ページ番号1006249 更新日 平成30年2月16日

イスラム文化との接近遭遇(その 2 ) ~国を持たない民族~

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レポートID 1006249
作成日 2006-11-20 01:00:00 +0900
更新日 2018-02-16 10:50:18 +0900
公開フラグ 1
媒体 石油・天然ガスレビュー
分野 エネルギー一般
著者
著者直接入力 庄司 太郎
年度 2006
Vol 40
No 1
ページ数
抽出データ エッセー石油鉱業連盟企画調査部長t.shoji@sekkoren.jp庄司 太郎イスラム文化との接近遭遇(その2)?国を持たない民族?ある。国もいろいろである。 いずれにせよ、世界中にはさまざまな形態の国が存在する。しかし、そんな現代世界のなかにおいても、国を持てない民族がいることは、あまり知られていない。 過去2,500年間も国が持てなかったユダヤ民族の悲劇*1は有名であるが、そのユダヤ人に「約束の地」だから出ていけと言われ、国を追い出されたパレスチナ人は、現在パレスチナ暫定自治政府*2が認められているとはいえ、国としてはまだ不完全な状態であり、国を持たない民族の範にあると言ってよかろう。 中東や北アフリカのイスラム諸国には、国を持たない、ないしは国を中途半端な形でしか持てない民族が多数存在する。代表格は、クルド人や前述のパレスチナ人であろうが、カスピ海西岸の旧ソ連邦から独立した諸国は複雑な民族問題を抱えており、民族ごとの独立運動が今でも盛んである。 民族ごとに国として独立できない事情があり、国を持てない民族が内戦や流浪の状態に陥っている。共産主義の崩壊により、民族や宗教の違いを希釈し、社会主義国家としてイデオロギーで統一していた諸国は、その箍がなくなり国としてのアイデンティティを民族や宗教に求めるようになった。旧疇ちたがはんゅう 現在においても国の形態はさまざまであるが、ヨーロッパにおける国民国家の成立により、国家の成立する条件が、王権神授説から絶対王制、そして民衆による革命を経て共和制へ移行し、国民の権利が増大して国家の枠組みを決める憲法が生み出され、国民間の権利・義務の配分の原理が主権者により決められることになった。 しかし主権者については、まだ王様である国もあれば労働者階級のみの国もあるし、すべての国民である場合も主し 世界には、過去においても現在においても国を持たない民族が多数存在する。この場合「国」とは、過去においては王制・帝政などの専政国家を指し、せんゅまた、たとえその国が僭制でも、領土を持ち、その中で徴税、警察、外交、つかさど宗教などを司る権限を、その集団内の誰かが、個人ないしは集団で持ち得る仕組みを持った領土的広がりを言うのであろう。国を持たない民族40ギリシャギリシャグルジアグルジアアルメニアアルメニアアゼルバイジャンアゼルバイジャンアゼルバイジャンアゼルバイジャンウズベキスタンウズベキスタントルクメニスタントルクメニスタントルコトルコキプロスキプロスシリアシリアエジプトエジプトベイルートレバノンシリアパレスチナ自治政府イランイランイラクイラククウェートクウェートバーレーンバーレーンカタールカタールアラブ首長国連邦アラブ首長国連邦サウジアラビアサウジアラビアオマーンオマーンヨルダンイエメンイエメンイスラエルガザスーダンスーダン302010 N30 E40出所:外務省HPを参照にJOGMEC作成050500km100060中東概略図*1:脚注は編集部が付した。文末に出典を括弧書きで記す。紀元前10世紀ごろ、古代ユダヤ人はユダヤ教を国教とする古代イスラエル王国をパレスチナに建国したが、紀元前586年に新バビロニアにより滅亡した。7~10世紀にカスピ海北部にハザール王国が出現し、ユダヤ教を国教とした。以来2,500年以上確固たる民族(宗教)国家を持たず、ローマ帝国に反乱を鎮圧されて以降はほとんどの国民がヨーロッパを中心に世界各国へ散らばった。以降ユダヤ教徒としての各地への定着が進む。「ユダヤ人」は世界に離散後もそのほとんどがユダヤ教徒であり(キリスト教やイスラムに改宗した途端、現地の「民族」に「同化」してしまう)、ユダヤ教の唯一にして永続的な宗教的聖地でもあるイスラエルの地に帰還することもその理由の一つである。しかし、イスラエルの地(パレスチナ)には既に多くのアラブ人が住んでいたため、現地で度重なるパレスチナ戦争が引き起こった。