ページ番号1006398 更新日 平成30年2月16日

戦争と石油(3) ー『日蘭会商』から石油禁輸へー

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レポートID 1006398
作成日 2010-03-19 01:00:00 +0900
更新日 2018-02-16 10:50:18 +0900
公開フラグ 1
媒体 石油・天然ガスレビュー
分野 エネルギー一般
著者
著者直接入力 岩間 敏
年度 2010
Vol 44
No 2
ページ数
抽出データ  エッセー戦争と石油(3)ー 『日蘭会商』から石油禁輸へ ー石油問題研究家 岩間 敏 筆者は、敗戦後60年を経過した機会に太平洋戦争を論ずる著作が多数刊行されるなか、特に石油の立場からの視点を踏まえ太平洋戦争の発生と敗北の原因を分析する論文を「戦争と石油~太平洋戦争編~」と題し、石油・天然ガスレビュー2006年1月号(Vol.40 No.1)および同年3月号(Vol.40 No.2)の2回に分け、掲載した。 今回は、その第3回目として、昭和15(1940)年、日本が石油を求めて蘭(オランダ)領東インド(通称「蘭印」)から重要物資、特に石油を獲得しようとする、いわゆる、「日蘭会商」と呼ばれる交渉を行った背景から説き起こし、南部仏印進駐およびそのリアクションとしての米国による石油禁輸を経て、太平洋戦争へと突入する過程を分析するものである。プロローグ 昭和15(1940)年のことであるから、これは70年前の話である。石油が国家の存亡を決める時代であった。石油で始まり石油で終わった太平洋戦争の前夜、昭和15年、日本は石油を求めて蘭印から石油を得る交渉を開始した。この交渉は日蘭会商と呼ばれた。 太平洋戦争の契機になった米国の石油禁輸は突然に開始されたものではない。昭和12(1937)年に日華事変が始まって以来、この事変を日本の中国への侵略ととらえた米国は、日米通商航海条約の破棄に始まるさまざまな対日経済制裁を続けてきていた。それに加えて、昭和15年9月に締結された日独伊三国軍事同盟は日本を完全に枢軸側に押しやることになった。 この時期、欧州では、既に、第2次世界大戦が始まっていた。英国はドイツと英仏海峡の制空権をめぐって死闘(バトル・オブ・ブリテン)を続けていた。米国は英国を物資面で支え続けていた。この同盟の締結によって、英国と米国は日本を仮想敵国から完全に敵対国と見なすようになったのである。 日本の政府と軍部は、いずれ、米国は日本に対し石油禁輸を実施すると予想していた。当時、日本は米国に石油の8割を依存していた。このため、日本は米国に替わる石油の輸入先を探していた。その、最も有望な対象国が現在のインドネシア、蘭印だった。蘭印から石油を輸入することによって、米国への石油依存度を低下させ、禁輸の事態を切り抜けようとしたのである。 日本政府は使節団を蘭印へ派遣して、石油を含めた重要物資の購入交渉(日蘭会商)を開始する。この日蘭会商の経緯を追っていくと、資源なき日本の姿と当時の外交姿勢、英米の対日戦略、更には、交渉とは別に戦争を準備する軍部の姿が浮かび上がってくる。 この日蘭会商の後、日本は仏領インドシナ(通称「仏印」、現在のベトナム、ラオス、カンボジア)の南部へ武力進駐を実施する。次の段階への準備として、シンガポール、蘭印を攻略するために飛行場と港湾を確保するのが狙いであった。しかし、米国はこの日本の動きを見逃さなかった。 この南部仏印への進駐が引き金になって、米国は在米資産の凍結と対日石油禁輸に踏み切る。日本は経済制裁という剛速球をもろに受けたのである。日蘭会商は日本が米国の石油禁輸を予想し、米国に替わる石油の供給国を求めた太平洋戦争の前哨戦であった。1. 背景 日本で最初に石油を戦略物資としてとらえたのは日本海軍であった。海軍は昭和に入ると、その効率性から艦艇の燃料を石炭から石油へと切り替えていた。昭和5(1930)年、国内の原油生産量は約32万k?であった。この国内の生産量は若干の増減はあるものの、太平洋戦争が始まるまで変化はない。石油の輸入先は米国が大部分で、その依存度は平均80%、昭和14(1939)年には石油の備蓄を目的にした緊急輸入によって90%にも達していた。 海軍は従来の艦艇燃料に加えて、戦備の主力になりつつあった航空機燃料の需要が加わって、大規模な石油の備蓄計画を推進していく。その計画量は昭和初期の300万k?から昭和9(1934)年には600万k?、昭和11(1936)年には1,000万k?と増加していった。