戦争と石油 (1) ~太平洋戦争編~
レポートID | 1006204 |
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作成日 | 2006-01-20 01:00:00 +0900 |
更新日 | 2018-02-16 10:50:18 +0900 |
公開フラグ | 1 |
媒体 | 石油・天然ガスレビュー 2 |
分野 | エネルギー一般 |
著者 | |
著者直接入力 | 岩間 敏 |
年度 | 2006 |
Vol | 40 |
No | 1 |
ページ数 | |
抽出データ | 特別寄稿エッセーJOGMEC特命参与iwama-satoshi@jogmec.go.jp岩間 敏戦争と石油(1)?太平洋戦争編?平成17年は太平洋戦争の敗戦60年目で、戦争を再度検証するために多くの出版物が発行された。以前からの専門書・文献に加え、数多くの優れた単行本、新書、文庫本が出され新しい分析・見解が現れている。太平洋戦争は日本の弱点であった資源、特に石油を求めて日本が始め、戦い、敗れた最初の総力戦であり、本稿は視点をこの石油に置いた。「米国が石油禁輸を実施し、日本は石油資源を求め開戦に至った」との説が一般的であるが、「米国の石油禁輸の結果、本当に日本はやむにやまれず戦争に走ったのか」、「戦争に反対であった海軍は陸軍に引きずられ真珠湾を攻撃したのか」、「南方資源(特に石油)は順調に日本に到着したのか」、「石油供給の安定は確保出来、持久体制は構築されたのか」等、石油を中心とした太平洋戦争の過程・動向を検証した。経済制裁は過去も現在も、米国の外交政策・手段の重要なカードの一つであり、軍事的衝突直前の経済戦争と言える。この時代を地政学的に見ると、米国の石油禁輸以前からの日本陸海軍の動き、米国の対日政策、英国の極東政策、中国での戦争等が複合的に絡み合い等、石油禁輸が引き金になったが、それだけで戦争への路を進んだのではないことがわかる。むしろ、日本の世界情勢(特に欧州戦争)の認識、分析不足、米国の対応への軽視が、南進政策を進展させ、その制裁としての石油禁輸を引き起こし、その自縛が戦争への道を突き進めさせたと言える。また、日本軍(人)の構造的欠陥とも言える近代、総合戦の概念(兵站、補給等)の把握不足が、潜水艦隊の運用誤認、護衛艦隊の創設遅延、シーレーンの維持困難、地滑り的な工業生産力の低下、海軍艦艇・航空機の行動制限を引き起こし、最終的には国内石油在庫の枯渇が国力の機能不全となり敗戦に至ったことが判明する。本稿では石油を中心に据え、新しく出された見解をも参考にしてこれらの各要因につき記述し、日本の「戦争と石油」の関係の明確化を目的とした(年の表記は元号を使用した。昭和の場合は25年を加えれば西暦の下2桁となる)。1.行き詰まっていた中国との戦争昭和に入ると、昭和6年9月の満州事変から満州国建国(昭和7年3月)、国際連盟リットン調査団(昭和7年2月)訪問、国際連盟からの撤退(昭和8年2月)、ワシントン軍縮条約廃棄(昭和9年12月)等による日本の国際的孤立化、さらに盧溝橋事件(昭和12年7月)を契機とする日華事変、日伊独三国同盟締結(昭和15年9月)、太平洋戦争開始(昭和16年12月)と激動の現代史が続く。この中で、日本と米国を主軸とする連合国との間で直接的、決定的な緊張関係が生じたのは昭和15年9月の仏印(現ベトナム北部)進駐で、これが「太平洋戦争への道」の第一段階になった。何故、日本が仏印進駐を行ったかと言えば、昭和12年7月の日華事変開始から既に4年目に入り、泥沼化の様相を示していた中国との戦争状態の解決、すなわち中国を降伏させる促進手段として、仏印(現ベトナム・カンボジア・ラオス)経由での「援蒋」戦略物資の輸送を阻止することを求めたのである。「援助ルートを断ち切れば中国の抗戦能力が低下し、日本に降伏する」と、当時の陸軍は考えた。中国国民党(蒋介石総統)に支援物資を送る援蒋ルートは昭和15年時点で①仏印ルート(輸送量:月1.5万トン)、②香港ルート(輸送量:月6,000トン)、③インド経由のビルマルート(輸送量:月1万トン)、④ソ連経由の北方ルート(輸送量:月500トン)があったが、援助物資を海上輸送によりベトナムのハイフォンに陸揚げ後、ハノイ経由で中国の昆明、南寧へ通じる仏印ルートが最大であった。①?③の援蒋ルートは仏印進攻、開戦時の日本軍の香港攻略、日本軍のビルマ進駐により封鎖されることになる。2.日華事変で限界を示し始めていた日本経済当初、「3カ月もあれば解決可能」と杉山元陸相が昭和天皇に説明し、日華事変を始めた軍部が、泥沼に陥った戦45石油・天然ガスレビューGッセー況への非難の矛先を米英に向けたとも言えるが、「米英が蒋介石を後方支援している」との軍部・マスコミの扇動もあり、これ以降、世論は急速に反米・反英へと傾いていく。この日華事変(実態は日中戦争)は、経済基盤の弱い日本の経済を緩慢ではあるが大きく揺るがし始めていた。本来17個師団の日本の陸軍常備兵力は戦時増員され、昭和16年12月時点では51個師団になっていたが、そのうち、23個師団を中国に貼り付けていた。兵員数としては陸軍総兵力約230万人弱のうち、約70万人が中国へ投入されていた。中国への投入兵員は、支援部隊、海軍を含めれば100万人にも達し、日華事変開始以来の日本軍の戦死者は19万人、負傷者52万人、戦病者43万人、4年半の戦闘で110万人以上の人的被害を出す大戦争になっていった。(数値:「日本小失敗の研究」三野正洋、光人社)3.軍事費がGNPの6割強軍事費も増大を続け、陸軍の臨時軍事費は、昭和12年16.6億円、13年39.9億円、14年37.4億円、15年41.9億円、16年63.8億円と急伸する。同じく海軍の臨時軍事費は、12年3.8億円、13年8億円、14年11.8億円、15年15.3億円と逓増していたが、昭和16年12月の太平洋戦争開始とともに急増し、昭和19年には190.7億円になる。政府は国家総動員体制(昭和13年5月施行)を進め、国民生活は逼迫していった。国民総生産(GNP)に占める軍事費の割合は開戦前の昭和15年で17パーセントであったが、昭和16年23.1パーセント、昭和17年30.2パーセント、昭和18年46.2パーセント、昭和19年63.8パーセントと増加する。近年、我が国の防衛費論議で「GNP比1パーセント論」が世論の注目を浴びたことを思えば、これらの数値がどの様な規模であるか想像がつく。国家予算に占める軍事費の割合は昭和9年は43.5パーセント、昭和12年は68.9パーセント、昭和16年は70.9パーセント、昭和19年は78.7パーセントと、国家予算のほとんどを占めるに至っていた。昭和16年4月からはコメが配給制(1日大人1人2.3合)となり、砂糖、最必需品のマッチには切符制が導入された。酒類、木炭、食料品、魚類等のほとんどの生活品が配給制となった。GNPは、昭和11年を100として昭和12年123.3、昭和13年127.3と増加し、昭和14年の128.5をピークに、昭和15年120.9、昭和16年122.7、昭和17年124.4、昭和18年124.4、昭和19年119.8と鈍化傾向を示し始めていた。基盤の弱い日本の経済力は日華事変で既に限界を示し始めていたのである。(GNP数値:「マクロ経済から見た太平洋戦争」、森本忠夫、PHP、軍事費は「太平洋戦争」、日本文芸社)4.開戦1年5カ月前に方向付けられていた南進昭和15年7月、対米協調路線を探る米内内閣が新体制を求める陸軍の意図による畑陸相辞任で倒閣(陸軍後任推薦拒否、陸相現役武官制により内閣辞任)された。その後、第二次近衛内閣が成立する。この内閣の特色は陸相として東條英機、外相として松岡洋右が入閣することであるが、これに対し昭和天皇は松岡の積極進攻論(北進、南進)と誇大妄想と言われた虚言癖にその就任を憂慮する言葉を木戸内相に漏らしている。内閣成立(7月22日)の直前の7月19日、近衛文麿首相の自宅、荻外荘(杉並・荻窪)で近衛首相、東條陸相、吉田海相、松岡外相(何れも就任予定)の4人が会談をし、新内閣の対外政策「世界情勢の推移に伴う時局処理要領」を打ち合わせた。その中に南方進攻についての方針が既に現れていた。まず「日華事変の解決を促進するとともに好機を捉え、対南方問題を解決する」とあり、さらに、「内外諸般の情勢特に有利に進展するに至らは南方問題解決のため武力を行使することあり」、「武力行使に当たりては戦争相手を極力英国のみに極限するに努む。ただしその場合に於いても対米開戦はそれを避け得さることあるへきを以て之か準備に遺憾なきを期す」と明確に南方進出、英米との戦争が明記されていた。(「昭和を振り回した6人の男たち―三国同盟と松岡洋右」土門周平、小学館文庫)当時、欧州では英仏海峡を挟んで制空権を巡る厳しい戦い(バトル・オブ・ブリテン)が英独間で行なわれ、日本ではドイツ軍の英国上陸も近いと期待が高まっていた時期である。盟主が不在の「東南アジア各国の資源」を確保する好機と近衛内閣と陸軍は判断したが、結果的にはこの方針が日本のその後の道を決定したと言える。この「要領」は7月27日の大本営政府連絡会議で正式に方針として決定されたが、荻外荘会議の前、近衛が首相を受諾した段階で陸軍省の武藤軍務局長と岩畔軍務課長が近衛を訪問し、海軍(軍令部対米英強硬派)とも打ち合わせ済みの陸軍の見解「時局処理要綱」を説明している。この要綱が「時局処理要領」の基盤になっており、松岡に対しても陸軍は同要綱の概要を説明、合意、了解済であった。吉田(海相)は南方進出論、枢軸強化論には反対の立場をとる海軍の米英協調派(米内、山本、井上系)であったが、近衛、東條、松岡のスクラムに押し切られた。吉田は後に海軍部内の対立(対米英強硬派の突き上げ)により体調を崩し、及川古志郎に海相のポストを渡している。この荻外荘会議の決定は7月26日に決められた「基本国策要綱」(八紘一宇、日満支結合の大東亜新秩序等)とともに日本の行方(南進→開戦)を決めることとなったが、この会議の主役とも言える近衛(新党・新体制運動のプリ2006.1. Vol.40 No.146岺?ニ石油(1) ?太平洋戦争編?ンス)、東條(陸軍将校団のエース)、松岡(国際連盟脱退のヒーロー)の3人は昭和の日本(マスコミ、国民)が期待し登場を求めていたものであった。5.致命傷になった日独伊三国軍事同盟の締結と仏印進駐同じ時期、昭和11年11月の広田弘毅内閣時に締結された「日独防共協定」を発展させた「日独伊三国軍事同盟」が昭和15年9月に締結された。