戦争が終結した現在も、イスラエルでのユダヤ人を狙った無差別自爆テロ攻撃が絶えず、またパレスチナでは住民の虐殺およびインフラ(社会基盤)への攻撃がやまない(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋)。*2:(Palestinian National Authority, PNAまたはPA)ヨルダン川西岸地区およびガザ地区の大半を名目上管理する自治機関である(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋)。59石油・天然ガスレビュー006.11 Vol.40 No.660エッセーが真実であろう。ユダヤ人の大銀行家ひもと一族、ロスチャイルド家*5の歴史を繙けば、中世から現代まで続くユダヤ人のヨーロッパでの受難と、それに耐えた強い家族の成功物語に、国家なき民族の生きる道が示されている。 クルド人も、「国家なき民族」の例外ではない。大部分はトルコ、イラク、イランの3カ国の国内に、ほぼまとまって暮らしている。クルド人の職業は金融関係だけに集中しているわけではない。クルド人はイスラム教徒であり、大半はスンニー派である。 人口は2,500万人程度で、自らの国家を持たない民族としては世界最大と言われている。トルコに1,500万人、イラクに500万人、イランに500万人ずつ分断されて、それらの国々で少数民族として暮らしている。昔は、大半が国境付近の山岳地帯を中心に遊牧生活を送っていた。定住生活を始めてからは、牧畜・農業・運輸、そして出稼ぎなどで生活を支えてきた。独特の文化を持ち、英雄も輩出している。サラー・フッディーン(サラディーン)はアイユーブ朝*6の始祖であり、十字軍のキリスト教徒と戦ったアラブの英雄と言われるが、出自はクルド人である。 2000年のイラン映画『酔っぱらった馬の時間』(原題:Zamani Baraye Masti Abha)は、若手のクルド系イラン人、バフマン・ゴバディの監督・脚本による準ドキュメンタリー作品で、両親を亡くしたクルドの少年が、難病を患う兄の手術代と生活を支えるために密輸団に参加して働く姿を描いている。雪の降る急なクルディスタぐためにベンの山岳地帯を、寒さを凌峻ししのきゅうゅんユーゴスラビアで、民族と宗教の単位で分離・独立を目指す紛争が起きたことは周知の事実であろう。このような現象は世界中で起きている。 サミュエル・P・ハンチントン教授*3は、従来の共産主義や東西冷戦による軍事的優越性確保のための地域覇権国家を形成する人工的国境が冷戦崩壊により崩れ去り、国家における国民を結びつける絆が民族と宗教、すなわち文明や文化に集約された現在、戦争の危険性は「文明の衝突」により生じると述べている。 筆者が国を持たない民族と出合ったのは、中東であった。クウェートやサウジアラビアには、多数のパレスチナ人(彼らは現在、ヨルダン、シリア、レバノン、イスラエル国籍を持っているか、自治政府のパスポート、またはトラベリングパスポートといって、国籍はないが、エジプト政府が身元を保証しているパスポートを持つなど、さまざまな形で存在している)やクルド人(トルコ、イラク、イラン国籍)が、そこで働いていたからである。彼らのなかには、移民国家である米国やカナダの国籍を取得し、中東で働いているものもある。 さらに、歴史でしか登場しないような民族、アッシリア人*4も会社の会計士として働いていた。彼は、クウェートのアッシリア正教会の世話人をしていた。身体的特徴は、クルド人に似て筋骨隆々で痩せ型、ひげが濃いタイプである。多様な外国社会において、人数が少なくてもその民族性を守れるのは、ユダヤ人と一緒で、やはり文化の根源である宗教を維持しているからであろうか。 「イスラム文化との接近遭遇」というテーマでこの民族問題を取り上げようと思ったのは、筆者自身が、中東での現地経験で国を持たない民族に初めて遭遇し、彼らと働き、生活をともにし、彼らの考え方やよりどころを理解しようと努めたら、中東で国を持たない彼らの大部分はイスラムであったことが判明し、図らずも、ここでも多様性のあるイスラム文化に接近遭遇してしまったからである。クルド人の職場はどこ? クウェートの銀行のキャッシャー(出納係)は、大半がクルド系のイラク人かアルメニア系のシリア人であった。