ページ番号1006214 更新日 平成30年2月16日

戦争と石油 (2) ~太平洋戦争編~

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レポートID 1006214
作成日 2006-03-20 01:00:00 +0900
更新日 2018-02-16 10:50:18 +0900
公開フラグ 1
媒体 石油・天然ガスレビュー
分野 エネルギー一般
著者
著者直接入力 岩間 敏
年度 2006
Vol 40
No 2
ページ数
抽出データ JOGMEC 特命参与iwama-satoshi@jogmec.go.jp岩間 敏エッセー戦争と石油(2)?太平洋戦争編?(前号:Vol.40 No.1の続きから)30. 米国のオレンジ作戦米国は既に、日露戦争当時から対日戦略を保有していた。明治37年(1904)年4月、日露戦争の勃発(同年2月)によりアジアの「バランス・オブ・パワー」が変化しつつあるのを考慮し、米国は「色彩作戦」の策定に入る。この作戦は国名を色に例えており、レッドは英国、ブラックはドイツ、オレンジは日本、グリーンはメキシコであった。したがって、対日戦争作戦は「オレンジ作戦」(1906)となる。ただ、この時点では米国が具体的に日本を仮想敵国化していたわけではなく、隣国メキシコを含め太平洋地域で力を持ちつつある国を対象としたと推定される。米国が真剣に対日戦略を考え始めたのは第一次世界大戦以後である。大戦参加の報酬として日本はドイツ領南洋諸島を入手し、太平洋に足場を確保する。米国第29代大統領ウォーレン・G・ハーディングは大西洋で英国と、太平洋で日本と同時戦争を避けるため1921年7月にワシントン会議を招集し、海軍の軍縮(参加国:米、英、日、仏、伊)とアジア・太平洋問題(参加国:軍縮国+中、ベルギー、蘭、ポルトガル)について討議した。海軍の軍縮問題では米5:英5:日3:仏1.67:伊1.67の主力艦隊保有率が決まり、9カ国条約で中国の門戸開放・機会均等とともに日本は山東半島の権益(青島等)を放棄した。対華21カ条要求(1915年)以前への復帰を求められ、4カ国条約(米、英、仏、日)では日英同盟の解消と太平洋における権利の相互尊重が決められた。この日英同盟の廃止(日英分離)、海軍の主力艦保有制限、日本の中国進出の制限等は米国外交・戦略力の成果であった。特に日英同盟の廃止は、「太平洋(日)と大西洋(英)からの挟撃を避けるために日英を分離」と言う米国外交の当初からの目的であった。この外交成果の上に、米国は昭和13年2月、統合幕僚会議で「新オレンジ作戦」を策定する。前年の昭和12年に日華事変が始まっていたため、この計画は内容が具体的で「日本は当初、米国のアジアにおける拠点、フィリピンを攻撃、これに対し米海軍主力艦隊は太平洋を西進し、日本海軍と艦隊決戦(同構想を日本海軍も保有)する」と言うもので、さらに、重要なのは「米国は太平洋の制海権を把握し、日本に対して海上封鎖を実施、日本経済を枯渇させる」との戦略である。さらに、米国の対日戦略は昭和16年1?3月に米陸海軍合同参謀委員会と英国統帥部との間で作成された「レインボー5号作戦」が基本になる。レインボー作戦は①欧州戦線優先、②太平洋戦線防御、③日本の経済的弱体化、④米国太平洋艦隊の適時攻勢使用―が概要で、具体的計画として太平洋海域の海上交通線の封鎖・破壊、日本の南方委託統治諸島(マーシャル諸島等)の占領等が主軸となっていた。開戦9カ月前に米英は既に対日共同戦略の策定・合意を終えていたことになる。31. 米海軍の具体的封鎖作戦日本は58万総トン*1のタンカー保有量で太平洋戦争に突入した。貨物船、客船等を含む船舶の合計は634万総トンでタンカーの占める割合は9パーセントであった。石油を求めて南方に侵攻したにもかかわらず、その輸送手段としてのタンカー保有数は少なく、戦争開始年の昭和16年度でも建造タンカーはゼロに近かった。この保有タンカーのうち大型の優良タンカーの半数以上は海軍に徴用(艦艇給油用)*2され、小型タンカーは外洋航海が困難であったため実際に南方石油の還送に使用出来たのは20万総トン前後であった。南方原油の還送量を年間300万キロリットルとした場合、1万総トン級のタンカーが年間10航海するとの前提で約30万総トン、還送量が年間400万キロリットルの場合は約40万総トン、企画院の想定による戦争3年目(昭和19年)の還送量450万トンのためには約45万総トンのタンカーが必要になる。この不足分充当のため、既存の貨物・鉱石船のタンカーへの改造、戦時標準型(簡易工法)タンカー等の建造が行われた。この日本のタンカーに対し米国は潜*1:米国戦略爆撃調査団石油報告は111隻、57.5万トン、飯野海運調査:48隻、45.6万トン、日本油槽船列伝:外洋航海可能48隻、44.8万トンと種々の数値あり。*2:日本海軍は開戦時11隻、16万トンのタンカー(給油・油槽特務艦)を保有:能登呂、知床、襟裳、佐多、尻屋は1万4,050トン、鶴見、石廊、隠戸、早鞆、鳴門は1万5,420トン、神威は1万7,000トンと比較的大型艦。うち、早鞆を除き10隻が海没。当時のタンカーは捕鯨母船改造タンカー(1万6,000?1万7,000トン)以外は、1万トン級が標準で1万トン以上は大型タンカーと言われた。71石油・天然ガスレビューGッセー(辰鳩丸他)に原油・石油製品(約3.6すず、ボーキサイト、マ万トン)、ゴム、錫ンガン等を積載し護衛艦6隻(旗艦:練習巡洋艦香椎)とともに日本に向かう途中、米機動部隊の艦載機(延べ250機)の攻撃を受けた。タンカー4隻、貨かく物船6隻、護衛船3隻が沈没ないしは擱し、船団は壊滅した。この攻撃を行った米海軍ハルゼー機動部隊(正式空母8隻、護衛空母8隻、艦載機1,000機、戦艦6隻、重巡洋艦7隻他)は、この時、南シナ海で商船35隻、艦艇12隻28万トン(昭和20年1月の喪失船舶数は42.5万トン)を葬り「ハルゼー台風の襲来」と言われた。座ざ最後の還送原油は昭和20年3月に瀬戸内海の徳山に到着した富士山丸(1万238総トン、積載原油1.6万トン)、光島丸(1万45総トン、積載原油・重油1.1万トン:その他錫60トン、ジルコン60トン)で、以後、途絶した。この光島丸が輸送した重油が沖縄へ出撃する戦艦大和に積み込まれたとも言われている。この両船は南号作戦*4第8次により、あまと丸(1万238総トン)と3隻で船団(ヒ96船団*5:海防艦3隻)を編成し、2月にシンガポールを出航したが、途中カムラン湾であまと丸が米潜水艦の電撃を受けて沈没、海南島付近で光島丸がB-29の空爆を受けて破損、同船は積荷の原油の一部(2,500トン)を放棄し、香港で修理後、日本つ滅めせんりし、輸送船団を待ち受け、包囲殲作戦を行った。加えて制海権・制空権を米国に奪われるに従い日本の輸送船さらされることに団は航空機の攻撃にも曝なる。32. 途絶えた還送原油開戦時58万トンの保有タンカーは戦争終結時の昭和20年8月には25万トン*3(うち可動6.3万トン)に減少している。外洋航海可能タンカーは「さんぢえご丸」(7,269総トン、三菱汽船)ただ1隻になっていた。単純減増でなく戦争中の建造が115万トン、喪失が148万トン(改造減等で差し引き合わず)となっている。米国の海上輸送路破壊作戦により日本が失った船舶数(除く軍艦、500トン以上)は2,259隻、814万トンで、うち486万トン(59.7パーセント)が潜水艦、247万トン(30.3パーセント)が航空機、40万トン(4.9パーセント)が機雷によるものであった。昭和20年に入るとパレンバン等の主要占領油田、製油所の石油生産量は空襲により激減し輸送船団の被害も増大した。昭和20年1月、ベトナムのブンタオ沖合での「ヒ86船団」の全滅により本格的石油還送は途絶した。この船団はタンカー4隻(さんるいす丸、極運丸、63播州丸、優情丸)、貨物船6隻表1日本のタンカー就航、建造、喪失等単位:万トン年度就航建造喪失昭和16年昭和17年昭和18年昭和19年昭和20年57.550.09750.097576.8919.750.4176.0837.9938.8056.2155.5475.4124.79 1.0332.46(9.5)(18.4)(77.9)(47.1)注:昭和16年度は16年12月?17年3月、昭和20年度:就航は8月、建造・引き渡しは4?6月、喪失は4?8月、就航は各年度の12月時点(除く20年)出所:『米国戦略爆撃調査団石油報告』、喪失の()は大内建二『商船戦記』光人社水艦、航空機、機雷を用いて集中的に攻撃を行った。太平洋へ投入された米国海軍の潜水艦は開戦時51隻(大型39隻、中型12隻)であった。当初、米国の潜水艦隊は魚雷(マー14型)の性能に問題(起爆・深度調整装置の不良)があったこと、開戦時、フィリピンのキャビデ港にある米海軍アジア艦隊の魚雷貯蔵庫を日本軍に爆撃され大量の魚雷(233本)を失ったことによる魚雷数の不足等で活動は停滞気味であった。しかし、昭和18年以降になると電池魚雷、魚雷用新トルペックス火薬、夜間潜望鏡の装備、潜水艦・機雷探知用FMソナーの開発、無音水深測深儀、敵味方識別装置(IFF)、マイクロ波SJレーダー(対艦船、航空機用)等の新兵器開発、搭載に加え、大西洋でのドイツのUボートとの戦いに教訓を得た「狼群戦法(集団包囲攻撃)」の導入により米国の潜水艦隊の攻撃能力は飛躍的に増大していった。昭和18年9月、米国海軍作戦部長E・Jキング大将は「潜水艦の最優先攻撃目標は日本のタンカー」との命令を出している。加えて潜水艦の配備数も増強され、昭和18年9月時点で118隻(大型100隻、中型18隻)と倍増した。この潜水艦の配備数の増加はその後も続き、昭和19年8月には約140隻、同年12月には156隻、昭和20年8月の戦争終結時点では182隻(大西洋と合わせた米海軍の全保有数は267隻)に達した。さらに日本に致命的であったのは、日本の輸送船団の港湾出発時刻、会合点、船団編成等の海軍暗号無線が解読されていたことである。海軍が自信を持っていた暗号(暗号?D他)は戦争期間中を通じほぼ解読されていた。米国の潜水艦隊は集団で会合地点に先回*3:大内建二『商船戦記』では34隻、21.4万トンの数値。*4:「南号作戦」=昭和20年1月に大本営より発令された南方石油輸送特攻作戦。昭和20年3月までに合計11回実施、タンカー30隻を投入、うち6隻が日本に帰着、合計還送石油量は17万キロリットル。*5:「ヒ船団」=シンガポール?日本の輸送船団、パレンバンの石油、バンカ島のボーキサイトが重要物資。タンカーは大型・高速船を使用。「ミ船団」=ミリ(ボルネオ)?日本の輸送船団、ミリの石油。中型以下低速船を投入。「タマ船団」=台湾高雄?マニラの輸送船団、「モマ船団」=門司?マニラの輸送船団。船団の往路(南下)は奇数、復路(北上)は偶数番号。2006.3. Vol.40 No.272岺?ニ石油(2)?太平洋戦争編?にたどり着いた。