この同盟は昭和14年の平沼騏一郎内閣時にドイツ側から提案され、駐独日本大使大島浩(元駐独陸軍武官)の熱烈な後押しで締結が図られたが、当時の海軍大臣米内光政中将、海軍次官山本五十六中将、海軍軍務局長井上成美少将を中心とする海軍の強い反対により締結が阻止されていた。昭和14年9月、ドイツ軍のポーランド侵攻により第二次世界大戦が始まり、オランダ、ベルギーが、昭和15年6月にはフランスが降伏した。この欧州戦線の推移の中で、元々、親独派の多い陸軍を中心に、ドイツ軍の電撃作戦の成功に驚愕・感動・追従し「バスに乗り遅れるな」とドイツとの連携強化を求める動きが盛り上がっていった。海軍内でも親独派(反英米派)が増加し、主流を占めるようになった。首脳部は海軍大臣及川古志郎大将、海軍次官豊田貞次郎中将、伏見宮軍令部総長、同次長近藤信竹中将等に入れ替わり、三国同盟への道を選択した。日本軍の北部仏印進駐(仏領インドシナ:現ハノイ周辺)から4日後の昭和15年9月27日、日本は日独伊三国軍事同盟を締結し、枢軸側の一員となり、英米を敵とする旗色を明確にすることになった。飛び乗ったバスは「大日本帝国破滅への道」を進むことになるが、このことはこの時点では分からず、同盟締結を祝して皇居前の広場は市民の堤燈行列で埋め尽くされた。6.迷走した国策日本は太平洋戦争突入まで、北進(対ソ連戦)すべきか、南進(対米英戦)すべきかに揺れていた。昭和16年7月2日の御前会議で「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」が決定された。その内容は「帝国は、依然、日華事変処理に邁進し、かつ、自存自衛の基礎を確立するため南方に進出の歩を進め、また、情勢の推移に応じ北方問題を解決する。帝国はこの目的達成のために如何なる障害をもこれを排除する」とし、具体的対応として「独ソ戦の推移、帝国のために有利に進展すれば武力を行使して北方問題を解決し、北辺の安定を確保する」、「蒋介石政権屈服促進のため南方諸域よりの圧力を強化する。情勢の推移に応じ、適時、重慶政権の交戦権を行使し、かつ、支那における敵性租界を接収する」とあり、さらに「帝国はその自存自衛上南方要域に対する必要なる対外交渉を継続し、その他各般の施策を促進する。このため対米戦準備を整え、まず対仏印泰施策要綱および南方施策促進に関する件により仏印、泰に対する施策要綱を完遂し、以って、南方進出の態勢を強化する。帝国は本号目的達成のために英米戦を辞せず」と、戦争を明確に意識した内容となっていた。元々、陸軍は「南守北進」、海軍は「北守南進」の戦略を主柱としていたが、この御前会議の決定は①中国との戦争は継続、②北のソ連へはドイツ軍の攻勢状況が有利に展開すれば攻め込み、③米国とは日米交渉を継続しながら戦争準備を整え、南方進出を図り、米英と戦争になっても仕方が無いと言う全方位攻撃思想に覆われたもので、総力戦、国力、補給、兵力の集中等の概念から大きく離れたものであった。ただ、ソ連に対しては80万人の兵力を動員した「関東軍特別演習」(昭和16年7月)を行ったが、その後、ドイツ軍のソ連侵攻がスターリングラード戦で頓挫し、ソ連軍のドイツ軍への反攻開始、太平洋戦争の敗色が濃くなるにつれ、ソ連を刺激しない姿勢に転化していく。日本はこの「帝国国策要綱」に忠実に駒を進め太平洋戦争への道を走ることになるが、この「要綱」の概要は、既に日本の暗号外交電報を解読していた米国の知るところとなっていた。7.米国の相次ぐ対日禁輸米国は、元々、中国の権益に大きな関心を抱いていた。第一次大戦後、日本を含む主要国が締結した9カ国条約(1922年2月)の概要は「中国の主権尊重、領土保全、機会均等、門戸開放」であり米国の政策の具象化であった。この米国の政策に真っ向から対立することになる日本の中国への武力行使(日華事変)に、米国は経済制裁を打ち出していた。米国が日本に一貫して要求していたのは「中国からの撤兵」であった。この対日経済制裁は、日華表1石油関連数値日米比(昭和16年)原油生産量(万バレル/日)人造石油生産量(万バレル/日)石油精製能力(万バレル/日)原油処理量(万バレル/日)液体燃料在庫量(万バレル/年)製油所1日1人当精製量(バレル)出所:米国戦略爆撃調査団石油報告日本0.520.339.044.934,3004米国383.6?465.83893億3,50053日米比1:738?1:521:791:7.81:1347石油・天然ガスレビューGッセー・同年7月:日本の在米資産凍結・同年8月:石油の対日禁輸8.無資源国日本米国の対日制裁のうち、特に航空機燃料、潤滑油、屑鉄、工作機械等の主要戦略資機材の禁輸を受けることになった影響が大きかった。この時期の日本における重要物資の海外依存度は石油92パーセント(うち米国81パーセント)、鉄鋼87パーセント、ゴム100パーセント、ニッケル100パーセント等であった。昭和16年7月、企画院は「戦争遂行に関する物資動員上よりの要望」を政府と軍部に提出している。この要望書の概要は、「日本は重要物資の備蓄量が限定されており、開戦時には速やかにそれらの物資を確保しないと戦争遂行力(工業生産力)に支障が生じる」と言うものであった。当然のことながら日本には資源がないということを政府、軍部は理解していた。これに対する対応として備蓄、輸入増加政策がとられた。特に優先度の低い物資の輸入を抑え、重要物資の輸入を促進する方策は「特別輸入」(日銀の金準備を流用して行なう規定計画以外の輸入)、「繰り上げ輸入」(昭和14年度から実施)と呼ばれ、日華事変開始の頃から行なわれた。この結果、昭和15年のボーキサイトの輸入は対昭和11年比11.3倍、昭和16年のニッケルの輸入は同20.4倍、鉄鉱石は同1.43倍と増加している。石油の輸入量は、昭和13年の598万キロリットル(原油257万キロリットル、製品340万キロリットル:計10.3万バレル/日)がピークであった(表2、3参照)。しかし、仮想敵国から現実的な敵国2006.1. Vol.40 No.148表2日本の石油生産・輸入国内生産量輸入量(単位:1,000キロリットル/年)製品3,2813,4011,7071,922663581445?2原油1,9212,5741,7452,292694560980209?製品2,0912,0051,9401,6521,7431,4671,659959259原油393391357331287263271267243会計年度昭和12年昭和13年昭和14年昭和15年昭和16年昭和17年昭和18年昭和19年昭和20年出所:石油統計年報:昭和14年の石油輸入(原油・製品)は米国81.1%、蘭印(現インドネシア)14.4%、樺太3.0%、その他1.5%表3太平洋戦争前の日本の石油消費量(単位:万キロリットル/年)東燃15年史石油統計年報237376500429349337233?414527521323????米国爆撃調査団石油報告(A)(B)236?475444400453359?421570507443昭和6年昭和11年昭和12年昭和13年昭和14年昭和15年昭和16年注:Bは日本戦争経済の崩壊(元資料はUSSBS)、東燃15年史は民間石油製品消費量推定、各種数値があるが陸海軍の数値に原因か(陸海軍は正確な数値を報告せず)事変の進展とともに昭和14年から矢継ぎ早に実施されていく。以下、主要な米国の対日制裁を見ていくと日本の工業力、軍事力の基本となる石油、鉄、工作機械等を集中的に狙ったものであることが分かる。・同年7月:国防強化促進法成立(大統領の輸出品目選定権限)・同年8月:石油製品(主にオクタン価87以上の航空用燃料)、航空ガソリン添加用四エチル鉛、鉄・屑鉄の輸出許可制・昭和14年7月:・同年8月:日米通商航海条約破棄を通告・昭和14年12月:航空機用燃料の西半球以外への全面禁輸モラル・エンバーゴ(道義的輸出禁止令)発動。航空用ガソリン製造設備、製造権の輸出を禁止・同年9月:屑鉄の全面禁輸・同年12月:・昭和15年1月:日米通商航海条約失効・同年6月:航空機潤滑油製造装置他15品目の輸出許可制・昭和16年6月:特殊工作機械等の対日輸出の許可制石油の輸出許可制岺?ニ石油(1) ?太平洋戦争編?になりつつある米国の資源、特に石油の日米比較(生産量比1:738)をすると近代戦、総力戦の概念ではとても戦争する相手ではなかったことが分かる(表1参照)。9.高オクタン価ガソリンが製造出来なかった日本昭和14年12月に米国が発動した「モラル・エンバーゴ」(道義的禁輸)は、元々、ソ連がフィンランド市民を空爆したことに対する米国の経済制裁であった。この時点での対日発動は、中国大陸での日本軍の行動に対する米国の警告・圧迫を目的としたもので、航空機用燃料(高オクタン価ガソリン)の製造装置、製造ライセンス、ノウハウの輸出を禁止した。モラル・エンバーゴは直接的な石油禁輸ではなかった。しかし、当時、航空機ガソリン製造を目標に設立(昭和14年)された「東亜燃料工業」は、米国から高オクタン価(100)ガソリン製造のためのフードリー触媒分解法の導入交渉を行っていたが同令の発動により交渉は中止され、その後、航空機の高性能運用に大きな障害が生じることになる。また、「日本揮発油」は米国のUPO社の石油精製プロセスの特許権を保有していたが、同社の斡旋でオクタン価92のガソリン製造プラント実施権を確保するために米国へ派遣されていた陸海軍の交渉団も、同様に、このモラル・エンバーゴ発動により交渉を打ち切られた。米国の高オクタン価(100)ガソリンの製造能力は、昭和13年時点で2.7億ガロン(約1.8万バレル/日)あり、製造能力は昭和16年には4.1億ガロン(約2.7万バレル/日)に達すると予測されていた。日本が高オクタン価(86)ガソリンの製造に成功したのは昭和11年で、太平洋戦争中に製造されたオクタン価の最高は92と、技術力の差は大きかった。しょうオクタン価100ガソリンは海軍燃料廠が試作段階に達していたものの、日本には高温高圧下での水素添加工程に使用する特殊鋼の製造技術が無く、高オクタン価ガソリンの商業的生産段階には未達状況で、総合的技術力の後進性がこの面でも現れている。米国の航空機はオクタン価100のガソリンを通常使用しており、高性能エンジン(日本海軍のゼロ戦は、1,000?1,200馬力、時速565キロメートル、米国海軍のF6Fヘルキャットは2,000馬力、時速610キロメートル)の開発に伴い、航空機のエンジン出力性能に大きな差が生じていった。