それが、湾岸戦争でイラク軍が敗北し、サダム・フセインがイラクに引きこもると、さすがのクウェート政府も、反政府とはいってもイラク国籍であるキャッシャーを解雇せざるを得なくなった。こうして1991年4月ごろ以降は、銀行のキャッシャーには、従来からのアルメニア系のシリア人のほかは、インド人とイラン系クウェート人が多くなった。 世界における銀行家全体の国籍や民族構成を考えたことはないが、銀行家といってまず思いつくのはユダヤ人である。ユダヤ人の金融への執着や銀行家としての実績は知られているが、彼らがそうならざるを得なかったのは、カトリック教会が彼らをほとんどの職業から追放したことや、ユダヤ教徒へのいわれなき差別だけとはいえない。 国家なき民族はやはり、お金と手に職をつけられる職業に自然と向いていき、その職業に集中していくというの*3:(Samuel Phillips Huntington, 1927年4月18日~)アメリカ合衆国の政治学者、ハーバード大学教授。主著『文明の衝突』は、種々の論議を巻き起こした(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋)。*4:メソポタミア北部の地域、また、そこに興った世界帝国、アッシリア(Assyria)の末裔(まつえい)を自称し、現代アラム語を話すネストリウス派のキリスト教徒(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋)。*5:ロスチャイルド(Rothschild)は、イギリス・フランスで金融業を中心に活動しているユダヤ系の財閥。ドイツ語読みで「ロートシルト」と呼び習わすこともある(赤い盾の意味)。第二次世界大戦後、その勢力は衰え、かつてほどの影響力は失ったとされるが、金融をはじめ石油、鉱業、マスコミ、軍需産業など多くの企業を傘下に置いている(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋)。*6:(1169~1250年)エジプト、シリア、メソポタミアなどを支配したイスラム系の王朝。王朝名の「アイユーブ」は創始者の父の名に由来する。なお、アイユーブは、もともとは旧約聖書ヨブ記の義人ヨブのアラビア語形である(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋)。Nークや周辺の油田地帯はクルド人の領土であるとの考えを持っている。新イラクの石油資源をめぐる駆け引きは、民族国家的自治区の財源確保のためにも重要であるので、中央政府による一括管理、収入の一般勘定化は承知できないところであろう。 イラク議会ではシーア派が多数を占め、従来の支配者層であるアラブ人のスンニー派は少数になった。クルド人はスンニー派であるが、宗派だけで片は付かない。やはり、誰が石油の権益を握るかが鍵であろう。 南部のバスラ近辺の油田地帯は、シーア派の人たちにとって自分たちのものという意識が強く、石油の権益については、旧来のバース党*7やサダム・フセインの出身地であるティクリット*8人脈を中心としたスンニーの人たちは、地理的に分が悪い。 しかしイラクには、まだ開発どころか探鉱も十分に行っていない地域が、西部やその他の地域に存在している。主要3派の居住地域ごとに石油権益が分割されることは現実的ではないが、現在のイラクの原油生産量、日量約250万バレルの生産のうち30%は北部のキルクーク、残り70%は南部のバスラ近辺の油田からのものである。 さらに、日量600万バレル程度の生産があれば、自力で復興できる財源が確保できる。早急な生産力アップを目指すとしていたイラク復興当初の原油価格は、現在のほぼ3分の1であったことから(推定石油輸出収入は、2003年の7月時点で内需を日量70万バレルとすれば、輸出日量530万バレル、価格をバレル25ドルで、年間484億ドルの輸出収入を目標)、現在の確保されている財源を現在の油価で推定すれば、石油収入においてはすでに目標値の600万バレルを達成したのと同じ状態になっているのである(推定生産量250万バレルから内需を引いて輸出日量180万バレル、価格は1バレルあたり65ドルにすれば、年間427億ドルの輸出収入になっている)。 わが国などでは、給水施設を整備するとか学校を修理するとかの復興支援がイラクへの貢献であるなどと言っている人たちが今でもいるが、現在は想像を絶する莫大な石油収入がイラク政府に転がり込んでおり、イラクの政治家はその分配をめぐっててんやわんやのはずである。