギリシャ時代のヘロドトスの『歴史』には,「跳ね釣瓶を使って革袋を半分にした桶で,井戸からアスファルトと塩,油を汲み上げて,別々の容器に流し込む。三つの物質が別の道をたどって運ばれたが,この油は黒色で強い臭気がある」という記述があり,アスファルトを地下から汲み上げていたことがわかります。この頃の石油の採集は,人力で土を掘り,ドロドロの黒い原油を手でつかんで桶に入れてためたようです。樹木や石炭に比べてつかみにくく不安定な上,不便で手に負えないエネルギ?のため,長い間宝の持ち腐れでした。それが人類に貢献するエネルギーになったのは,1859年のドレーク大佐がビッド付き掘削機械で原油を掘り当ててからです。当時は燃やしたときの明るさから照明用の灯油ランプに使われ,闇を明るくする石油の明るさは高い熱を利用するよりも重要だったのです。外燃機関から内燃機関へドレークによって石油の機械掘りが始まる前年の1858年,イギリスでは最初の蒸気自動車がが車に乗って石炭を投げ製作され,釜炊き人夫にんぷ込みました。その後,1880年代には改良されて時速30kmまで出せるようになり,1889年には湯沸かし型の釜を使った小型の蒸気発生器が開発され,1897年には灯油バーナーによる蒸気自動車が売り出されました。他方,1882年には最初の電気自動車(形は電動3輪車)が作られ,1897年には電池40個で80kmまで走行できる,電気乗り合い自動車がロンドンで定期運転を始めています。アメリカでも電力会社が,街角に充電ステーション網を張り巡らせる計画を構想したりしました。1886年には,ドイツのダイムラーが高速回転する内燃機関を発明して,石油が自動車に本格的に利用され始めました。内燃機関とは,ピストンが動くシリンダーの内部で石油やガスなどを爆発させて燃やし,発生する熱エネルギーでピストンを動かして仕事をする動力機関で,作業機械や輸送機関は小型化され,広く普及するようになったのです。あっという間の米車の普及自動車がアメリカで急速に普及してゆく様子は,アレンの「オンリーイエスタディ」に記されています。鉄道沿いの繁華な町はすっかり寂れ,国道沿いの町には自動車修理工場,ガソリンスタンド,ホットドッグ屋,レストラン,喫茶店,休憩所,キャンプ場などが次々に作られ当時の三つの自動車T型フォード車(1913年・アメリカ)スチュードベーカー電気自動車(1906年・アメリカ)蒸気自動車(1839年・イギリス)―205―石油/天然ガス レビュー ’04/1・3墲、ようになりました。市街電車は姿を消し,鉄道も次々に廃止されました。1920年代の初め頃は,ほとんどの中心街の交差点は1人の警官で交通整理ができたのですが,赤,青の交通信号や点滅器,一方通行の道路が増え,客寄せの車止めだらけの遊歩道,どこまでも厳しくなる一方の駐車規制も加わって,毎週土曜と日曜の午後のメイン・ストリートでは車が数ブロックも数珠つなぎに渋滞するようになったのです。蒸気の時代は,あっという間にガソリンの時代になりました。照明ランプ用の灯油は,エジソン電球の普及で消えましたが,その後はガソリンや軽油が自動車や航空機に使われて地球を駆け巡り,ナフサは多くの医薬品を含む石油化学製品に姿を変えて,現代文明を支える商品として繁栄してゆきました。液化石油ガス(LPG)や重油を含めた石油は,20世紀の巨大な石油文明を創るに至ったのでした。ジェットコースターのような石油需給アメリカで原油が発見されると,一夜にして巨額な稼ぎができるものと,人々は石油発祥の地タイタスビルのほかも次々に掘りました。最も華やかだったピットホールで最初に原油が見つかった1865年には,1万人が住み,居酒屋風ホテルが50軒,アメリカの扱い量が第3位になった電報局と銀行が建てられ,消防署,水道局,劇場,新聞社までができました。この街の原油はその年1月に生産を始め,6月に4本の井戸から日量2,000bbl(バレル)(この辺りの石油生産量の3分の1)が掘られ,9月には6,000bblになりました。しかし,11月には原油はパッタリと出なくなり,それからは一滴の油1920年代のガソリンスタンドも出ず,わずか1年でこの街は消えました。