71石油・天然ガスレビューGッセー樺太樺太択捉島択捉島南京南京重慶重慶東京東京昆明昆明ハノイハノイタイ台湾台湾香港香港海南島海南島三亜三亜マニラマニララングーンラングーン仏領インドシナ仏領インドシナ(仏印)(仏印)バンコクバンコクサイゴンサイゴンコタ・バルコタ・バルメダンメダン英領マレー英領マレー英領英領ボルネオボルネオシンガポールシンガポールスマトラ島スマトラ島パレンバンパレンバン蘭領東インド蘭領東インド(蘭印)(蘭印)バリクパパンバリクパパンフィリピンフィリピンボルネオ島ボルネオ島タラカンタラカンセレベス島セレベス島ニューギニアニューギニア(蘭印)(蘭印)(豪)(豪)スラバヤスラバヤバタビアバタビアジャワ島ジャワ島出所:筆者作成図日蘭会商当時の東南アジア図表1米国の対日経済制裁の内容時期制裁内容昭和14年7月「日米通商航海条約」の破棄を日本へ通告。12月「道義的輸出禁止令(モラル・エンバーゴ)発動。航空機用燃料、製造設備、製造権の対日輸出を禁止。昭和15年1月「日米通商航海条約」が失効。6月特殊工作機械等の対日輸出許可制を実施。7月「国防強化促進法」が成立。大統領に輸出品目選定権を付与。8月オクタン化87以上の航空揮発油、ガソリン添加用四エチル鉛、鉄・屑鉄、特定石油の輸出許可制を実施。9月屑鉄の全面輸出禁止を実施。12月航空機用潤滑油製造装置他15品目の輸出許可制を実施。昭和16年6月石油の輸出許可制を実施。7月8月在米の日本資産を凍結。石油の全面禁輸を実施。出所:各種資料を基に筆者作成2010.3 Vol.44 No.272この時点で、海軍にとって石油の確保は最重要の課題となっていた。 本格的に海軍が石油の需給に危機感を抱いたのは、昭和12(1937)年7月に日華事変が勃発して以降である。米国は日華事変を日本の中国への侵略ととらえた。そして、米国は日本に対する経済制裁の検討に入り、昭和14(1939)年7月には「日米通商航海条約」の破棄を通告した。その後、続いて、石油、鉄をはじめとする重要物資や特殊機械などの輸出許可制を実施する。 ここで、海軍を中心にアジア最大の産油国、蘭印への関心が急速に高まっていった。東南アジアへの進出である南進論の主唱者は海軍で、そこには石油を確保するとの目的があった。この段階では、国内の指導層は、まだ、比較的に冷静であった。昭和14(1939)年12月の「対外施策方針要領」は、「蘭国に対して、蘭領印度(インド)への我方進出を可能ならしむる如く誘導し、我所要物資の獲得を便ならしむる如く施策する」と記述している。 膠状況に陥り、泥沼化する日華事変と強化される米国の経済制裁のなかで、昭和15(1940)年7月に大本営*1陸海軍部が提案した「世界情勢の推移に伴ふ(う)時局処理要領」が大本営政府連絡会議*2で採択された。 この要綱のなかでは、「蘭印に対しては、暫重要資源確保に努む」とあるものの、対南方への武力行使に関しては、「支那事だ終わらざる場変(日華事変)の処理未合、第三国と開戦に至らざる限度に於いて施策するも内外の情勢特に有利に進展するに至らは(ば)対南方問題解決のため武力行使することあり」と強硬路線が現れるようになった。 翌8月、大本営海軍部が作成した「時局処理要綱に関連する質疑応答資料」では、これの路線を詳細に説明し、武力行使を必要とする時機として次の場合を挙げた。く、外交的処置により其しばらいまゃく着ちこうごとそのイ、陸軍航空本部第3課中山寧人中佐、海軍からは海軍軍令部第8課中原義正大佐、海軍省軍需局中筋藤一機関少佐であった。いずれも、当時、南方および石油の専門家として知られた人物であった。表2日本の石油輸入量と米国からの輸入量の比率時期昭和10年(1935)昭和12年(1937)昭和14年(1939)石油輸入量米国からの輸入量比率345万k? 231万k?67%477万k? 353万k?74%494万k? 445万k?90%(注)他の輸入先国は蘭印、ソ連など。出所:戦史叢書大本営海軍部・連合艦隊(2)3.交渉の目的すず 日蘭会商は石油、ボーキサイト、ゴム、錫、ニッケル鉱などの重要物資の確保と日本人の入国、企業問題等を目的とした総括的な交渉であった。重要物資の品目数は交渉の過程で増加している。 当時、蘭印政府はオランダ本国がドイツに占領されていて、英国に亡命していた政府の指示によって動いていた。そのため、蘭印は植民地政府としては弱い立場にあった。 石油を中心に話を進めると、当時、日本が蘭印から輸入していた石油の量は年間50万~65万トンであった。日本は交渉の開始時には、この輸入量を引き上げて年間100万トンを要求した。更に、日本は油田の取得をも計画していた。当初、この石油の購入交渉は東京で日本と蘭印の商社(ライジングサン社)との間で行われた。 昭和15(1940)年9月、商工省は先発隊としてバタビア(現・ジャカルタ)処こ理級の人物が使節団長として適当と考え、前拓務大臣の小磯国昭予備役陸軍大将(後に首相)を候補に挙げた。 小磯大将は団長を引き受ける条件として海軍陸戦隊の同行を希望した。更に、現地で陸戦隊の力が不足する場合には陸軍2個師団の派遣を要望した。さすがに、この砲艦外交的な要求には東條英機陸相も「随分、非常識なことを言ひ(い)ますね」とつぶやいた。 また、小磯大将は団長の人選中に記者会見で、「蘭印の住民は経済的には白人と華僑の極端な搾取を受け、政治的、文化的に実に低い水準にある。日本は彼等と民族的に近ひものを持ってしいたいる。