富士山丸は単船中国沿岸を北上、黄海を横断して朝鮮半島沿いに南下して徳山に帰着している。商船隊も特攻的航海を行っていたことが分かる。南方ルート「最後の輸送船団」はシンガポール発の「ヒ88丁船団」、輸送船8隻(うちタンカー3隻)、護衛艦8隻で3月29日、仏印沖で全滅した。33. 南方石油の配分南方石油(油田・製油所)の占領は陸軍、海軍が別々に行い、陸軍は産油地であるスマトラ、ジャワを占拠、海軍はボルネオ(カリマンタン)東岸のセレベス海に面したバリクパパン製油所、サンガサンガ、タラカン油田を接収し、その占領比率は陸軍85:海軍15であった。占領油田・製油所の操業は陸海軍が別々に行ない、政府の統制から離れて石油消費量、在庫状況は報告されなかった。陸海軍は陸軍省、海軍省の次官、局長で構成される「陸海軍石油委員会」を東京に設置、南方石油還送量、軍事用石油需要量、割当量を決める協議を開始した。海軍は接収した南方油田・製油所の供給量では大量の消費に追いつかず陸軍に石油供給の要請を行う状況が続いた。海軍は陸軍に対し、南方石油の50パーセント以上を生産しているスマトラへの石油開発参入の提案を行ったが陸軍側はこれを拒絶し、逆に海軍の生産量に対する余剰タンカー供出を求めるなど、油田・製油所占領後の昭和17年4月時点では、陸海軍双方で厳しい意見の対立があった。シンガポールにおいて月に1回の割合で陸海軍の石油担当者が会合し東京の「陸海軍石油委員会」(委員長:陸軍次官、海軍次官)の指示を協議して石油を輸送することでようやく合意となった。南方石油生産の大部分は陸軍、消費の大部分は海軍、輸送担当は海軍73石油・天然ガスレビュー表2戦時日本タンカーの種類、建造、喪失単位:万トン損失隻率パーセント種類隻総万トン喪失隻96.4在来タンカー 100.0在来貨物船改造 62.5既存小型貨物船改造 72.7 臨時改造タンカー 100.0戦時標準貨物・鉱石船改造 73.9戦時標準大型タンカー 83.8戦時標準中型タンカー 60.0戦時標準小型タンカー 67.0 戦時標準貨物船改造 72.9合計 注:純建造176.9万?(在来46.0万+在来貨物改造11.9万+既存貨物2.8万+臨時改造2.2)=114万トン出所:大内建二『商船戦記』光人社46.0 11.9 2.2 2.8 7.9 46.7 27.3 0.5 31.7 176.9 56 20 24 33 21 46 68 5 147 420 54 20 15 24 21 34 57 3 78 306 喪失総万トン45.2 11.9 1.4 2.0 7.9 35.4 24.2 0.3 20.5 148.7 修理中または改造中77.377.377.387.387.387.375.475.475.468.668.668.671.271.271.2海軍徴用59.259.259.257.957.957.955.955.955.9 656565陸軍徴用53.453.453.452.152.152.150.150.150.147.847.847.846.546.546.544.544.544.5民需用(南方輸入)万トン1009080706056.256.256.25049.749.749.74035.135.135.160.660.660.655.455.455.439.439.439.438.138.138.133.733.733.7民需用(日本内地)25,625,625,6302010086.186.186.178.878.878.872.872.872.872.572.572.570707083.583.583.577.177.177.166.166.166.164.864.864.862.862.862.827,6 27,610.110.110.17.67.67.67.47.47.435353512昭和16および17年616昭和18年16昭和19年18昭和20年出所:大井篤『海上護衛戦』学習研究社の数値より作成。オリジナル数値は日本陸海軍船舶運営会の提出資料を米国戦略爆撃調査団が整理。前述の「商戦戦記」数値とは合致せず図1太平洋戦争中の日本タンカー船腹推移表という構図は陸海軍間に様々な葛藤とそ ごを生み出した。海軍はシンガポー齟齬ルに海軍武官府(榎本隆一郎技術少将)を置き陸軍との調整に努めたが、陸軍の南方石油支配の構造は変わらなかった。海軍は昭和17年末には早くも南方石油の不足傾向を示し始めながらその後のソロモン海、ガダルカナル島攻防の消耗戦に突入していく。\3企画院の国内石油配分計画(戦争開始時)単位:万キロリットル表4企画院の国内石油消費量・在庫予測単位:万キロリットルエッセー昭和19年昭和17年 昭和18年 90.5 279.5 200.0 570.0 陸軍 海軍 民間 合計 注1:オリジナル数値はバレル。6.3バレル=1キロリットルで換算。注2:石油配分計画作成のために企画院は消費量、還送量等の予測値を作成した。作成者は最低の輸入量、戦争前の平時の消費量を使用しているが、開戦時においても3年間(昭和19年末)で石油在庫量がゼロになることが示されていた。100.0 250.0 200.0 550.0 120.0250.0200.0570.0昭和19年昭和18年 年初在庫 消費量 国内生産量 人造石油 南方還送 供給量計 在庫純取崩 年末在庫 注:オリジナル数値はバレル。6.3バレル=1キロリットルで換算、四昭和17年 811.0 570.0 25.4 25.4 30.2 81.0 488.9 322.2 322.2 549.2 30.2 30.2 200.0 260.4 288.9 33.3 33.3570.034.949.2452.4536.533.30捨五入で数値合致せず。出所:『米国戦略爆撃調査団石油報告』表5南方石油の生産と配分単位:1,000バレル(万キロリットル)年度南方原油生産量65,100(1,033.3) 昭和15年 25,939(412.4) 昭和17年 49,626(789.0) 昭和18年 36,928(582.1) 昭和19年 6,546(1,041) 昭和20年* 出所:『米国戦略爆撃調査団石油報告』日本への還送南方での消費・損失? 10,524(167.8) 14,500(230.5) 4,975(79.1) ? ?15,415(245.0)35,126(558.4)31,953(508.0) 6,546(104.1)表6海軍の1カ月平均重油消費量単位:万キロリットル年度重油国内消費量重油南方消費量重油消費計昭和16年度月平均 昭和17年度月平均 昭和18年度月平均 昭和19年度月平均 昭和20年度月平均 平均 13.00 12.60 11.30 8.34 2.44 11.11 注:昭和16年度=昭和16年12月6日?昭和17年3月31日昭和45年度=昭和20年4月1日?8月15日出所:三輪宗弘『太平洋戦争と石油』日本経済評論社0.00 17.90 18.00 14.50 3.02 15.27 13.0030.5029.3022.845.4626.38日本の大本営もほぼこの2ルートは推測していたが、米軍が2ルート同時進攻作戦を取るとは考えておらず希望的観測として「ニューギニア→パラオ→フィリピン→台湾・沖縄」のルートを取ってほしいと考えていた。連合艦隊もパラオ周辺を決戦海域に想定していた。これは艦隊用燃料が不足していたこと、昭和19年2月の米軍機のトラック島大空襲(海軍T事件*7)により艦隊随行タンカーが撃沈されマリアナ周辺海域(サイパン)で決戦を行うとタンカー不足により燃料補給に問題が生じることが予想されていたからである。北進する米艦隊を迎撃する第1機動艦隊(司令官小澤治三郎中将)はフ出所:『米国戦略爆撃調査団石油報告』34. 石油不足が決戦海域想定を限定昭和18年になると、米国は本格的攻勢を促進する。米国の軍事指揮系列は、ルーズベルト大統領、統合参謀長会議(議長:リーヒ海軍大将、メンバー:キング合衆国艦隊司令長官兼作戦部長、マーシャル陸軍参謀総長、アーノルド陸軍航空隊司令官)の下に、南西太平洋方面軍(担当区域:東経159度以西、赤道以南、フィリピン、ボルネオ、ジャワ、ニューギニア、豪州。司令官:マッカーサー陸軍大将)と太平洋方面軍(担当区域:残る太平洋地域、必要あれば全域。総司令官:ニミッツ海軍大将)があり、地域割りで作戦を遂行していた。陸軍が主体の南西太平洋方面軍はニューギニア→ミンダナオ→レイテ→ルソンのルートで北上する戦略をとり、海軍*6が主体の太平洋方面軍(含む海兵隊、陸軍、陸軍航空隊)は中部太平洋から真っすぐに北上し、日本と太平とうの補給路(ラバウル?トラッ洋の島ク、トラック─サイパン、サイパン─(グアム)─パラオ、サイパン─東京)を遮断する戦略で2ルートから日本に向かうことになった。嶼しよ*6:海軍の指揮系列はリーヒ(海軍大将)統合参謀長会議議長→キング合衆国艦隊司令長官兼海軍作戦部長→ニミッツ太平洋艦隊司令官→ハルゼー第3艦隊司令官、スプルーアンス第5艦隊司令官、キンケイド第7艦隊司令長官*7:昭和19年2月17?18日の2日間、トラック島は米艦載機の空襲を受け艦艇9隻、船舶34隻(20.5万総トン)が撃破された。1カ所の船舶損害としては太平洋戦争中最大。第3図南丸(1万9,263総トン)、神国丸(1万20総トン)、富士山丸(9,527総トン)、宝洋丸(8,692総トン)等5隻のタンカーを喪失。(数値:海上護衛戦)2006.3. Vol.40 No.274岺?ニ石油(2)?太平洋戦争編?ィリピンとボルネオを結ぶスルー列島南西端のタウイタウイ島(タラカン油田が近い)を待機海域とし行動半径は1,000マイル(1,600キロメートル)と設定*8されていた。この行動範囲圏にパラオ周辺海域が入り、石油、タンカー不足が想定艦隊決戦海域までも決める状況となっていたと言える。昭和19年5月、マッカーサー軍がニューギニア西部のビアク島に上陸、大本営は「米軍はビアク島からパラオ、フィリピンに来襲」と断定した。その2週間後、米太平洋方面軍がサイパンに進出して上陸前の空爆を開始したが大本営は「サイパン上陸作戦はない」と判断していた。米軍の上陸前爆撃・砲撃開始5日後の上陸当日に連合艦隊はようやく米国のサイパン上陸を認め迎撃「あ号作戦」(マリアナ沖海戦)を発令した。この発令の遅延は、大本営が米国の2方向同時進攻作戦(マッカーサーとニミッツは別ルートで進攻)を予測出来なかった結果である。実際の経緯はマッカーサー軍がニューギニアのビアク島に上陸し、待機していた日本のマリアナ地域第2攻撃集団とヤップ地域第3攻撃集団をビアク地域に転用した隙にマリアナ地域をニミッツ軍が強襲・上陸という絵に描いたような2方面作戦に振り回されたあと「あ」号作戦を発令している。海戦ではタウイタウイ泊地に集結していた日本艦隊はマリアナ沖出撃に備えフィリピン中部ネグロス島沖合ギマラス泊地に移動して燃料を補給し民需用タンカーを徴用後サンベルナルディーノ海峡を抜けてマリアナ海域へ向かっている(パラオ北西海域で再度燃料を補表7海軍の内地・南方月初在庫量、消費量累計8月 30.2 14.1 7月 42.4 16.2 昭和19年 重油 航空燃料 *:は昭和20年5月月初の累計注:?