ページ番号1006121 更新日 平成30年2月16日

エネルギー文明史―その 3 三大エネルギー革命と自然環境の変貌

レポート属性
レポートID 1006121
作成日 2004-09-20 01:00:00 +0900
更新日 2018-02-16 10:50:18 +0900
公開フラグ 1
媒体 石油・天然ガスレビュー
分野 エネルギー一般
著者
著者直接入力 田中 紀夫
年度 2004
Vol 38
No 1
ページ数
抽出データ Analysisアナリシス田中 紀夫エネルギー文明史―その3三大エネルギー革命と自然環境の変(cid:12728)(cid:12755)貌(cid:12732)(cid:12676) 筆者は2002年に「エネルギー環境史」(ERC出版)を著わし、人類誕生から現代に至るエネルギーと文明のかかわりについてまとめました。原書は3分冊からなる大部なものですので、前号までの「概要」、「エネルギーを巡る文明の興亡」に続き、今号から2つに分けて「エネルギーと環境のかかわり」について素描してみます。(cid:12684)(cid:12731)(cid:12676)擲(cid:12710)代の人類でなく次代の子孫たちですから、自然環境の損傷はヒトという種の変貌と衰退を意味します。植生がもつ遺伝子の目的は子孫の繁栄にありますが、ヒトが目先の快楽追及によって自然環境を破壊してしまう行為は、数百万年前に組み込まれた自然の摂理の遺伝子の目的に反し、人体に本源的に埋め込まれた生物の行動規範を喪失することになり、生物の存在意義を放することを意味しています。 筆者は、このようなヒトとしての変質は旧来の自然人から現代以降の人工人への変貌と捉えているのですが、2つのタイプの人類の子育て方法はそれぞれ違いますから、次代の地球人は必然的に変性しつつあると位置付けています。が出ています。 追い詰められて興した230年前の2次エネルギー革命(蒸気と石炭エネルギー)、その延長線上で興した120年前の3次エネルギー革命(電気と石油、次いでガスと原子力)を経て、ヒトの行為は環境に累積され、地球の自然遺産は傷つき変調を起こし、子孫が未来永劫に存続できる環境が残せるのか、いま危 今号ではエネルギーと環境のかかわりについて素描しますが、その際忘れてならないことは、地球上の生物と植物を支える自然環境はほんのわずかな力と時間で破壊されるのに対して、いったん破壊され傷ついた環境の修復には数百年から千年単位の時間を要することです。生育環境が変貌して被害を蒙るのは現惧(cid:12687)(cid:12684)はじめに 生物の一種として300万年前に誕生したヒトは、他の生き物と同じ太陽の恵みを受けて、樹林に住み、葉木や生物を食べ、池や川の水でのどを潤し、樹木で衣服をつくり、自身を生かし、子孫を増やしました。しかし、もろもろの活動を始めた人類はすぐに周囲の自然環境に影響を及ぼし、自然体で火を発見してからというもの、その環境破壊の規模は飛躍的に大きくなりました。火もなく原始的な生活第1部 1次エネルギー革命と自然環境の変化 第1部では、1次エネルギー革命によって自然環境はどのような変貌を見せたのかを素描します。第1章 環境破壊は火の利用から 地上に登場して以来の人類は、食物を食べて人体にATP(アデノシン三リン酸)エネルギーを貯え、このエネルギーを脳や神経や筋肉に伝えながら、人力エネルギーの消費活動を営々と続けてきました。この行為は、生物が35億年前に地球上に登場して以来の生きものとして共通のエネルギー消費活動で、筋肉を動かすATPエネルギーは動物が共通に持っているエネルギーです。 人間が自然界の生態系に組み込まれている限り、そのエネルギー源は他の生き物の植物や動物を食べることで確保され、他の動物もまた人間を含む肉体を食べ、たとえば人間が死んで解体された後の様々な分子類を土や水や大気からも吸収しながら、自らのエネル83石油・天然ガスレビュー石油天然ガスレビュー.indb 832004/09/17 23:27:37AnalysisAysisnalyAnalysisAAysAnAAAnananalysisnalysisalysisysisnalyAnalysisAAysAnana nalysisAnalysis薪の浪費を招いた焼き煉瓦 日本の後氷期の縄文時代(約1万年前から紀元前2300年頃)の貝塚の跡には、消(燃えきらないうちにいったん消した薪をまた燃やすと火つきがよく、一種の木炭として利用)があり、薪炭エネルギーの使い方も工夫されました。単純に焼くだけでなく、蒸したり煮たり、魚や獣の薫製も登場したようです。縄文時代の土器は粘土をこねて日陰で乾燥させ、野焼きしたようです。野焼きとは、地面の上か少し掘った穴のなかに乾燥した土器を置き、この上に薪や枯れ草を積みあげて火をつけ、炭火や熱のこもった灰で土器を完ss全に覆って半日以上焼き、その後、一iissyyll昼夜ほど放置して取り出すものです。aanAこの時の燃焼温度は350度(セ氏。以下同じ)で、仕上がった器は脆くて水漏れしたようです。 その後、鉄・銅・石器が併用される弥生時代(紀元前300年?紀元後300年頃)になると、粘土を800?1000度で焼いて土器にしたようで、日本でも高温が必要になって森林からの木材の必要量は増え、伐採規模も大きくなってきました。AAn炭(cid:12698)(cid:12688)(cid:12695)(cid:12734)(cid:12684)(cid:12738)(cid:12749)(cid:12735)アナリシス(今のバグダッド南方)では、一カ所に定着して村落や街をつくり、火で焼いた土器をつくり、織物をした人々の文化が遺跡になって残っています。当時の主なエネルギー源は小枝や枝草でしたから、樹林からできる木炭を燃やして焼きあがる煉は、手間のかかるきわめて貴重なものでした。瓦(cid:12683)(cid:12748)(cid:12755)森火事で知った鉄の溶解石油・天然ガスレビュー84(cid:12755)(cid:12741)(cid:12676)(cid:12672)(cid:12726)(cid:12719)(cid:12686)(cid:12705)(cid:12743)(cid:12676)獣(cid:12696)片(cid:12728)虫が住んで鳥が飛べる環境があれば、残った樹木からは新芽が出て森林は再生します。ヒトが快楽の追求を抑えて伐採を控えめにでき、再生を待つ心の余裕を持って、伝来の直感と知識があれば、森林はよみがえるのです。 か弱い人類が生存するための3条件、①食料、②休む場所、③体温を保つ植物や毛皮などの衣類、これらは動物に与えられた天の恵みでした。しかし、火のエネルギーはこの3条件を超える人類だけが手にした新手段で、これによってヒトだけが別の道具を作り出し、同時に破壊もできる強力なパワーになったのです。 日本では、1万5000年前の関東・立川ローム層の遺跡の中に、石器や剥に混じって火で焼かれて赤く焦げた痕跡のある拳が発見されています。この焼け石は、魚肉や鳥の肉、木の実、芋などを焼いたり焙ったりする道具で、既に火を使って調理をした痕跡と推測されます。 人類は、7000年前には農耕を始め、家畜の飼育を覚え、積極的に自然界のものを利用し始め、村落や漁村に定住し、農耕、牧畜、漁労を営みました。の自然石の塊大(cid:12704)(cid:12681)(cid:12703)(cid:12734)(cid:12746)(cid:12691)(cid:12726)(cid:12695)(cid:12674)ジャルモの村落跡(cid:12674)(cid:12748)(cid:12684)(cid:12681)(cid:12734)(cid:12713)青(cid:12699)イラクの先人の火の使い方 6000年前のイラク・ジャルモ遺跡(バグダッド北部のチグリス河の東方)には農耕を営んだ村落共同体の跡が発見されており、粘土製の竃の他に天然アスファルト(石油の成分のうちガソリン分が蒸発した後に残った瀝質の一種の炭化水素)を温めて固定したと思われる木製の斧も見つかっています。 紀元前1800年頃のメソポタミア文明の中心地、バビロンの都・バビロニア(cid:12680)(cid:12718)ギーとして取り込んで繁栄してきました。植物と動物そしてヒトは、地球上の生態系の食物連鎖に組み込まれて35億年の間、周辺の自然環境を受け身の姿勢で享受して生活してきましたから、自然環境を破壊してしまうことはなかったのでした。火を崇拝する人々(cid:12713)(cid:12676)火の発見で自然破壊が始まった 50万年前に北京原人たちは1次エネルギー革命になる火を手にし、発火法を知って洞窟の住処を出た頃から、周囲にある樹木を切って燃やしたため、まず森という自然環境がヒトから影響を受けることになりました。 