イラクのような大産油国への復興支援は、資源のないアフリカなどの最貧国への援助とは根本的に異なる方法で行うことが大切なことを理解すべきである。パレスチナ人の代わりにヒズボラがイスラエルと戦う アーノルド・トインビー*9が「宗教の歴史博物館」と呼んだように、レバノンはもともと、マロン派*10キリスト教徒、スンニー派イスラム教徒、シーロベロに酔っ払わせたラバに自動車のタイヤを積んで運んで行く。せい 凄な地雷地域で国境警備隊に見つかり、追撃をかわすため、深々とした雪山の頂きから命がけで密輸品と転がり落ちる姿が描かれていたのを思い出す。叙情的な映像の中に、クルドの人々の厳しい生活が映し出されている感動の名作である。カンヌ国際映画祭では、カメラドール新人監督賞、国際批評家連盟賞を受賞した。 また、現代イラクの混乱した新しい国づくりのなかで、イラク北部で自治地域をつくり、テロに揺れる国内で、唯一安定した自治地域をつくっているのはクルド人である。従来と違って、少数民族でありながら地歩を固めている。 彼らは昔から、イラク北部のキル惨さん出所: ロイター・サン photo by Azad Lashkari(Iraq)(2006/09/16撮影)アルビルでクルディスタンの旗を揚げる学生イスラム文化との接近遭遇(その2) ?国を持たない民族?*7:バアス党(Hizbul-Ba'ath ヒズブ=ル=バアス)は、シリア・イラクなどのアラブ諸国で活動するアラブ民族主義の政党。日本では慣用としてバース党と表記するが、アラビア語の発音とは異なる。バアスとはアラビア語で「復興」を意味し、アラブ社会主義・民族主義・軍国主義・汎アラブ主義を併せ持つ政治的主張を有している。イスラム原理主義(イスラム復興主義)とは対立している。アメリカの侵攻によりフセイン政権が崩壊し、それに伴いイラクのバアス党は政治的な権力を失った。イラクの武装勢力にはバアス党の流れをくむ者が多数参加しているといわれる(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋)。*8:(ティクリート、Tikrit )チグリス川沿い、バグダッドの北西140㎞の位置にあるイラクの都市。スンニー・トライアングルの一角をなす。都市の名称は、チグリス川にちなむ(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋)。*9:(Arnold Toynbee, 1852-83)イギリスの経済学者。社会改良家。オックスフォード大学卒業後、母校で教鞭をとるかたわら、ロンドンのイースト・エンドやブラッドフォードなどの工業都市で社会事業を展開。病弱のため早逝したが、のちに編集・出版されたオックスフォードにおけるその経済史の講義は、〈産業革命〉の概念を最初に確立したものとして、史学史上の記念碑的価値をもつことになった。川北 稔(平凡社『大百科事典』より抜粋)*10:レバノンを中心に信者を擁する東方カトリック教会の一派。アラビア語もしくはシリア語によって典礼を行う。同派の名前の由来は、宣教師マールーンに由来するといわれる(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋)。*11:レバノンを中心に、シリア、イスラエル、ヨルダンなどに存在するイスラム教(イスラーム)系の宗教共同体。歴史的にはシーア派の一派イスマーイール派から分派したものだが、教義からみてシーア派の枠内に収まるかは微妙で、イスラム第3の宗派と呼ばれることもある。さらにイスラム教の枠に収まるかも怪しいと考えられ、多くのムスリム(イスラム教徒)はドゥルーズ派はイスラムではないと考えている。ドゥルーズ派共同体の成員は民族的にはアラブ人で、中東全域でおよそ100万人が存在するとされる。北アメリカ、南アメリカ、ヨーロッパなどにも海外共同体が存在する。(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋)。61石油・天然ガスレビューGッセーを持たされたという状態であった。 そうであるからして、国家としてはぜいゃく非常に脆であった。第一次世界大戦後のフランス委任統治時代を経て、第二次世界大戦中に独立を果たしたレバノンは、独立後、金融・観光などで中東のパリと呼ばれたベイルート*13を中心に経済的に急成長した。