はデータなし。出所:三輪宗弘『太平洋戦争と石油』日本経済評論社9月 ? ? 10月 22.5 14.2 単位:万キロリットル11月 25.4 10.6 12月 11.7 10.0 開戦以来消費量累計1,029.1(1,051.9*)156.8(171.1*)給)。このマリアナ沖海戦で日本は空母3隻(正規:翔鶴、大鳳、商船改造:飛鷹)と艦載機395機を失い(米軍損害は艦艇小破5隻、艦載機117機=収納を急ぎ着艦後の海上放棄分を含む)、実質的に日本の空母機動部隊は壊滅した。米海軍は高度測定が可能な新型レーダー、接近破裂高射砲弾(VT信管)、時限信管、新型戦闘機(F6F)を投入し、アウトレンジ戦法(米機航続距離外からの発艦)を採用した日本海軍艦載機に決戦力はなくなっていた。アウトレンジ戦法は、本来、基地航空隊(当初推定1,750機)と共同して使用される予定であったが、基地航空隊は海戦までに消耗し百数十機が残存しているに過ぎなかった。この海戦には日本海軍の空母9隻、戦艦5隻、重巡11隻、軽巡2隻、駆逐艦28隻、潜水艦14隻、艦載機449機に加え、1万トン級の高速タンカー6隻(速吸、日栄丸、清洋丸、国洋丸、玄洋丸、あづさ丸)が参加した。この海戦で、うち2隻(清洋丸、玄洋丸)が空爆により沈没、他の4隻も昭和20年1月までにフィリピン、マレー半島沖合で雷撃により沈没している。日本海軍は、ミッドウエー海戦(昭和17年6月)で70万キロリットル、マリアナ沖海戦(昭和19年6月)で35万キロリットル、レイテ沖海戦(昭和19年10月)で23万キロリットルの石油を消費した。昭和19年後半には、日本海軍の保有石油量、タンカー(含む徴用)は艦隊行動を行うには不足する状態になり、大規模な艦隊行動はレイテ沖海戦が最後(連合艦隊の最終艦隊行動は昭和20年4月の戦艦大和の特攻)となる。注:このマリアナ沖海戦の日本側作戦書は米軍に渡っていた。昭和19年3月末、パラオの連合艦隊司令部は空襲を避けミンダナオ島ダバオに移動した。うち1機の二式飛行艇がセブ島沖に不時着、搭乗の連合艦隊参謀長福留繁中将、作戦参謀山本祐二中佐等9人が対日ゲリラに捕虜になる。その際、携行の暗号書、作戦書類(連合艦隊機密作戦命令73号=中部太平洋方面作戦書)を奪われた。同作戦書は潜水艦で豪州のマッカーサー軍に運ばれて翻訳(20部)され、その後のマリアナ沖海戦、レイテ沖海戦に活用された。福留参謀長以下は同島駐屯の日本陸軍とゲリラ側との交渉で釈放され、帰国後、究明委員会で査問を受けたが福留参謀長は「書類を処分」と釈明して不問となり、第2航空艦隊(フィリピン)司令長官に栄転した。兵には「戦陣訓」で生きて捕虜になることを厳しく諫めながら将官、高級将校はうやむやにするという統帥の乱れの参考例として有名である。不明1番機に搭乗していた連合艦隊司令長官古賀峯一大将ら9名は行方不明のままとなった。(海軍乙事件)35. シーレーン確保の思想が欠如していた日本海軍筆者の手元に、松井邦夫氏の労作「日本・油送船列伝」(成山書店)がある。この本には、日本の最初のタンカ*8:「米国戦略爆撃調査団石油報告」は、マリアナ海戦(昭和19年6月)に参加した日本艦隊は「航続半径は18ノット/時で2,500マイル(4,000キロメートル)、敵艦隊と接触した場合は20ノット/時で24時間、決戦の場合は全速力で12時間、追跡は24ノット/時で12時間との燃料指令」を受けていたと記している。軍艦の燃料消費量は速度に対し曲線的に増大する。大鳳(2万9,300トン)、翔鶴(2万5,675トン)級の正規空母の場合、18ノット/時航行を1として20ノット/時では1.5倍、24ノット/時では2.5倍、全速(大鳳33.3ノット/時)では9倍強の燃料消費量となる。空母は戦闘に入ると艦載機の発艦のために風上に向け30ノット/時以上の高速を出す。30ノット/時では5倍以上の燃料消費量となる。大鳳、翔鶴(ともに16万馬力)級の航行距離は18ノット/時で9,700海里(1万8,000キロメートル)?1万海里(1万8,500キロメートル)が30ノット/時の高速航行では1,940海里(3,600キロメートル)?2,000海里(3,700キロメートル)に落ちる。リンガ泊地(シンガポール沖合、当初の艦隊終結地)?タウイタウイ泊地=2,000キロメートル、タウイタウイ泊地?ギマラス泊地=700キロメートル、ギマラス泊地?サイパン=2,700キロメートル、タウイタウイ泊地?パラオ=1,800キロメートル。翔鶴の最大速力は34.2ノット/時、18ノット/時の約10倍の燃料消費量となる。艦船燃料使用量:軍艦燃料額率曲線を参考に算定。75石油・天然ガスレビューGッセー1943年春をピークとして活動数は減少していった。連合国側の商船損失量もこれに比例して減少した。大戦中に撃沈されたUボート数は781隻、ドイツ降伏による停戦命令が出された時(1945年5月4日)の活動Uボート数は43隻に減じていた。36. 開戦2年後の護衛艦隊設立日本の場合、海軍が海上護衛総司令部(司令長官及川古志郎大将)を設立したのは開戦2年後の昭和18年11月であった。戦況はガダルカナル攻防戦の敗退、中部ソロモン諸島への米軍上陸が始まり商船の累計喪失量が100万トンを超え、石油輸送ルートが寸断され始めていた時期であった。永野軍令部総長自身、発足時の挨拶で「今になって海上護衛総司令部が出来るということは、病が危篤の状態に陥って医者を呼ぶようなものであるが、国家危急存亡の秋、──」といっている。伊藤聖一軍令部次長は、昭和18年9月の大本営政府連絡会議で「潜水艦による船舶の損害を月3万トン程度に抑止するためには、護衛艦艇360隻、対潜航空機2,000機程度の常時整備・保有が必要」と述べているが実際に配備されたのは95隻(旧型駆逐艦15、海防艦18、水雷艇7、商船改造特設砲艦4、掃海艇12、哨戒艇4、駆潜艇13、漁船改造特設掃海艇22)で、このうち、外洋航海、対潜攻撃可能艦艇は52隻であった。護衛艦隊側からの艦艇増強の要請は戦闘艦建造至上主義の軍令部との対立を生み出したが増加する商船・タンカーの喪失率に軍令部も海防艦の増強を認めることになる。海防艦(丁型740トン、甲型940トン、搭載火砲12センチメートル砲2?3門)は、昭和16?20表9年度別海防艦建造計画、実績、喪失数年度建造計画隻数昭和16年 昭和17年 昭和18年 昭和19年 昭和20年 合計 30 ― 114 188 130 462 出所:大内建二『輸送船入門』光人社建造隻数既存4 0 15 101 51 171 喪失隻数― ― 2 20 50 72 保有隻数 4 4179899残存99表10年度別商船の建造・損失・保有量(昭和16年12月?昭和20年8月)単位:万トン年度昭和16年 昭和17年 昭和18年 昭和19年 昭和20年 合計 建造量0.78 30.86 79.29 171.09 55.14 337.16 損失量5.16 109.58 206.57 411.55* 150.26 883.12 累計損失量年度末保有量5.16 114.74 321.31 732.86 883.12 ― 638.44582.57467.56231.99137.92― *:昭和19年9?11月(レイテ決戦時)の3カ月間の損失量は133万トン、昭和20年1月までの5カ月間の損失量は195万トンと建造量を超えている。月別損失の最大は昭和19年2月の52万トン、同月は海軍の南洋基地トラック島が空襲を受け2日間で20万トンの損失を出している。注:昭和16年6月、海軍軍令部作成の船舶喪失量は戦争1年目(昭和17年)80万?100万トン、戦争2年目(昭和18年)60万?80万トン、戦争3年目(昭和19年)70万トン。第一次世界大戦時の英国の船舶喪失率10パーセントを基本に算定したと推測。出所:大内建二『商船戦記』光人社2006.3. Vol.40 No.276P071-088_エッセー07 06.4.14 10:52 ページ 76ーである宝国丸(帆船、94総トン、明治40年建造)から昭和20年の終戦までに就航・建造された全タンカー438隻の記録がある。このうち310隻(「商船戦記」数値306隻)が戦没している。ページ掲載の26隻すべてが沈没しているページもある。備考欄には「昭和19年3月27日、ジャバ海北部で米潜HAKEの雷撃を受け沈没」、「昭和19年11月26日、ボルネオ・ミリ北方洋上米潜PARGOの雷撃を受け沈没」等の簡潔な記述が淡々と続いている。防備のためのソナー、対空火器もないタンカーは攻撃を受けると簡単に炎上・爆発、沈没した。なぜ、このような状況が生じたかと言えば日本の陸海軍には基本的に補給や護衛という概念が薄く戦闘艦中心主義が支配していたためであった。き擲て同じ状況(島国、資源なし、外部からの補給が必要)にあった英国は第一次大戦のドイツのUボート攻撃による海上封鎖を教訓に開戦とともに護衛艦隊を編成、最終的には護衛空母43隻、艦艇800隻を保有し対潜水艦戦略を実とう魚雷=ヘ施した。対潜兵器(前方投ッジホッグ)の開発、センチ波レーダー、大船団方式(コンボイ方式:60?80隻の大輸送船団+護衛艦+護衛空母)、対潜水艦戦術(航空機+護衛艦の組み合わせ)等、ハードとソフトの組み合わせにより大戦後半には大西洋でのドイツ海軍のUボートの活動をほぼ封じ込めることに成功している。大戦中に戦闘参加したドイツのUボートは1,060隻と多数であったが、表8(参考)大西洋における連合国・中立国の商船喪失量1939年 1940年 1941年 1942年 1943年 1944年 1945年* 75.5万トン399.2万トン432.9万トン779.1万トン322.0万トン104.7万トン45.9万トン*:1945年は1?5月出所:大内建二『輸送船入門』光人社岺?ニ石油(2)?太平洋戦争編?年度で計462隻の新造が計画されたが実際に建造されたのは167隻であった。護衛総司令部発足の1カ月後、各鎮守府、警備府の保有航空機(252機)を集めて護衛艦隊航空団901空(館山)が編成された。商船改造の護衛空母4隻(雲鷹、海鷹、大鷹、神鷹)と931空(佐伯:48機)が配備・新設されたが商船船団との連携運用がうまくいかず空母4隻のうち3隻は初出撃で米国潜水艦の雷撃を受け沈没、1隻は瀬戸内海呉で米海軍機動部隊艦載機の攻撃を受け大破擱座している。海防艦の能力は、米国と比べ潜水艦探知装置(聴音機、探信機)の電子機器能力(真空管機器)が劣り信頼性に問題があった。また、英国護衛艦が装備しその有効性が確認されていた前投射式爆雷は日本では最後まで開発されなかった。致命的であったのは護衛艦の速度(時速16.5ノット)が遅く浮上してジーゼル航行(時速20ノット以上)する米潜水艦を追い掛けられず、また搭載火力も米潜水艦の方が大きく海防艦が逆襲を受けることもあった。