そしてネアンデルタール人が現れ、5万年前のウルム氷期頃にはクロマニヨン人、周口店上洞人などホモサピエンス(新人類、脳の容積は1500ccと現代人並み)が火を使って寒さをしのぎましたから、いっそう木材が必要になりました。その後の旧石器時代・後期と推測されるスペインのアルタミラ洞には動物の着色絵画の芸術が残されており、原生森という豊かな自然環境の恵みを受けながら、他の動植物と共生していました。 氷河期が終わった1万年前に現代まで続く後氷期になって、新石器時代に入って、人類は部落を作って森への依存度を高め、薪エネルギーの需要が増えてきました。この新石器時代から森の伐採が目立つようになり、自然環境を侵食する時代に入ったといえます。 ここで留意したいことは、火を発見するきっかけとなった山火事による森林の焼失です。山火事が起こって樹木が一端は失われても、雨が降り、昆窟(cid:12686)炭(cid:12703)(cid:12697)(cid:12735)(cid:12681)(cid:12695)(cid:12755)(cid:12755)(cid:12708)石油天然ガスレビュー.indb 842004/09/17 23:27:37^水はもう起こらないだろうと考えてこの地に住もう、とするところで物語は終わっています。この物語の冒頭では「帰り着いた城壁が焼き煉瓦でないことを確かめよ」という意味が記されており、もう一度ウルクの居城に戻ったのかも知れませんが、数年前に中東湾岸のバーレーンで一族の別の遺跡を見たため、このように解釈したものです。 5000年前の人類最古の叙事詩の冒頭と末尾に、「森林乱伐を招く焼き煉瓦の城壁に住みたくない」ことを重ねて怖(cid:12725)(cid:12674)(cid:12684)(cid:12743)(cid:12676)(cid:12743)(cid:12686)(cid:12699)(cid:12674)饒(cid:12696)石(cid:12699)玉(cid:12685)し、森の乱いてしまい、王一族は青め、人々はフンババを畏伐はしなかったのです。 しかし、ギルガメシュ王の恐怖統治によって、美しい女神イシュタルまでも靡(サファイア)と黄金で飾られた馬車に乗り、真(銅と亜鉛を混ぜた合金で加工しやすく侵食されにくい)もどきの笛を奏で、杉の香りのする宮殿に住み、山野の貢ぎ物を並べ、豊な瀝青(アスファルト)で明かりと暖をとって、栄華を極める日々を過ごしました。 しかし、その栄もつかの間、森林耀(cid:12744)鍮(cid:12705)(cid:12714)(cid:12723)(cid:12695)(cid:12755)(cid:12731)(cid:12676)(cid:12678)(cid:12674)(cid:12741)(cid:12676)(cid:12676)日干しの煉瓦造りをする奴隷(cid:12719)(cid:12747)を生きた先記述していることが重要です。遥かなが、後代の子孫に向けて、自然環境保全の重要性を訴えた知恵と警のメッセージであることを忘れることはできません。世(cid:12699)古(cid:12674)達(cid:12704)(cid:12699)(cid:12755)(cid:12688)(cid:12674)(cid:12715)(cid:12695)(cid:12678)(cid:12708)(cid:12674)(cid:12755)(cid:12740)(cid:12697)(cid:12698)(cid:12672)(cid:12683)金(cid:12684)反省なく繰り返された森林乱伐 ギルガメシュ王の時代から、樹木の燃焼エネルギーで銅と錫を加熱して混ぜて、青銅という合金を作り出す冶術が登場し、青銅器時代に入りました。冶金術が開発されて鉱石と森林エネルギーが結びついてからは、石を金属に変える冶金工は神秘的な術者として崇められる時代になり、冶金用の金属を溶かすエネルギーは森林からの薪や木炭でしたから、森林伐採はいっそう加速されたのです。 こうしてギルガメシュ王より後の時代の人々は、もっと大掛かりに精錬用の薪炭エネルギーを必要としたため、森林は再び乱伐され、減少し始めまし(cid:12717)(cid:12676)(cid:12703)(cid:12719)(cid:12691)舟(cid:12726)を過大に伐採したツケはすぐに回ってきました。チグリス河とユーフラティス河上流の森林が消失したため、荒廃した土地に降った雨が土に浸み込まず地表を流れ、山を削って濁流となって下流へ流れ込んだのでしょう。ギルガメシュ王が統治する下流域のメソポタミア地方は、降雨のたびに大洪水に見舞われました。 こうした環境の激変に耐え切れなくなったギルガメシュ一族は方を作って、つかの間だったメソポタミアの泡の栄華の巷を後に、水上を逃げまし沫(cid:12681)(cid:12703)た。 筆者は、大河を下ってメソポタミヤ南方から今のクウェート辺りの中東湾岸の港に出て、さらに南方のアラビア湾南部の東海岸の地に漂着したと推測します。たどり着いた一族は、この新しいウルク城の壁が、森林を消失させる原因となった火焼き煉瓦で作られていないことを確認し、森林伐採による第2章 森林枯渇と古代文明の衰亡(cid:12743)(cid:12676)(cid:12731)(cid:12676)穣(cid:12696) 森林破壊が文明そのものを衰亡させた事例としては、ギルガメシュ王時代のシュメール文明、エジプト、インダス、ギリシャの諸文明、中国の殷王朝、マヤ文明、エチオピアの栄華、イースター島文明などで伝えられています。 火のエネルギーの元は森林からの薪、乾燥したワラなど植物の残り物や家畜糞などでしたが、乾燥した畜糞は農地に還元した他にエネルギーとしても再利用できるエコロジカルなエネルギーでした。火の利用が広がるにつれ徒歩で採集できる森林は貴重なエネルギー源でしたが、人口が適度に保たれている限り、薪の元の森林が不足することはなく、無尽蔵と思える豊なエネルギーでした。(cid:12725)(cid:12755)(cid:12693)(cid:12712)ギルガメシュ王の森林乱伐の因果応報 しかし、紀元前3000年頃のシュメール時代の二つの大河に挟まれたメソポタミア地方では、既に森林の過剰伐採が起こりました。 最古の文学作品の一つとされる『ギルガメシュ叙事詩』(矢島文夫訳、ちくま学芸文庫)は、脱落があって推測しなければならない個所が多いのですが、エネルギー研究者からみますと、森林伐採で引き起こされる自然環境破壊の愚かさを諭した史上初の優れたエコロジー物語といえます。 この叙事詩に登場するギルガメシュ王は、青銅の武器を手中に収めて権勢をひろげるため、おののく家臣エンキドウを強制して森の保護神フンババを殺害させてまで、杉の森を伐採し続けました。斧、剣、刀などの武器を青銅で作るために薪炭エネルギーが必要だったのです。森の神フンババの口は火のエネルギーに変わりますが、その悲鳴は洪水になり、口から出るため息は後代の人々の死と衰亡をもたらすた(cid:12680)(cid:12718)AnalysisAAysAnananalysisAnalysisnAAnalyAAnaallyyssiissysis(cid:12676)貌(cid:12732)(cid:12728)(cid:12755)三大エネルギー革命と自然環境の変エネルギー文明史―その385石油・天然ガスレビュー石油天然ガスレビュー.indb 852004/09/17 23:27:37Aナリシス(cid:12676)ysisAnalyAnalysisAAysAnana nalysisAnalysisAAnssiissyyllaanAドルメンなど巨石を移動させる運搬具として丸太が、焼き畑農業には樹木が必要になったため、森林は乱伐の様相を呈して荒廃する地域も出てきたようです。 紀元前2000年頃にミノア文明が登場したギリシャ・クレタ島は、ナラ、カシ、マツなどの鬱とした森に覆われていましたが、交易用の舟の材料、日用品の土器、貴重品の青銅器をつくるための薪炭エネルギーとして、森は次々に切り払われました。この結果、土壌の劣化が起こって穀物の生産力が低下し、飢餓が生じて食人まで起こって、500年ほどでミノア文明は荒廃し滅亡したとされています。 紀元前1000年頃には鉄を溶かす炉に木材エネルギーを使い始めたため、森林の伐採はいっそう加速されました。フォーブスは『技術と文明』のなかで、「プラトンも記している地中海地域に起こった激しい禿げ山化の原因は、造船、乾燥丘陵地帯での山羊の放牧などとならんで、何よりも木炭の需要であった」と記しています。 こうしてギリシャでは紀元前650年頃から、イタリアやシシリーでは紀元前300年頃から、いずれも急速な森林伐採で荒地が目立つようになったようです。