虐げられた東洋民族を救済するこのは日本の宿命だ。東亜新秩序も此に意義がある」、「蘭印には豊富な物資があり、日本をして旧来の欧米に依存している状態から極東の自給自足体制に転換する希望を達せしめるものであって、世界の平和、共栄のための南進政策、これが日本の南方に対する社会通念である」と、欧米勢力の駆逐と大東亜共栄圏論を高らかに打ち上げた。 この発言は、東京朝日新聞に掲載され、更に、ロイター電で世界中に配信された。当然のことに、この記事は蘭印側を刺激し、「蘭印は小磯大将を日本の代表として受け入れることは出来ない」との強い反発を引き起こした。さ交渉が開始される前から団長が忌れる事態になった。結局、小磯大将の派遣は取りやめとなって、使節団長は阪急グループの創立者小林一三商工相(任期:昭和15年7月~16年4月)*3に決定した。 民間からは三井物産会長向井忠晴、同社調査部長大塚俊雄、協和鉱業常務本多敬太郎などが商工省嘱託として参加した。外務省、大蔵省、商工省、拓務省、農林省からの参加に加えて、陸軍省、海軍省からも随員が同行した。陸軍からは陸軍省資源課長石本五雄大諱きき1. 好むと好まざるとにかかわらず武力行使を要する場合。(1) 米国の全面的な禁輸の断行、及 ひ(び)、第三国がこれに呼応しやたため必需物資の取得上、止むを得ざる場合。 (2) 米国と英国が協同して帝国に対する圧迫を加へ(え)、または、加へ(え)んとする企図が明瞭となった場合。(太平洋方面英国領の内、要所を米国にて使用すること明らかになれる如き)(3) 比島方面、英国の東洋での兵力 の著しき増勢等、米国、英国にして単独に我の存立を直接に脅威する措置を執れる場合。2.好機到来の場合(1) 米国が欧州戦争に参加し、東洋 き得べき余力さの事態に対して割が小となれる場合。(2) 英国の敗勢が明らかとなり、東 洋に対する交戦の余力が小となれる場合。3. 帝国の威信上、武力の行使がやむを得ざる場合。2. 日蘭会商の開始 このような背景下、昭和15(1940)年5月、米内光政内閣は蘭印に対して、オランダがドイツに占領された後、蘭印の現状を維持することを宣言した見返りとして、石油、ボーキサイト、ゴムなどの重要資源の供給を求めた。同年7月に成立した第2次近衛文麿内閣は重要資源を外交で確保し、輸入を図るべく蘭印への使節団を派遣する計画を立てた。この交渉が日蘭会商である。 この話は、商工省燃料局第2部長の柳原博光海軍中将が藤原銀次郎商工相(任期:昭和15年1月~7月)に対し、蘭印から石油を購入することを建議したのが発端であった。当初、政府は総73石油・天然ガスレビュー戦争と石油(3) -『日蘭会商』から石油禁輸へ-Gッセー5. 更なる日本側の増量と難航する交渉 交渉が一進一退の状態を続けるなかで、日本は、更に、石油の購入量を増量する要求を出した。先の要求量315万トンの内訳はそれまでの購入量65万トンに新規の要求分250万トンを加えたものであったが、今後は315万トン全量を新規の要求量として、これに既存分の65万トンを加えて合計380万トンとするものであった。 これに加えて、日本は蘭印に、「英米との関係上、380万トンはおろか日本の全需要(500万トン)を蘭印に期待している」と更なる増量にも触れた。次いで、「日本は必要物資の自由なる獲得を期待している。日本の希望は石油問題の他に入国及ひ企業問題の解決によって必需物資を日本が開発し、自由に日本に持ち込むことである」と発言した。 これに対して、蘭印側は、「蘭印は圧力の前に承服できない。体面を重んじ同情ある態度を以って接してくる相まない手に対しては、全幅の協調を吝が満州国の如き地位に立つことは忍ひ得ない」と答えた。 石油の購入交渉は遅々として進展しなかった。そのため、小林団長はバタくの如ビアに到着した直後から、「斯き総督を相手に交渉を進むるも無理にして、本使が遥なきを感ぜしめたり」との電文を日本に送信して、交渉の前途に悲観的な態度を示した。 一方、この会商に先立つ8月上旬、マニラで米・英・蘭の石油関連会議が開催されていた。また、同月中旬、米国務省顧問のホーンベック(元国務省極東部長)は英国政府代表とともに蘭印で石油の生産を行っている「コロニアル石油」(スタンダード・バキューム)と「バターフセ石油」(ロイヤル・ダッチ・シェル)の代表と会談して、「日本れる甲来き々ば斐いおしかもはるるたか2010.3 Vol.44 No.274 しかし、第1回目の交渉は早くも暗礁に乗り上げた。日本側が、「今後、5カ年間、年間315万トンの石油を確保したい」と述べたのに対して、蘭印側は、「従来、日本は年間60万トン程度を輸入していた。突然、300万トンの買い付けを求められても隣接諸国への輸出を犠牲にすることになって、均等待遇の原則に反する。関係する石油会社とも協議の上でなければ回答は困難である。また、従来、石油会社には石油供給の義務不履行の事実もない。したがって、政府が供給の保証を付与することはできない。