原油生産業者は,歓喜の絶頂から奈落のどん底へと,瞬時に一変することは日常茶飯事で,石油史に登場したドレーク大佐も10年足らずで乞食生活に身を落とす,激しい価格変動に晒されています。1997年に崩落した日本やアジアの株式相場や1999年の世界原油の値下がりに似た荒々しい価格変動でした。さら現在のピットホールには,昔日の賑わいを見せたオイルシテイの面影はなく,たった500日間だけ栄えたことを記す掲示板,朽ちた荷馬車,試掘パイプ管,石油博物館が残されているだけで,周辺の景観は「つわものどもが夢の跡」と化しています。アメリカで原油埋蔵量があっという間に枯渇したという話は,枚挙に暇がありません。例えば,アメリカ南部の油田地帯(テキサス,ルイジアナ,オクラホマ)のうち,テキサス州スピンドルトップ油田の話があります。掘り始めて3カ月後の1901年1月の掘削中,突然岩が数十mも吹き上げられて,原油の大噴出が起こりました。数ヵ月後には214の油井が林立し,スピンドルトップの丘には1万6,000人がテント生活をして原油を掘り,近くのボーモントの町は数ヵ月で1万人から5万人に膨れ上がったのです。この油田は,日量で一挙に7万5,000bblも生産されましたが,近視眼的なオイルラッシュで原油は生産過剰になって溢れ返り,1901年夏の原油の値段は3セントになりました。ちなみに当時のコップ1杯の水は,油の1.7倍の5センスピンドルトップ油田と街石油/天然ガス レビュー ’04/1・3―206―gでした(2003年度の1I当たりの日本の輸入原油は27円,天然水と呼ばれるペットボトル入り飲料水は約5倍の130円で,現在の石油も異常に安いといえます)。こうして,翌1902年夏には油層圧力が低下し,生産原油は急減し,今度は原油不足から相場は1902年後半から1903年にかけて35セントに上がりました。スピンドルトップ油田の生産業者は,8大石油メジャーになったガルフ石油に発展してゆきましたが,油田そのものはわずか3年で枯渇してしまったのです。1910年代のアメリカの石油枯渇石油文明・草創期のアメリカの石油需要は,1914年の日量58万bblから1920年には125万bblへと6年で2倍強に増加し,米国産の原油だけではまかなえない,とする専門家が増えました。1920年には原油価格は前年比50%も上昇して3ドルになり,1913年に比べて7年で3倍に高騰しました(1970年代の石油危機並み)。1919年に有識者によって書かれた論文には「アメリカ産業の優位性の基盤である国内原油の枯渇の時が近づいてきた」とあり,1920年に上院議員は,「アメリカはアングロ・パーシャン(現在のBP)に似た国営会社を作って海外原油の探掘に乗り出すべき」という議案を上程しました。第1次世界大戦の終わり頃,アメリカの石油資源はまもなく枯渇するという懸念が強まり,脅迫観念となってアメリカ石油産業や政府の間で広まり,1920年代に引き継がれました。1913年の世界の原油生産シア66.0万B/D(cid:0)ア メ リ カ (cid:0)ロメ キ シ コ (cid:0)ルーマニア(cid:0)蘭領東インド諸島(cid:0)ビルマ・インド(cid:0)ポーランド(cid:0)世102.2万B/D出所:チューゲンハット「オイル」(早川書房)(cid:0)3300万I(cid:0)860  (cid:0)380  (cid:0)190  (cid:0)160  (cid:0)110  (cid:0)110  (cid:0)5110万I(cid:0)(cid:0)17.2(cid:0)7.6(cid:0)3.8(cid:0)3.2(cid:0)2.2(cid:0)2.2(cid:0)界計65%(cid:0)17 (cid:0)7 (cid:0)4 (cid:0)3 (cid:0)2 (cid:0)2 (cid:0)100%(cid:0)第1次世界大戦と石油の興亡ほうかん列強の覇権争いが続いていた1911年,ドイツがモロッコに寄港したのを見て,英仏両の砲艦国は,ヴィルヘルム2世の権益拡大の野望に不信感を強め,自国海軍の増強を決めました。