現代のギリシャは低木と荒地の目立つ土地になっていますが、14世紀のイギリス詩人チョーサーは『カンタベリー物語』のなかで、ギリシャ時代の火葬に使われた木材は、「樫、もみ、、かしわ、ポプラ、柳、かば、白、と、プラタナス、とねりこ、黄、赤蒼(cid:12701)楡(cid:12715)楊(cid:12690)楊(cid:12740)楊(cid:12718)(cid:12676)(cid:12707)(cid:12719)(cid:12691)(cid:12719)(cid:12755)(cid:12748)(cid:12719)(cid:12714)(cid:12685)(cid:12684)(cid:12708)鉱石から金属を抽出する作業石油・天然ガスレビュー86その原因の一つは森林の枯渇とされています。巨大寺院や宮殿の壁や柱にはたくさんの煉瓦が使われ、これを焼き固めるために大量の薪が消費されたためです。このため森林が減少し、土壌が裸地になって食料が減り、軍隊も弱体化し、外敵の侵入に対する抵抗力が落ちたためとされます。 紀元前1800年頃に衰亡したインダス文明の中心都市のひとつモヘンジョ・ダロの要や城壁の煉瓦は、森林の薪による火のエネルギーで焼き固めました。自然災害である河川の洪水とも重なって、モヘンジョ・ダロの街は洪水の度に城壁を作り直し、その焼き煉瓦を作るため森林を乱伐したため洪水が繰り返され、そして森林を枯渇させ消失させるという悪循環だったようです。塞(cid:12693)(cid:12744)(cid:12676)(cid:12674)モヘンジョ・ダロの遺跡ギリシャ森林の衰退 紀元前3000年頃のヨーロッパ西北部には、ナラ、ニレ、ブナ、シナノキなどの温帯落葉樹林があり、中西部の95%は森林に覆われていました。この頃から平原と森林の境に集まってくる人々の数が増えて、森の開墾が必要になってきました。 ヨーロッパ大陸では既に紀元前2500年頃に銅の精練を始め、紀元前2000年頃には青銅を造りましたから、薪による火のエネルギーを増やしていたことになります。この頃から、元々、樹木の少なかった地中海沿岸では、た。 紀元前2000年頃には小アジアのヒッタイト王国でも鉄器を造るようになり、人々の肥大する欲望を反映して、森林エネルギーの伐採はいっそう拡大しました。ナイル川のパピルスをとるエジプト人エジプト文明も火のエネルギーを多用 紀元前27世紀から約500年間続いたエジプトの古王国時代はピラミッド遺産の建造で知られていますが、この頃のエネルギーの主力は人力で、煮炊きや照明用のエネルギーといえば乾燥させた家畜糞、穀物の藁、薪や木炭で、森林木材はとくに貴重で高価でした。 木炭はエジプト樫と呼ばれるアカシアからつくられ、新王国時代(紀元前16世紀頃から約500年間)には、木炭を粉末にしてタドンのように固めて、鉄の溶解や鍛にも使ったようです。これよりもエネルギー発熱量が高かったのは、ナイル河の岸辺に生えるサリ草かパピルス草の根をコークス化した燃料で、冶金用にしたようです。 使うエネルギー量がいっそう大きくなってきたため、エジプト文明でも周辺の森林を伐採する量は増えて、森林枯渇は拡大していったものと推測されます。造(cid:12702)柳(cid:12740)(cid:12751)(cid:12745)(cid:12681)(cid:12695)(cid:12703)(cid:12755)(cid:12714)(cid:12685)(cid:12676)インダス文明は焼き煉瓦で衰亡 紀元前2300年頃に登場したインダス文明は豊かな森に包まれ、目立った権力者も出なかったことで有名ですが、それでも約500年で消えたようです。石油天然ガスレビュー.indb 862004/09/17 23:27:38cid:12736)(cid:12684)(cid:12703)(cid:12755)辜(cid:12691)溺(cid:12711)すのです。 過去の史実から断絶して生きる人々の中に、たとえ歴史を学ぶリーダーが現れて「苦い薬を飲む覚悟で自然環境を保全しよう」と人々に勧めても、当代の人々には反省する実感はわかず、教訓も実行されません。権勢を広げようとする為政者と甘い蜜に耽したがる人々はもたれあって手を結びやすく、その後に起こる深刻な影響には眼を塞ぎ、ギルガメシュ王の心は蔓延し、現世の快楽に耽溺しがちです。 苦い薬を飲まないツケは後世の無の子孫に送られ、未来の子孫たちは原因不明の悪しき環境の振る舞いが先代のツケの所産物とは理解できないまま、わが身に降りかかる不条理な世の運命を嘆くことになるのでしょう。(cid:12725)(cid:12693)生態系の食物連鎖(cid:12676)貌(cid:12732)(cid:12728)(cid:12755)三大エネルギー革命と自然環境の変エネルギー文明史―その3古代遺跡城砦の周辺の荒地第3章 中世ヨーロッパの森林破壊 共和制ローマ時代末期に『ガリア戦記』を書いたユリウス・カエサルは、ヨーロッパ南部の豊かな森林に行く手をはばまれ、ガリア(フランス南部からドイツやベルギー)地方の侵略に手こずったと記されています。この頃(紀元前150年?500年頃)の地中海近くの森林は、道路、戦略拠点、農地、舟、燃料エネルギーのために次々に切り払87石油・天然ガスレビュー石油天然ガスレビュー.indb 872004/09/17 23:27:38伐されると、樹木を伝わって地下に吸収される雨水がなくなり、土壌は水分を失って地上からの蒸発は減り、雲ができず雨が減り降らなくなって、土地が荒廃して生態系が壊れ、気候まで乾燥化しました。河川の流れも変化し、低湿地帯ではマラリア蚊などし始め、フクロウなどの伝染病が蔓が森を追われ、鼠類が繁殖してペスト菌を繁殖させる引き金になったとされます。街路の環境も無機質化して変貌し、繁栄した文明も自然の摂理から逸脱し、因果応報の理によって衰亡したのです。延(cid:12678)(cid:12691)(cid:12712)(cid:12751)(cid:12746)(cid:12717)(cid:12698)(cid:12735)(cid:12734)(cid:12755)(cid:12755) 5000年も昔に残されたギルガメシュ王の物語は、どうして後代に生かされなかったのでしょうか。 人は100年足らずの寿命でこの世から次々に消えてゆきますから、先達が残した史実が後代の子孫にリアルな警告としてしっかりと途絶えることなく伝わってゆかなければ、子孫たちは目先の生活に追われますから、森林を含む環境の保全という即効性のない、時間のかかる対策を講じる余裕は生まれず、先達が犯した誤りに気がつかずに繰り返(cid:12740)(cid:12734)ち、しなのき、月桂樹、かえで、さんざし、ぶな、はしばみ、いちい、みずき」だったとして、ギリシャには豊かな樹林があったと記し、森林伐採で「永いあいだ安楽に住んでいた森の住居から追い出されて、森の精、半人半羊の山、樹の精といったような神々が、どんなにあちこちと逃げまわったか、小鳥も獣も、森が伐採されると、どんなにかこわがって、逃げ出したことか。輝く太陽を見たこともない地面が、ぎらぎらと陽光をうけて、どんなに茫然としていたことか」と書いています。神(cid:12683)(cid:12735)環境破壊の教訓が生かされない理由 食べて走ってさまざまな相手と格闘するにせよ、ヒトが行動するときは必ず土地や樹木など植物や生物を含む自然環境に何らかの損傷を与えました。とりわけヒトが火を使って他の動物と異なる道を歩むようになってすぐ、生態系を維持してきた身近な樹木や森林はマイナスの影響を受け始めたのです。 森林を伐採して身の回り品や舟や住居を作る場合は、作られたものは何カ月や何年も使うことができ、当分の間、伐採する必要はありません。家畜の放牧場や農業用地として開墾するときも大きな森林面積を一挙に減らしはしますが、人口が増えない限り新たに森林を伐採する必要はありません。 しかし、調理や夜の明かりや冬の寒さのために木を燃やすと途端に灰になるため、毎日、必要に見合う伐採を続けざるを得ません。薪炭エネルギーとして使われるようになってからの森林枯渇は、格段に早くなりました。そして火のエネルギーを供給する森林が乱AnalysisAAysAnananalysisAnalysisnAAAAnaallyyssiissnalyysisAナリシスysis総動員で森を開拓する村人 12?13世紀のイギリスでは開墾が拡大し、建築材としての使用や製鉄用のエネルギー需要が増えたため森林不足になって、1230年頃からはノルウェーやスウェーデンからの輸入木材に頼りました。AnalyAnalysisAAysAnana nalysisAnalysisAAnssiissyyllaanA15?18世紀は欧州の森林危機 大航海時代に入った頃の15世紀の海運国ベネチアでは、樹林を伐採し過ぎて船の木材が入手できず、アドリア海に面した対岸の植民地から調達し、一方ライバルのジェノバ国も船用のナラ材の値段が11倍に跳ね上がったとされます。イタリア半島北部では樹木を光熱用のエネルギー源として使うことを規制し、さながら「エネルギー危機」の様相を呈しました。 