購入問題は各石油会社の責任とし、問題が生じた時、初あっめて政府が斡をしたい」と回答した。旋せん表4世界の原油生産量(1940年)国名① 米国② ソ連③ ベネズエラ④ イラン⑤ 蘭印⑥ ルーマニア⑦ メキシコ⑧ イラク(万バレル/日)(万k?/年)316514716141011618,2902,9702,743906794576647356(注) 出典誌では1940年の世界の生産量合計は不詳。1939年492万バレル/日=2億8,500万k?/年の数値がある。出所:ワールド・ペトローリアム誌表5蘭印の会社別原油生産量(1940年)会社名バターフセ石油会社(BPM:シェル系)コロニアル石油会社(N・K・P・M:スタンダード系)蘭印石油会社(N・I・A・M:シェルと蘭印政府合弁)その他合計年間生産量(トン)比率(%)454万57.2208万26.2131万16.50.4万793万0.1100出所: 戦史叢書大本営陸軍部大東亜戦争開戦経緯(1)に到着していた向井石油代表に、「購入交渉は東京に於いて実施する。購入の現地交渉は当方からの指示に基づいて行ふこと。代表団は鉱区の取得に重点を置いて蘭印政府と直接交渉をすること、英米の妨害策動は厳に警戒を要す」との指示を出している。 東京での購入交渉で日本はそれまでの日本の輸入量を65万トンとして、これに新規の要求として250万トンの追加を行い、合計での要求量は合計で315万トン*4となった。実績の50万~65万トンが、まず、100万トンに引き上げられ、更に、315万トンになった。わずか、4カ月で要求量は一気に5倍になってしまったのである。 9月中旬、小林使節団はバタビアに到着した。この時、蘭印側は湾内に停泊している軍艦に登舷礼を行わせた。上陸後、小林団長は儀仗隊を閲兵して最大級の歓迎を受けた。表3日本の石油消費量昭和12(1937)年74万k?26万k?502万k?602万k?昭和15(1940)年108万k?38万k?338万k?484万k?海軍陸軍民間合計(注) 昭和12(1937)年7月に日華事変勃発。戦前の石油統計数値は各種ある。本稿では主に海軍の統計数値を使用した。出所:日本海軍燃料史4.交渉の開始 小林団長が到着した翌日から日蘭会商が開始された。日本側の交渉者は向井石油代表、蘭印側はフォン・モーク経済長官であった。蘭印側が東京での交渉の内容をほとんど入手していないとのことで、小林団長は松岡洋右外相に、「バタビアで購入案件も一括して交渉を行ひたい」と要請して了解を得た。ヘ精力的にモーク長官と交渉を続けた。その結果、以下の合意が成立した。① 東京にて海軍省、商工省分として約定済みの分② 現物を約定し既に積み込み分(スポット買い)③ バタビアにて買い付け分④ 毎年の日本での販売量*合計58.0万トン4.9万トン72.7万トン65.0万トン200.6万トン *: 日本の蘭印石油の輸入量=1937年86.9万トン、1938年66.8万トン、1939年57.3万トン。出所: 日蘭会商関係資料「詳細石油関係参考資料」商工省石油編 購入量は合計で200万6,000トンになった。交渉当初の購入目標100万トンを基準にすれば200%の成果、最終の購入目標となった380万トンを基準にすれば53%を確保したことになった。 しかし、日本が最も購入を希望した航空機用の揮発油はわずか5万トンであった。小林団長は帰国前の記者会見で自己宣伝的に「交渉は成功」との発言を行った。この発言がロイター電で世界中に流されると、日本と蘭印の双方に大きな影響を与えた。 米国の新聞には、「蘭印が全生産量の40%(実際は25%)を日本へ供給」との記事が掲載された。そのため、蘭印は「裏切り者」と称された。また、このことは、蘭印の本国の亡命政府がある英国の議会(下院)でも問題にされたため、蘭印政府は日本代表団に苦情を申し入れた。日本側でも、今後も交渉の困難さが予想されるなか、「日本は満足との印象を蘭印側に与へた」として現地代表団のなかに不満と反感の声が上がった。 10月下旬、斉藤音次総領事と太田知庸首席随員(外務省通商局第6課長)は後任の使節団長について次の電文を東京の大橋忠一外務次官宛に発信した。 「後任の選定上、注意を要する点は、あてかかわらず、万一、ドイツ側に敗色濃無に拘つ厚なる時は、之が援助に赴かざるべからず」と述べた。これに対しモーク長官は、「斯くの如くんば会談を続け難し。蘭印は一つに通商あるのみ、政治問題あるべからず」と交渉は激突の状況に至ってしまった。相手の立場を考えずに浅薄な国際情勢の分析を開陳した素人外交の結果であった。 この小林団長の発言が会談の雰囲気を大きく変え、交渉は暗礁に乗り上げてしまった。 会談に同席した斉藤音次総領事は、「(この発言は)蘭印側に大きな衝撃を与へ、蘭印は一切之に耳をかさざる態度をとり、使節も事の意外に驚き、かつ、自己の失敗を認むるに至れり」と東京へ報告した。 この発言を契機として、日本使節団の内部でも小林団長の交渉能力に対する評価が低下していった。