量だけでなく表4日本の代表的油田(昭和14年:生産量順)油田名所在地所有会社生産量 生産量 (キロリットル/年)(バレル/日)①八橋②雄物川③院内④新津⑤豊川⑥西山⑦旭川⑧東山⑨刈羽⑩別山秋田秋田秋田新潟秋田新潟秋田新潟新潟新潟日本石油日本鉱業日本石油日本石油日本石油日本石油日本石油日本石油中野鉱業中野鉱業出所:現代日本産業発達史蠡石油、交旬社49石油・天然ガスレビュー89,76464,40529,98226,21122,46118,48314,62210,9458,8488,8051,5501,111517452388319252189153152石油精製技術の日米格差が大きく立ちはだかっていたと言える。(参考:現在の自動車のハイオクガソリンのオクタン価は96以上を言い、通常の製品は100前後。)10. 戦時体制化の石油産業満州事変、日華事変、そして太平洋戦争への戦時体制の過程で、日本の石油行政、産業は大きく変化し、法制、関連行政機構が急速に整備されていった。法制では昭和9年、①「石油業法」が成立した。この法律により、製油所建設の免許制、精製・輸入業者への6カ月以上の備蓄義務付けが行われ、同時に企業統合が要請された。同法公布時、約30社あった精製会社は、昭和16年の太平洋戦争勃発時には8社に減少していた。昭和12年には②「人造石油製造事業法」が成立し、人造石油への補助金交付、製造各社への免税処置が行われるようになった。昭和13年、③「石油資源開発法」が成立し、国内原油生産のために試掘井掘削費の補助金(3分の2)が支給されることになった。昭和14年、④「石油独占販売法」が成立し、同年6月設立の「石油共販会社」のみを石油製品購入会社とし、製品の購入価格、販売価格の設定権を付与した。これら①?④の4種の法律の制定により開発(石油資源開発法)、人造石油製造(人造石油製造事業法)、精製(石油業法)、販売(石油独占販売法)の石油の流れが、政府により完全に管理・統制される体制が確立されていった。行政機構としては、石油は「商工省鉱山局」の主管であったが、昭和12年7月に鉱山局に替わって「商工省燃料局」が設置された。陸海軍と民間との石油の需要の調整(配分)は内閣企画Gッセー表5人造石油7カ年計画と生産実績生産計画生産実績生産実績 達成率 (1,000トン/年)(1,000トン/年)(バレル/日)(パーセント)年度2006.1. Vol.40 No.1506742.515131211??511212419423827276522046861903624143,3484,1084,6953,797871464899301,2431,8072,2336,935??①昭和12年(1937)②昭和13年(1938)③昭和14年(1939)④昭和15年(1940)⑤昭和16年(1941)⑥昭和17年(1942)⑦昭和18年(1943)和19年(1944)昭和20年(1945)計昭出所:現代日本産業発達史蠡石油、①?⑦=7カ年計画1,000トン/年3500300025002000150010005000以前からある輸入割当その他の製品揮発油(オクタン価71以下)航空揮発油(オクタン価87以上)その他の原油航空揮発油用原油*昭和15年10月8日出所:日本石油100年史50040011501100日本側要求0500040011501100494312.525033640120回答案*494312.525033640120図1蘭印(スタンバック、シェル)石油交渉・契約量表6スタンバック、シェルの引き渡し量(昭和15年11月?16年8月)契約量760595.51,355.50引渡量441.2237.4678.6単位:1,000トン/年未引渡量318.8358.1676.9原 油製 品合 計出所:日本石油100年史院が行なった。昭和18年、内閣企画院と商工省は廃止・統合され「軍需省」が創設された。11. 石油増産の努力相次ぐ米国の禁輸品目増加に伴い、石油の確保が大方針となってきた。この対応策として盧国内原油の増産、盪人造石油の開発・生産、蘯海外石油資源の確保が打ち出された。盧国内原油生産国内原油においては、昭和8年9月、「日本鉱業」が秋田県雄物川油田を発見し、昭和10年3月から、本格生産(昭和14年末生産量1,100バレル/日)を始めた。また、「日本石油」も同油田の隣接鉱区の探鉱の結果、昭和10年4月に八橋油田(昭和14年末生産量1,550バレル/日)を発見している。しかし、「石油資源開発法」の施行(昭和13年)にもかかわらず、国内の新規油田の発見は伸び悩み、昭和12年以降、国内原油生産量は徐々に減少していく。太平洋戦争開始年の昭和16年の国内原油生産量は28.7万キロリットル(4,600バレル/日)であった。昭和16年の開戦以降、国内生産は南方石油確保の政策推進のため、操業人員、掘削機材の南方転用、維持・操業機材の割当減が行なわれるが、現場の操業努力により平行減少傾向で推移する。国内油田は小規模なものが多かったが、当時の代表的な油田は表4である。政府の促進策もあり、石油開発会社は昭和9年の19社から、昭和14年には52社に増加していた。最大の原油生産会社は日本石油(全体生産量の約70パーセント)であったが、その他、日本鉱業、中野鉱業、旭石油、大日本石油、小倉石油を加えた6社で国内生産量のほとんどが占められていた。昭和15年7月、政府は主要民間石油坙{の人造石油産業は戦争に貢献しなかった。そのために膨大な労働力と資材が費やされた。人造石油は戦争を助けたと言うよりは、むしろ国家の戦争努力を妨げたことは確実であった。すなわち、投入エネルギーより抽出エネルギーの方が少なかった」と記述している。蘯海外からの石油輸入の努力―日蘭交渉当時、東南アジアの主要産油国であった蘭領印度(現インドネシア)は、本国オランダのドイツへの降伏により、政治的空白地帯と見られていた。昭和15年9月、日本政府は小林一三商工相を特派大使に任命、向井忠春三井物産会長、他石油専門家を加えた交渉団をバタビア(現ジャカルタ)に派遣し、石油鉱区、石油の輸入の確保について交渉(「日蘭印会商」)を開始した。この交渉は昭和16年10月まで二次にわたり継続されたが、ABCD(米英中蘭)連合下で、最終的にオランダが米国、英国と協調して日本資産の凍結措置を行なったため成功しなかった。元々、オランダは連合軍側であり、本国はドイツに占領され、英国の亡命政権が蘭印政府に指示を与えており、ドイツと三国同盟を締結して枢軸側にある日本の要求を受け入れる体制にはなかった。また、日本交渉団には陸軍、海軍からも要員が加わり、当初年100万トンの輸入交渉から、米国の石油禁輸も加わり、年200万トン、最終的には年300万トンの輸入量(実績は年50万トン)確保が目標(図1参照)になっていた。蘭印側は、交渉開始の昭和15年10月時点では実績の年50万トンに加え、年135万トン、計年185万トンの輸出量の回答を行っていたが、日本軍の南部仏印進駐、蘭印政府の日本資産凍結に伴い、昭和16年8月には日本側への石油引き渡しは停止された(表6参照)。戦争と石油(1) ?太平洋戦争編?開発会社に出資を要請し、「帝国石油資源開発株式会社」(資本金1,000万円)を設立し、国内未探鉱鉱区の試掘促進に着手した。同社は翌16年9月、石油開発一元化を目的として設立された国策会社「帝国石油株式会社」(資本金1億円)に吸収合併され、国内の石油探鉱は帝国石油に一元化された。盪 人造石油の開発・生産昭和12年8月、人造石油製造事業法と帝国燃料興業株式会社法(民間各社への助成)が成立し、この二つの法律の下に、人造石油の製造(人造石油製造事業振興7年計画)が促進されることになる。製造法はオイルシェール、石炭低温乾留法、石炭直接液化法、ガス合成法で、計画最終年度の昭和18年の生産量は揮発油、重油各100万キロリットル(国内需要の47パーセント)を目標にしたが、生産目標達成率は11パーセントに過ぎなかった。その理由としては、当時、①石炭液化の先端技術国ドイツから水素添加法のための諸機材の輸入を予定していたが、欧州大戦の勃発により資材の入手が困難になったこと、②設備製造のための特殊鋼、工作機械の国内水準(石炭液化には200気圧、400℃の反応条件に耐える資機材が必要)の立ち遅れ、③戦時体制の進展によるその他資材の供給不足等が目標達成への大きな壁となったことが挙げられる。人造石油工場のうち、比較的順調に生産段階に移行したのは、南満州鉄道撫順オイルシェール工場で、昭和14年の生産量は16万キロリットルであった。満州での人造石油生産が全体の人造石油生産に占める割合は年により40?70パーセントと変化するが、戦争の進展とともに日本周辺の海上封鎖が強化され、国内への製品輸送が困難となり、その利用度が低下した。満州のオイルシェールは、元々、南満州鉄道が保有する撫順炭鉱の石炭生産に伴う副産物で、石炭層の上部の油頁岩(オイルシェール)は厚さ100?180メートル、含有率5.4パーセントであり、昭和初期、南満州鉄道が海軍に製品化を持ち込み、研究開発を続けていたものであった。人造石油の生産計画は、「石油消費量の40?50パーセントを充当」という野心的なものであったが、昭和16?19年の実績では消費量の5?7パーセントに過ぎなかった(表5参照)。米国戦略爆撃調査団石油報告では「戦略的には表7北樺太石油の原油生産量、日本への持込量等生産計画量 実生産量 ソ連からの購入量持込量持込計画量単位:1,000トン/年(バレル/日)?230.0254.0300.0355.0365.0???1,504.0166.4(3,328)216.3(4,327)161.2(3,225)55.5(1,110)45.3(906)23.7(475)09.6(192)17.3(346)695.5(13,909)40.4100.00000000140.140.4130.4101.784.957.443.751.617.00527.1158.2262.5330.5400.6449.8460.4???1,903.8昭和11年度昭和12年度昭和13年度昭和14年度昭和15年度昭和16年度昭和17年度昭和18年度昭和19年度計(注)原単位はトン、1トン=7.3バレルで換算出所:現代日本産業発達史?蠡石油、交旬社51石油・天然ガスレビューアれ以降、陸海軍とも交渉による石油確保を放棄し、実力(武力)による南方(インドネシア)の石油確保の作戦の検討に入るが、「会商」の交渉団に陸軍中野学校出身者の新穂智中尉、丸崎義男中尉、海軍の中筋藤一中佐(帰国後「南方油田復旧開発」報告を記述し、後に占領後の教本となる)が加わり、油田地帯を調査していることから、蘭印の石油資源確保構想は、既に昭和15年段階から陸軍内部で芽生えていたと推測される。昭和15年2月、陸軍燃料廠では「近い将来、北緯20度以南で作戦する可能性があり、航空兵器、装備の調査研究を邁進すべし」の指示が出されている。この南方油田確保のために落下傘部隊の投入が検討され、同年11月には落下傘部隊設立準備室が立ち上げられた。