サウジアラビア人やクウェート人の金持ち、石油会社で働いていた富裕な外国人は、こぞってベイルートに不動産投資を行い、経済の成長を促進した。 1960年代に日本から飛行機で中東に向かう際には、ベイルート経由のパンナム(今はなきパンアメリカン航空のニックネーム)で、が一般的だった。トランジットで立ち寄るベイルートのショーはパリよりも面白いし、カジノもあり、海水浴とスキーが同時にできた中東のオアシスだった。現代のドバイは、かつてのベイルートを彷とさせる場所である。 しかし、1970年にヨルダンからのパレスチナ解放機構(PLO)*14の追放が行われると、PLOはレバノンにも多数流入して宗派間のバランスが崩れ、1975年に内戦が発生した。 これをきっかけに、各宗派はそれぞれ私兵を擁して戦い、シリア軍やイスラエル軍も侵攻して、PLO、シリア、イスラエルの外国勢力が複雑に絡み合いながら各派敵味方入り乱れて内戦を続けた。1982年に至り、イスラエル軍が南部から越境して再侵攻し、西ベイルートを占領した。これにより、PLO指導部はレバノンから追放され、チュニス*15に移らざるを得なかった。 その後、アメリカ、イギリス、フランス、イタリアは、レバノンに多国籍弱じほうつ彿ふチチググリリスス川川サマワサマワバスラバスラクウェートクウェートサウジアラビアサウジアラビアトルコトルコ0200km400モスルモスルアルビルアルビル油ガス田油ガス田国境国境県境県境都市都市クルド自治区(3県)クルド自治区(3県)シリアシリアスレイマニアスレイマニアキルクークキルクークイランイランバクダッドバクダッドユーフラテス川ユーフラテス川ティクリットティクリットヨルダンヨルダン383634323028 N40 E42444648出所:各種資料をもとにJOGMEC作成イラクの油田地帯とクルド自治区ア派イスラム教徒、ギリシャ正教徒、ギリシャ・カトリック教徒、ドゥルーズ教徒*11、アルメニア正教徒、プロテスタント教徒、アッシリア教徒、カルディア教徒*12、ローマ・カトリック教徒、ユダヤ教徒、シリア正教徒、シリア・カトリック教徒(これですべてではないが、主要18宗派のうち、議会に割り振られている議席数順に並べてみた)などからなる複雑なモザイク国家である。 なぜこのような複雑な地域が、一つの国家として独立できたのかを考えてみる必要がある。そもそも、人口的にはイスラム教徒が非常に多いこの地域に、なぜ、キリスト教徒が優勢なレバノンという国がつくれたのだろうか。それは、イスラム教徒がレバノンとシリアを一緒にして大シリアをつくろうとしていたのに対し、当時この地域を委任統治していたフランスが、この地域のキリスト教徒を保護するために、キリスト教徒がイスラム教徒より若干でも人口的に優位に立てる地域を囲んで、レバノンの領土としたからである。十字軍の遠征以来、キリスト教の大守護者であったフランスの後ろ盾があったからできたのである。 統治の方法も大統領はマロン派、首相はスンニー派、国会議長はシーア派というように、各宗派でバランスをとって、政治権力の配分がなされていた。それこそ、国を持てない民族や宗教宗派が、人工的にレバノンという国*12:ヨーロッパのキリスト教正統の教説である「三位一体」説の一部を否定したネストリウス派、またはそこからローマ教皇の権威下に復帰したカルディア教会の信徒(http://www.nk.rim.or.jp/~tmitsuta/dokkyo/asia/09.htmlより抜粋)。*13:レバノンの首都であり、ベイルート県の県都でもあり、同国最大の都市である。また、地中海に面した同国第一の海港である(フリー百科事典『ウィ*14:イスラエル支配下にあるパレスチナを解放することを目的とした諸機構の統合機関。英語名はPalestine Liberation Organizationで、略称はPLO(フリー*15:(Tunis)チュニジア共和国の首都であり、同国のチュニス州の州都でもある。また同国の商業・工業の中心地(フリー百科事典『ウィキペディアキペディア(Wikipedia)』より抜粋)。百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋)。(Wikipedia)』より抜粋)。*16:元レバノン正規軍少佐のサード・ハダットが、PLOとシリアに占拠されている自国政府を潔しとせず、自分の任地である南レバノンを切り取り、自由レバノン軍を旗揚げした組織。