海軍大臣になりたてだったチャーチルは,ドイツ艦船が石炭だき蒸気機関から石油内燃機関に切り替えつつあることに危機感を抱き,省エネルギー,高速性,操作性から,英海軍も石油艦船でないと敗北すると主張しました。艦船への石油供給は,イランで操業中のアングロ・ペルシャ石油を準国策会社にして行うことにし,1914年夏,第1次世界大戦の勃発時には,イギリス海軍の石油切り替え作業は完了していました。他方ドイツ,オーストリー,ハンガリー枢軸側のドイツ参謀本部は,陸上の戦闘の帰趨は鉄,石炭,鉄道の整備で決まると見たのですが,英仏など連合国側の高速の石油艦船で海上を封鎖されて,ドイツの石油は不足してきました。ロシアの石油は敵の同盟国に属し,頼っていた産油国ルーマニアも敵陣に回り,カスピ海・バクー油田も奪取できなくなって,1918年秋,ドイツ軍への石油供給は絶望的な不足状態になったのです。戦時の1917年12月に,フランス・クレマンソー首相は,「ガソリンの一滴は血の一滴」に匹敵するほどの戦略上の重要物資で,補給されなければ連合軍は麻痺するとして,アメリカのウィルソン大統領に10万t分の石油タンカーの緊急要請をしています。この頃のアメリカは石油枯渇の危機にあったのですが,大統領は国内在庫を取り崩し,メキシコ石油の輸入でつないでフランスの要請に応じました。石油を確保できなかったドイツ枢軸側は,1918年11月に降伏しました。第1次大戦後のドイツにはヒットラーが登場し,第2次大戦が起こりました。ドイツは,この大戦争でもロシア,バクー,中東などの石油の奪取作戦を第1順位に置いたのですが,失敗して再び連合国側に降伏しました。20世紀前半に起こった石油エネルギーの奪取を巡る国家連合単位の文明間の争いで,国民は総動員され,敗戦国には後遺症の長く残る悲惨―207―石油/天然ガス レビュー ’04/1・3ネ結末となりました。昭和18年に出された「少国民新聞」の付録不足を克服して再び石油王国アメリカ国内で追い詰められた石油会社は,懸命に石油探査を進めた結果,カリフォルニアを始めとした諸州で新たな原油を発見し,1922年から再び石油王国アメリカに戻りました。1930年は原油発見の最盛期になり,映画「ジャイアンツ」の俳優ジェームズ・ディーン(実在名コロンブス・ジョイナー)は,東部テキサスの地質学者が「絶対に石油は見つからない」とした農場で,農場主夫人(女優エリザベス・テイラー)から借りた土地で,巨大な黒い原油の大噴出を見ました。この大発見で原油相場はまたも暴落し,主人公は巨額な借金を抱えて失意のうちに亡くなったとされます。石油はその便利さから需要が増えたのですが,供給のコントロールがしにくい,というやっかいな問題を露呈することになりました。この頃の日本の専門家は,「アメリカは石油枯渇を必至と見て,海外油田の確保に自国のスタンダード系の石油会社を使って支配しようとしている。日本としては,支那,満州,英領インドを合わせて9億3,600万tの原油が埋蔵されているので,この開拓をする他にドイツにならって褐炭油の開発を急がねばならない」としました。液化による人造石油や油母頁岩ゆぼけつがんかったんアメリカも日本も,当時の原油の確認埋蔵量を前提に自国の安全と繁栄を期して,必要なエネルギー戦略を模索しました。アメリカの広大石油探鉱を鼓舞する週刊誌な土地には,幸運にも豊富な原油埋蔵地があったことが判明したのに対し,日本は石油資源はないにもかかわらず,危機感はなく長期の準備もしなかったため,猫に追い詰められた鼠のように南方油田の奪取という展望のない政策に追い込まれていったのです。第13章  エネルギー不足下の生活 作家の書いた石油エネルギー不足日本は,1944年(昭和19年)には米軍潜水艦のタンカー・輸送船攻撃によって石油や輸入物品は本土に届かず,戦争体制の維持だけでなく経済活動や生活の維持すら難しくなっていました。今からわずか半世紀前の昭和20年,敗戦直前の石油不足下の日本の状態を大仏次郎の『敗戦日記』に見てみましょう。「5月某日;25日にB29爆撃機510機が,東も炎上。