要員は全陸軍から選抜の後、東京の陸軍戸山学校で基礎訓練に入っている。開戦の1年1カ月前である。この時期は、先に述べた米国の対日経済制裁モラル・エンバーゴの実施、日米通商航海条約の失効の時期(昭和14年12月?15年1月)で、陸軍は蘭印の具体的油田(パレンバン等)確保に向けて動き出していたことが分かる。盻北樺太石油日本は当時、唯一とも言える海外石油権益を樺太に保有していた。北樺太石油権益である。樺太の石油は明治3年(1870)に発見されたが、商業的開発には移行していなかった。大正6年(1917)に起きたロシア革命の後の大正8年(1919)、久原鉱業を主体とする日本の石油開発コンソーシアム「北辰会」(久原、三菱、大倉、日石、宝田、後に三井物産、鈴木商店が参加)は海軍の支援の下、日露(イワン・スタヘーフ商会)合弁でオハ地域の試掘を開始した。しかし、大正9年(1920)の革命派パルチザンの北樺太占領、尼港日本守備隊の全滅、尼港日本人惨殺事件、日本軍の北樺太進駐等が起こり、一時、作業を中断、大正12年(1923)に再開した試掘作業でオハ油田を発見した。大正14年(1925)、日ソ基本条約が北京で締結され、北樺太の既開発油田(オハ、エハビ、ピリンツ、ヌトウオ、出所:帝国石油50年史の図を基に作成図2満州での試掘地点と現在の中国の油田エッセーチャイオ、ヌイウオ、ウイクレッグ、カンタグリー)の採掘権および東海岸での試掘権(大正14年より11年間:利権契約)が認められた。政府は財界に呼びかけ、大正15年(1926)、北樺太石油株式会社(資本金1,000万円、社長:舞鶴要港司令官中里重次海軍中将)を設立し、北辰会の権益(暫定的に北サガレン石油企業組合を設立し継承)を引き渡した。同社の原油生産量は、大正15年末時点で1,240バレル/日、生産量のピークは昭和8年度の3,860バレル/日、日本への持込量はソ連国営石油会社からの購入分を含め同年6,260バレル/日であった。同年の国内原油生産量が3,890バレル/日であるから、同社の生産量はほぼこれに等しく、持ち込み量は同年の原油輸入量21,030バレル/日の30パーセント弱に達していた。しかし、昭和11年11月の日独伊防共協定(当初日独、翌年伊参加)の調印、昭和13年の張鼓峰(中国東北部豆満江下流、満州・朝鮮・ソ連の国境地域)での国境紛争戦闘、昭和14年5月の日ソ両軍の師団単位による本格的軍事衝突となったノモンハン(中国東北部北西地域、ハルハ河流域)事件等により、ソ連側の圧力(現地労働者の雇用難、パイプラインの使用拒否、エハビ・カタングリ地域での掘削禁止等)が増加し、原油生産量は徐々に低下していった(表7参照)。重要物資の輸出相手国と衝突し、輸入減、禁輸を受けると言う日本(軍)の性癖がこの時点で既に現れている。日本政府は、昭和12年から同社への試掘補助金(5カ年で1,285万円)を交付し、増産を計画したが、昭和19年には樺太からの持込原油量は零にまで低下し、原油供給の柱にはならなかった。眈中国東北部(満州)での石油探鉱中国東北部および周辺地域は、戦後、中国の石油探鉱の結果、中国3大油田の2006.1. Vol.40 No.152岺?ニ石油(1) ?太平洋戦争編?うち、大慶油田(2004年生産量:93万バレル/日)、遼河油田(同:30万バレル/日)の2油田が発見され、石油生産地域(3大油田の他の一つは、勝利油田:同53万バレル/日)になったが、昭和前期、日本も満州で石油探鉱を行っていた(図2参照)。最初の探鉱活動は、昭和4年(1929)に満州里近辺、ジャライノール地区で、満鉄地質調査所が行った。この調査結果は「アスファルト鉱床は存在するものの鉱量少なく商業化は難」であった。満州事変の勃発(昭和6年9月)後、関東軍は国防資源調査として、再度、同地区に調査隊を送り込み地質調査、試掘作業(20数坑)を行ったが、成果を得ないまま昭和6年に作業は終了した。瀋陽の西に位置する阜新地区では、昭和7年に満州炭鉱が試掘を行なった。1,000メートル級の試掘井が掘削された200リットルの油兆を見ている。この報に満州石油、満州国産業部、満州鉱業開発、日本石油等が協力することになり、同地域の広域探鉱計画(試掘実績:ロータリー坑、ダイアモンド・ボーリング坑、綱掘坑計47坑)が策定され、試掘作業が実施された。2,000メートル級の深度の試掘井も掘削されたが探鉱の成果は上がらず、そのうち、南方石油の確保のため掘削機材と石油技術者が南方に移動され、この地域での石油探鉱作業は終了した。(「満州における石油探鉱」小松直幹、「陸軍燃料廠」石井正紀、光人社)中国が旧満州中央部の黒龍江省大慶を中心とした地域でソ連の技術協力を得て大規模な石油探鉱を開始したのは、戦争終了10年目の昭和30年であった。石油発見とともに、昭和35年、人力、資機材を集中投下した「会戦方式」の集中開発が開始され、原油生産量は昭和51年(1976年)には大台の年5,000万トン(100万バレル/日)を超す大油田になった。53石油・天然ガスレビュー原油性状は中質(API度32)でワックス分が多く、低硫黄である。原油生産量は2002年まで100万バレル/日水準(最大生産量は1995?1997年の112万バレル/日)を保ってきたが、以後、減退を始め、現在の生産量は90万バレル/日前後と推察され、依然として中国最大の油田である。大慶油田の発見から10年後の昭和44年、遼寧省遼河平原で生産量中国第3の油田となる遼河油田(図3参照)が発見された。同油田は、戦前、日本が集中的な石油探鉱を行った阜新地域より東に山一つ超えた地域にある。性状はアスファルト分が多い重質油(API度28.7)、原油生産量は1995年の1,552万トン(31万バレル/日)をピークとして減退傾向(2003年1,322万トン≒26万バレル/日)となっている。戦争開始前であった昭和15年の日本の国内原油生産量は33.1万キロリットル(0.6万バレル/日)、石油輸入量421.4万キロリットル(7.3万バレル/日)、石油消費量337.1万キロリットル(5.8万バレル/日)等の数値と比較すると、歴史に「イフ」は無いと言うものの、これらの油田が戦前に発見されていれば、「太平洋戦争への道」、ないしは日華事変はその後大きく変化(日本は軍事産業化の促進、中国の資源収奪に対する反日・抗日運動の激化等)したことは疑いがない。結果的には、当時、日本の探鉱技術は、最新技術である反射式探鉱機(地震探鉱機器)を日本鉱業が導入していたものの、満州の探鉱では日本石油が技術支援を行ない、同方式は使用されなかったこと、また、最高水準の技術を保有していた米国のコントラクターは、満州での石油探鉱が国家機密であったため投入することが出来なかっ出所:CNPC図3たこと等による技術的劣勢が、満州での石油発見に結び付かなかったと言える。12. 陸軍も把握していた日米戦力格差一般的に日本陸軍は、総力戦、経済戦の概念が少なかったと言われてきた。しかし、開戦前の昭和15年初頭には、「戦争経済研究班」(後、「陸軍省主計課別班」と改名)を立ち上げ、仮想敵国(米国)の経済抗戦力の分析、日本の経済戦持久力の分析等に着手している。この研究班には、外部から国力分析の専門家である学者・研究者が集められた。東京帝大助教授有沢広巳、慶応大学教授竹村忠雄、立教大学教授宮川実、東京商科大学(現一橋大学)教授中山伊知郎、東京帝大元教授蝋山正道、東京文理科大学(現筑波大学)教授木下半治、横浜正金銀行(後東京銀行)調査員名和統一等、戦後の日本の経済学をリードした一線級の学者のほか、主要官庁、満鉄調査部から人材が集められ、研究・分析が開始された。研究成果は昭和16年夏、「対米英との経済戦争」としてまとめられ、陸軍省と参謀本部の合同会議で発表されている。その概要は「対英米との経済戦力の差は20:1、開戦後2年間は備蓄戦力により抗戦可能であるが、以後、我が国の経済戦力は低下を続ける。一方、米英の経済戦力は上昇を始めるため持遼河油田:もし日本が発見していれば歴史が変わっていた?v戦は耐え難い」であった。この報告に対し、陸軍参謀本部の反応は、「相手を過大評価するのは臆病者だ」との精神論が大勢を占め、その後の戦略策定に研究成果が用いられることはなかった。この研究班は同報告後、解散し、収集された資料・データは「総力戦研究所」に引き継がれた。本来、不利な情報ほど検討されるのが情報活用の原則(明確になった弱点を如何に補強するか等の材料)であるが、当時の軍部は都合の悪い情報は切り捨てたと言える。への進攻、日米開戦と続くが、彼らが最大の焦点として注目したのは南方からの戦略物資の輸送の確保であった。彼らの試算概要は以下の通りである。(試算)・船舶消耗量:月10万トン、年120万トン・造船能力:月5万トン、年60万トン・差引純減:年60万トン※民需用船舶(除軍徴用)の最低維持約300万トンが、戦争3年間で40パーセント(120万トン)に減じる。エッセー14. 陸軍の対米現地調査昭和16年3月、横浜から米国に向け、米国陸軍駐在員として1人の主計大佐が出発した。彼の名前は新庄健吉、陸軍経理学校、同高等科、東京帝大経済学部、同修士課程終了、在ソ連軍事研究員、企画院調査官、経理学校教官の経歴をもち、計画経済、物資動員計画に通じ、戦争を国力で見ることの出来る数少ない専門家の一人で、参謀本部から米国の国力調査を命じられていた。新庄大佐は米国到着後、三井物産ニューヨーク支店内に個人事務所を開設し、調査活動を開始している。調査方法は、後に対象国の経済力・軍事力の調査・分析の主流となる「公開情報の収集・分析」が主軸で、日本の在米商社、銀行、新聞社の駐在員、特派員と緊密に連絡を取り、協力を得て、米国の国力分析の資料・データを収集した。3カ月間の集中的調査の結果、新庄大佐は日米国力格差の分析結果を出し、報告書をまとめている。分析の各生産量は表8の通りである。結論は、「日米工業力の差は重工業1:20、化学工業1:3であり、この差を縮めるのは不可能。この比率が維持出来たとしても、米国被害100パーセント、日本被害5パーセント以内に留める必要があり、日本側被害が増大した場合、戦力の差はさらに絶望的に拡表8新庄大佐による分析結果鉄鋼生産量石油精製量石炭生産量電力アルミ生産量航空機生産機数自動車生産台数船舶保有量工場労働者数米国日米比率9,500万トン1億1,000万バレル5億トン1,800万キロワット85万トン12万機620万台1,000万トン3,400万人1:241:801:121:4.51:81:81:501:1.51:5出所:開戦通告はなぜ遅れたか:斉藤充功、新潮新書2006.1. Vol.40 No.154最終段階ではソ連の参戦も予測し、石油備蓄も底尽いたとの想定で「(戦争は)我が国力の許すところとならず」との結論に達している。