米英海軍が大西洋で使用していた大船団輸送方式を採用したのは昭和19年4月からであったが昭和20年に入り船舶数が減少すると船団はかえって潜水艦の目標になるとして再度単独航海に変え特攻輸送船団の組み直し等輸送戦術(ソフト)しのぎの運用が行われた。面でもその場凌昭和19年4月米国海軍キング作戦部長は米潜水艦に対し「商船より護衛艦ほふれ」との指令を出した。「潜を先に屠水艦を駆る護衛艦が潜水艦に駆られる」との逆転現象が生じていた。日本の海防艦は戦時促成造船方式で建造され使用鉄板も商船並みであったため攻撃を受けた場合の被害が大きく雷撃を受けると即沈没に至った。乗り組み士官は海軍兵学校出身でなく商船学校や一般大学・高専卒の予備士官が多かった。海防艦は171隻が配備され、うち72隻が撃沈されている。77石油・天然ガスレビュー37. 船舶獲得闘争昭和17年8月に始まったソロモン諸島のガダルカナル島争奪戦は、米軍の本格的反攻であったが、同時に船舶・航空機・兵員の消耗戦となった。米軍は最強の海兵隊2万を上陸させ、日本海軍が数日前に完成させたばかりの飛行場を制圧し制空権を確保した。建設途上から偵察飛行を行い完成と同時に占領したのである。この島は、海軍の前線基地ラバウルから1,000キロメートルの距離(日本からの直線距離5,600キロメートル)にあり、長距離飛行が可能であった海軍のゼロ式戦闘機でも同島上の滞空戦闘時間は15分が限界であった。日本軍は兵力の逐次投入(一木支隊、川口支隊、第2師団、第38師団等)により最終的に3万4,000名の兵員を上陸させたが制空権のない補給作戦で大量の船舶を失っていた。昭和17年11月、参謀本部の第1部長(作戦)田中新一中将と作戦課長服部卓四郎大佐が陸軍省(陸相東條首相兼務)に新作戦用として船舶37万トンを要求した。同時期、海軍も25万トンを要求している。陸軍省は民需用の絶対確保量300万トンを確保するためにこの要求を蹴ったが参謀本部はさらに要求を続け、田中中将は軍務局長佐藤賢了少将と参謀本部内で「将軍同士の殴り合い」まで行っている。陸軍上層部が南方での兵員・船舶の消耗戦の中、打つ手に詰まっていたことが見てとられる。さらに、開戦1年目に近い12月6日、官邸で東條首相、陸軍省木村次官、佐藤局長、参謀本部田辺次長、田中部長が船舶供給問題について議論中、民需用船舶の削減に応じない東條首相に田中部長は「この馬鹿野郎」と怒鳴なり、これに対し東條首相は「君は何事を言いますか」と青白く変わった顔で静かに応えたと言われている。翌12月7日、田中部長は南方軍総司令部付へ転出し万トン700634634634622622622460460460445445445600500400300607607607425425425563563563526526526383383383海軍徴用396396396陸軍徴用454454454351351351265265265263263263278278278263263263258258258民需用244244244200100031531531527027027024124124122122122119219219218418418412昭和16および17年616昭和18年16昭和19年18昭和20年出所:大井篤『海上護衛戦』学習研究社の数値より作成。オリジナル数値は船舶運営会。前述の「商船戦記」の数値とは合致せず図2太平洋戦争中の日本商船(100総トン以上)使用先推移表繧ノビルマ駐屯第18(菊)師団長として、作家古山高麗雄の小説「フーコン戦記」の舞台、ビルマ戦線の最激戦の一つであるフーコン作戦(昭和18年10月、米軍式訓練・新式重装備の中国軍第38師団との戦闘)を指揮することになる。田中部長はこの事件の直後、上席である杉山参謀総長の所に行き辞任を申し出ている。この田中部長の行動は作戦部長として戦略的に打つ手が見出せず辞任の契機を自ら作り出したとの推測もある。参謀本部はこの後も執拗に船舶を要求していくがガダルカナル島の戦況はさらに悪化し、駆逐艦による夜間輸送(東京急行)、潜水艦による輸送も効果は無く昭和18年2月、陸海軍は同島を放棄した。半年間の激戦の後、投入兵員3万4,000人のうち、昭和18年2月の撤退時(転進)の人員は1万4,000人、戦死者約1万9,200人、うち1万1,000人が戦病・餓死と言われている。ガダルカナル島の攻防戦が日本軍の敗北・撤退によって終了した昭和18年2月の段階で日本は主力艦艇、航空機、特に熟練操縦士、輸送船を大量*9に失い、以後、守勢に回ることになった。明らかな国力の差による消耗戦に直面したと言える。38. 船舶問題の問題点1.000トン4500.04178.54178.54178.54000.03500.03000.0その他3142.43142.43142.43281.83281.83281.8エッセー3287.43287.43287.4燐鉱2500.02000.01500.02301.62301.62301.62278.12278.12278.12131.62131.62131.62128.82128.82128.81986.31986.31986.31828.81828.81828.81556.31556.31556.3非鉄鋼鉄鋼2415.22415.22415.22393.12393.12393.12192.22192.22192.22187.12187.12187.12021.92021.92021.91826.81826.81826.82323.42323.42323.42304.32304.32304.32208.52208.52208.52197.22197.22197.22084.52084.52084.51898.71898.71898.71524.91524.91524.91411.11411.11411.12247.02247.02247.02218.72218.72218.72044.52044.52044.52037.22037.22037.21869.21869.21869.21636.11636.11636.11334.71334.71334.71000.0500.00.0石炭油類穀類2099.12099.12099.11497.21497.21497.21485.51485.51485.51395.41395.41395.41392.11392.11392.11297.71297.71297.71149.21149.21149.2942.3942.3942.31990.21990.21990.21301.51301.51301.51298.71298.71298.71116.31116.31116.31110.51110.51110.51008.51008.51008.5810.4810.4810.4714.2714.2714.2塩1204.01204.01204.0897.5897.5897.5888.4888.4888.4876.1876.1876.1874.8874.8874.8829.0829.0829.0721.8721.8721.8667.2667.2667.2318.8318.8318.8273.2273.2273.2273.2273.2273.2255.0255.0255.0255.0255.0255.0221.5221.5221.5219.6219.6219.6219.0219.0219.0612昭和16および17年月昭和20年出所:大井篤『海上護衛戦』学習研究社の数値より作成。オリジナル数値は船舶運営会。各数値は積上昭和19年昭和18年816161合計値、品目別の数値は上下値の差図3太平洋戦争中商船(500総トン)以上によって輸送した主要物資表11日本商船(100トン以上)の使用先推移単位:万トン時期陸軍徴用海軍徴用180 180 177 181 29 開戦当初の船舶配分 (開戦8カ月目の見込(予定) ガダルカナル戦直前(昭和17年8月) 昭和18年1月 昭和20年8月 *:うち75万トンは破損で使用不能、実働145万トン以下注:日本の民需用船舶が最低工業生産量維持300万トンであったのは南方作戦が終了し、陸軍の解徴が行210 100 138 162 7.6 われた昭和17年8?12月の5カ月間出所:大井篤『海上護衛戦』学習研究社。オリジナル数値は船舶運営会民需240 350 311 263 184 合計630630626607220*この船舶供給は、前述の総力戦研究所のシミュレーションでも戦争の命運を決定する最大の要因として検討されたが船舶保有量・新造船供給量・喪失量等が現実の数値として出てくるようになると開戦1年を待たず大きな問題となった。太平洋戦争開始時、日本は630万トンの船舶を保有していた。このうち、工業生産力を維持し、国民経済に必要な物資を供給するためには民需用300万トンの船舶が必要と推測されていた。開戦当初、陸海軍の徴用船舶はフィリピン、マレー、蘭印等の上陸作戦用のため急増し390万トンになっていた。民需用船舶は必要量(300万トン)より60万トンの不足であったが作戦終了とともに徴用を解除し、昭和17年7月には民需用船舶数は350万トンへ回復させる計画であった。ガダルカナル戦直前、陸軍は138万トンを徴用していたがこのうち70万トンは病院船、タンカー、軍需品輸送に使用されており、残る68万トンが作戦に使用可能な船舶であった。この68万トンをガダルカナル戦に振り向けたが20万トン強を撃沈され10万トンは損傷し修理が必要になった。参謀本部は、過去3回の攻撃(①一木支隊、②川口支隊、③第2、第38師団)の失敗を超え同島維持のため*9:海軍の艦艇喪失は空母1、戦艦2、重巡3等34隻、13万トン、航空機約893機:(半藤一利『遠い島ガダルカナル』PHP)、昭和17年8月?昭和18年2月の期間、ガダルカナル海域での輸送船喪失39隻、約20万総トン(数値:大内建二『輸送船入門』光人社)2006.3. Vol.40 No.278ノ従事した乗組員は約7万1,000名、うち3万5,000名(4万6,000名の説もある)が死亡している。死亡率は49パーセントでこれは日本陸海軍の軍人死亡率19パーセントの2.6倍である。う航こ増大する船舶の被害、物資(鉄鋼)の不足に対し究極の対応策としてコンクリート船の建造が計画・実行されている。昭和18?19年に南方石油還送用の半潜水式コンクリート製バージの建造が始められた。海軍艦政本部ではこえい式石油のコンクリート製バージ(曳タンク:石油搭載量1,000トン)120隻の建造計画を立案したが実際に完成したのは5隻であった。