また、小林団長本人は、元々、バタビアに到着した当初から交渉に関して悲観的な見方が強く、本人の強い希望もあって東京から帰朝命令が到着した。6.石油購入の終盤 小林団長の帰国を前に向井石油代表い制せへ適当量の通常原油を販売することに異議はないが、航空機用揮発油を大量に販売することには多くの問題があけんる」と伝えた。これらの協議と牽はその後の蘭印の対応に大きな影響を与えた。 9月27日、「日独伊三国同盟」が調印され蘭印側に再び衝撃が走った。10月中旬、小林団長とモーク長官が会談をしているさなか、小林団長は、「三国同盟」の趣旨について説明を始めた。「米国が参戦せば日本もドイツに味方おそれあり。之をして戦争に引き込まれる惧避けんとせば、日本と蘭印と固く握手することにより米国をして参戦を思ひどまらしむる要あり」と発言した。これに対して、モーク長官は「ドイツの敗戦こそ太平洋の平和維持に必要にして、蘭印はこれを希望し、かつ、固くせられ信じ居るものなり。本国を蹂たる蘭印はドイツとの交戦国であり、敵と同盟関係に入りたる国がいずれの側に立ち居るやは明確にしてオランダ本国の将来より判断して、いずれの国がドイツ側なりやを決定せざるを得ず。此の点、日本側とは見解を異にして、蘭印の立場は明瞭なりと謂ひ得べし」と答えた。 小林団長は、「日本は三国同盟の有留とことん躙りじゅうい戦争と石油(3) -『日蘭会商』から石油禁輸へ-表6蘭印の石油精製所(1938年)精製会社アルゲーメネバターフセ*コロニアル**製油所クランタンバリクパパンバンカラン、プランダンプラディユーチェッブーウオノクロモカーブアンスーンゲイ・ゲロン所在地ジャワ蘭印ボルネオスマトラスマトラジャワジャワジャワスマトラ *:ロイヤル・ダッチ・シェルグループ(蘭・英)**:スタンダードクループ(米)出所:オイルアンドコール誌処理能力(バレル/日)10035,00012,00018,00014,0002,00050043,00075石油・天然ガスレビューGッセー(外国人勤労条令の手続きの簡易化)。 (2) 事業、経済的な活動の障害を除去する。 (3) 日本人医師(含歯科医)による診断を自由にする。 (4) 日本人による企業の経営を増やす。 (5) 日本人による申請と要求を友好的に取扱う。2.各種の事業(1) 鉱業=日本人が要望する各種産 物の開発許可は、可及的速やかに、かつ、広範囲にこれを与へる。 (2) 漁業=現地の漁業者との競争を生じない限り、領海内での日本人による漁業を許可する。魚類の輸入港に対する制限を撤廃する。日本人の漁業者が捕獲した魚類は輸入税を免除する。3.交通および通信(1) 日本の航空機による日本と蘭印 間の航空事業(開設許可、無線、気象通報等)を開始する。つ設せ(2) 日本の船舶に対する各種の制限 (沿岸の航海、貨物積込の手続を簡易化する等)を撤廃する。(3) 日本と蘭印間の通信を改善す る。(日本の管理下に最新式のすることの承海底電線を敷認、電信で日本語を使用することの禁止などの解除)ふ(4) 営業の制限(営業制限令下の倉 庫業、印刷業、綿布業、製氷業等の許可) (5) 商業及ひ貿易=日本商品の輸入割当を撤廃する。 これに対する蘭印側、ホォーフストラーテン通商局長の回答は、「日本側の提案は広範、かつ、原則的であって、蘭印の主権を拘束することになるので2010.3 Vol.44 No.276 この時期、昭和15(1940)年11月、ならび日本では「対蘭印物資取得並に貿易応急方策要領(対南方発展施策に関する件)」が閣議で決定された。「要領」には「蘭印において生産される物資、例へば、石油、錫、ゴム、ボーキサイト、ニッケル鉱、クローム鉱、マンガン鉱などに付いては、本邦に対し其の必要量のなすことを蘭印政府に保優先的供給を為証せしむる等の措置を為すを緊急とす。就中石油の確保に付いては重点を置くものとす」と記されている。なかんずく表7日本の石油輸入量(万k?)昭和14年昭和15年昭和16年原油B重油C重油航空揮発油自動車揮発油潤滑油合計300123257316492375135828671763013147-241212226出所:第2復員省(旧・海軍省)調査資料7. 芳澤団長のバタビア到着 昭和15年も末の12月28日、新任の芳澤団長がバタビアに到着した。同行者は山田文雄太平洋協会調査部長(元東京帝大教授)、伊藤與三郎三井物産常務取締役(向井忠晴会長の後任)であった。総領事は11月末の段階で斉藤音次から石澤豊に交代していた。日本の使節団は人員を一新して交渉にあたることになった。昭和16(1941)年1月、芳澤団長は一般提案を蘭印側に提出した。その内容は次のとおりであった。1.日本人の入国およびその他の事項 (1) 日本人の入国制限を緩和するふ」。政治的見識を要すること、多少、西洋の儀礼に心得あること、小林大臣が使節として内外に対し完全に落第せる主つき因は右諸点なりと思考せらるるに付、後任としては、ぜひ、芳澤謙吉氏の出たきことを希望し居れり、右何馬を得度まで等参考迄。