23日とこの日京の中心部を空襲。宮城の空襲で,東京の市街地の半分が消失。29日に米軍,那覇市に突入。B29が510機,白昼,横浜を焼夷弾になる。新橋で降り,赤坂見附へ出るに西側ずっと家なし。で攻撃し,全市が灰燼しょういだんきゅうじょうかいじん焼け出されて列車で地方に石油/天然ガス レビュー ’04/1・3―208―アとごと首相官邸も焼けた。赤坂で空襲に会い,路上で死んだ時,衣類や持ち物を悉く剥がれたという不快千万な話がある。電灯料は来月より5割値上げ。女中が荷物を出しに行ったが,8時に家 を出て午後の3時まで待ち,弁当を家人が届け てやった。むしろ,敵による徹底的な破壊に希 望がかかる。日本はその場合だけ蘇生し回復す るだろう。」 かじんたばこはちみつ「8月某日;広島・長崎に原子爆弾が投下される。煙草の配給量が1人1日3本になる。1升が350円。2升買うのに,現金200円に蜂蜜地下足袋と手ぬぐい1反に古着類を付けてやるといった状態。百姓が欲しがるのは,第一に塩(塩1升に対し米2升くれる),地下足袋,はんてんの類の作業着,硫安りゅうあん」敗戦直後の日本1945年(昭和20年)8月15日,満州事変から15年に及んだ大戦争は終わりました。日本は米するまでの軍の占領下に入り,朝鮮戦争が勃発状態10年間は「国民総浮浪に陥りました。化」と呼ばれる窮乏きゅうぼうぼっぱつふろうこの大戦で日本が失った資産は,昭和22年の公定価格に換算して1兆8200億円,この年のGNPの1.3倍とされます。空襲で破壊された石油精製施設の生産能力は戦前の51%,火力発電設備は69%に落ちましたが,水力発電所はほとんどど被害を受けませんでした。昭和23年から昭和26年までの4年間,「サマー・タイム制度」が導入されました。電気需要が急速に高まって,供給が追い付かず停電や電銀座の都電の屋根ではしゃぐ米兵圧低下が生じたため,昼間の時間が長くなる夏期に,生活時間を1時間繰り上げて電力の消費を節約しようとしたものです。その後行われた政府の世論調査の結果,職業,年令,学歴に関係なく反対者が53%にのぼる不評さで,そのうちの8割は期間を短くしても全廃を求めていることがわかり,不評から廃止されたのです。昭和26年10月の総理府世論調査の反対者の理由を見ますと,①農業・漁業生活に合わず労働過重になる:26%,②慣習の変更は好まない:22%,③保健上よくない(疲れてだるい):16%,④生活に無関係:16%,⑤労働条件・民間企業に悪影響:10%,⑥余暇を悪用する:4%,⑦主婦の負担が増大する:3%,⑧わからない:3%となっていました。緯度が低くて日照時間が長く,蒸し暑い南日本の国情も不評の要因だったとされます。第14章 石油に浮かぶ米国型文明泥沼の大戦争を敢行して無条件降伏した日本は,史上初めて戦争に敗れるというショックから,放心虚脱に陥りました。しかし,間髪を入れずアメリカ軍政下で再出発することになり,最悪の逆境に追い込まれて採用した新制度は,①国土が広く資源大国のアメリカの大量生産・大量消費を模した市場経済であり,②二院制の議会制民主主義であり,③戦前から受け継がれた勤倹節約の心を持った労働者による企業社会の文明でした。きんけん戦前まで国家が強制した宗教・倫理,教育,自然観などの精神的な枠組みはすべて廃棄され,新たに与えられた民主的に決定するという制度の下で,戦争のための総動員体制を生かして,疲弊した経済システムや爆撃で荒廃した国土を急速かつ懸命に復興させようとしました。戦後の経済水準が回復し,戦前を上回るようになった1973年(昭和48年),アラブ産油国は,米国等と共に経済肥大化しつつあってアラブよりもイスラエルよりと見られた日本をターゲットに,石油戦略を発動しました。1979年(昭和54年)には,イラン革命により再び石油の供給削減が起こって石油価格が高騰し,1990年には―209―石油/天然ガス レビュー ’04/1・3桙フOPECは結束力が強く,市場シェアの大きい独占的な石油供給者としての立場にありました。非OPEC原油も石油代替エネルギーも少なかったので,OPEC原油需要の価格変動に対する感応度は低かったのです。