このバージは海軍へ納入されたが既に建造(50隻)されていた鉄製バージ(全長60メートル、石油搭載量1,400トン)と同様、タンカーに曳航させた場合の無舵バージ操船の困難さ、航海速力の低下、潜水艦の雷撃危険性の増大等問題が多く船会樺太樺太樺太キスカ1幌莚幌莚幌莚(パラムシェル)(パラムシェル)(パラムシェル)千島列島千島列島千島列島小樽小樽小樽青森青森青森30呉呉30東京東京東京29小笠原諸島小笠原諸島小笠原諸島369フィリピンフィリピンフィリピンサイパンサイパンサイパン105ダバオダバオ12パラオパラオ1613ハルマヘラハルマヘラハルマヘラ74マーシャル諸島マーシャル諸島マーシャル諸島2クエゼリンクエゼリンクエゼリントラックトラックトラックセレベスセレベスセレベス8ラバウルラバウルアンボンアンボンニューギニアニューギニアニューギニアガダルカナルガダルカナル出所:大井篤『海上護衛戦』学習研究社、『面白いほどよくわかる太平洋戦争』日本文芸社他を基に作成図4閉鎖された通商ルート関釜連絡線は下関港がこの機雷投下により封鎖状態になり、発着港は博多、山口県(日本海側)仙崎、さらには須崎と移っていった。昭和20年6月には「天皇の浴槽」と言われていた日本海にも米潜水艦(9隻)が侵入(対馬海峡→宗谷海峡)し17日間で27隻、5.4万トンを雷撃、沈没させた。戦争終了直前の昭和20年7月には青函連絡船も攻撃を受けた。7月14日、青森県東方海上約200キロメートルに接近した米海軍第38機動部隊(空母4隻、艦載機248機)は青函航路を攻撃し14隻の青函連絡船のうち11隻が沈没している。北海道は孤立し瀬戸内海をはじめ本土周辺でも海上輸送はほとんど困難になっていた。戦争終結時、日本は2,568隻、883万トンの商船を失っていた。残存商船は1,217隻、134万トン(運行可能船舶80万トン)であった。戦争中、海上輸送閉鎖された通商ルート昭和19年4月末まで昭和19年12月末まで昭和20年8月15日まで終戦時に利用されていたルート満州国満州国満州国大連大連大連元山元山3435青島青島青島連雲港連雲港連雲港中華民国中華民国中華民国上海上海上海朝鮮朝鮮朝鮮長崎長崎長崎3233沖縄沖縄沖縄2526台湾台湾台湾高雄高雄高雄23ビルマビルマ香港香港香港27ラングーンラングーンタイ海南島海南島海南島151428マニラマニラマニラ25仏印仏印仏印17サイゴンサイゴン182219112120シンガポールシンガポールミリミリミリ24スマトラスマトラスマトラパレンバンパレンバンパレンバンボルネオボルネオバリックパパンバリックパパンバリックパパンバンカ島バンカ島バンカ島(ボーキサイト)(ボーキサイト)(ボーキサイト)スラバヤスラバヤジャワジャワジャワ戦争と石油(2)?太平洋戦争編?には船舶数70万トンが必要と計算し手持ち運用可能33万トンに加え37万トンの徴用を要求した。参謀本部は、この徴用は作戦遂行のために必要な船舶数であり、かつ、要求は「統帥権(作戦)の範疇」で政府(陸軍省)の口出しは無用と考えていた。一方、陸軍省は作戦だけでなく、戦争経済全般を見る必要があり、当時の試算では30万トンの船舶徴用は鉄鉱石の運搬量減等により鉄鋼生産が年間120万トン減ずると推測していた。また、制空権なき海域に輸送船団を出しても米軍の艦載機、陸上機に攻撃され国力の低下を引き起こすと判断していた。これが参謀本部と陸軍省の対立のもとになり先述の田中作戦部長の東條首相罵倒問題まで発展するが最終的には昭和17年12月に陸軍38万トン、海軍3万トンの徴用が認められている。当初の潜水艦による米国のシーレーン封鎖作戦は制海権・制空権が米軍の手に移るに従い航空機による攻撃の比率が上がっていった。太平洋海域はもちろんのこと、東シナ海、南シナ海もゆう日本の輸送船団攻撃の米機動部隊が遊くする海域になっていった。昭和19年末には「船団輸送」は困難になり、昭和20年1月、大本営は輸送特攻作戦「南号作戦」を発令した。弋よさらに、サイパン島の陥落(昭和19年7月)によりB-29爆撃隊が同島に進出すると日本周辺の海峡・海域に多数の機雷が投下され始める。この作戦は昭和20年3月以降促進され投下機雷総数は1万2,000個(関門海峡4,990個、周防灘666個、若狭湾611個、広島湾534個、神戸・大阪付近380個)になり、この機雷に触れて通過船3隻につき1隻が沈没し、国内海上輸送も麻痺状態になった。下関と朝鮮半島の釜山を結ぶ39. 崩壊・途絶する海上輸送路79石油・天然ガスレビューミでは使用反対の声があり実際の使用状況は不明である。また、昭和19年に海軍艦政本部は武智造船(兵庫県高砂市)に戦時標準貨物E型コンクリート船(800総トン)の建造を発注している。同船の仕様は、全長60メートル、全幅10メートル、航海速度9.5ノット、舷側厚11センチメートル、船底厚15センチメートルであったが同タイプの鉄鋼船(鋼材使用量350トン)に比べ4割弱の鋼材使用量(135トン)で済むこと、内海へ投下された磁気機雷に対し感応が小さく安全性が高いとの利点がうたわれた。このコンクリート船は昭和20年8月までに4隻(最終船完成は8月)が完成し海軍の呉、横須賀、佐世保の各鎮守府へ納船されている。海軍艦政本部は航海試験後、25隻のコンクリート船を発注する計画であったが敗戦によりそれ以上のコンクリート船の完成には至らなかった。40. 物資とともに海の藻屑となった兵員日本軍は、物資と同様に兵員輸送に貨物船を使用していた。連合国の多くは客船、専用兵員輸送船を兵員輸送に使用したが日本では開戦時、1万総トンを超える客船は19隻しかなく、それらは病院船、潜水艦母艦、空母(隼鷹、飛鷹、大鷹、海鷹等11隻)等へ改造され兵員の輸送主力は貨物船であった。船内(船倉)には2?3段の木製のカイコ棚が設置されて兵員居住区に改装、上甲板へは木製の階段があるだけで裸電球照明の薄暗い船内に兵士が詰め込まれた。5,000?7,000総トンの貨物船に2,000?5,000人程度の兵員が乗船した。通常、兵員1人の輸送には3トンの船舶が必要だとされていた。6,000総トンの船では2,000人が適正であったが、5,000人の輸送となると1人当たり1.2トンに占有面積は減少し、積載食糧、兵器、弾丸が減少する等の諸問題が発生した。換気装置がない船倉内は、人いきれで空気はよどみ、南方海域の航海では蒸し風呂状態になった。この他、上甲板にはトラック・大砲・資器材等に加え可燃物の自動車用ガソリンが積み込まれた。空きスペースには最小限数かわやが海にせり出してのバラック作りの厠いた。この状態で敵潜水艦が待ち受ける南シナ海、台湾海峡を航海したため、雷撃を受けた場合の犠牲は大きかった。魚雷の衝撃で木製の階段が飛び、電球が消えると脱出することも出来ず、そのまま海底に沈んでいった輸送船が多かったという。戦時の輸送船の実情を克明に調べた大内建二氏の労作『輸送船入門』、『商船戦記』(ともに光人社)には、戦没輸送船の犠牲者数上位30隻の一覧表が掲載されている。海沈犠牲者の最大数は、隆西丸の約5,000人である。戦時編成の2?3個連隊が、戦場に到着する前に、雷撃により海没している。上位10隻の合計犠牲者数は約3万人で1.5個師団、上位30隻の合計犠牲者は約6.6万人で3個師団の兵員と兵器・弾薬が戦う前に海没したことを示している。これに対し、米国は太平洋戦争中に1万総トン級の兵員専用輸送船を54隻就航させその輸送能力は20万人(戦時、米軍は兵員輸送船99隻、揚陸兵員輸送船203隻)を超えていた。その他、給糧船(30隻)として民間の冷凍貨物船エッセーを改装して食糧等を輸送した。この船は牛肉を多く輸送したことから「ビーフ・ボート」とも呼ばれていた。専用兵員輸送船は安全性も考慮され大型ゴムボートが甲板・舷側に置かれ緊急時には多数のゴムボートが海面に浮かぶように工夫されていた。大西洋では、当時、最大級の英国の客船クイーン・エリザベス号(8万3,700総トン)、クイーン・メリー号(8万1,200総トン)も兵員輸送船として活用され1度に1個師団(1万5,000人以上)の兵員を輸送した。客船のためトイレ・シャワー、食堂が完備され、武装も堅固であった。大型船の場合、15センチ砲から対空機関砲までの軽巡洋艦級装備がなされ速力28?30ノットで航海し、Uボートの速力(20ノット)を凌駕していたため単船運用でも安全性が高かった。41. 松根油の生産昭和19年に入るとタンカー船腹の喪失とともに南方石油の還送量は減少していく。一方、太平洋での戦いは昭和19年7月のサイパン島守備隊の玉砕により最終段階に入り東條内閣が崩壊する。サイパン島の陥落により同島に米軍の戦略爆撃機B-29(爆弾搭載量9トン)が進出し日本本土が爆撃範囲(同機の最大航続距離は約9,380キロメートル、本州、九州、四国、沖縄は3,000キロメートルの半径内)に入っ表12海没輸送船犠牲者数(上位5船)船名犠牲者数(人)総トン数4,805 9,590 7,089 9,433 5,705 船種貨物船 貨物船 上陸強襲船* 貨物船 海沈時 1944.2 1944.8 1944.6 1944.11 1944.6 攻撃 雷撃 雷撃 雷撃 雷撃 雷撃 上陸強襲船* 1 隆西丸 2 玉津丸 3 富山丸 4 摩耶山丸 5 日錦丸 *:日本陸軍(運行は民間海運会社)が太平洋戦争中に開発。1942?1945年に9隻完成。摩耶丸の場合、船倉内、上甲板に40隻の大発(上陸用舟艇)を積み込み、兵員が乗り込んだまま海面へ下ろされる。1回で約1,000人の兵員発進が可能であったが強襲上陸作戦には使用されず兵員輸送船として使用。4,9994,7553,6953,4373,219出所:大内建二『商船戦記』、『輸送船入門』光人社2006.3. Vol.40 No.280岺?ニ石油(2)?太平洋戦争編?た。この頃、再度、国内原油生産の見直しが行われたが人員の南方派遣、掘削機等の資器材の搬出により増産効果は期待薄であった。また、人造石油の生産は目標生産量の10パーセント強と低迷し満州で製造された人造石油の輸送も朝鮮海峡が米国潜水艦に脅かされるようになると支障が出始めていた。この逼迫した状況の中、昭和19年3月、ベルリンの海軍駐在武官から「ドイツでは松から航空機燃料を生産している」との情報が入った。海軍は直ちに調査に乗り出し、軍令部、海軍省軍しょう(神奈川県大船)、需局、海軍第一燃料廠農商務省山林局、林業試験場間で検討がなされ「松根油からガソリンの生産は可能、国内資源(松林)からの生産見込み量は約100万キロリットル」との報告がなされた。内務省、陸軍も松根油の生産に関心を持ち松根油生産計画が立案(昭和20年3月閣議決定)された。計画では年間30万キロリットルの松根油生産が目標で「200本の松の根で航空機が1時間飛ぶことが出来る」がスローガンであった。必要とされる乾留釜は3万7,000基、鉄不足で国民から鉄器の供出が行われるなか、乾留釜の製造が行われ林や山の松の木が日本中で延べ4,000万人が動員されて掘り起こされた。昭和20年6月時点で150万トンの松の木が掘り起こされ、うち75万トンが乾留されて10万トンの松根油が生産された。このうち6.5万トンが各地の海軍燃料廠、民間製油所へ送られた。しかし、松根油から高オクタン価の航空ガソリンを製造する技術は確立されておらず、出来た試作ガソリンは不安定でゴム含有量が多く自動車エンジンに使用すると焼き付け等の支障が発生し航空機には使用出来なかった。