同使節の帰朝談話発表は特に蘭印に対する反響を顧慮し、交渉の内容に付自己宣伝的な楽観論をなさざこる様御配慮を請 この電文からは、団長への批判を通して日本使節団の内情と外交官の領域意識を読み取ることができる。使節団の内部では向井石油代表と斉藤総領事、太田随員との間もぎくしゃくしていた。 向井代表は、中原義正海軍大佐に、「斉藤、太田両名が蘭印側と政治問題に付いて会談する際、石油問題に深入りするので思うように交渉が進まない。かういふ状態では辞任帰国するより外にない」との苦情を述べている。斉藤総領事と太田随員は外務省(松岡洋右外相)への電文の起案者であったが、三国同盟が締結された際、現地から「速やかに支那事変(日華事変)を解決した後、好機武力を行使して蘭印問題を一挙解決(蘭印の占領)せんとする」旨の電文を発信している。随員の中山寧人陸軍少将(会商時は中佐)は戦後、「太田書記官は軍人のやうな考へをする人で、蘭印問題に関し軍人以上に積極的な考へを持っていた。また、斉藤総領事は右翼ともいふべき傾向の人であった。外務省も特にさういふ人を随員に選んだのではなかろうか」と述べている。、外 芳澤謙吉は犬養毅元首相の娘交官で駐支公使、駐仏大使、外務大臣(犬養毅内閣)、貴族院議員を歴任していた。小林団長の帰国後も日蘭会商は事務レベルの交渉を継続していた。11月上旬、石油の新規契約分が調印された。婿せじょい?を賭して独と戦いつつある此の際、日本の対南政策の推移、特に、仏印及ひ「泰」(タイ)に対する実力行使の気配、東亜共栄ぶり圏思想今後の発展振、日本に於ける欧米人排撃態度の強化、蘭印に於ける検閲及ひ書類押収の結果、判明せる日本人の対蘭印不穏態度等を真剣に考慮する時、日本人の大規模なる進出は今日直ちにこれを認むること到底不これ可能なること是なり。ろう日: 蘭印は三国同盟成立以来、特に排日的になり、日本人の進出を拒否するのみならす、遂には英米に追随して対日禁輸の挙に出て兼間敷との疑惑深まりつつあり。蘭側の猜と警戒強まるに正比例して日本の疑惑も深まるへく、此の儘に推移せは不幸なる大衝突を来なしと思考する。蘭: 対日関係は独自の立場に於いて決定するものにして英米追随の意識なし。今次会商に於いて大局的調整方努力の要ありとの意見は同感なるか、日本か蘭印の独立性を無視し其の要求を強要せんとせらるる次第ならは、一戦を賭するも独立を防衛せらるへからすとは。蘭印人一般の牢外ほ疑ぎきたすさいままかたかたる決意なり。乎こ日: 斯かる見地よりのみ日本の要求を取扱はるるものなれは、その結果、日本にとり不満足極まるものなること明瞭なれは、日本としては日蘭印関係を再検討するの必要に迫らるへし。(出所) 戦史叢書大本営陸軍部大東亜戦争開戦経緯(1)つ喝か 日本側の発言には正規の外交官にしては夜郎自大的、恫的な表現が目立つ。一方、蘭印側には自立心とともに主張すべきは主張するとの筋が通った発言が見受けられる。どう戦争と石油(3) -『日蘭会商』から石油禁輸へ-同意し難い。このような広範な諸問題を短期間に決定することは、事実上、不可能であり、いかに努力しても一年以上の年月を必要とする」であった。とど日: しからば、経済活動は現状に留め今日以上の発展を許さすとの方針を固辞せられんとするものなりや。蘭: 抽象的、かつ、遠大なる要求を原ついに日本人の無則的に承認せは、終限の発展を認めさるを得さるに至かかれるへきに付、斯る蘭印の主権を将来に向かって拘束するか如き約束は与へ得すとの意味なり。蘭印の利益にもなり、かつ、蘭印の経済機構に対して何等の脅威を及ほささるものならは、一概に日本人の企業進出を排斥せんとするものにあらす。み日: 石油について観う憂ゆるも、蘭印側は英米に対し大規模企業を許し居る、右を以て脅威とは認め居らさるにあらすや。日本人企業に対する今次我方要求を認めたる場合に於いても、資本の点より考え一朝一夕に英米の石油事業の如く大発展を遂くる訳にもあらさるに付の必要なき、蘭印側としては杞し。処とわけころき蘭: 石油に於ける英米の発展は過去のことにして、これとても、1919年の鉱業法改正に依り統制を強化せり。要するに今後は企業、商業等万般の経済活動は蘭印人をしてこれに当らしむるへく、毎年、多額の助成費を計上し居る事情にして、外国人の進出は最小限度に留めたき方針なり。いかんが何か日: 蘭印の膨大なる面積、資源及ひ蘭印人の開発能力大ならさる点に鑑み、政府に於いて如に努力せらるるも百年河清を待つに等しかるへし。い蘭: 愁久なる国家の生命より観れは、100年200年は問題とするに足らす。政府としては何世紀を費すも蘭印人の手を以って開発したき意なり。尚、この際、特に強調し置きたきは、蘭印英と同盟し生嚮こう8. 一般提案への蘭印側の回答 本交渉を前に、2月17日~3月1日の期間、石澤豊総領事とホォーフストラーテン通商局長との間で予備交渉(11回)が行われた。この予備交渉では、日本の蘭印に対する姿勢が明確に出ている。要旨を記す。蘭: 日本側の提案は現状に比へ(べ)て余りにも大規模のものである。