ハダトの病死後、「南レバノン軍(SLA)」と改称した(http://www.geocities.com/inazuma_jp/sla.htmlを参照)。2006.11 Vol.40 No.662Cスラム文化との接近遭遇(その2) ?国を持たない民族?軍を派遣した。南部国境地帯には親イスラエル勢力である自由レバノン軍*16の勢力を配し、過激な新興勢力のイスラム教シーア派民兵組織ヒズボラ(神の党)などからのイスラエルの安全保障の緩衝地帯とした。米英仏伊の多国籍軍も平和のために進駐したが、イスラム勢力の自爆攻撃によって相当の死者を出し、1984年に撤収を開始した。 これ以降、対立がますます細分化されて内戦は終結時まで続くこととなる。2006年夏に起きた、イスラエルのヒズボラからの攻撃への反攻としてのレバノン戦争での停戦を監視する国連レバノン暫定軍(UNIFIL)*17の中心が、フランスになるかイタリアになるかなどという記事を見ると、何度もこのような戦争が起きては停戦し、また再開する、ということがあたり前と考えている中東・ヨーロッパ諸国の中東情勢に対する経験からくるしたたかさと、レバノンにおける宗教が内乱に深くかかわっていることによる、EUのキリスト教大国の関心の高さが読み取れる。 WTIの先物価格に地政学的リスクが即座に影響している現在でも、レバノン情勢があまり影響を与えていないのは、イスラエルとアメリカが、ヒズボラの陰の支援者であり、資金・武器などの供給者であるイランの革命防衛隊(バスダラン)*18に報復・反攻しない限りは、レバノンでの抗争は日常的な紛争であると、市場の判断が下されているためとのことである。 現実的に、軍事力でレバノンがイスラエルにかなうわけがない。アラブ諸国やヨーロッパを中心とする国際世論に頼って停戦に持ち込み、平和維持軍の力を借りて、一時的にヒズボラを前線から引き離し、後退させることしかできないであろう。自国内では、アメリカとイランの直接対立を避けたいというのが本音であろう。 レバノンの情勢は、そもそもパレスチナ問題とレバノン独立について、英国とフランスがとった態度を復習しないと先が読めない。アメリカは、ユダヤ人との関係を重視するという方針だけでパレスチナ問題を考えてきた。し?かし、この地域の問題の根本原因はオニストの願望に対する同情を示した次のような約束である。「英国は、パレスチナにおけるユダヤ人の民族的郷土の設置に好意を抱いており、この目的の達成を容易にするため最善を尽くすでしょう」。これは後にバルフォア宣言と呼ばれるようになる。これも、戦争の遂行にユダヤ人の歓心を買い、アメリカのユダヤ人の協力を狙ったものであろう。 当時ユダヤ人は、中世の迫害から東出所: ロイター・サン photo by Yonathan Weitzman(Israel)(2006/08/14撮影)イスラエルとレバノンの国境近くで国旗を掲げるイスラエルの兵士いうまでもなく、英国とフランスの?国境画定と、イスラエルの独立をめぐって、ユダヤ人とアラブ人に対して英国が行った二枚舌外交である。 英国の第一の約束は、1915年にエジプト・スーダン高等弁務官のマクマホン卿が、アラブ人が英国側についてトルコと戦うことを期待して、オスマントルコ帝国の領土であったパレスチナを含む地域にアラブの独立国家をつくることを、アラブ人であるハシマイト(ハシミテ)家の当主フセインに約束したことである。 第二の約束は、1917年に英国外相バルフォア卿が、ユダヤ系大富豪ロスチャイルド卿宛の書簡で、ユダヤ人シに逃れ、ロシアやポーランドに住んでいたが、そこでもポグロムと呼ばれる集団虐殺や財産の没収が、19世紀末の帝政ロシア末期まで何度も繰り返され、そこからも追い出され始めていた。そこでシオニズムが誕生する。旧約聖書で神に約束されたシオンの地に帰り、ユダヤ民族の国をつくろうという運動である。バルフォア宣言は、この運動が沸き上がっているときになされたのである。この文書は正式な外交文書ではないという見方もあるが、こうしてユダヤ人は国づくりに本気になった。 その後のパレスチナでは、英国の難渋とユダヤ国家であるイスラエルの建*17:(United Nations Interim Force in Lebanon)1978年3月19日に採決された安全保障理事会決議425に基づき、国際連合によって組織された部隊。しばしばUNIFILとの略称で言及される。日本のメディアにおいては、国連レバノン暫定軍、国連レバノン駐留軍との名称も用いられている。