米国戦略爆撃調査団石油報告は、「こうした計画が戦争に及ぼした唯一の現実的な影響は日本が労働力と装置日本石油秋田製油所への爆撃は、グアム島(3,500キロメートル)を発進した第20空軍部隊第315爆撃団のB-29、13481石油・天然ガスレビュー表13(参考)液体燃料工場の空襲被害状況石油人造石油アルコール単位:1,000キロリットル/年処理能力3,560 1,170 1,100 70 1,220 昭和19年末現在 空襲の被害 疎開による機能停止 整理による能力低下 昭和20年8月 注:米戦略爆撃調査団の数値とは異なる出所:日本石油「調査旬報」昭和21年3月工場数22 13 9 3 8 製造能力工場数製造能力工場数0 55 ─ ─ 35 8 5 ─ ─ 3 135 44 ─ ─ 91 188──10の不足している最中その双方を奪い取ったこと」と分析している。昭和20年代になって、台風、豪雨時に各地で土石流が発生し大きな被害をこうむるという形で松の木を掘り起こした後遺症が表れることになる。42. 壊滅する国内の製油所昭和19年1月24日、サイパン島からのB-29による日本本土への本格的空爆が開始された(最初の本土空爆は昭和17年4月、ドゥーリトル中佐指揮のB-25、16機)。石油施設への爆撃は昭和20年2月の日本石油横浜製油所が最初で、その後、清水の東亜燃料(3月)、東京の日本石油(3月)、徳山の第3海軍燃料廠(5月)、大竹の興亜石油、岩国陸軍燃料廠の製油所、貯蔵タンク、宇部の帝国燃料興業の人造石油工場等と続いた。6月22日には、四日市の第2海軍燃料廠が攻撃を受けた。同燃料廠への爆撃は徹底的で十数回行われ設備は壊滅した。石油施設への爆撃は敗戦の当日8月15日(秋田の日本石油)まで実施された。製油所および人造石油工場への爆撃は計39回、投下爆弾量1万600トン(日本全土総計15万3,000トン)であった。機により、14日午後10時から翌15日午前3時頃まで行われた。爆弾954トン、爆弾数にして1万2,000発が投下されうち約1,250発が製油所敷地内(損害率91.4パーセント)に落ちた。日本石油従業員・家族48名(米国戦略爆撃調査団数値は44名)を含む87名が爆死している。この空襲は、トルーマン大統領が日本の降伏を発表しレーヒ統合幕僚会議議長がすべての米軍に「攻撃作戦の即時停止」を指令してから3時間38分後に行われている。同製油所は最後まで空襲を受けず周辺の油田地域からの原油供給で稼働(昭和20年4?8月4万キロリットル=1,900バレル/日の製品を製造)していた。この空襲が太平洋戦争での「最後の日本本土爆撃」になった。日本の製油所、人造石油関連施設に投下された爆弾(1万600トン)は石油精製能力8万7,650バレル/日の75パーセント、人造石油製造能力2,805バレル/日の90パーセントに損害を与え石表14米国が日本に投下した爆弾量(昭和19年4月?昭和20年8月)単位:トン 10,558 37,097 96,362 144,0187.3石油産業 その他の産業 都市地域 合計 石油産業の比率 (パーセント)注:この他に9,000トンが投下出所:『米国戦略爆撃調査団石油報告』羽剔?量47.1万バレル(7.5万キロリットル)を消失させた。(数値:米戦略爆撃調査団石油報告)43. 戦艦大和と燃料戦艦大和は日本海軍の象徴であったが同時に戦争4年目の日本の石油事情を表していた。昭和20年4月、沖縄海域へ出撃、撃沈されたが「大和は片道燃料で出撃」との説が現在でも比較的広範に流布している。これは当時の石油事情を表現しているが実際はどうであったのか。昭和20年4月1日、米軍は沖縄本島に上陸し地上戦に合わせ日本の陸海軍の特攻機2,000機以上が突入する戦闘が行われていた。この中で、還送石油の減少・途絶と南方の連合艦隊基地(トラック)の制空権・制海権喪失とともに内地に引き揚げ、瀬戸内海の柱島泊地でブイに係留されていた戦艦大和にも沖縄への出撃命令が出た。沖縄守備隊陸軍第32軍の総攻撃に合わせ洋上特攻作戦を主張したのは連合艦隊首席参謀神重徳大佐(開戦前親独・開戦強硬派、昭和20年9月、搭乗機が津軽海峡に不時着して死亡)であった。神大佐は普段から「神がかりの神」と言われていたが「断じて行えば、鬼神もこれを退く。天佑は我にあり」と熱弁し、大和出撃を推進(本人も乗艦を希望したとの説あり)した。(参考)米国のサイパン島上陸の際(昭和19年)、神大佐は軍令部中沢作戦部長に「自分を戦艦山城の艦長に任命して欲しい。サイパン島に乗り上げ米軍を撃破したい」と要請し、同作戦部長から「君も理科系の知識があると思うが、大砲を打つのにも電気系統が生きていなければ弾が出ない。山城の乗員を失う結果となり同意できない」と拒否されている。(『日本海軍戦場の教訓』PHP)成算がなく、犬死」として作戦に反対であった第2艦隊司令長官伊藤聖一中将(前軍令部次長)は、「一億特攻の先駆けになってもらいたい」との連合艦隊草鹿龍之介参謀長の言葉に、「それならば、何をかいわんや。よく了解した」と回答・受諾したと言われている。4月5日、電令作第607号「7日黎明時、豊後水道出撃、8日黎明時、沖縄西方海面に突入」が発令されている。この唐突、場当たり的とも言える大和出撃の背景として、3月29日、軍令部総長及川古志郎大将が沖縄方面の戦況を天皇に奏上の際、天皇より「海軍にもう艦はないのか」と下問され、恐縮して下がりこのご下問が及川総長から連合艦隊司令長官豊田副武大将へ伝えられている。この経緯が、急遽、海上特攻立案への伏線になったとの見方もある。44. 往復燃料は搭載戦艦大和(艦長:有賀幸作大佐)の諸元は、公式排水量6万9,100トン、全長263メートル、最大幅38.9メートル、乗員2,800人、最大速度27.5ノット/時(51キロメートル/時)、航続距離7,200海里(1万3,300キロメートル:巡航16ノット/時)、満載燃料搭載量6,400トン(7,400キロリットル)である。連合艦隊の作戦計画(GF機密第060837番電)では搭載燃料は2,000トン以内(片道分)であったが、連合艦隊参謀(補給担当)小林儀作大佐等が2,000トンの指示燃料搭載に加え帳簿外重油(タンク底重油)を2,000トン追加給油して往復分の燃料を搭載したと言われている。軍令部、連合艦隊司令部では、「大艦を局地戦で使用するのは問題あり」として「沖縄戦では使用しない」との考えが大勢を占め、積極的出撃論者は少なかった。「航空支援のない出撃は小林大佐の手記「戦艦大和の沖縄特攻作戦について」では「各艦には往復燃料を補給する。しかし連合艦隊命令で重油は片道分のみ補給と命令されているので片道分は帳簿外重油より補給エッセーする。上司報告(求められた時のみ)には片道分の重油搭載を発令し積み過ぎて余分を吸い取らせたが出撃に間に合わないのでそのままにしたとする。燃料所管の呉鎮守府参謀長橋本少将他の承認を得て呉海軍軍需部長に命令を出し各艦に燃料を補給した。正式に残っている文書はなく、戦後、刊行物にそしりを受け片道燃料、無情の海軍との謗ているが事実は以上の通り」と記述されている。この第2艦隊第1遊撃部隊(戦艦1、巡洋艦1、駆逐艦8)の搭載燃料は、戦艦大和(燃料4,000トン)、軽巡洋艦矢矧(同1,300トン満載)、駆逐艦:雪風、磯風、浜風、朝霜、霞、初霜、冬月、涼月(同各500?900トン満載)の合計で1万500トン(呉、徳山で積み込み)であった(前述の光島丸の徳山到着は3月24日)。ただ、搭載燃料は「重油タンクの底からポンプで汲み出し、一部駆逐艦への搭載燃料は満州産大豆油が混合されて航行時大豆の臭いがした」等の諸説があり、海軍の保有燃料は極端な逼迫状態で光島丸の持ち帰った重油がこの艦隊に積み込まれたどうかは不明である。この大和の出撃に対し南方輸送路が寸断され、満州、朝鮮半島からの輸送路確保(穀物、塩等の輸送)に忙殺されていた海上護衛総司令部参謀大井篤大佐は、「南方輸送への割り当て重油7,000トンを大和に回すため3,000トンに減らす」との連絡を受け、激怒している。「4,000トンの重油供給減は、大陸からの物資輸送の輸送船護衛に影響を及ぼし、戦争経済の視点が欠如している」と判断したからである。同大佐は「帝国海軍水上部隊の伝統の高揚─」、「片道だけの燃料に忍びず、往復給油──」等の言葉に対し、「場当たり的出撃、戦況に影響を与えない精神主義、講談的人情論的判断はさらなる戦況悪化をもたらした」と批判している。2006.3. Vol.40 No.282岺?ニ石油(2)?太平洋戦争編?大和の航続距離は、16ノット/時航行で7,200海里(1万3,300キロメートル、消費燃料6,400トンを基本に計算)、呉から沖縄西方海上は、航路によるが直線片道約1,500キロメートル、往復約3,000キロメートルである。4,000トンの石油搭載量では巡航速度(16ノット/時)で約8,300キロメートルの航行が可能となるが軍艦の場合速度の上昇とともに燃料消費量(蒸気タービン4基4軸、15万馬力)は急増し、18ノット/時で1.3倍*10、24ノット/時で3.5倍、最大速度の27ノット時では4.7倍程度になる。大和は出撃後、九州坊の岬沖を18ノット/時、米艦載機の攻撃時は24ノット/時で航行しているが単純計算で沖縄往復3,000キロメートルのうち2,000キロメートルを18ノット/時、1,000キロメートルを24ノット/時で航行した場合、消費燃料量は約3,000トン弱、最速戦闘行動時での消費(残り1,000トン)を考慮しても往復の航海はギリギリ可能であったと推定される。この、大和以下の沖縄特攻を連合艦隊からの電報で知った沖縄守備隊陸軍第32軍司令官牛島満中将は出撃中止の至急電起案を参謀に命じている。その電文は「ご厚志千万かたじけなくは存ずるも、制空権いまだ確保しあらざる本島付近に対し、挺身攻撃の至難なるかんがみ、決行お取り止め相成度」べきに鑑であった。陸海軍の意思不通・作戦の唐突性が攻撃実施前から表れていた。大和を含む出撃艦隊10隻は4月7日、九州坊の岬沖90海里(約170キロメートル)の地点で米第58機動部隊(第5艦隊の傘下、司令官マーク・M・ミッチャー中将)の米艦載機367機(撃墜6機、他帰艦後放棄6機、戦死14名)の攻撃を受け沈没(北緯30度43分17秒、東経128度4分、水深340メートル)した。(A)海軍 陸軍 民間 合計 (B)海軍 陸軍 民間 合計 出撃した第2艦隊のうち佐世保へ帰還したのは駆逐艦冬月、春風、初霜、涼月の4隻、海上特攻の戦死者は3,729名であった。45. 底をつく石油昭和20年5月の海軍の日本国内における保有石油は重油5万4,000キロリットル、航空機用ガソリン2万7,000キロリットルになり、海軍の艦隊行動は極端に制限され大型艦艇は港に停泊されたまま艦載機の攻撃を受けることになった。石油の民間消費も極端に制限されていった。