OPECが相当な値上げをしても需要は落ちずに石油収入は増えるという独占的な立場でした。ショックはアメリカが震源地世界がこのような石油事情になったのは,石油王国だったアメリカの変貌にあります。1970年,ニクソン大統領は米国初のエネルギー教書を発表し,70年代からは石油輸入国になることを明らかにしました。1960年代までのアメリカは,国際的な生産過剰から国産原油業者を保護するために,海外石油の輸入を石油消費の8分の1(12.5%)以内に抑えていました。生産業者ごとに,過去の生産実績と埋蔵原油を申告させ,生産割り当てを実施してきたのです。しかし,60年代末に至って,原油の生産が思わしくなく,埋蔵量を調べたところ,申告通りに存在していないことが判明したのです。ニクソン大統領は,この問題を精査する閣僚レベル・タスクフォースを作って検討した結果,石油輸入に手数料をかけながらも,輸入石油の増量に踏み切らざるを得なくなったのでした。中東産油国はこの頃,OPEC原油を代替するエネルギーには有力なものがないことを調べ,アメリカと親しいイスラエルへ戦略的な圧力をかけながら,1973年10月に第4次中東戦争に合わせて,OAPEC(アラブ石油輸出国機構)は,日本を含むイスラエル支援国に対して石油輸出ファイサル王とトイレットペーパーを求めて行列をする人々イラクのクウェート侵攻によって石油価格は上がりました。戦後の石油危機の土壌戦後の自由世界で石油供給を担ったセブン・メジャースなどの欧米石油会社は,次第に,利権料や所得税などの引き上げ,石油事業への参加や国有化の要求を産油国から受けるようになりました。宗主国の植民地支配から独立して,国連に加盟する産油国も増え,南半球の貧しい国に対する北半球の豊かな国という「南北問題」が,世界の大きな政治経済問題として浮上してきました。また,戦後は私企業体制による資本主義体制を選んだ西側諸国に対して,国営企業による官僚主導の社会主義体制の東側諸国という「東西対立」も深刻化しました。この間,産油国を含む途上国は,富裕層をバックにする政権が旧宗主国の西側諸国の国際資本と結び付く事例が多く,政治家や官僚の腐敗が目立ち,ソ連をリーダーとする共産圏諸国からのイデオロギーと経済的な支援を受け入れやすい土壌になりました。こうした状況に呼応して,1960年に産油国はOPEC(石油輸出国機構)を創り,1960年代は西側石油会社に諸要求を突き付けました。その主勢力は中東産油国で,中東の最大の政治的・軍事的争点はイスラエルとパレスチナの領土抗争にあり,1948年のイスラエル建国以来,パレスチナ民族との領土の紛争は納まらず,3度にわたる中東戦争(パレスチナ民族とアラブ諸国対イスラエルとの戦争)を引き起こしていました。必然的だったオイルショック1973年の世界のエネルギーに占める石油シェアは47%(自由世界だけでは54%)で,次の石炭を大きく引き離し,また原油生産に占めるOPECのシェアは52%(自由世界では63%)で,これも次のソ連やアメリカを大きく引き離していました。このためOPECは,意図的に原油生産を落とせば,西側石油消費国の石油供給に支障が出て原油価格を容易に引き上げられる状況になっていたのです。石油供給における高いシェアを持っていた当石油/天然ガス レビュー ’04/1・3―210―ァ限をしました。値上げによる巨額なオイルダラーが入る前のOPECは,南北問題が世界的な重要テーマになっている中で「南の代表」としての意識が強く,場合によっては西側から「東側への外交関係を深める」という切り札もありました。更に,国際石油資本から生産量や価格の設定権も奪取しようとしており,OPEC史の中でも最も結束の強い時期にあり,カルテルとしての機能も十分に使えたのです。1973年に4倍に値上げされ,1979年から1980年にかけて35ドルへと更に2倍半の値上げをされた石油消費国は,石油・エネルギー節約,OPEC外原油と石油代替エネルギーの開発に取り組まざるを得なくなりました。石油価格の高騰に対して市場メカニズムで対応したのです。