16世紀に海外の植民地進出を行なったポルトガルやスペインでも、大海軍国家を支える肝心の船舶用チーク材が不足し、1588年にはスペインの無敵艦隊「アルマダ」がイギリス海軍に破れ、黄金世紀といわれたスペインの栄光もこれを境に衰えました。 16世紀初頭のフランスの森林面積は国土の35%ありましたが、16世紀末には460カ所もの製鉄所ができたため17世紀央には25%に減少し、木材価格は継続的に上昇しました。17世紀央以降はルイ14世の勅令で森林の伐採制限をしましたが、冶金需要が増えたために制限されなかったピレネー山脈やアルプス地方で、針葉樹(とくにモミ)が乱伐されました。フランス革命の起(cid:12674)(cid:12744)(cid:12676)精(cid:12699)減少テンポを速めました。 そして松や樹脂の製造、建物や橋の建設、河川を移動するための筏や舟の材料の他に鉄器やガラスの製造、共同浴場の湯をわかすエネルギーとして、材木はさらに大量に必要になってきたのです。 火の必要度が増すにつれ、人々のロマンと叙情の世界もみすぼらしくなり、多くの精霊が住むとされたメルヘンの森も小さく貧弱になりました。森の神、森の小人、森の仙女、森の妖などのメルヘン童話の住人たちも、人間の肥大する欲望を前にして急速に姿を消してゆくことになりました。人々は万物の霊長になる手だてとして火を得る一方で、はからずも情緒を減らして無味乾燥への道筋にも踏み込んだのでした。脂(cid:12740)(cid:12674)(cid:12681)(cid:12704)(cid:12734)(cid:12708)(cid:12715)(cid:12703)(cid:12674)われました。 イタリア南部のパイストウム港は上流の森林破壊で土壌が侵食され、土砂が河川に流れこんで河口に運ばれて堆し、港は徐々に埋まって港街は衰退積(cid:12699)(cid:12684)したとされます。 火と森を追い求めて人々はメソポタミアからエジプトに入り、次いでギリシャ、ローマを経てドイツ、フランスさらにはベルギーに至るヨーロッパ大陸の落葉樹の楢を含む深く豊かな原生林に入っていきました。(cid:12714)(cid:12745)木材を燃やす生活深刻だったイギリスの森林枯渇 イギリスの森林枯渇の兆しは既に11世紀に現れていましたが、この原因は牧羊が発達して森林の下草が羊に食べられて樹木が衰え、疎林になって草原化したためです。イギリスは落葉樹林帯でしたが、夏でも涼しく樹木の成長は抑えられ、周辺を海に囲まれた海洋性気候のため年中湿潤で、低い湿地では沼が多く、岩石性の山地のため、土の部分が少なくて、森林は発達しなかったのです。ディーン朝が始まった建国の頃の11世紀初頭から森林は少なく、国土面積の35%程度でした。ちなみに現在のイギリスの森林面積は10%で、日本はまだ66%もあります。1人当たりの森林面積は、日本は世界平均(7400ヘクタール)の4分の1(2000ヘクタール)ですが、イギリスは日本の約5分の1です。中世の森林メルヘンからのSOS ヨーロッパの中世は「大開墾時代」とも呼ばれ、貴族の監督下で森林の伐採がひろがって加速され、6世紀にガリア北部からベルギーに入ったフランス人たちは、ブラバンド地方の森林を木炭の生産拠点にしたため、800年頃には原生林が消滅したようです。今のヨーロッパの森は乱伐された後に再生された森林で、当時からの原生林はありません。 11世紀にはイギリス南東部の森林やケンブリッジ周辺の森林のほとんどが切り払われ、11世紀末のヨーロッパ西部の肥 中世後期の12?13世紀のヨーロッパでは、冶金術がさらに発達したために薪炭用の燃料として森林は大掛かりに伐採され、鉄製の斧や鎌が開発されて伐採は容易になり、森林はいっそうな森林も一掃されました。沃(cid:12744)(cid:12681)(cid:12734)(cid:12722)(cid:12686)石油天然ガスレビュー.indb 882004/09/17 23:27:39石油・天然ガスレビュー88驛Gネルギーが必要で、これには木炭が最も適していました。木炭と鉄鉱石を炉に入れて燃やすと、まず木炭が燃えて鉄鉱石に含まれる酸素を奪って炭酸ガス(CO2)になり、鉄鉱石から鉄を取り出せます。この鉄を、せきねつしているうちに何百回もたたいて鍛練すると、弾力のある高品質の鉄鋼になるのでした。熱(cid:12717)赤(cid:12699)(cid:12684)(cid:12708)(cid:12755)(cid:12748)(cid:12755)金(cid:12684)東大寺の大仏は森林3万?で建立 奈良・東大寺の大仏建立が始まった743年(天平15年)頃の日本の製鉄法は、と呼ばれるもので、大きなフイゴ(火力を強くするために空気を送る装置)で酸素の風を送って、砂鉄と炭を燃やして溶融して、鉄を作り出すものでした。本間琢也の『エネルギーをつかむ』によれば、大仏に使われた金属は銅443トン、ハンダ8トン、練390トンなど、この製造に必要とされた木炭は4630?とされますので、この木炭を作るための生木は約3万?、縦横1m、長さ5mの角材だと6000本に匹敵します。 このように、自然に依存した原始文明を大きく変貌させる火を使い出した人類は、便利さのあまり耽溺して樹林を乱伐し、森を減らし、自然生態系をす歩みを始めました。先達が生活してきた自然の森林環境を枯渇させ、既存の文明をも衰亡させることになったのです。「ギルガメシュ叙事詩」の環境保全 の訓は全く伝わらず生かされず、人類は100年足らずの命をゼロから繰り返しながら、同じ衰亡を重ねてきたのでした。鑪(cid:12703)壊(cid:12691)話(cid:12751)(cid:12686)(cid:12755)(cid:12703)(cid:12745)(cid:12751)森林エネルギーはなぜ便利だったのか 樹木は炭素と水分が結ばれた物体で、化学式では(CH2O)nで表され、CmHnで代表される化石エネルギーに比べ、水分(H2O)と酸素分(O2)が多く含まれます。このため、木を燃やすと、水や一酸化炭素(CO)や黒煙が多量に出て、屋内利用は不便でした。これに対して、化石エネルギーの石炭、石油、ガスには酸素がほとんど含まれず(一部の石炭を除き)、煙の量が少なく、水分が少なく、燃焼温度は高くなります。しかし、樹木を酸素の供給を少なくしながら150度以上の蒸し焼き状態にすると(乾という)、木質状の硬い木炭(炭)に変わります。これだと水分や酸素が除かれ、化石エネルギーに似た使いやすいエネルギーに変わります。 日本の場合、100㎏の木材を乾留すると水が蒸発して減って15㎏(体積では3分の1)程度の木炭に減量しますが、樹木に45%ほど含まれる炭素分は木炭になると90%に凝縮され、1㎏当たり発熱量は木材の4500k?が木炭は7000k?に高まります。 鉄分が混じる鉱石から鉄を取り出すには、400度以上の高温を長時間続け留(cid:12746)(cid:12681)(cid:12755)(cid:12697)(cid:12735)(cid:12741)(cid:12676)樹木は炭になると3分の1になる蒸し焼きした後、外に出されて白く見える炭89石油・天然ガスレビュー石油天然ガスレビュー.indb 892004/09/17 23:27:39 19世紀のアメリカでは、溶鉱炉1基で1年に1?3?の森林を減らしたとされます。(cid:12676)貌(cid:12732)(cid:12728)(cid:12755)三大エネルギー革命と自然環境の変エネルギー文明史―その3木を燃やす16世紀のガラス工場こった1789年の森林面積は、勅令が出た120年前よりも減少していました。 森林乱伐に対して緩和剤の役割をしたのは石炭の増産でしたが、この頃のフランスの石炭生産量は年間でまだ23万トン程度でした。 18世紀初めのロシアのカマ地方には1200カ所の製塩工場があって、海水を煮詰めるために大量の熱を必要として周辺の林は伐り尽くされ、300㎞以上離れた森で伐採しました。『地球白書(1988年版)』によると、近年のヒマラヤ、アフリカでは、煮炊き用の樹木集めは年毎に遠くなり、まきを集める婦人や子供の作業は1年に100?300日もかかるそうです。現代の地球でも森林枯渇からエネルギー不足が起こっているところがあるのです。 イギリスとスペインでは、アメリカ独立戦争(1775?1783年)やフランスのナポレオン統治(1796?1815年)の頃、戦艦用の木材不足が深刻になり、ヨーロッパ全体にも広がって建材、家具、樽、容器などの不足、馬車の部品不足、製鉄、煉瓦・タイルなどの生産用のエネルギー不足が生じました。しかし、この燃料不足の中、1805年にネルソン提督指揮下の英国艦隊は、機動的な組織戦略を駆使してナポレオン全盛期のスペイン・フランス連合艦隊をトラファルガー沖で破り、大英帝国の力を誇示しました。