同研究所の分析の中で、彼らが最後まで分からなかったのは「陸海軍の石油備蓄量」であった。研究員として派遣されていた陸軍、海軍将校もこの数値は知ることが出来なかった。総力戦研究所が昭和16年8月に出した研究結果は「日米戦日本必敗」であり、この研究発表は昭和16年8月下旬、首相官邸で近衛総理、東條陸相他の前で発表された。東條陸相はこの総力戦研究所の研究結果に強い関心を持っていた一人と言われている。この研究所に集まった研究員は昭和17年3月の退所式の後、それぞれの出身母体に散っていったが、彼らの大部分は、戦後、日本の再建において主要ポストで働くことになる。物品(「日本人はなぜ戦争をしたか―昭和16年夏の敗戦」、猪瀬直樹、小学館)13. 総力戦研究所の国力検討―日米戦日本必敗昭和16年4月、国家総力戦を研究する「総力戦研究所」が開所した。この研究所には中央官庁、陸海軍、民間の平均年齢33歳の研究生36名が集められた。所長は関東軍参謀長飯村穣中将、研究員は当時の官僚、軍人、民間から選ばれた野見山勉(当時商工省総務局:後ジェトロ副理事長)、玉置敬三(当時商工省勤務:後通産次官、東芝社長)、千葉皓(当時外務省勤務:後豪州、ブラジル等大使)、林馨(当時外務省勤務:後メキシコ大使)、清井正(当時農林省勤務:後農林次官)、酒井俊彦(大蔵省勤務:後大蔵省金融局長、北海道東北開発公庫総裁)、吉岡恵一(当時内務省勤務:後人事院事務総長)、芥川治(当時鉄道省勤務:後会計検査院長)、丁子尚(当時文部省勤務:後国立大学協会事務総長)、佐々木直(当時日本銀行勤務:後日銀総裁)、成田乾一(当時済南特務機関:後テレビ番組製作会社経営)等で、彼らはまだ日本にその概念が薄かった総力戦の観点から調査・研究・討議を行い昭和16年7?8月の期間、対米戦争の模擬演習による分析を行っている。その分析は「石油資源の確保」のための日本軍のインドネシア岺?ニ石油(1) ?太平洋戦争編?大する」であった。この報告書は、当時、日米和平交渉を別ルートで模索していたワシントン駐在の陸軍省前軍事課長の岩畔豪雄大佐(陸軍の情報将校、陸軍中野学校の創立に参画)に託され、同大佐は帰国後の昭和16年8月、この新庄報告書を近衛総理、豊田外務大臣、陸軍首脳部、海軍首脳部、宮内庁首脳部、参謀本部戦争指導班等に説明して回った。この岩畔大佐の説明に対し、政府、陸海軍の反応は鈍く、逆に海軍からは「対米戦準備の最中のこのような数値の発表は士気に影響が出る」とのクレームがあった。岩畔大佐はこの報告の直後、仏印駐屯の近衛第5連隊長へ転出、その後、インド独立工作の特務機関(岩畔機関)の立ち上げ、第25軍(スマトラ)軍政部長、ビルマ北西部駐屯第28軍参謀長として前線に勤務し、以後、中央に復帰することはなかった。和平工作(日米了解案交渉)、米国力評価報告に対する東條陸相の懲罰人事との噂もあった。一方、新庄大佐は調査に総力を投入して体力を消耗したためか、肋膜炎を患い、昭和16年12月4日、ワシントンのジョージタウン大学付属病院で客死している。同大佐の葬儀は12月8日の真珠湾攻撃の日にワシントンの教会で行われたが、日本の開戦通告の遅れは、葬儀に出席した野村吉三郎大使が時間の読みを誤ったためとの説もあり、同大佐の客死は太平洋戦争開始時の最大の謎にもかかわることになる。(「開戦通告はなぜ遅れたか」斉藤充功著、新潮新書)くの昭和史の研究書の中に「海軍は脆弱な石油供給ルート(対米依存度80パーセント強)を打破し、石油資源を確保するために意図的に陸軍を巻き込み南部仏印進駐を実施した」(昭和史の論点:秦郁彦、保阪正康等)が現れてきている。海軍の石川信吾大佐(海軍国防政策第一委員会)等が、元々、南進よりも伝統的にソ連を仮想敵国とし、北方の脅威を取り除くことが戦略の主柱であった陸軍に対し、「仏印進駐を実行しても米国は石油禁輸を実施しない」と説得し、南進に引き込んだとの説である。実際、陸軍は南方攻略の後、戦力を満州に戻し、独ソ戦の推移を見ながらドイツ有利の情勢下、対ソ連戦を開始(昭和17年春?夏)する予定で、シンガポール攻略の司令官山下奉文中将を満州の方面司令官に転任し、部隊も引き上げ、北方に移動させている。加えて「戦争遂行のために、石油需給バランス(2?3年間)を海軍も企画院も意図的に作成」との説もある。一方、マレー半島、シンガポール島への攻撃案が日本国内で起こったのは、石油問題とは離れ、ドイツが対ソ戦を隠蔽するために対英攻撃を強化し、昭和16年初頭から日本に、東洋での英国の拠点であるシンガポールを攻撃させることを松岡洋右外相へ働きかけたのが最初と言われている。ヒットラーは昭和15年12月18日付で対ソ連作戦(バルバロッサ作戦)を発令している(作戦開始は昭和16年6月22日)。もちろん、その時点で日本はドイツの対ソ攻撃の意図を知らされていない。15. 石油と南進過去、「米国が石油禁輸を実施し、日本は石油を求めて南方へ進出し、米英と戦争になった」との図式解説が一般化していた。しかし、最近の研究、特に敗戦60周年に際し、発刊された多16. 昭和15年秋より始まっていた南方作戦準備南進のための具体的な動きとしては、昭和15年10月、参謀本部が上海の第5師団に上陸作戦の訓練を命じ、開戦1年前の12月6日、南支那方面軍に熱帯作戦と上陸作戦訓練を指示、同月中旬には台湾軍司令部で南方作戦の研究を開始している。ただ、いずれも研究・調査で、作戦実施にはまだほど遠い段階であった。昭和16年3?4月、参謀上陸演習が実施された。これには陸軍の第5師団、第5飛行集団(満州)、海軍の第2艦隊、第11航空艦隊が参加している。さらに、同年6月には台湾軍が海南島一周(1,000km)の機動演習(企画:辻正信台湾軍研究部員)を実施した。南方進出の準備は、徐々にではあるが研究・調査から想定・実施の方向に進んでいたことになる。昭和16年初頭の段階では、仏印とタイに軍事拠点(飛行場等)を確保し、仏印(ゴム、ジュート、亜鉛、タングステン)、タイ(錫、亜鉛、アンチモン、タングステン、マンガン、鉄鉱石)の戦略物資を確保するのが「南進」で、「それ以上(マレー、蘭印)進むのは米英と衝突することになり避ける」が陸海軍のほぼ合意された意見であった。昭和16年前半の段階で、陸軍の南進強硬派の田中新一少将が参謀本部第1部長(作戦)に、佐藤賢了大佐*が陸軍省軍務課長に就任すると、彼らは海軍の軍務局長岡敬純少将、石川信吾大佐、軍令部第一課長富岡定俊大佐、軍務局第一課長高田利種大佐等の海軍強硬派と連絡を持つようになり、南進論が急速に現実性を持ち始めた。*昭和13年衆議院で国家総動員法案の説明中、野党議員の野次に対し「黙れ!」と一喝したことで有名。17. 巧緻な英国の対日・対米外交日本の南進の対象であるマレー半島および英国の東洋における拠点であるシンガポールを持つ英国は、日本の動向を注視していた。1940年5月、首相に55石油・天然ガスレビューA任したチャーチルは欧州でドイツとの戦いを続けており、アジアで日本と戦争を開始する余裕はなかった。英国のアジア政策は「日本との対決を出来るだけ先に延ばし、アジアにおける英国権益を守る」ことであり、その手段として「米国をアジアに引き込み、米国と共同戦線を形成して日本に当たり、可能なら米国を英国の代理人的立場に置く」ことであった。英国は元々、中国に多くの利権を保有し、日華事変による日本の中国への出兵とも対立してきたが、欧州(第二次世界大戦)でのドイツとの戦争により、アジアへ兵力を割くことが出来ない状態になっていた。したがって、日米交渉(昭和16年4?12月)で米国が日本側と妥結、譲歩することはあってはならず、英国としては日中戦争が続き、南進を遅らせ、その間に対日戦争準備を進めることが至上命令になっていた。さらに、英国に最良の状況とは、日本が北進(対ソ攻撃)することであった。英国のイーデン外相はハリファックス在米大使を通じ、ハル米国務長官へ「妥協案提出の場合は英国の意見を考慮」との要請を行なった。この要請は、日米交渉に柔軟に対応しようとする同長官の不興を買うことなる。ハル長官は、昭和16年11月27日に野村・来栖両大使に渡した「ハル・ノート」により、対日強硬論者とのイメージが強いが、実際は日米交渉開始(昭和16年4月)以前から一貫して対日強硬論には距離を置き、妥協案を見出す努力をしていたと言われる。そのため英国は、対米交渉の窓口をハル長官から対日強硬派のウェルズ国務次官、ホーンベック国務省政治顧問等へ替えていく。英国は昭和16年7月2日の御前会議において「情勢の推移に伴う帝国国策要領」が決定された段階で日本の外交暗号を解読し「日本軍は南進」との確証を得ていた。このとき英国の方針は「日本の南進を遅らす」から「日本が南進した場合、米国に経済制裁を実施させ、英国はそれに続く」に変わっている。英国の方針は、米国の経済制裁実施により「日本と米・英の対立」の構造を確立することにあった。7月上旬、ハル長官は病気療養のためワシントンを離れるが、この期間、英国は国務省の対日強硬派へ共同経済制裁発動のための働きかけを強力に行なっている。7月23日、米国の暗号解読班は日本の広東総領事が外務省に発電した南部仏印進駐に関する電文を解読する。この電文に対する反応は大きく、ルーズベルト大統領は7月24日、在米日本資産凍結(26日実施)の指示を直ちに出した。この期間、ハル国務長官に代わりウェルズ国務次官が長官代行を勤めていた。7月26日にはマッカーサー大将が米極東陸軍総司令官に任命され、8月1日には石油の禁輸を実施、英国の外交戦略「米国を太平洋に引き出し英米共同戦線を結成」は成功した。一方、日米交渉の妨害役にもなり、戦争への露払い役とも言われた松岡洋右前外相は戦争開始の報に「三国同盟は僕一生の不覚だった」と涙を流した。東條英機首相は開戦前日、自宅寝室で一人正座して号泣していたと伝えられている。後に日本が真珠湾を攻撃したとの報に接したチャーチル首相は「感激と興奮に満たされ、満足して私は床につき、救われた気持ちで感謝しながら眠りについた」と述べている。また、ヒットラーは日米開戦により米国の戦力が太平洋に分割されるのを、スターリンは日本軍の北上が無くなり対独戦に総力を集中出来ると、蒋介石は米国と同盟軍が結成できたと、毛沢東は民族統一戦線結成により中国革命が達成できると喜んだ。日本ではラジオ放送で歴史的大本営発表が軍艦マーチとともに流され、文化人までが「空を覆う雲が晴れた感じエッセーがした」と喜んだ。(「戦略・戦術でわかる太平洋戦争」、太平洋戦争研究会、日本文芸社、「太平洋戦争の失敗・10のポイント」、保阪正康、PHP、「イギリスの情報外交」、小谷賢、PHP他)18. 開戦主導は陸軍より海軍?