暫定軍とは、攻撃の権限を持たない組織を指す言葉で、国連平和維持軍(PKF)と違い、自衛目的の攻撃はおろか、攻撃に対する反撃も許されていない(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋)。*18:1979年のイラン・イスラム革命後、王政への忠誠心が疑われた正規軍への平衡力として創設されたイランの軍事組織。正規軍と並行して、独自の陸軍、海軍、空軍を有し、また、300万人近くを動員できる民兵部隊バシジも管轄している。革命防衛隊は、国防省ではなく、独自の革命防衛隊省の統制下にある(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋)。63石油・天然ガスレビュー早Aそして中東戦争でのアラブ側の敗戦と、イスラエルの着実な軍事国家化が始まる。最初に、エジプトを中心にヨルダン、シリア、レバノン、イラクがイスラエルと戦うが大敗北、第三次中東戦争では、当時のエジプト大統領みじナセルが惨めな敗北に帰した。アラブ側の対イスラエルの主力はこのように移り変わっている。 その後の抵抗は、ファタハ*19やパレスチナ解放人民戦線(PFLP)*20などの、パレスチナ人自身の武力組織が行うことになる。パレスチナ人の武装勢力がPLOに曲がりなりにも集合し、イスラエルに激しく抵抗すると、今度はパレスチナ人の軍事勢力とヨルダンとの力関係をめぐり、ヨルダンのフセイン国王の、ハシマイト家としての大変な生き残り作戦が行われるなど、周辺アラブ諸国のなかでもパレスチナ人の扱いは、自国内の勢力や外交を位置付ける最重要な要素になったのである。 このような歴史の流れのなかで、1970~1971年にヨルダンを追い出されたパレスチナ人のほとんどは、前述したようにレバノンに逃れたのである。その数は10万人から30万人ともいわれている。そして、イスラエルとの間で、それまで平穏な関係を維持していたレバノンは、流入してきたパレスチナ人がイスラエルに対するゲリラ作戦を始めたため、その報復を受け始めた。 ゲリラ活動を制限しようとするレバノン政府軍とパレスチナゲリラとの衝突は避けられなくなってきた。今回のヒズボラのゲリラ攻撃に対するイスラエルの報復は、このときと同じである。歴史は繰り返す。 イスラエルとの最前線(フロント)は、エジプトからパレスチナ解放機構、ガザのインティファーダ*21へと移り、時にはシリア、イラクが登場し、今はイランの後押しによって、レバノンのヒズボラがイスラエルへの攻撃の主力として登場している。 イスラエルの敵は次々にやってくるが、通常兵器でイスラエルを倒そうとしても、不沈艦であるイスラエルは沈まない。だからといって、核兵器で対抗しようとしても解決にはならないことを理解すべきである。どうしたらパレスチナ問題が解決されるのか、解答は誰にもすぐには出てこないであろうが、戦争で解決しないことは確かである。だからこそ、国際社会や日本の果たせる役割があるかもしれない。知恵を絞らなければならない。イスラム文化の一端は、この戦乱の極みを、その地政学的な中心に抱えているのである。世俗的な国家であるはずのレバノンが、宗教を軸に細分化された集団によって混乱している。人権擁護とイスラム 比較憲法学の泰斗である樋口陽一氏の著書に『自由と国家』(岩波書店、1989年)という新書がある。そこでは結びに、国家と憲法の関係、そして人権について、次のような考え方が示されている。 「近代国民国家を作りあげ、そのうえでそれをしばろうという、厄介な使命をおびて登場してきたのが、近代憲法にほかならなかった。憲法が国家を作りあげる、という側面に対応する基本原理が、主権という考え方であった。憲法がその国家をしばる、という側面に見合うのが、ひとことでいって、人エッセー権という考え方である。国家を作り出すことによって、それまでの身分的拘束から個人を解放し、その上で、その個人を国家の圧迫から擁護しようという構図のかなめに位置するものとして憲法というものがある。」 中東のイスラム諸国において、近代国民国家は少ない。国家の専政を抑える、人権を体現した憲法は存在しない場合が多い。そうなると、弱者が自身の人権を守るためには、憲法ではなくイスラムの力に頼らざるを得ず、それがますますイスラム原理主義への回帰となる。宗教的、また細分化された宗派的な思想に固着し、他者の存在を認めない唯我独尊に陥りやすい。 