AnalysisAAysAnananalysisAnalysisnAAAAnaallyyssiissnalyysis(cid:12703)(cid:12747)?2部 2次エネルギー革命における自然環境の衰退アナリシス 森林エネルギー不足という苦境に追い込まれたヨーロッパの人々は、1769年に登場したワットの蒸気機関に石炭を組み合わせた新たなエネルギー装置を考案したのですが、これは火よりも自然環境への影響を広く厳しくすることになりました。第2部ではその顛を素描してみます。末(cid:12734)(cid:12710)(cid:12755)(cid:12708)め、薪炭エネルギーの必要量はさらに高まり、森林破壊も大規模になりました。政府は森林伐採を禁止したものの、見るべき成果は得られなかったのです。 初代エリザベス女王(在位1558?1603年)が即位した年、イギリス政府は切り株が1平方フィート以上のカシ、ブナ、トネリコを製鉄用燃料として伐採することを禁じました。しかし、女王の時代は恒常的に木炭価格は値上がりを続けていたようです。 エネルギー不足になった冶金製錬所は金属鉱床のある場所に留まっているわけにはゆかず、薪炭エネルギーとフイゴを作動させるための水力エネルギーを求めて、2つのエネルギーが並存する山の場所に移動しました。しかし、そこでは鉄の需要地までの輸送距離が遠くなって採算が合わず生産を落としましたから、また鉄不足になりました。 16世紀後半には様々な産業が起こって木材需要はいっそう増えて、森林の伐採はさらに進みました。とくに製塩用の薪炭が不足し、イギリスの食塩の3分の2はフランスから輸入しました。間(cid:12672)(cid:12740)(cid:12734)(cid:12674)的な鋼鉄)1トンにするにはさらに木炭約4トンが必要で、500トンのために約1?の森林を追加伐採しなければならなかったのです。 イギリスには、ロビンフッドが活躍した中央部のシャーウッドの森、南東部のウィールドの森、南西部のディーンの森、ペンニン山脈の森林渓谷などがありましたが、主として製鉄用の薪炭のために17世紀末の森林面積は国土の16%に減りました。他は耕地23%、草原31%、ヒース・沼沢・高山地帯25%、湖・川5%でした。イギリスは16世紀からエネルギー危機 ヨーロッパ大陸より森林の少なかったイギリスで他国に先駆けて製鉄業がしましたから、16世紀にはイギリス全土でエネルギー不足が起こりました。森林の不足で、庶民は燃料不足から寒さで震えあがり、製鉄、ガラス、製塩、金属、醸造業などは未開の森林を追って工場を移動させました。 とくにヘンリー8世(在位1509?1547年)の頃は、大砲などの武器製造のために、溶鉱炉のうち木炭用に作られた練を強力な熱風炉に替えたた興(cid:12691)勃(cid:12732)炉(cid:12749)鉄(cid:12710)(cid:12748)(cid:12755)(cid:12707)(cid:12676)(cid:12708)第1章 イギリス鉄鋼業の興隆と森の衰退(cid:12674) 16世紀初頭のイギリスは薪炭エネルギーに頼りながらも、鉄の生産量は年間6万トンになり、ドイツの3万トン、フランスの1万トンを引き離し、ヨーロッパ最大の製鉄国になりました。イギリス南西部のセバン川がブリストル海峡に流れこむディーンの森は、世界最大の製鉄地帯になったのです。(ピッグ・アイア 製鋼原料の銑ン=炭素が数パーセント含まれるため弾力性がなくて脆いが、高品質の鋳や製鋼の原料になる鉄)を1トン生産するには木炭が約2トン必要でした。この頃のイギリスで銑鉄6万トンを生産するには年間12万トンの木炭を作り、生木では10倍の120万トンを伐採したことになります。当時のヨーロッパの森には1ヘクタール(100m×100m=0.01?)当たり200トン分が植わっていたとすると、この原料鉄を作るだけでも毎年6000ヘクタール、約60?の森林が減っていたことになります。と呼 この銑鉄を高品質の可ばれ、銑鉄よりも炭素分が少なく弾力鉄(cid:12710)物(cid:12738)鉄(cid:12710)鍛(cid:12703)(鋼鉄(cid:12710)(cid:12719)(cid:12683)(cid:12717)(cid:12699)(cid:12755)(cid:12738)(cid:12749)(cid:12708)(cid:12755)(cid:12708)(cid:12718)(cid:12708)(cid:12681)いくすじも煙がたなびく鉄鋼工場1666年のロンドン大火石油・天然ガスレビュー90石油天然ガスレビュー.indb 902004/09/17 23:27:40AnalysisAysisnalyAnalysisAAysAnAAAnananalysisnalysisalysisR環境の損傷でした。急には元に戻せない広域的な自然生態系の環境破壊という点で、現代の化石エネルギーの大量消費によって起こっている地球温暖化問題と類似性をもつ先例といえます。しかし、まだ国境を跨ぐほどの大きな傷や異常気象を産むものではありませんでした。(cid:12734)(cid:12703)日本の薪炭エネルギー事情 ヨーロッパで森林危機が起こっていた17世紀末の日本は、5代将軍・綱吉の元禄時代で、庶民のきめこまかな文化が花開いていました。西鶴の『日本永代蔵』の出版、いわゆる副将軍・徳川光の隠居、別子銅山の開業、松尾芭蕉の死、6万戸焼失の江戸の大火、赤穂浪士の討ち入りなどが起こった頃です。江戸の人口は、町人35万人を含めて約100万人とされ、当時のロンドンは70万人、パリが50万人とされましたから、江戸の過密さはすでに国際的にも高い水準でした。人々は現在の千代田区と中央区辺りに密集し、渋谷や新宿は郊外で途端にのどかな農村風景になっていたようです。 江戸幕府は、それ以前に森林が減り続けたことへの反省から、木炭用の森林は伐採後30年間は手つかずにするお触れを出して、再生林として保護したようです。圀(cid:12686)(cid:12735)(cid:12708)(cid:12715)江戸の商店街休業し、その後も燃料不足で結局250日しか生産できなかったそうです。他の溶鉱炉でも2?3年に1度は操業時間を短縮しました。 17世紀後半から18世紀初までのイギリス製鉄業は、依然として薪炭の供給地を求めて森林を移動しました。他方、軍艦を確保したいイギリス海軍は国家資金を投入して植林計画を始めましたが、実って効果が出るまでには100年以上もかかりました。この間、200年余りも恒常的な森林不足が起こり、ひいては慢性的なエネルギー危機に直面していたのです。木材価格上昇でも森林危機は実感されず フランスでは、大革命が起こった1789年頃も森林破壊は続きましたが、ほとんどの人は森林エネルギー危機には眼を向けず、貴族たちは生産や勤労を軽し、風雅を美徳とする生活を続けていました。当時のフランス国民の9割は農民で、イギリスと違って産業はほとんどなく、パリのような都市で高いエネルギー代を支払わされた市民と郊外の農民の間には交流は有り得ませんでした。使っていたエネルギーは水車や風車、人力や畜力のエネルギーの他、減ってきたとはいえ森林からの薪炭エネルギーでした。 こうして16世紀から始まったイギリスの森林枯渇というエネルギー危機は、ヨーロッパ大陸にひろがり、19世紀後半にはアメリカにも波及し、多くの民衆はエネルギーに恵まれず、寒く貧しい冬の生活を強いられました。200年前に先進国で起こった森林破壊という自蔑(cid:12729)(cid:12688)(cid:12674)(cid:12708)(cid:12691)(cid:12676)(cid:12686)木(cid:12732)17世紀以降も慢性的な森林エネルギー不足 イギリスのニュー・フォレスト王室林の5メートル以上の高は1608年には12万4000本ありましたが、100年後の1707年には1万2000本へ、わずか10分の1に衰退しました。木炭価格は1630年までの70年間に65%値上がりし、1670年までの40年間はさらに150%も上昇したとされます。のんびりした時が流れていた当時の暮らしとはいえ、製鉄生産量が増えるにつれ、この110年間をとっても木材価格は4倍余りも値上がりしたのです。 17世紀も森林枯渇に直面したイギリスは、スウェーデン、ロシア、デンマークから木材輸入を増やし、植民地になったアメリカからも輸入を始め、これらの国の積出港周辺の森林は伐りつくされたようです。 1666年のロンドンの大火では全市の建造物が焼失しましたが、復興用の木材はノルウェー材でした。ほとんどのイギリス人は「木材はスウェーデンなど北欧や海外からたやすく輸入される」と思っていたようです。反面、それまで豊かな森のあったスウェーデンも輸出木材や自国の冶金用の木炭需要が増えたため、1700年代に入ると農民に木炭の供出を義務づけた他、製鉄所には木炭用の森林を細かく割り当てました。 