OPECの恣意的な値上げを抑え,石油価格の均衡水準を作るには,OPEC原油に競合するエネルギーをできるだけ大きくすることが必要だったため,非OPEC原油と石油代替エネルギーの大量の開発に踏み込んだのでした。ポスト・オイルショックフランスは,「アラブのアブラより,フランスの原子力技術者を信用する」として原子力発電を石油代替エネルギーの基軸におくエネルギー政策を採用しました。アラブ産油国が,①1956年(昭和31年)のスエズ運河国有化時のイスラエルのエジプト侵攻に際して,英・仏への石油禁輸をし,②1967年のアラブ・イスラエル間の6日間戦争時にも米・英への石油禁輸をしたこと,が背景にありました。しかし,1985年になって石油需要の落ち込みが深刻になってきたため,アラビア湾岸産油国は原油値下げ戦略を発動し,またプラザ合意によってドル以外で購入される原油の実質価格が大幅に下がりました。1998年には危機前の1972年の実質石油価格を下回る状況になりました。このため,今度は1990年代から石油需要の復帰とOPEC回帰が生じ,石油代替エネルギーの停滞が生じています。現代文明への示唆原油発見のための探鉱技術は,隔世の感があるほど進歩しているものの,当代の原油埋蔵量して, や原油の探鉱・掘削の技術水準を前提に政策 関係者は石油・ガス政策や代替エネルギーを決めてゆかなければなりません。エネルギー政策は国の総合戦略に連動し,太平洋戦争への道行きからの決断に見られたように,その結果は国民全体に重大な影響をもたらす歴史的なエポックを作ります。石油文明を創設し,石油大国になったアメリカも,今は草創期のような大規模な新規の油田発見はできない状況にあり,原油生産は1970年頃をピークに確実に漸減期に入っています。その石油文明の盛衰は,エネルギー文明史に現れた幾多のエネルギー革命の波のうねりのように展開されています。歴史の実相は,あくまで冷厳かつラディカルに分析することが肝要であり,それに基づく政策は暖かくソフトに展開されることが望まれます。米国のエネルギー文明を存続するには,①国増強された石油備蓄1956年に原油掘削装置の完成式典に出たジョージ・ブッシュ社長と息子のジョージ―211―石油/天然ガス レビュー ’04/1・3烽フ石油供給を他のエネルギーに切り替える,②世界の石油飽食のライフスタイルを世界のリーダーとして率先してエネルギー革命的に変貌させる,③中東産油国に接近して石油供給を死守する,が選択肢になるでしょう。ふかん総合的な現代地球文明を先導する米国の立場からエネルギー史を踏まえ,地球全体を俯瞰し長期を展望するとき,①と②の組み合わせが浮上するはずです。大統領選や市場メカニズムといったショートサイトな利益追求に捉われますと,容易に③に手が伸びます。短期の利益追求は,長期を展望した枠組みの中でなされなければ,過去の人類のエネルギーを巡る幾多の争い,怨念による戦争行為の結果に明らかなように,子孫は悪循環に陥って苦闘します。典型的な事例はイスラエルとパレスチナの争闘で,抜き差しならない悲惨な歴史の連鎖になってしまいます。加速度的に地球を狭くしながら展開している現代文明人には,到底,境界争いをしているゆとりなどありません。エネルギーと文明の興亡史を顧みるとき,話し合いで平和裏に世界が一丸となって解決に向かうこと,アメリカが先導して総合的なエネルギー政策を協調し推進してゆかなければ,21世紀の地球文明はゲリラ的にその滅びの道を転げ落ちて行くでしょう。世界の軍事予算の4割を持つ巨人アメリカが,足を地に着けて,坂を踏ん張らなければならない難所に立っているという自覚が肝要で,英明なリーダーとして世界の貧者と共に歩もうとする政策展開が待たれる現代です。石油/天然ガス レビュー ’04/1・3―212―
地域1 グローバル
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国・地域 グローバル
2004/01/30 [ 2004年01月号 ] 田中 紀夫
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