前述したように、戦争に関する一般論として、「太平洋戦争は陸軍が主導し、海軍は陸軍に引きずられやむなく戦争に突入した」との説がある。これは海軍の米内(海相)―山本(次官)―井上(軍務局長)ラインの三国軍事同盟反対の動き、山本五十六連合艦隊司令長官の「テキサスの油田群、デトロイトの自動車工場を見れば米国とは戦争をすべきではない」等の語録が広く流布し、いわゆる、太平洋戦争開始の「陸軍悪玉、海軍善玉」の風潮を作り上げていたためと考えられる。実際には、海軍の首脳陣は米国と戦争して勝てるとは思っていなかった。単発戦闘で勝利しても長期戦になれば、当初の10(米国):7(日本)の艦隊比率は工業生産力の差により拡大し、数年で大きな差になることは首脳陣には分かっていた。非公式には海軍首脳は「米国と戦争しては勝てない」と何度も述べている。昭和16年7月末、永野修身海軍軍令部総長は、昭和天皇の「米国と戦って結果はどうなるか」との質問に対し「勝てるかどうかも分からない」と答えている。昭和16年10月7日、日米開戦が大きな懸案になっている時期、東條英機陸相(10月18日、首相就任)の「戦争の勝利の自信如何?」の質問に対し、及川古志郎海相は「それはない。2年目、3年目になると果たしてどうなるか、今、研究中である」と答えている。陸軍省の武藤章軍務局長は「海軍が戦争に勝てない」と言ってくれれば、陸軍内部の強硬派を抑えるとして、内2006.1. Vol.40 No.156t書記官長(現官房長官)を通じて斡旋を試みたが、海軍からは「近衛首相に一任」以外の言葉は出てこなかった。「戦争が出来ない海軍に予算、鉄鋼、石油は必要ない」と言われるのを恐れたのである。昭和15年12月、海軍内部に海軍省、軍令部(省部)の垣根を除く横断的組織として「海軍国防政策委員会」が設立された。この委員会は第1?4まであり、第1委員会は政策・戦争指導方針、第2委員会が軍備、第3委員会が国民指導、第4委員会は情報を担当した。この中で第1委員会が最も権限を持ち、軍令部作戦課長富岡定俊大佐(終戦時軍令部第一部長、少将)、軍務局第2課長石川信吾大佐(終戦時大本営海軍戦力補強部長、少将)、軍務部第1課長高田利種大佐(終戦時大本営戦備部長兼海軍化兵戦線部長、少将)、軍令部第1部甲部員(戦争指導)大野竹二大佐(終戦時海軍省人事局長、少将)で構成されていた。その中の主導者、石川大佐は海軍では珍しい政治的将校で、陸軍、政治家、右翼等に幅広い人脈を持ち、積極的な南進論を部内で展開していた。このメンバーに加え、岡敬純海軍軍務局長(東京裁判で終身刑)、軍令部第1部(作戦課)の神重徳大佐(後に戦艦大和特攻を建策)等の対米強硬派が、日本を開戦に導いた真の「黒子」と言われている。中堅幕僚層が戦争への方向を定め、上層部(及川海相、豊田海軍省次官、永野軍令部総長、近藤次長等)がその方向を認めたと言い得る。この石川大佐を中心に作成された「現情勢下に於いて帝国海軍の採るべき態度」が昭和16年6月5日、海軍首脳部に提出された。この中で、日本の自存自衛上、隘路になる物資として石油、コメ、重要戦用資材、輸送力等について述べている。その内容は、事実上、海軍の公式意見となり、その後の状況の進展に大きな影響を与えることになる。石川大佐は「米国の石油禁輸は絶対に無い」として南部仏印進駐を説きまわった。この報告書の要旨(抜粋)は以下の通りである。1. 燃料燃料の需給状況に関しては、現在の貯蔵量、今後の供給量および供給地、消費量等の相互関係を明らかにすることが緊要である。之を要約すれば以下の通りである(昭和16年9月戦争開始と想定)。○供給量(万キロリットル/年)○消費量(万キロリットル/年)第一年間第二年間第三年間第一年間第二年間第三年間海軍陸軍官民需合計300602406002506024055025060240550備考:この他に主力決戦がある場合は1回ごとに50万キロリットルを別に必要45501010020545701025037545305080国内人造油オハおよびソ連蘭印合計備考:石油輸入(海外からの購入)は昭和16年9月以降全部停止と仮定昭和16年9月迄に於ける国内石油貯蔵総額:970万キロリットル(備考)昭和16年9月以降、船腹の関係上、大体に於いて貯蔵総額は増減少なき見込。戦争と石油(1) ?太平洋戦争編?○結論戦争が3年間の場合盧消費総量①600万キロリットル+②550万キロリットル+③550万キロリットル=1,700万キロリットル*ただし主力決戦用(50万キロリットル)を除く供給総量(含貯蔵量)④970万キロリットル+①80万キロリットル+②205万キロリットル+③375万キロリットル=1,630万キロリットル*ただし、増産その他の対策を含まず差引主力決戦なき場合主力決戦ある場合1,630万キロリットル?1,700万キロリットル=▲70万キロリットル1,630万キロリットル?1,750万キロリットル=▲120万キロリットル57石油・天然ガスレビューGッセー戦争が2年間の場合盪消費総量①600万キロリットル+②550万キロリットル=1,150万キロリットル*ただし主力決戦用を含まず供給総量④970万キロリットル+①80万キロリットル+②205万キロリットル=1,255万キロリットル差引主力決戦なき場合主力決戦ある場合1,255万キロリットル?1,150万キロリットル=105万キロリットル1,255万キロリットル?1,200万キロリットル=55万キロリットル戦争第3年間に於ける不足量を補う対策蘯①人造石油の増産:可能性有(年約20万?30万キロリットル)②掘削機械の急速整備③印蘭産油獲得量の増加これらの対策により年120万キロリットル程度の増産は相当見込み有。「この結果、燃料に関しては作戦上相当の自信を以て対処し得える結論に達せり。」要するに2年間の戦争継続には石油は保ち、3年間の戦争継続では不足するが、増産対策(特に南方石油の還送)により主力決戦を含む需要にはギリギリ充足可能とした。この海軍の石油備蓄量970万キロリットルは需給表作成者により水増しされた数値との疑義も出されている。2.輸送力および船腹問題輸送力は船舶航海域の広狭、寄港湾の集荷積出条件等によりその輸送可能量に変化あり、精確なる算定は至難である。大略の目当となるべき事項は次の通り。盧 逓信省研究に依る民需用に絶対必要な船腹盪 日本の船舶保有量蘯 戦時海陸軍徴用予定 海軍(我慢し得る程度)陸軍一時期200万トン、その後350万トン610万トン170万トン100万トン需絶対必要量および海陸軍徴用量を合計し、約10万トンの不足。造船能力は年50万?70万トン。第一次大戦の先例により戦時喪失率は約10パーセントなるを以て総トン数600万トンの10パーセント、即ち60万トンの補充は可能。報告書の結論・帝国海軍は皇国の安危の重大時局に際し、帝国の諸施策に動揺を来たさしめざる為、直ちに戦争(含対米)決意を明言し、強気を以て諸般の対策に臨むを要す。・泰仏印に対する軍事的進出は1日も速にこれを断行する如く努むるを要す。(数値等「日本海軍失敗の研究」鳥巣健之助、米国戦略爆撃調査団石油報告)2006.1. Vol.40 No.158岺?ニ石油(1) ?太平洋戦争編?19. 開戦への道この報告書を読んだ海軍上層部、特に永野修身軍令部総長は、その後の大本営政府連絡会議、御前会議で強引な南進論を展開するが、その背景にはこの報告書により「戦争を行う石油需給、船舶輸送量は確保」との自信があったと推測される。石川大佐は戦後、「太平洋戦争は俺が始めた」と豪語したと伝えられているが、事実、仏印南部進駐は米国の対日石油禁輸を引き起こし、太平洋戦争への引き金になった。戦争への道は「石油禁輸(昭和16年8月1日)までは海軍が引っ張り、それ以降は陸軍が引っ張った」と言われる。この後、昭和16年6月11日、陸軍は「南方施策促進に関する件」を建策したが、その内容は「外交交渉を行ないつつ進駐準備をし、仏印が応ぜざる場合でも進駐をし、抵抗すれば武力を行使する。日本としては自存自衛上忍び得ざるに至りたる場合には対米英戦争を賭するも辞せず」と明確に武力進駐、対米戦を打ち出している。6月22日、バルバロッサ作戦に従いドイツ軍はソ連領内になだれ込み、独ソ戦が始まる。その2日後の6月24日、大本営陸海軍部は「情勢の推移に伴う帝国国策要領」を策定する。その内容は「対米英戦も辞せず南方進出を行い、独ソ戦の推移が帝国に有利に進展(ドイツがソ連を圧倒)すれば、武力を行使して北方問題を解決する」と言うもので、「中国との戦争を継続しながら米国、英国、オランダ、場合によればソ連とも戦う」との内容であった。これらの陸海軍の方針は7月2日、御前会議において「帝国国策要領」として決定され、南部仏印進駐が正式に決定された。御前会議の席上、永野軍令部総長は「英米等があくまでも妨害する場合は対米英戦争も予期する」と発言した。この御前会議が事実上の太平洋戦争への決定になった。気が陸海軍上層部を覆った。この御前会議は、戦争への道を決定したことにより「歴史的御前会議」と言われるが、米国政府は「帝国国策要領」の決定6日後の7月8日には日本政府の外交電報を解読し、御前会議の決定内容を知るところとなる。7月24日、米国政府はワシントン在の野村大使に「石油の禁輸」を暗示しながら、南部仏印進駐の中止を勧告するとともに、仏印中立化構想を提案する。翌7月25日、南部仏印上陸を目指す日本軍(第25軍)の輸送船団は、海南島の三亜を出港した。この情報を得た米英両国は7月26日、日本の在米英資産を凍結する。7月28日、日本軍は南部仏印に上陸を開始し、この対抗策として8月1日、米国は日本への石油の輸出を禁止した。石油禁輸前の米国側の空気を察知した日米交渉の日本側当事者、野村吉三郎大使(海軍大将)は7月23日付けの電報で、「日本が南進を行なった場合、日米関係は急速に悪化し、国交断絶の一歩手前まで行く可能性あり、南進はシンガポール、蘭印(インドネシア)への進攻の第一歩ととられる」と警告している。これに対し、7月24日に開催された陸海軍と政府の連絡会議で参謀本部戦争指導班は「野村電報はヒステリック、当班は電報内容に不同意、仏印進駐に止まる限り禁輸はないと確信」と希望的断定を下している。その1週間後、米国が準備していた石油の禁輸を実行した時、日本の政府、軍部は大きな衝撃を受けることになる。7月26日の大本営機密日誌には「戦争指導班は資産の凍結を石油の禁輸とは思わず、米国はせざるべしと判断す。何時かは来るべし。その時期は今明年早々には非ずと判断す」と日本軍特有の希望・願望から判断への見通しを記述している。