1717年にウェールズで新設されたある溶鉱炉は木炭が入手できずに4年もAnalysisAAysAnananalysisAnalysisnAAAAnaallyyssiissnalyysis17世紀のパリ91石油・天然ガスレビュー(cid:12676)貌(cid:12732)(cid:12728)(cid:12755)三大エネルギー革命と自然環境の変エネルギー文明史―その3石油天然ガスレビュー.indb 912004/09/17 23:27:40AナリシスssiissyyllaanAAysisnalyAnalysisAAysAnana nalysisAnalysisAAn機械の固まりの鉄道への不安高まる スチブンソンが蒸気機関車を改良していた1813年から1829年の16年間は、人々からは新文明の輸送機器に対してさまざまな反対運動が巻き起こりました。 フォーブスは『技術の歴史』で「王立学会の委員会は、列車の速度が時速48㎞を超えると、車室に空気が入らなくて乗客を窒息させるだろうという結論を出し、また別の委員会は、鉄道沿線の牛がほえたてる怪物に恐れて乳の出が少なくなるだろう、といった状態であった」と記しています。 またリリーは『人類と機械の歴史』のなかで「この鉄道が開通すれば、牛が汽車に驚いて乳を出さなくなる、汽車の煙突から出る煙で小鳥が死ぬ、火の粉で家が火事になる」、また「汽蒸気のかま)が爆発して乗客の生命が脅かされる危険が高い」という環境への被害を主張する反対運動が巻き起こったことを伝えています。 こうした反対の動きは、環境悪化の他に、領地を侵されることに反発する地主、鉄道の敷設によって土地の値段が下がることを危惧した地主、運河から通行料をとって運河で生計を立てていた関係者、有料道路の関係者、乗り合い馬車の利権者たちなどが煽ったものでした。新聞やパンフレットを使って周辺の住民に宣伝したほか、武装して敷設予定地の測量人を襲撃したりもしたようです。(cid:12755)(缶(cid:12681)(cid:12672)(cid:12680)(cid:12684)鉄道推進側の普及の努力 当初の鉄道反対運動は、未経験の巨大技術がもたらす様々な自然環境の損壊から生じる本能的な不安感だったのです。新しい巨大技術に対して抱く人々の恐怖は、240万年にわたって遺伝子の中に組み込まれている防御本能と育んできた自然環境の喪失不安から発していますから、これを上回るメリットがない限り短時日では容易に消石油・天然ガスレビュー92並みを想像させるもので、豊かに暖を取って明るい夜を過ごすにはエネルギーはあまりにも高価な貴重品で、これを手にできない庶民にとって冬の寒さは、食べることを控えるほどの身にみる厳しい暮らしでした。しかも石による大気汚染が相当に悪化しとしてきます。炭煤つつあった様子が彷沁(cid:12695)彿(cid:12725)煙(cid:12678)(cid:12720)(cid:12674)(cid:12731)(cid:12676)(cid:12755)(cid:12708)蒸気自動車から出た19世紀の黒煙 こうした頃、1829年にイギリスのガーニーは、馬車の車体に似た後部にボイラーを置く総勢20人を乗せた蒸気自動車をつくり、ロンドン?バース間150㎞を、郵便馬車の最高時速の16㎞を3㎞上回ることに成功しました。 当時の蒸気自動車は巨体で、蒸気ポンプからは大きな音が響いて、煙突からはもうもうと黒煙が吐き出されましたから、出くわした馬は驚いて暴れ回ったそうです。馬をステイタス・シンボルにしていた貴族や地主たちは蒸気自動車の環境汚染を挙げて猛反対し、ランカシャーの有料道路を所有する地主は5シリングの馬車料金に対して蒸気自動車には2ポンド8シリングと12倍も高額な通行料を課して、進出を阻止しようとしました。 1896年になってようやくこれらの差別する法律は改正され、蒸気自動車には先導人が不要になり、最高時速も19㎞へと上がりました。 自動車として出だしの不利な状況を回復するには、石油エンジンの登場を待つしかなかったのです。さりとて蒸気機関による鉄道列車も、後述するような環境の悪化をついた反対が起こり、こちらも順調に発展したわけではありませんでした。(cid:12674)(cid:12718)物(cid:12738)2次エネルギー革命時のパリの庶民生活 1860年頃のパリに住む庶民と街並みについて、自然主義作家エミール・ゾラは『居酒屋』で次のように記しています。「暖炉は日に15スー(筆者注:0.75フラン)も石炭をくったので、夫婦はそれを塞いだ。そして、大理石の板のうえにおかれた小さな鋳ストーヴが、寒さの厳しいあいだ7スー(同0.35フラン)でみんなを暖めてくれた。あちこちの屋根のうえの細い煙突は蒸気を猛烈に噴きだしていた。・・・一陣の風が煙突の煤を吹きおろし、道路にいやなにおいをみなぎらした。彼女は息がつまり、目を閉じた。・・・蒸気発動機は片隅の煉瓦の小さな壁の向こうにかくれていた。・・・石炭で真っ黒な道路や屋根のうえの蒸気の羽飾りは、緑の大きな茂みのなかに消えている郊外の森の苔と同じように彼女を楽しませた。・・・そこでは消してはいけないろうそくが赤く悲しげに、燈の燃えさしで大きくなった炎をあげて燃えていた。明け方、炉の強い温もりにもかかわらず、女たちはえた。・・・炉の周囲にかがみこんで、をとることを選んものを食べるより暖だ。・・・ガス燈は消えかかった松のように、蒼ら出てきた」というのです。 秋から冬の平均的なヨーロッパの街い雪のとばりのなかかむした小明(cid:12734)白(cid:12696)路(cid:12696)心(cid:12695)(cid:12697)(cid:12697)(cid:12747)震(cid:12725)(cid:12691)(cid:12688)(cid:12712)(cid:12676)(cid:12755)(cid:12703)(cid:12674)(cid:12708)(cid:12691)(cid:12676)(cid:12704)(cid:12755)(cid:12672)(cid:12680)第2章 新エネルギーの蒸気機関の登場石炭の排煙の中でも洗濯物を干した石油天然ガスレビュー.indb 922004/09/17 23:27:41872年(明治5年)に新橋・横浜間に蒸気鉄道が開通し、1880年代には鉄道は敷設拡大期に入り、さながら鉄道ブームになりました。1905年にはヨーロッパとアジアを結ぶシベリア鉄道が開通しました。 その後の60年間は蒸気鉄道が陸上交通の主役になり、蒸気機関車という「鉄の馬」は、馬力の限界を超える高速性を実現し、同時に馬の食料不足も解決するという2つの利点(goods)と、吐き出す黒煙、亜硫酸ガス、酸性雨という環境破壊、巨大な列車の安全運転への危惧という2つの欠点(bads)をもって登場しました。当時のgoodsは、先送りされたbadsよりも高い評価を受け、世界に普及していったのです。 このような蒸気と石炭へのエネルギー転換が起こった18世紀後半から19世紀前半は、人類のエネルギー史において火の発見に次ぐ第2次のエネルギー革命になったのでした。怖感を抱くヒトは少なくなったことをみますと、ヒトの本能部分はともかくとして、大脳の柔軟な適応力は相当に向上しているようです。(cid:12676)貌(cid:12732)(cid:12728)(cid:12755)三大エネルギー革命と自然環境の変エネルギー文明史―その3日本では1872年に新橋と横浜間に蒸気鉄道が開通第3章 石炭による大気汚染公害の登場蒸気機関の大型化で石炭は増産へ 第2次エネルギー革命前の1700年頃、イギリスの石炭生産量はまだ年間300万トンで、ほとんどは住民650万人の住宅暖房用だったとされます。100年後の1800年頃になると、経済活動は持続的な成長に向かって離陸が開始され、石炭コークスが開発され蒸気機関が登場したことによって、石炭生産量は3倍強の1000万トン(世界全体の3分の2)に増えました。 1820年頃のフランスでは、製鉄用に毎年1000万?(森林面積にして約1000?、縦・横32㎞の四角形)の木材を使っていましたが、経済成長の離陸期に入った1850年頃になると鋳造用エネルギーの50%、練鉄用エネルギーの66%が石炭に代わりました。しかし、それまで金属や石を材料にしてきた建築物は、逆に余裕のできた木材に戻ってゆきました。 この頃には1基で40馬力の蒸気エネルギー機関も普及し始め、260馬力もある機関も登場したため、50年後の1850年のイギリスの石炭生産量は6000万トン、1860年には1億3000万トン、1890年には2億2500万トンに達しました(ちなみに日本の石炭生産は1940年に5600万トンの最高を記録しましたが、1999年には214万トン、2002年にはゼロになりました)。 