アメリカのブッシュ政権のように、レバノンやその他の中東諸国の混乱を民主化を旗印とした選挙で改革しようとしても、イスラム原理主義のはびこる結果となる。それは、人権が憲法で守られていない国家では、弱者はイスラムの原理に救いを求める傾向が強くなるためであり、原理政党の勝利は容易に想像すべきである。かつてのアルジェリアやエジプト、パレスチナ自治区などでも、同じような実例が示されている。 それならば、どうすれば国づくりがうまくいくのか。イスラエルとパレスチナほどの難問は、テロを廃絶するというような単純なスローガンでは解決はしまい。しかし、とにかく平和がなければ、いかなる交渉・提案も前進しない。暫定的な平和でもいいから、国際社会と一緒につくり出すしかないのではないか。石油鉱業連盟・アラビア石油の大先輩である関岡氏が「瀬木耿太郎」というペンネームで『中東情勢を見る眼』(岩波書店、1984年)という*19:(Fatah)パレスチナ解放機構における最大党派。名称のファタハは、アラビア語の「パレスチナ民族解放運動」(Harakat al-Tahrir al-Watani al-Filastini)の頭文字を逆につづったものである(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋)。*20:(Popular Front for the Liberation of Palestine)パレスチナ解放機構(PLO)の一派の組織でパレスチナ解放を目標とする過激派。アメリカ合衆国、EUはテロ組織に指定している(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋)。*21:西岸・ガザでのパレスチナ住民による反イスラエル占領闘争。第1次は1988年12月~91年秋で、イスラエルにパレスチナとの交渉を決断させ、今日の和平交渉の流れをつくった。第2次は2000年9月イスラエルのシャロン・リクード党党首(当時)のエルサレムの「神殿の丘」訪問を機に発生した武力衝突で、アル・アクサ・インティファーダと呼ばれている(集英社『イミダス2006』より抜粋)。2006.11 Vol.40 No.664Cスラム文化との接近遭遇(その2) ?国を持たない民族?岩波新書のベストセラーを出版してから22年がたった。著者も同書のなかで、パレスチナ問題の解決法を模索している。この名著を読み返してみると、この22年間、中東情勢は基本的には変化していない。歴史の基本軸を動かすのはそれだけ難しいとのことであろう。 イスラムの人々が、時間をかけて国民国家をつくり上げることが大切なのか、あるいは経済という富の分配の仕組みを優先して貧者をなくし、人権の成立する最低限の経済環境をつくり上げることが先なのか、それぞれの民族・国家が、国際社会の助けを借りて決めていくしかないような気がする。執筆紹介 国のない、または持てない人々・民族の話を考えてきたら、中東のパレスチナ、クルド、レバノン問題、そして、イスラムの問題に行き着いてしまった。本エッセーが少しでも、読者のみなさんの国を持たない民族への接近遭遇になれば幸いである。出所:ロイター・サン photo by Eric Gaillard(Lebanon)(2006/08/18撮影)ベイルートの南郊外で国旗とヒズボラの旗を羽織ったレバノン人の女性庄司 太郎(しょうじ たろう)ふるさと:1953年宮城県白石市に生まれる。学歴:1976年東北大学法学部法律学科卒業職歴:1976年アラビア石油㈱入社、ニジェールのテキダンテスムにて、ウラニウム探鉱に従事(2年間)、サウジアラビア・カフジ鉱業所勤務(2度、9年)、クウェートにてクウェート事務所に勤務(4年)の海外勤務を含め、石油を中心にした、資源開発に従事。現在、石油鉱業連盟企画調査部長、中央鉱山保安協議会石油鉱山保安部会専門委員趣味:蚊の研究、車、鉄道旅行興味:エネルギー安全保障、イスラム、サウジアラビア・クウェイト地域研究、インド・タイ地域研究、外国人の教育訓練家族:妻、長男、インディー(愛犬)65石油・天然ガスレビュー
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2006/11/20 [ 2006年11月号 ] 庄司 太郎
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