8月1日の米国の対日石油禁輸制裁を受け、愕然・呆然とした空和解のための交渉中(日米交渉)に戦争になった場合の基地確保と称して「南進したが石油を止められ、戦争への道を進んだ」のであり、「石油を止められたから戦争へ突入」したのではないことが明白であるが、これが当時の日本の政策集団(陸海軍)の見込み、判断、行動であった。20. 解読されていた日本の暗号日本の楽観的・願望的見通しと独断に対し、英国は1920年代から日本の外交暗号の解読に取り組んでいた。英国政府暗号学校(GC&CS)は大正10年(1921)11月のワシントン軍縮会議(当時は日英同盟継続中で同盟国)、昭和12年(1937)11月の日独伊三国防共協定等の日本側外交暗号を傍受・解読していた。昭和15年の段階で、日本の外交暗号「パープル」の使用により解読が一時中断した時期があったが、同暗号は昭和15年9月、米国の暗号チームにより解読され、米英国間の情報の提携(暗号解読器の提供等)により、英国は再び日本の外交暗号の解読を開始する。英国が日本の南部仏印進駐を掴んだのは、進駐1カ月以上前の6月21日、松岡外相からドイツ駐在の大島大使宛訓電(飛行場の確保、南部仏印進駐に関し武力行使の可能性等の内容)を解読したことによる。当時、日本が北進(対ソ戦)するか、南進(南部仏印進駐)するかは、米英の最大関心事項であった。さらに、7月2日の御前会議(南進の決定)の概要を主要国大使に送った外交電報の解読により、米英とも日本の南進を確信することになる(ソ連はスパイ・ゾルゲの南進報告により情報を取得)。英国は、この後、米国と直ちに日本への経済制裁(禁輸、資産凍結)実施59石油・天然ガスレビューGッセーの打ち合わせに入っている。7月21日には、日本が南進した場合、禁輸処置等につき、英米間でほぼその内容が合意され、実施の準備が整っていたのである。「愕然・呆然」とした日本の政府・軍部上層部と日本の行動に合わせ対応策を綿密に作成し制裁を実施した米英との外交対応力・情報収集能力の差が明確に現れている。日本は外交暗号はもちろん軍事暗号*も解読されていたことに終戦まで気が付かなかった。*昭和18年4月の山本五十六連合艦隊司令長官の搭乗機ブーゲンビル島上空で撃墜(長官戦死:海軍甲事件)も、米太平洋艦隊情報部の暗号解読による情報がニミッツ司令長官→ノックス海軍長官→ルーズベルト大統領と上がり、「山本を殺せ」の暗殺指示は、ニミッツ→南太平洋地域司令官ハルゼー大将→ソロモン地区航空部隊司令官ミッチャー少将へ下り、双発P-38ライトニング、16機による待ち伏せ攻撃となった。この際、米国側は山本長官を殺した場合の海軍後継者の分析を行ない有能とした山口多聞少将がミッドウェー海戦で戦死していたことにより攻撃を実施している。米国側の暗号解読の事実は事件後も隠し通された。21. 真珠湾への道この後、昭和16年12月8日の真珠湾攻撃までの主な出来事は、次の通りである。・8月9日「帝国陸軍作戦要領」を作成。対ソ攻撃を断念し、南方進出を目指す・9月6日御前会議で「帝国国策遂行要領」決定。10月上旬頃までに日米交渉で日本側の要求が通らなければ対米英蘭戦争を決意・10月18日東條内閣成立・11月5日御前会議、「(第二次)帝国国策遂行要領」決定。武力発動時期12月上旬、表9企画院説明の石油需給見通し(開戦の場合)戦争1年目2年目3年目(単位:万キロリットル/年)人造石油国産原油蘭印持込小計備蓄残(840*)保有合計軍部需要海軍陸軍民間需要需要合計差し引き30253085690775280100140520255402020026025551527090140500155030450530155452508514047570注:*備蓄量840万キロリットル(海軍650万、陸軍120万、民間70万)のうち、690万トンを昭和17年に繰り越し、残り150万トンを予備。表10各種石油備蓄量推定値海軍軍令部(昭和16年5月時点)米国合同極東石油委員会(昭和16年12月時点)企画院(昭和16年11月時点)米国戦略爆撃調査団石油報告(昭和17年1月時点)陸軍(国力判断需給推定)(昭和16年3月時点)*含潤滑油等、他に810万キロリットルの数値も有り970万キロリットル911万キロリットル840万キロリットル767万キロリットル*743万キロリットル12月1日午前零時までに対米交渉が合意の場合、武力発動は中止。大本営海軍部、連合艦隊司令長官へ12月上旬、米英蘭戦に備え作戦準備開始を下令・11月8日連合艦隊命令作1?2号発令。「開戦予定日12月8日、機動部隊は択捉島単冠湾に集結すべし」・11月26日連合艦隊単冠湾を出撃。ハル国務長官が野村、来栖大使へ「ハル・ノート」を手交。「4原則*の承認」、「中国、仏印からの全面撤兵」、「汪兆銘南京政府の否認」、「三国同盟の死文化」*領土保全、内政不干渉、機会均等、現状維持・12月1日御前会議で対米英蘭戦開始の決定・12月8日連合艦隊南雲機動部隊、真珠湾を攻撃、太平洋戦争開始日本は、石油禁輸後4カ月強で太平洋戦争へ突入したことになる。22. 石油禁輸の実態「昭和16年8月1日に米国が日本の南部仏印進攻の制裁措置として石油禁輸を実施した」と著者も本稿の中で記述しているが実際はどうであったか。「石油禁輸」を詳細に見ていくと、ルーズベルト大統領は「対日石油禁輸は日本をインドシナへ駆り立てる」として、その時点では必ずしも石油禁輸に賛成ではなく、日華事変以前の対日石油輸出量の継続は認める方向であったとも言われている。8月1日に実施された米国の制裁は「Further regulation in respectto the export of petroleum products」(石油製品に関する追加規制)である。2006.1. Vol.40 No.160岺?ニ石油(1) ?太平洋戦争編?米国は石油の輸出許可を止めるのではなく、石油代金の支払い方法により圧力を掛けてきた。在米日本資産の凍結以降、対日強硬派が大勢を占める米国財務省(モーゲンソー長官)は、「米国にある手持ちドル現金でのみ決済を受ける」と主張し、日本側は南米(ブラジル)からの送金、日本からのドル紙幣(外貨保有約500万ドル)、金(年間金産出額約7,000万ドル、金保有額9,000万ドル)の輸送等を提案したが、米国財務省は意図的に回答を保留し、実質的な石油禁輸状態に追い込んでいったというのが実態である。米国国務省では、ハル長官は即時石油禁輸には反対の方向であったが、ウェルズ次官、アソチン次官補等を中心とする省内の対日強硬派の行動、特に反日世論の背景もあり政治的判断を保留したと言われる。ルーズベルト大統領*、ハル長官は、世論と実務官僚の対日強硬論のバランスを見ながら、財務省主導の決済手続きの引き延ばしを黙認していったと言える。米国からの最後の石油輸入は、昭和16年8月4日にサンフランシスコ港を出向した龍田丸に積み込まれた潤滑油(約1,600バレル)である。*最終的には世論を見ながらの戦備充実、第2次大戦への参戦の時期を計っていたと言われている。(数値等「太平洋戦争と石油」、三輪宗弘、日本経済評論社)23. 企画院の石油需給見通し石油禁輸を受けた開戦時の「日本の石油備蓄量」は幾らであったか。種々の数値(集計、消費等の差、手直し等)があり、特定は困難であるが(表9参照)、実質的な開戦が決定された昭和16年11月5日の御前会議で鈴木貞一企画院総裁(陸軍予備役中将)が説明した石油備蓄量は、840万キロリットル(海軍650万、陸軍120万、民間70万)である。表10の石油需給表で差し引きがプラスであるということは、戦争を行なっても石油は保つ、すなわち「戦争が出2015105 N05 S1095 E100105110115120125130135出所:帝国石油50年史の図を基に作成図4南方石油生産地帯61石油・天然ガスレビュー来る」ことを意味した。しかし、これらの数値は、詳細な検討の結果、算出されたものではなく、特に蘭印(インドネシア)からの持込量は陸海軍の期待量に合わせ修正されていった。この需給見通しの作成者の一人である陸軍省整備局燃料課の高橋健夫中尉(商工省燃料研究所から短期現役技術将校)は、この需給見通しの数値が作成された会議(昭和16年10月29日、於陸・海軍、企画院、商工省の課長級合同会議)の雰囲気を次のように述べている。「これなら何とか戦争がやれそうだと言うことを皆が納得するために数字を並べたようなものだった。赤字(不足)になって、とても無理と言う表を作る雰囲気ではなかった。」(「日本人はなぜ戦争をしたかー昭和16年夏の敗戦」、猪瀬直樹、小学館)24. 調整量としての南方還送石油また、陸軍省側は南方石油の持込量(還送量)を作成*(1年目30万キロリットル、2年目100万キロリットル、3年目250万キロリットル)したが、会議の席上、海軍側は海軍の油田からも2年目100万キロリットル、3年目200万キロリットルが可能とし、陸軍提示の数値と合わせ1年目30万キロリットル、2年目200万キロリットル、3年目450万キロリットルと還送量が膨らんでいった。要するに、南方原油の還送量が調整量として使用されたことを示している。この需給見通しは、10月29日夜の大本営・政府連絡会議の席上、鈴木企画院総裁から説明されている。連絡会議は10月23日から11月2日まで開催されたが、主要議論は「主要物質の需給見通し」であった。現状(石油禁輸状態)では石油の備蓄は底をつくだけであるが、南方油田の占領、日本への還送により石油は「残る」との結論に達し、11月5日の御前会議で「南進=日米開增vが決定された。いた。*試算は1年目(9カ月操業)25. 南方石油の確保開戦早々の昭和17年1月17日、海軍落下傘部隊(横須賀鎮守府第1特別陸戦隊)がセレベス島メナドに、2月14日、陸軍落下傘部隊(第1挺進団)がスマトラ島パレンバンに降下し各油田地帯を制圧した。軍歌「空の神兵」が日本の街に流れた。これらの空挺作戦は、インドネシアの油田地帯を連合軍の破壊・撤退から守るためであった。米国の対日石油禁輸が実施された昭和16年8月1日以前から陸海軍の各部局では、南方石油確保のための準備が既に行なわれていた。昭和16年に入ると陸軍省整備局は南方油田確保後の復興のための掘削機と油井管の準備を始めている。同年8月以降は日本中の掘削機が根こそぎ集められる状況になり、ロータリー式118基、綱堀式15基、計133基の掘削機が油田地域の占領とともに南方へ輸送された。陸軍では、整備局とは別に、独立工兵第25連隊(通称:採油部隊)が南方石油確保の準備に入っていた。陸軍と海軍は、油田制圧軍の実勢に合わせ油田施設を分割し、総体として陸軍85:海軍15の接収比率になった。艦隊行動と航空隊のために大量の石油を必要とする海軍は、東ボルネオのサンガサンガ、タラカン油田とバリクパパン製油所(唯一、航空機用高級潤滑油を生産)を手中にしたにとどまった。