仮に1890年のイギリスの石炭をすべて薪炭エネルギーでまかなったとすれ93石油・天然ガスレビュー石油天然ガスレビュー.indb 932004/09/17 23:27:41文明の利器は環境悪化を超えて普及 こうして鉄道は初登場したイギリスにおいては、利害抗争の他に蒸気機関という巨大な車体、空を焦がして吐き出す大量の黒煙、周りの建物や壁などを黒光りさせ人々の喉を痛める煤煙による大気汚染という環境破壊を引き起こし、鉄道反対運動を広げました。 しかし、馬車に比べて値段も安く快適で、運河に比べても目的地近くまでゆけることがわかるにつれ、鉄道を利用する人々は増え始めました。まだ人口も鉄道沿線に散在していたために、沿線住民の公害被害は脇におかれて、鉄道は敷設されてゆきました。乗客が増えてきましたので敷設しても採算に乗るようになり、イギリス鉄道の延長距離は1843年には3000㎞、1848年には8000㎞に達し、19世紀末には3万㎞を超えました。とはいえ、スチブンソンによる最初の蒸気機関車の登場からは実に86年もかかっていたのです。 アメリカでは1869年に大陸横断鉄道が完成し、日本では1825年に走ったロコモティブ号し去ることはできません。 その後の反対運動は、環境保全に加えて、鉄道の普及によって衰退する恐れのある既存の輸送企業経営者と、雇用不安におびえた労働作業員が加わって、補償費を求める運動になっていったようです。蒸気自動車に反対した貴族や地主たちは、自分の土地が時価の数倍で売れることがわかったときには鳴りを潜めたとされます。 巨大技術の導入は利益を受ける者と損害をこうむる者を同時に発生させますから、利害対立による抗争は絶えないのです。自然環境という多くの人々が享受する生存するための必須の条件と、人々の明日の経済的な生存の条件とが交錯し重合しながら展開されますから、後代に高コストになって影響の出る環境保全は、現場では理解できにくく後回しになりがちです。 この時から約180年余り経った日本で、時速250㎞で疾走する新幹線に恐AnalysisAAysAnananalysisAnalysisnAAAnaallyyssiissAnalyysisAナリシスysisnalyAAnalysisAAysAnana nalysisAnalysisAAnssiissyyllaanA2次エネルギー革命の陽光 産業革命(1次)を迎える前の1750年頃の世界人口は約8億人で、現在の1割に過ぎません。海洋に生存の糧を求めた漁民は漁村共同体のなかで、多くの農民は豊かな自然環境に包まれた農村共同体のなかで、それぞれ部落単位で自給自足に近い生活を送ることが可能でした。 家を造る材料やエネルギーの薪炭も減ってはきましたが、まだ周辺の森林から調達でき、畑を耕して得られる穀物、家畜や鳥の肉、川で採集した魚などの食料、樹木や動物からの衣料なども事欠きませんでした。とはいえ太陽黒点、海流、気流、雲の厚みや降雨量の多い寡ないなど、自然界に起因する凶作や不作には悩まされました。物々交換を主体にする共同体の支えで、農漁民たちの生活はどうにか維持されていました。 水車エネルギーを使ったヨーロッパの修道院の製粉施設は「フラワー・ミル」と呼ばれ、家内工業的な作業所のり施設は「コットン・ミル」と呼ばれました。しかし、1844年に織物工場法ができてから、新しい蒸気機関を備えた織物工場は「ミル」でなく「ファクトリー」と呼ばれ、原動機のエネルギーが動力の伝達装置で多くの機械を同時に動かせる「分業的な機能をたくさん備えた大型の工場施設」になったのです。 蒸気エネルギーを使ったファクト織(cid:12680)機(cid:12719)(cid:12697)(cid:12686)(cid:12703)との立場は逆転したのです。 アメリカの2次エネルギー革命は19世紀末から20世紀初頭に展開され、その結果、工業力もイギリスを上回る勢いになりましたが、国土が広いだけにロンドンのような過密地区特有の深刻な石炭公害は伝えられませんでした。日本の2次エネルギー革命は20世紀に入ってから アメリカで森林枯渇が目立ってきた頃の1880年(明治13年)の日本では、西南戦争が終わってアーク灯が点灯され、東京株式市場が開設され、金銀の複本位制が敷かれ、輸入紡績機が動きだしていました。 この年の日本のエネルギー供給量はまだ400万トン(石油換算。石炭換算で570万トン)で、このうち薪炭エネルギーは85%も占め、石炭はわずか14%でした。蒸気機関が使われだした1895年(明治28年)になると石炭は40%(薪炭エネルギーは58%)に増えたものの、石炭の主な用途は製塩業に留まっていました。 石炭が薪炭エネルギーを上回ったのは1901年(明治34年)のことですが、1910年にはエネルギー供給量1400万トンのうち7割を超え、薪炭エネルギーは23%になり、その後は第2次大戦の一時期を除いて、薪炭エネルギーは再び増えることはなく減少の一途をたどることになったのです。 土門拳の『筑豊の子供たち』は、石炭採掘現場を記録した貴重な写真集です。日本の石炭公害は炭鉱地帯を中心に起こっていたはずですが、彼のような記録はあまり残っていません。ば、当時のイギリスの森林の3倍を1年間で伐採しなければならなかったのです。ちなみに1900年の世界の化石エネルギー消費量7億トンのうち95%は石炭が占めました。 こうした蒸気機関の大型化によって、石炭燃焼によって排出される黒煙、亜硫酸ガス(SOX)、窒素酸化物(NOX)の量も一挙に増加してゆくことになり、第2次エネルギー革命を先導したイギリスの首都ロンドンでは街中で石炭公害が拡大し始めたのです。アメリカも木材不足から第2次エネルギー革命起こる 1800年代のアメリカは西部開拓を進める青年期でしたが、まだ豊かな森林から得られる薪炭エネルギーに依存しており、これに水力を加えた2つが主力エネルギーでした。 薪炭エネルギーは、経済成長への離陸を始めた1850年頃のアメリカの全エネルギー供給の9割を占めるようになり、また製鉄用エネルギーの5割を占めていました。ミシシッピー河を航行した蒸気船のエネルギーの大半は木炭で、スタンダード石油ができた1870年でも全エネルギー供給の75%は薪炭エネルギーでした。イギリスが木炭不足から石炭へシフトしたのに対して、広大なアメリカにはまだ豊富な森林があったため石炭への転換は遅れたのです。 1869年には、石炭を燃やす蒸気機関車が牽するアメリカ大陸横断鉄道が開通して、東部と西部の人と物の交流が容易になってきましたが、家庭、商業、産業ではまだ薪炭エネルギーに大きく頼っていました。 しかし、1885年頃には木材不足が顕在化してきたため、石炭が徐々に薪炭エネルギーを補完するようになりました。森林乱伐の兆しが出てから25年後の1910年になると、石炭はエネルギー供給の実に75%に達し、約40年で薪炭引(cid:12674)(cid:12688)(cid:12755)(cid:12755)水車エネルギーを使っていたコットン・ミル時代の大型工場石油天然ガスレビュー.indb 942004/09/17 23:27:42石油・天然ガスレビュー94ヤ接に彼女たちの作業室の空気が熱すぎること、冬期に帰宅する際に冷湿な空気から保護する衣類が欠けていることから生じる」として、呼吸器系の病気を最初に記し、大気汚染のひどさを示唆しています。 ポンティングによると、1880年のロンドンには350万台もの石炭暖炉があって、ロンドン名物の霧(Fog)と石炭煤煙(Smoke)が混ざったスモッグ(Smog)の出る日数は、石炭暖房が普及する前の3倍になり、スモッグの度に呼吸器の病気で死亡する人の数が急増したとしています。1873年12月には500人、1880年2月の3週間には2000人が死亡したとされます。最も有名なのは戦後の1952年(昭和27年)12月に起こったスモッグで、4000人の死者が出ています。 ロンドン市内で燃焼されるエネルギーの消費規制をすることになったのは、1956年になってからでした。この年に世界初の「大気清浄化法」がつくられ、ロンドン市内で燃焼されるエネルギーを種類別に規制することになりました。 既述のロンドン児童労働調査委員会の指摘からは、なんと92年後のことでした。当時の貧しい社会に生きる人々にとって、雇用や所得に影響する産業界の売り上げを維持しながら、新たに登場した公害を位置付ける難しさ、その対策を講じることの難しさを象徴する史実でした。空を覆った石炭による煤煙(cid:12743)(cid:12732)(cid:12676)除(cid:12696)て郊外へ引っ越した」と記しています。 1287年にはロンドンの石炭燃焼による煤煙を調べる委員会が発足し、1307年にはロンドン市内で石炭を燃やすことを禁じる布告が出されたのですが、実際には守られなかったようです。現在の発展途上国で環境保全のための厳しい規制が決められても、ペナルティがゆるいために、実際には公害が垂れ流しになりがちなのとよく似た状況だったのです。 今から700年余りも昔のことですから公害という言葉もなく、防技術もなかったので、石炭利用が増えるのにつれて、一酸化炭素や亜硫酸ガスが大気中に吐き出されて、ぜんそく患者や呼吸器の疾患を増やしたのでした。