しかも、蘭印を日本の「管理」下に置かんとするが如き感あるところ、蘭印としては背後に潜む日本側の動静に対し強い疑惑と不快を感せさ(ぜざ)るを得す(ず)。日: 日本は国土狭小なるに、1億の人口と、毎年、百万の増加人口を養はさるへからさること、支那事変の発展に伴い占領地域の支那大衆を養ふの要あるのみならす、破壊せられたる諸施設復旧の責任を負ふに至れること。右の目的を達成する為には日満支に於ける生産力拡充と之に要する多量資源の迅速、安価、安全なる獲得を不可欠とし、更に日満支に無き南洋の農、工、水産資源を必要とする。よ蘭: 蘭印としては、あくまで其の独立性を主張するものにして、蘭印を打って一丸とする自主的な経済機り、其の繁栄を計ら構の確立に依んと欲するものなり。したがって、外国の政治的な勢力の波及を許容し難きは、もちろん、外国経済勢力の進入、特に右か蘭印経済機構をある程度まで左右し得る程度に及ふか(が)如きは絶対に許容し難し。77石油・天然ガスレビュー. 物資の取得を急ぐ日本政府ろん、未開発の油田も対象とする。(3) 会社の買収として英米系以外の蘭系石油会社を対象とする 一般問題の交渉が難航しているなか、日本政府は使節団に対して物資の取得問題を並行して交渉する指示を出した。国内に資源の在庫が少なくなって、蘭印からの重要資源が確保されなければ、昭和16(1941)年度の物資動員計画*5が立案できない状況となっていた。 昭和16(1941)年6月、蘭印側から一般問題と重要資源の供給量に対する回答が出された。一般問題については、「日本の蘭印に対する特殊的地位は認めない」との立場が貫かれており、わずかに、蘭印に駐在する日本人向けの医師(除歯科医)の入国が認められただけであった。 日本側が最も重視したのは石油の権益であった。日本政府が閣議で了解した交渉方針は次のとおりであった。(1) 新鉱区としてボルネオを第一目標として、タラカン島の対岸約5万平方キロと日本のボルネオ石油が試掘中のカリオラン鉱区に隣接する地域とする。(2) 既設鉱区として、スマトラとジャワの現行鉱業法が施行される前に付与された鉱区で生産中は、もち 日本の要求に対する蘭印側の回答は次のようなものであった。① ボルネオ島の東岸サンクリラン地方27万8,000ヘクタール② 将来の供与鉱区として同サンクリラン地方マンカリアット半島③ 将来の優先的交渉権保有、セレベス中央部東岸のバンガイ鉱区16万3,000ヘクタール④ 将来の優先的交渉権保有、蘭領ニューギニア(同島西半分)北東部 石油の輸入量については、日本側は380万トンの要求を前年11月に合意していた200万トンに引き下げた。合意済みの量であったため蘭印側はこれに問題はなかった。しかし、蘭印側の最終回答は、「石油輸出の増量は、日本の輸入業者と蘭印の石油会社との交渉に待つべき事項であって、蘭印政府は石油資源の現状では生産量の増加は困難とみている」であった。 重要資源については、日本側の要求量が昭和15(1940)年5月の段階から最終回答までの1年の間に石油と同様に増加したにもかかわらず、蘭印側の表8対蘭印主要物資要求量と回答量(トン)物資石油錫(含鉱石)ゴムボーキサイトニッケル鉱マンガン鉱ひまし油キニーネ当初の要求量1,000,0003,00020,000200,000150,00027,0004,000600最大要求量3,800,00013,60030,000400,000180,000――10,0003,000最終回答量2,000,0003,00015,000240,000150,0006,0006,000600(注) 対象物資は屑鉄、クローム鉱、タングステンなど総計40品目以上になる。出所:日蘭通商条約関係資料他エッセー回答はそれなりに評価できるものであった。しかし、日本側は、ゴムの供給量を蘭印側が最初の要求量の2万トンを認めたにもかかわらず、最終回答では1万5,000トンに減じていることに注視した。 また、マンガン鉱の回答量(6,000トン)が要求量(2万7,000トン)より大幅に少なかった。その理由は、蘭印側がこれらの物資を日本がドイツへ再輸出することを警戒したためであった。更に、日本側が問題にしたのは、この回答量が昭和16年の1月から12月の間の供給量であって、同年6月の段階ではそれまでに供給された量が含まれていること、物資の供給は「オランダ王国及ひその同盟国に有害にならず、オランダ政府の判断により認める限り」との条件が付いた点であった。10. 交渉の終結 貴重な資源が、ある程度、確保できたならば戦略的に対応をするのが交渉であるが、芳澤団長は回答を受け取った翌日、「蘭印側の回答を不満足として会商決裂を声明したる上、使節団を引き上げる他なし。6月20日過ぎ帰国の予定である旨御了解願う」との電報を東京に発信した。 交渉が最終段階にあった5月下旬、松岡外相はクレーギー英国大使を外務省に呼び、難航している日蘭会商の斡旋を依頼した。会談の席上、松岡外相は、特に、蘭印側がゴムの輸出量を減少させたことに対して、「蘭印の如き弱小国が日本に対してドイツに再輸出しないとの保証を要求するとは、蘭印の増長を示すものにして、大国日本に対してヒューミリエーション(屈辱)なり。