この分割占領はその後、種々の問題を引き起こす。戦争の進展とともに海軍の石油不足は深刻になり、陸軍占領の油田の積出港に海戦途上の海軍のタンカーが入港しても石油が補給されない等の事態が発生している。「海軍と陸軍は別々に戦争をしていた」ことを示す現象が南方での石油供給でも起こって陸軍はスマトラのパレンバン周辺の油田を手中に収めた。同油田群(リマウ油田、アバブ油田、ダワス油田、ジャンビ油田)は、戦前の南方油田地帯を代表するもので、生産量年470万キロリットル(約8.1万バレル/日)やパレンバン近接のムシ河支流、コメリン河を挟んだブラジュー製油所(シェル系:日本接収後第1製油所、日石隊担当)、スンゲイゲロン製油所(米スタンダード石油系:日本接収後第2製油所、三菱石油隊担当)などの大規模製油所(合計8万バレル/日)があった。昭和16年当時の日本国内の合計精製能力が8.9万バレル/日であったから、その規模の大きさが分かる。蘭印(インドネシア)の昭和15年の原油生産量は17.8万バレル/日、精製量は17.5万バレル/日であった。(「石油技術者たちの太平洋戦争」、石井正紀、光人社他)26. 石油産業人の南方派遣南方石油地帯の占領とともに、日本から多くの石油産業人が設備の復興、生産操業のために送られた。その数は陸軍石油部隊所属徴用者4,900名、海軍石油部隊徴用者1,800名(この他に調査隊所属300名)に及んだ。エッセー送業務に従事中、ルソン島西方海上で被雷沈没している。昭和17年6月にはタンカー御堂山丸(9,025総トン、原油1万キロリットル搭載)がパレンバンを出航している。この御堂山丸も昭和19年12月、仏印沿岸で米潜水艦の雷撃を受け沈没している。南方石油要員の犠牲も多く、昭和17年5月8日、太平丸(日本郵船、元北米航路客船1万4,458総トン)が蘭印に向かう途中、九州男女群島沖で米国潜水艦の魚雷攻撃を受け沈没、乗船の石油開発要員660名が死亡(乗組員を含めた死亡者は817名)した。また、昭和19年4月1日には台湾海峡で阿波丸(日本郵船、1万1,249総トン)が米国潜水艦に撃沈された。同船には、国内生産再見直しで帰国命令を受けた帝国石油関係の石油人480余名が乗り込んでいた。2,048名の乗船者のうち、生存者は1名のみであった。この阿波丸は「緑十字船」と呼ばれる安全航行を保障された船で、米軍捕虜への米国(ナホトカ経由)からの救援物資約800トンを積み込み、高雄、香港、シンガポール、インドネシアに輸送していた。その役目を終えた帰路、便乗者を乗せた。これだけなら問題はなかったが、軍部は大量の軍事物資(錫、タングステン、アルミニューム、生ゴム、重油、南方の石油地帯に送られた石油部隊は、破壊された油田・製油設備等の復旧に取り組んだ。最初の南方原油の積み出しは昭和17年3月、北ボルネオのルトン(周辺にミリ、セリア油田)からタンカー橘丸(原油6,000キロリットル)によって行なわれた。後の昭和19年10月、この橘丸(6,539総トン)は南方原油還出所:US Naval Historical Center図5攻撃された日本の輸送船(米潜水艦潜望鏡より撮影)2006.1. Vol.40 No.162アの観点からすれば、開戦早々、蘭印(インドネシア)の油田地帯を制圧し、製油所の復旧を迅速に行った陸海軍の作戦は成功したかに見えた。なお、前述の石井大佐は開戦直前の11月末、陸軍省軍務局から南方軍の政務参謀として転出(同大佐の転出が開戦の信号とも言われていた)、南方作戦に従事するが、この南方石油作戦にも関係することになる。陸軍の石油関連の南方制圧軍は南方軍(司令官寺内寿一大将)下の第25軍(スマトラ:司令官山下奉文中将)、第16軍(ジャワ:司令官今村均中将)、第15軍(ビルマ:司令官飯田祥二朗中将)と分かれていたが、南スマトラの油田攻略は第16軍が担当したため、第16軍の指揮下に入る等、権限・指揮が錯綜する面があった。そのため、軍直轄の燃料廠を設置する案(陸軍省山田整備局長、中村燃料課長等が主張)と、油田を軍政機関の管理下に置き、実際の運営・操業ノウハウを保有する石油会社に任す案とが出され、石井大佐は後者を推していた。この対立調整のため陸軍省の武藤軍務局長が現地に入り、最終的には昭和17年3月30日付で、陸軍南方燃料廠の設置(廠長:陸軍省整備局長山田精一少将)が決められた。燃料廠の本部はシンガポールに置かれ、その下に5の支廠(後6支廠)が設けられた。支廠は南スマトラ支廠(パレンバン)、北スマトラ支廠(バユカランブランタン)、ボルネオ支廠(ミリ)、ジャワ支廠(スラバヤ)、ビルマ支廠(エナンジョン、後に中スマトラ支廠)であった。最大の支廠は南スマトラ支廠で日本人3,000名、現地従業員2万名が働いていた。28. 最大の原油生産地はスマトラ南方(ボルネオ、ジャワ、スマトラ)の原油生産量は、開戦前年の昭和15年度には17.8万バレル/日(年1,033万キロリットル)であったが、日本軍が上陸・占領した昭和17年度は7.1万バレル/日(年412万キロリットル)と、対15年比39.8パーセントになっていた。石油部隊の活動により、昭和18年度には13.6万バレル/日(年788万キロリットル)、対15年比76.7パーセントと、占スマトラジャワボルネオ3136,545(104)5,0200年度昭和2?1945?4(cid:7894)7月末1,21036,916(586)22,3212,83011,7659年度昭和1?1944?49,614(788)32,0793,65013,8858年度昭和1?1943?単位:1,000バレル/年(万キロリットル)25,917(412)15,6976309,6007年度昭和1?1942?70,00060,00050,00040,00030,00020,00065,100(1,033)40,0006,1005年度昭和1?1940?010,00019,000出所:米国戦略爆撃調査団石油報告図6南方地域別原油生産量ガソリン等1万トン弱)も積載した。この軍事物資の輸送は緑十字船の協定違反で、安全航行が保障されなくなる。そして、暗号無線の解読、航空写真による喫水線の分析等から、戦略物資を積み込んだと判断した米潜水艦クイーン・フィッシュ(ラフリン艦長)の雷撃を受け、阿波丸は沈没した。南方派遣石油人の犠牲については、帝国石油50年史では「当社従業員で南方油田の復旧・維持のために石油戦士として徴用された者は5,000名を数えたが、そのうち1,600名がジャングルの中、あるいは南海の底に尊い命を失った」と記している。なお、同社は南方油田技術要員養成のため、昭和18年4月、既設の新潟、秋田の技術工養成所を帝国石油新潟鉱山学校、同秋田鉱山学校と改称し、昭和20年11月の廃校までに高等科(中学卒業生対象)140名、普通科(国民学校高等科卒業生対象)1,730名の卒業生を出している。27. 目的を達したかに見えた石油資源の確保昭和14年8月から開戦直前の昭和16年11月まで、陸軍軍務局軍務課に高級課員として勤務し、武藤章軍務局長の下で開戦前の日米交渉、国策決定方針のほぼすべてに関与した石井秋穂大佐は、戦後、太平洋戦争の開戦目的について次のように述べている。「大東亜共栄圏の確立と言った見方を声高に説く論者もいるが、私は当時の開戦名目案の骨子を作った者としてそれは違うと言いたい。開戦目的はあくまでも自存自衛であり、日本は国家として石油の備蓄が無くなり、南方に頼らざるを得なかったと言うことである。あの時の国家政策に携わった者は、石油が無くなったらどうしようと言う恐怖感が大きかったと言う認識で一致していた。」(「陸軍良識派の研究」、保阪正康、光人社)戦争と石油(1) ?太平洋戦争編?63石油・天然ガスレビューフ期間の最高生産量を記録した。南方原油の生産量のピークは昭和18年第3四半期(10?12月)で、14.6万バレル/日と開戦前の82パーセントにまで回復していた。高品位の石油製品の生産が期待されたパレンバンの第1製油所は、昭和17年5月には航空ガソリン(オクタン価87)の生産を開始している。第1製油所は昭和17年9月に、第2製油所は、昭和18年1月に部分操業を開始した。なお、中部スマトラでは昭和19年9月、帝国石油隊により戦後インドネシア最大の油田となるミナス油田(カルテックス鉱区)が発見されている。29. 生産量暫減の国内原油生産国内原油生産には期待せず、南方生産への重点転換であったが、国内原油生産量は既に表2に示したように昭和15年度33.1万キロリットル、昭和16年度28.7万キロリットル、昭和17年26.3万キエッセー表11南方地域での石油精製量単位:1,000バレル/年(万キロリットル)昭和15年度 (1940)昭和17年度 (1942)昭和18年度 (1943)昭和19年度 (1944)昭和20年度 (1945)製油所通油量63,955(1,015)13,870(220)28,398(451)26,845(426)4,448(70)航空ガソリン自動車ガソリン 灯油 ジーゼル油潤滑油 重油4,61313,5857,076―37817,692出所:米国戦略爆撃調査団石油報告2,9372,4991,1202333016,9635,4113,6581,3125726875,5262,6561,20167479815,01314,4668296001931581072,166ロリットル、昭和18年度27.1万キロリットル、昭和19年度26.7万キロリットル、昭和20年度24.3万キロリットル(通産省「石油統計年報」)と減少傾向を示している。国内石油産業従事者の80パーセント近くを南方石油開発・生産要員として抽出、掘削機等の資機材搬出、鋼材等配給低減の中、かなりの生産水準を維持していると言える。国内生産の軽視は、坑井掘削数に顕著に現れ、昭和15年度の国内新規掘削坑井は140坑、これが昭和16年度、17年度には零、昭和18年度20坑、昭和19年度90坑、昭和20年(4?9月)128坑となっている。輸送ルートの途絶による南方石油の還送量減少と共に、再度国内生産増に方針が変更され、昭和19年度以降の掘削坑井数が急増している。(現代日本産業史Ⅱ石油)(次号に続く。参考文献は次号にまとめて掲載します)著者紹介岩間 敏(いわま さとし)早稲田大学法学部卒、日本経済新聞社、トヨタ自販系研究所勤務後、石油開発公団に入り通産省出向、ハーバード大学客員研究員、石油公団パリ事務所長、企画調査部次長、計画部長、経済評価部長、ロンドン事務所長、理事等を経て現在、JOGMEC参与。2006.1. 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