特に民間の自動車用ガソリンの消費は昭和15年度の100万4,000キロリットル(1万7,000バレル/日)から昭和19年には4万1,000キロリットル(700バレル/日)、昭和20年(4?9月)は1万7,000キロリットル(290バレル/日)まで減少した。自動車用ガソリンは緊急車両を除きほぼ全面的に禁止されバス等の公共交通車両は木炭・木材等の代替燃料に置き換えられた。航空機用ガソリンの不足も顕著でアルコール混合ガソリンを使用可能にするためのエンジン改造がなされ昭和19年10月には訓練部隊でのアルコール混合率は20パーセントを超え、20年初頭には一部ではアルコール・エンジンともいえる混合率80パーセントへの改装表15国内石油消費量単位:1,000バレル(万キロリットル)昭和17年昭和18年昭和19年昭和20年14,213(226) 4,246(67) 7,335(116) 25,794(409) 13,630(216) 5,152(82) 9,052(144) 27,834(442) 11,045(175) 4,342(69) 4,014 (64) 19,401(308) 2,663(42) 904(14) 1,015(16)4,582(73) (428) (81) (153) (662) (57)(15) (9) (81)(483) ( 92) (248) (823) * (317) (67) (84) (468) *:他に陸軍130万、海軍360万、民間230万、計720万の数値もある。注:国内石油消費量は種々ある。ここではA、Bの2例を参考にした。実態的にはBの数値が実態に近いと推察される。出所:A:『米国戦略爆撃調査団石油報告』、オリジナル単位はバレル、1キロリットル=6.3バレルで換算。数値は年度。昭和20年度数値は4?9月B:三輪宗弘『太平洋戦争と石油』日本経済評論社(オリジナル数値は日本海軍燃料史)表16日本(含む満州、朝鮮、台湾)の石油在庫単位:1,000バレル(万キロリットル)年度昭和16年 昭和17年 昭和18年 昭和19年 昭和20年1Q 昭和20年2Q 原油20,857(427) 12,346(196) 6,839(109) 2,354(37) 195(3) 193(3) 製品28,036(446) 25,883(412) 18,488(294) 11,462(182) 4,751(76) 2,836(45) 計48,893(777) 38,229(608) 25,327(403) 13,815(220) 4,946(79) 3,029(48) 出所:『現代産業発達史「石油」』交詢社、石油消費量、在庫量は種々あるが調整、修正をせずそのまま記述*10:燃料使用量は軍艦燃料額率曲線を参考に算定。(数値等:吉田満、原勝洋『ドキュメント大和』文芸春秋社)83石油・天然ガスレビューェ試みられている。オクタン価も92から87へ低下していった。訓練期間の短縮(総時間30?50時間)、技量の低下、燃料の低質化、非熟練工員(女学校生等の動員)の航空機組み立て等により、昭和19年には新造機の空輸中の喪失率は短距離飛行で10パーセント、海上飛行では30パーセントに達し、製造した航空機が途中で墜落し基地に届かない状況が生じている。専門的知識・訓練が必要な航空機製造熟練工の徴兵の結果であった。昭和20年7月1日の石油の国内在庫は約48万キロリットルまで低下した。この在庫量は開戦直前に企画院が使用した石油備蓄量数値840万キロリットルの5.7パーセントで、国内の石油はほぼ底をついた状態になった。海軍の艦艇は5月以降、機能を停止(大部分は海底かく座)している。広島(8月6日)、長崎(8月9日)への原爆投下、ソ連の参戦(8月8日)はポツダム宣言の受け入れを促進させ昭和20年8月15日の敗戦を迎えたが、昭和20年11月には日本の残存産業も石油の枯渇により停止状態になることが見込まれていた。米軍は昭和20年11月1日のオリンピック作戦を準備中(トルーマン大統領承認済み)で、九州志布志湾を中心に米第6軍(兵力82万人、車両14万輌、航空機7,000機)が上陸を予定しており、さらに、翌21年3月1日には史上最大のコロネット作戦(九十九里浜、相模湾上陸)が立案されていた。海上封鎖、爆撃により工業生産力は払底し、日本軍の新兵器であるベニヤ板製特攻艇「震洋」、人間機雷「伏竜」(海中に潜り頭上通過の敵上陸上用舟艇を棒状機雷で攻撃)から鉄棒、木銃、弓等までかき集めた武器が本土決戦用として準備されていた。かろうじて免れた本土決戦、1億玉砕であった。エッセー表17自動車用ガソリンの消費量(本土内)昭和15年度 昭和16年度 昭和17年度 昭和18年度 昭和19年度 昭和20年度  陸軍1,258 1,260 1,196 1,031 907 377 注:昭和20年は4?9月出所:『米国戦略爆撃調査団石油報告』海軍283 345 376 447 252 94 単位:1,000バレル(万キロリットル)民間6,323 1,583 1,070 1,049 257 106 合計7,864(1,248)3,188(503) 2,642(419) 2,527(401) 1,416(225) 577(92) 46. まとめとして盧 自衛自存とは「陸軍はアジアの解放を叫んで──その実、石油が欲しいのだろう。石油は米英と妥協すれば幾らでも輸入出来る。石油のために、一国の運命を賭して戦争をする馬鹿がどこにいる」。これは開戦直前、石原莞爾陸軍予備役中将(満州事変、満州国建国の企画者、東條陸相と対立し、昭和16年3月、第16師団長から予備役編入)が陸軍参謀本部第一部長(作戦)田中新一中将に直言した言葉と言われている。南方石油の確保、自衛自存体制の確立とは、当初、昭和16年6月、米国の石油製品輸出許可制の実施を受け陸軍省燃料課が提示した南方油田確保案に対し東條陸相が「泥棒は駄目だ。もっと(人造石油等を)研究してこい」と言ったように、「南方資源の確保は他国の石油を盗りにいく」ことであった。これは米国の石油禁輸に対する最もちょくせつ的解決策ではあったが、南方石油直截の供給(還送)を維持するためには、大量の輸送船、護衛艦隊、航空機等による膨大な支援態勢が必要であった。元々、日華事変で国力の限界を示した日本が100万の軍隊を中国に駐留させて戦線を維持(戦闘)しながら超大国である米国と広大な太平洋を舞台に戦争をし補給路を維持する力はなかった。陸軍、総力戦研究所の試算でもこのことは明確にされていた。海軍軍令部の試算では、「輸送力は精確なる算定は至難である」とし「不足分は造船能力により補充可能」と曖昧にしていたに過ぎない。実情はこれらの試算を上回る船舶喪失により補給路を昭和17年春から昭和18年末までわずか2年弱保持できたに過ぎない。それ以降、米潜水艦隊の攻撃により日本が最大の目的とした南方資源の還送は減少・途絶している。昭和16年8月の「米国の石油禁輸が日本を戦争へ走らせた」との主張については、「石油禁輸は日本自ら袋小路に入り込み開戦の引き金にはなったが戦争への主原因はそれ以前の過程にある」との説が説得力を持つと思われる。日本の行動は確実に戦争(拡大)への路を歩んでいたが故に米国の経済制裁(石油禁輸)を受け、それを契機として開戦に走ったと言える。昭和恐慌、満州事変、国際連盟脱退、日華事変、太平洋戦争開戦の歴史は、日本の政治、軍事、文化、教育、民度(含マスコミ)等の縮図・積上げであり昭和16年12月8日でなくともいずれ戦争へ突入したと推測される。盪 南方資源確保とは昭和18年5月、御前会議で「大東亜政略指導大綱」が決定された。この中に「マレー、スマトラ、ジャワ、ボルネオ、セレベスは帝国の領土と決定し2006.3. Vol.40 No.284岺?ニ石油(2)?太平洋戦争編?重要資源の供給地として極力その開発と民心の把握に努める」との文章があるが、「この方針は当分の間、発表しない」となっていた。「表」ではアジアの植民地を解放し、大東亜諸民族の協力により「大東亜共栄圏」を建設するとのスローガンは、「裏」では欧米各国の植民地を自衛自存のために日本の領土と化し、重要資源の供給地とする方針が隠されていた。この時期、昭和18年2月には米軍の本格的反攻の始まりであったガダルカナルからの撤退(転進)が行われ敗色の気配が既に出ていた。同年11月、「大東亜政略大綱」に基づき、占領地の引き締めのため東京でアジア各国の指導者(張景恵満州国国務院総理、汪兆銘南京国民政府行政院院長、ワンワイタヤコーン・タイ王国首相代理、ホセ・ラウエル・フリピン大統領、バー・モウ・ビルマ共和国国家主席、チャンドラ・ボース自由インド政府首班)を集めて「大東亜会議」が東條首相主導の下で開催された。この会議ではインドネシア、マラヤは日本の領土(予定)とみなされ代表の参加は認められなかった。会議自体は盛大に開催され大東亜宣言(共存共栄、自主独立、互助敦睦、伝統尊重、人種差別撤廃、資源開放)が採択されたが、一方で、各地での重要資源の略奪的調達、現地住民の強制就労、民族文化の軽視、日本文化の強要等が行われ、一部では農作物(米、砂糖等)の徴収により米作地帯で飢饉に近い状況が発生していた。欧米の宗主国より経済力が低い日本の占領・収奪により各国の経済循環(原料資源の輸出→工業製品の輸入)が停滞・破綻の状況を示し「大東亜共貧圏」への道を歩んでいた。占領地での日本軍票の乱発により、インフレが進行し各地では反日運動や抗日ゲリラ活動が発生することになる。戦時占領経済政策、資源収奪の破綻の表面化であった。蘯 政治・外交・戦略・戦術の貧困太平洋戦争の記録・資料を追っていくと、「戦争は米国の物資に敗れた」と言う戦争指導者、特に軍人が多い。これには「物量があれば勝てていた」との意味が言外にある。しかし、物量の差は戦争開始前の国力差(GNPで10?20倍、石油生産量で700倍等)を知れば戦争前から当然のことであり、近代戦争、総力戦が国力を含むものである以上、冒頭の言葉は戦争専門家としては単なる釈明・弁解に過ぎない。問題はソフト(外交、戦略、戦術)に弱く、北進、南進論と国の基本方針が短期間で大きく揺れたことである。近代的国家の中でこのように短期間に国の基本方針が揺れ動き最終的に「バスに乗り遅れるな」、「清水の舞台から飛び降りる」的発想で国の命運を賭した国は少ない。戦争開始後も第1段階の南方進出作戦終了後、第2段階の行動が想定されておらず、海軍は敵を求めてセイロン島攻略作戦等でインド洋をゆうよくしている。自存自衛のスローガン遊弋からは、本来、確保した資源の輸送確保の諸策(護衛艦隊整備、護送戦術・兵器の開発等)を確立し、持久体制を構築すべき時に時間と燃料を浪費している。結果的には、作戦範囲は開戦時の想定より広がり米豪遮断を意図して消耗戦のガダルカナル、ニューギニア戦へと進み兵站能力を考慮しない豪州、ハワイ占領作戦も検討されていた。豪州作戦約200万トン、ハワイ作戦約150万トンの輸送船が必要となり、図2の船舶使用実績に重ねると可能性がないことが判明する。