2次エネルギー革命にともなう環境汚染 『講座・文明と環境』(朝倉書店)によると、1816年前後のイギリス中北部・リーズ市を中心とする工場の患者のうち、男215人の25名(12%)、女252名のうち15名(6%)は咳・ぜんそくなどの呼吸器疾患とされます。医科学が未発達の当時としてこの数値ですから、現代医学で調べた場合は呼吸器患者はもっと多かったものと推測されます。 「資本論」を書いたマルクスによると、1864年に出されたロンドンの「児童労働調査委員会」報告は、「スタフォードシャーや南ウェールズでも、若い娘や婦人たちが昼間と夜間も炭坑やコークス置場で働いている。・・・最も目につく彼女たちの病気は、肺、気管支炎、子宮病、ひどいヒステリー、およびリューマチスである。・・・すべてこれらの病気は直接または癆(cid:12749)(cid:12719)(cid:12674)(cid:12676)(cid:12676)(cid:12731)(cid:12755)リーは、風車小屋や水車エネルギーによる製粉所や古いミルをつぶし、工場の立地を河川から解き放ち、自動車、船、列車などにも応用され、物の消費地と生産地の距離を劇的に短縮しました。不足が続いた森林エネルギーは豊富な石炭エネルギーへと切り替わり、石炭コークスの発明で製鉄原料にもなったため、機械文明を支える鉄の生産は飛躍的に高まりました。 中世から産業革命の直前までの平均寿命は33才台でしたが、それは自然現象による飢への対策が遅れ、生活は貧しく、労働時間も長く、伝染病などの疾病に対する医科学が未発達だったためでしょう。長閑で牧歌的な風情があった反面、人々は風のなかの木の葉のように厳しい自然環境に翻されていました。 しかし、都市の拡大とともに農村共同体社会は工業化社会へと移行し、ギリシャ時代からの奴隷や中世の農奴もこの頃から減り始め、人力エネルギーを工場経営者に切り売りして賃金を得て、物の豊富な家庭生活を営めるようになったのです。そして、生活水準は確実に改善され、1758年までの10年間のロンドンのある産院の死亡率は母親で42人に1人、子供は15人に1人だったのが、1800年には母親で914人に1人、子供は115人に1人へと激減したそうです。入院してくる母親の栄養が良くなって健康が増進し、医学知識が普及し医療施設が改善されたことを示しています。弄(cid:12749)AnalysisAAysAnananalysisAnalysisnAAAAnaallyyssiissnalyysis饉(cid:12684)(cid:12718)(cid:12713)(cid:12681)(cid:12684)(cid:12755)13世紀から石炭煤煙の被害出る ポンティングは『緑の世界史』で、「煙突の無い家で薪を燃やすため、煙や一酸化炭素によって大気への害が出てきたのに加えて、石炭消費も増えだした1257年、ヘンリー2世の妃・エレアノール女王は、市街地にあった居城のノッチンガム城が、石炭燃焼による黒い排われたため、澄んだ空気を求め煙に蓋(cid:12680)(cid:12680)95石油・天然ガスレビュー(cid:12676)貌(cid:12732)(cid:12728)(cid:12755)三大エネルギー革命と自然環境の変エネルギー文明史―その3石油天然ガスレビュー.indb 952004/09/17 23:27:42Aナリシスて人畜無害で、冷媒や洗浄剤など多くの分野に応用され、現代文明の基礎材料になりました。しかし、45年後の1974年になって、成層圏オゾン層がフロンに破壊されているということがわかったのです。南極上空のオゾン層が毎年希薄になってきたことから、使用から半世紀も経った1987年に国連でオゾン層保護条約・議定書が採択されフロン類の生産停止を決めました。他の例としては農耕用の除草剤など、多くの化学物質に起こっています。ysisnalyssiissyyllaanAAAAnAnalysisAAysAnana nalysisAnalysis自然人から人工人への道に踏み込む 先達が環境問題を深刻に考えず、自然への畏や謙虚さが減ってきた背景には、第2次エネルギー革命以来のヒトの感覚器官の変化を見逃すことはできません。文明の利器という人工物の普及で現代人の諸感覚は低下し、騒音が増えて微細な音に鈍感になり、自然物と直接に触れ合う必要が無くなって指や身体の触角が鈍り、機械が普及して肉体機能は衰えました。味覚も快楽的な部分は発達し、生命にかかわる毒物への事前の対応は弱まってきました。 快楽を求める大脳は発達し、自然環境に受け身で順応している植物や生物のような脳幹部分は使われずに筋肉は衰えるなど、本能的な諸器官の低下によっていびつで「ひ弱な考える葦」への道をひた走りだしたといえます。それは自然環境と共存し、肉体の諸器官を駆使するいわば「自然人」の行動からは変容し、人工構造物に囲まれて人工的な思考を強めるいわば「人工人」への移行を始めたことを意味しています。敬(cid:12688)(cid:12672)(cid:12695)(cid:12674)(cid:12674)当時の思想家としては珍しくエネルギー問題への論評を残しています。 第2次エネルギー革命は、①それまでの再生可能な自然エネルギーから、長くても数百年で使いきる有限な地下資源の化石エネルギーへと移行したこと、②蒸気エネルギー機関は強力で便利なパワーを発揮するが、適度に制御しないと人にも自然環境にもマイナスの病理作用をすること、になりました。地球誕生当時に大気中に95%もあった炭酸ガス(二酸化炭素、CO2)が、50億年という長期にわたって大気から海と地下に営々と堆積されてきたのですが、地下の石炭という化石エネルギーを掘り出して燃やすことで、再び大気中の炭酸ガス濃度を高める作業を行ない始めることになりました。環境対策は後追いになりがち 18世紀央の2次エネルギー革命の直前に生きた人々が、森林枯渇を救う新しい石炭に辿りついてほっとした頃、この化石エネルギーが地球環境に対してさまざまな負の作用のあることを予見する科学知識は、当時にはありませんでした。その後250年を経て、炭酸ガスによる温暖化問題も表面化して始めて検証して、後追いの対策に入ってゆくのです。 人類のこうした対応の遅れは、他の環境問題に数多く見られます。一例として、1929年から始まった炭素、フッ素、塩素などの合成物のフロンがあります。この合成物質は化学的に安定しこの頃のロンドンの労働者の住宅(次号に続く)石油・天然ガスレビュー96(cid:12697)(cid:12697)第4章 現代文明へのプロローグロンドン公害の解決には1世紀を要した オイルショックの3年前の1970年になると、ロンドン・スモッグは最悪時の8割も減って、日照量は7割も増えたとされます。1970年に訪れたときのロンドンの建物はまだ石炭の煤煙で煤けて黒ずんでいましたが、その後は訪ねるたびに煤払いのお化粧直しをし、今日では2次エネルギー革命による建物の黒ずんだ痕はきれいに掃除され、汚れる前の壁の色になっています。 エネルギー用の森林需要は2次エネルギー革命による石炭使用の増加で一端は減りましたが、他方で新たな文明が展開されて別の木材需要が起こり、必ずしも森林枯渇の恐れがなくなったわけではなかったのです。森林枯渇を救うエネルギーと産業での革命的変革を経験したヨーロッパ諸国は、引き続き森林保全対策は行なわざるを得なかったのです。(cid:12672)(cid:12712)20世紀文明の基盤がつくられる フランスの哲学者ベルグソンは2次エネルギー革命に言及し、「工学的発明は自然の賜である。こうした発明は利用できるエネルギーが顕在エネルギー、いわば可視のエネルギー、たとえば膂(筆者注:筋肉の力)、風力、落下水力といったものに制限されていた間はその成果も限界があった。機械の能率がフルに発揮されるようになったのは、幾百万年という長年月の間に貯えられていた潜在エネルギー(太陽エネルギーから創られた石炭や石油などのうちに託されていた潜在エネルギー)を、いわば引き金を引いて人間が利用しうるようになった日からのことでしかない。それは、すなわち蒸気機関の発明の日のことで、この発明が理論的考究から産み出されたものでなかったことは周知のことである」と、力(cid:12746)物(cid:12738)(cid:12703)(cid:12734)(cid:12746)(cid:12743)(cid:12743)(cid:12686)(cid:12718)石油天然ガスレビュー.indb 962004/09/17 23:27:42
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2004/09/20 [ 2004年09月号 ] 田中 紀夫
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