陸海軍については、無敵関東軍、最強連合艦隊、不沈戦艦(艦隊決戦思想が中軸)等の神話・伝説が流布されていたが中国軍、植民地軍とは異なる近代軍隊である米軍との戦闘では日本軍の欠陥が現れ米軍側が準備不足であったミッドウエー海戦までの初期段階を除いて敗北を重ねていった。戦術的には敵兵力の下算、兵力の逐次投入、情報の軽視・処理能力の不足、補給の貧困、パターン化した作戦、精神論の強調・希望的観測からの判断等を露呈し、後半戦においては物量以前の情報、人員、兵器を効率的・合理的に運用する能力不足により作戦とは言えない玉砕、特攻を強いていくことになった。昭和史研究の第一人者である保阪正康は「日本の戦争指導者の責任は大きく、戦争をどう考えていたかの疑問に行き着く。戦争は政治の延長(政治で話がつかないから戦争が存在)であるとのクラウゼビッツの戦争論、軍事力がい心、復讐心、戦闘意学論から離れ敵愾欲を高揚する精神論としての玉砕、特攻が利用された。兵士の問題でなく戦争指導者の質の問題である」と述べている。一方、米国は基本方針として日本の三国同盟加盟により戦争は避けられないと判断し、国民の参戦意欲の高揚を見ながら、開戦後、日本を経済的に崩壊させる物資途絶・封鎖作戦を実施している。真珠湾後、空母中心の機動部隊編成・運用(戦艦も空母の護衛艦として使用)、能力中心の戦時人事の採用、マニュアル化による航空機等の操縦者の大量育成、艦艇のダメージコントロール力の強化、飛び石上陸作戦の採用による分散された日本軍の遊兵化、システム化された暗号解読による情報の分析等により戦争3年目の昭和19年段階では、日本の陸海軍は玉砕戦以外にとる作戦がなくなっている。「日本の軍人は規則による封建的な進級によっており兵は強いが軍中央部は恐れるに足りない」と、連合国占領軍最高司令官D.マッカーサー元帥(戦時は、南西太平洋方面部隊総司令官:大将)が回顧している。また、政すべがなか治が軍事に引きずられ、なす術ったが「それでもなお日本国は、政略も戦略もない自滅的な多面戦争を続け85石油・天然ガスレビューGッセーていて、支えているのは正義体系(イデオロギー)だけだった」と、自らも学徒動員を受け軽戦車隊の下級将校であった作家司馬遼太郎の言葉の意味は大きい。盻 石油消費大国日本現在の日本は、高度経済成長期、バブル経済とその崩壊を超え経済の成熟期にある。開戦直前の昭和15年の石油事情と現在のそれとを比較すると石油の消費量では8万バレル/日と530万バレル/日と68倍となっている。石油消費世界第3位(1位米国、2位中国)、石油輸入世界第2位(1位米国、3位中国)、精製能力世界第4位(1位米国、2位中国、3位ロシア)と石油大国であるが自給率は0.3パーセントに過ぎずほぼ全量を輸入に依存している。本稿で見てきたように、太平洋戦争開始前の日本は石油の備蓄、石油産業の再編、海外開発の権益の確保、人造石油の開発、高性能揮発油の技術導入、表18(参考)日本の太平洋戦争開戦直前と現在の石油事情比較昭和15年(1940) 現在1次エネルギーに占める石油の割合 原油生産量 石油消費量 石油備蓄量 石油備蓄日数 石油輸入先割合 石油輸入量 11パーセント 48.9パーセント(2003) 5.7万バレル/日 7.8万バレル/日 840万キロリットル※ 1.4万バレル/日 529万バレル/日 8,743万キロリットル 678日 171日分*※ 米国81.0パーセント 10.2万バレル/日 中東88.9パーセント 539万バレル/日 *:2005.5現在、IEAベース(半製品、製品在庫を含む)※:企画院ベース比4.4 0.25 67.810.40.25―52.8蘭印からの石油輸入交渉等現在も活用され得る可能な限りの対応を試みている。しかし、国家存立の基本である国際協調、周辺各国との友好関係樹立の失敗によって、すべての対応策が瓦解・構築不能になり四面楚歌に陥ったことも判明する。石油エネルギー政策面では単純ながら、これらを再考しながら、大局的な友好・善隣外交関係の構築を行い、自主開発原油の開発、中核的石油開発会社の育成(国内群立企業の統合→海外M&A)、石油開発技術(IT技術の活用)の促進、石油備蓄の拡大(石油環境に合わせた増量)、天然ガスの利用拡大(含国内幹線パイプライン網)、炭化水素エネルギーの多様化等の長期・継続的な努力以外に経済的発展およびそれを支える石油(資源)の安定供給の道はないと言える。引用・参考資料・文献(前号分も含む)1. 米国戦略爆撃団・石油・化学部報告―日本における戦争と石油、石油評論社(奥田英雄・橋本啓子訳編)2. 太平洋戦争と石油―戦略物質の軍事と経済、三輪宗弘、日本経済評論社3. 現代日本産業発達史「石油」、現代日本産業発達史研究会、交詢社4. 「満州における日本の石油探鉱」、小松直幹、石油技術協会誌 平成17年5月号5. 石油技術者たちの太平洋戦争、石井正紀、光人社6. 陸軍燃料廠、石井正紀、光人社7. 輸送船入門、大内建二、光人社8. 商船戦記、大内建二、光人社9. 日本・油槽船列伝、松井郁夫、成山堂書店10. 帝国石油50年史(経営編)、帝国石油11. 日本石油100年史、日本石油12. 三菱石油50年史、三菱石油13. 満州帝国、太平洋戦争研究会、河出書房新書14. 石原莞爾その虚構、佐高信、講談社15. 「満州帝国」がよくわかる本、太平洋戦争研究会、PHP16. キメラ―満州国の肖像、山室信一、中央公論社17. ノモンハンの夏、半藤一利、文芸春秋社18. 昭和史、半藤一利、平凡社19. コミック昭和史(1?8巻)、水木しげる、講談社2006.3. Vol.40 No.286岺?ニ石油(2)?太平洋戦争編?20. 昭和史の論点、坂本多加雄、秦郁彦、半藤一利、保阪正康、文芸春秋社21. 昭和史の謎を追う(上)、(下)、秦郁彦、文芸春秋社22. 現代史の対決、秦郁彦、文芸春秋23. 日本の選択-8―満州事変、世界の孤児へ、NHK取材班、角川書店24. 日本の選択-5―対日仮想戦略「オレンジ作戦」、NHK取材班、角川書店25. 開戦通告はなぜ遅れたか、斉藤充功、新潮社26. 日本人はなぜ戦争をしたか―昭和16年夏の敗戦、猪瀬直樹、小学館27. 真珠湾までの365日、実松譲、光人社28. 陸軍省軍務局と日米開戦、保阪正康、中央公論社29. 参謀本部と陸軍大学校、黒野耐、講談社30. 陸大物語、甲斐克彦、光人社31. 海軍大学教育、実松譲、光人社32. 陸軍良識派の研究、保阪正康、光人社33. 東條英機と天皇の時代、保阪正康、筑摩書房34. 大本営が震えた日、吉村昭、新潮社35. 昭和16年12月8日―日米開戦・ハワイ大空襲に至る道、児島襄、文芸春秋社36. 太平洋戦争日本の敗因-1―日米開戦勝算なし、NHK取材班、角川書店37. 太平洋戦争上・下、児島襄、中央公論社38. 太平洋戦争がよくわかる本、太平洋戦争研究会、PHP39. 太平洋戦争の失敗・10のポイント、保阪正康、PHP40. 太平洋戦争日本海軍戦場の教訓、半藤一利、秦郁彦、横山恵一、PHP41. 私観太平洋戦争、高木惣吉、光人社42. 遠い島、ガダルカナル、半藤一利、PHP43. ガダルカナル戦記(第1?3巻)、亀井宏、光人社44. 戦略・戦術でわかる太平洋戦争、太平洋戦争研究会、日本文芸社45. 面白いほどよくわかる太平洋戦争、太平洋戦争研究会、日本文芸社46. 図解雑学太平洋戦争、文浦史郎、ナツメ社47. 最強作戦入門―ドイツ通商破壊戦、瀬名堯彦、光人社48. 戦争学、新戦争学、村松つとむ、文芸春秋社49. 戦争論上・下、クラウゼビッツ、中央公論新社50. 30ポイントで読み解くクラウゼビッツ戦争論、PHP51. 指揮官・参謀、児島襄、文芸春秋社52. あの戦争は何だったのか―大人のための歴史教科書、保阪正康、新潮社53. マクロ経営学から見た太平洋戦争、森本忠夫、PHP54. イギリスの情報外交―インテリジェンスとは何か、小谷賢、PHP55. 日本海軍失敗の研究、鳥巣建之助、文芸春秋社56. 日本軍の小失敗の研究、三野正洋、光人社57. 続・日本軍の小失敗の研究、三野正洋、光人社58. 20世紀日本の戦争、阿川弘之、猪瀬直樹、中西輝政、秦郁彦、福田和也、文芸春秋社59. 戦争の日本近現代史、加藤陽子、講談社60. やっぱり勝てない?太平洋戦争―日本海軍は本当に強かったのか?シミュレーション・ジャーナル社61. 戦争分析―マリアナ航空決戦、歴史群像2006年2月号、学習研究社62. 日本はなぜ敗れるのか―敗因21カ条、山本七平、角川書店63. 一下級将校の見た帝国陸軍、山本七平、文芸春秋社64. 誤算の理論、児島襄、文芸春秋社87石油・天然ガスレビューGッセー2006.3. Vol.40 No.288現行訂正壬丘油田群20数抗ロータリー抗ボーリング抗綱堀抗47抗陸軍兵器廠API32中国第3位API28.7(単位:万トン/年)840万トン690万トン150万トン1トン=1.163キロリットル977万キロリットル840万トン30万トン100万トン250万トン100万トン200万トン30万トン200万トン450万トン(注)1トン=1.163キロリットル試算は1年目(9カ月操業)=30万トン、以後、?戦争をしたか」)抗井抗井は140抗20抗90抗128抗抗井数任丘油田群20数坑ロータリー坑ボーリング坑綱掘坑47坑陸軍燃料廠API度32生産量中国第3位API度28.7(単位:万キロリットル/年)840万キロリットル690万キロリットル150万キロリットル*削除840万キロリットル840万キロリットル30万キロリットル100万キロリットル250万キロリットル100万キロリットル200万キロリットル30万キロリットル200万キロリットル450万キロリットル*削除試算は1年目(9カ月操業)坑井坑井は140坑20坑90坑128坑坑井数行─1625263311015─注1下から5下から21下から20下から18下から16下から15下から142134592左列図中前号の訂正表頁525360表9表10中右61左右6264著者紹介岩間 敏(いわま さとし)早稲田大学法学部卒、日本経済新聞社、トヨタ自販系研究所勤務後、石油開発公団に入り通産省資源エネルギー庁出向、ハーバード大学中東研究所客員研究員、石油公団パリ事務所長、企画調査部次長、計画部長、経済評価部長、ロンドン事務所長、理事等を経て、現在、JOGMEC参与。65. 天皇と戦争責任、児島襄、文芸春秋社66. 天皇独白録、寺崎英成、文芸春秋社67. ドキュメント戦艦大和、吉田満、原勝洋、文芸春秋社68. 海上護衛戦、大井篤、学習研究社69. 太平洋戦争終戦の研究、鳥巣建之助、文芸春秋社70. かくて、太平洋戦争は終わった、川越重男、PHP71. 日米戦争と戦後日本、五百旗頭真、講談社72. 昭和陸軍の研究(上、下)保阪正康、朝日新聞社
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2006/03/20 [ 2006年03月号 ] 岩間 敏
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