日本は断じて保証を与えす」と断じた。 これに対して、クレーギー大使が「蘭印が対独再輸出をしない旨の保証を要求するのはビジネス上、止むを得ない」2010.3 Vol.44 No.278鮪桙フ石油ビジネス慣行を日本側の民間交渉者は周知しており、蘭印側からすれば強要以外の何ものでもなかったのである。 蘭印の原油の生産量は年間約800万k?であった。135万k?(この場合、トン=k?と換算)の供給量の増加は蘭印側としては、融通可能な最大量であったと推測される。石油政策の基本は①安定的な供給源、②自主開発原油、③備蓄――である。③の備蓄は供給の途絶に対して効果的であるが、緊急対策に過ぎない。②の自主開発原油を確保するためには鉱区の取得と石油の探鉱と開発の技術が必要となる。 日蘭会商で蘭印側から提示された鉱区は未開発のボルネオ島、セレベス島、蘭領ニューギニア(同島西半分)北東部であった。主要な生産油田があったスマトラ島の陸上鉱区は既に米系のスタンダード、蘭英系のロイヤル・ダッチ・シェルが利権契約を締結済みで、対外的に開放する余地はなかった。 日蘭会商の最末期、昭和16年6月10日付の大本営陸軍部戦争指導班「機密戦争日誌」には、「日蘭交渉決裂せんとす。この際、仏印に対する軍事協定締結を促進すると共に仏印駐兵権を獲得すへし」の記述がある。日蘭会商が、その後、日本軍が行った南部仏印への進駐に影響を与えたことは確かである。しかし、その進駐はある程度前提にされていた面がある。 蘭印側の対応は原油の生産能力に限界があったこと、ゴムなどの戦略物資をドイツに回送するのを避けること、米国の対日経済制裁、特に航空機用の揮発油を日本に供給しないことなどを念頭に置いた戦略的なものであった。したがって、経済的(石油の操業上)にも政治的にも、日本側の要求が完全に受け入れられる可能性は低かった。 また、一般項目の受け入れは、蘭 バタビアでの日蘭会商は、昭和15年9月から16年6月まで9カ月間継続された。石油を中心に見ると、日本の購入希望量は、当初、100万トン、4カ月後には315万トン、昭和16年3月の時点では380万トンとなり、最後は日本の需要量の約500万トンを示唆している。日本はその時々の状況、国内の未調整を背景に数値を変動させたのである。 通常、交渉では提示量から妥結点をしゅう求めて合意量に収するのが一般的な過程である。しかし、日蘭会商では日本側の一方的な数値の引き上げが続いた。結果的には日本は、蘭印と200万トンの供給量で合意した。この量は、当初の希望量の2倍であった。 日本はこの合意量に不満であったが、石油ビジネスの国際慣習では蘭印側の回答は最大級の譲歩であった。当時、石油は利権契約が主流であり産油国は鉱区の開発と生産権を石油会社へ付与した。石油会社はロイヤルティー(生産利益の分配)と税金を産油国に支払った。生産した原油と精製された製品はターム(期間)契約で消費国の石油会社や商社へ販売されていた。 交渉の段階で日本側は、「豪州、マレーへの割当て分(昭和14年の蘭印の輸出量=豪州86万トン、英領マレー12万トン)を日本に回し、それらの国はイラン、ビルマから輸入すへし」と蘭印政府に指示を行っている。しかし、蘭印政府はロイヤルティーの支払いを受ける立場であって、販売契約を購入者と締結していたのは石油会社であった。契約を破棄して他の国から輸入させればよいとの身勝手な主張である。 一方、蘭印側は交渉の過程で何度も「石油の供給は石油会社の判断と責任であって、蘭印政府が保証する立場にはない」との説明を繰り返している。斂れん11. 日蘭交渉の意味と発言すると、松岡外相は「ビジネス上もけしからん」と応じ、大使が日本のゴムの需要量を問えば、外相は「回答の限りにあらず」と答えた。 更に、「万一、交渉が決裂して芳澤団長が引き上げることになると、抗蘭、あおひいては、排英熱も煽られることになる。よって、大至急、オランダ及ひ蘭印政府に反省をさせるため貴国の圧力を用いられるよう、至急、本国政府に電報を発信して頂きたい」と要請した。 大使は、後日、外相を訪問して、「御依頼の件は、早速、本国政府に伝達し、ロンドンに亡命中のオランダ政府と協議した。オランダ人は独立心が強い性質であり、『オランダの見地より日本と折衝をしている』との回答で英国の好意的な斡旋は効果がなかった」と伝えた。更に、「マスコミを使い圧力を蘭印に加へるような態度は独立心の強って硬化させるのいオランダ人を却で、穏やかに話をする方が効果的である」と助言をした。 商工省は日蘭会商の発案者であったため、交渉を打ち切る場合でも、「石油代表及ひ随員はそのまま駐在を続けさせる。日蘭関係が最悪の状況になっても、最後の一刻まで日本の主張を行ふ」との方針を決定していた。6月11日に開催された大本営政府連絡懇談会に、次の対処方針が提出された。 ①芳澤団長の引き上げを命じる、②調印は行わない、③交渉決裂の形にせず、その後の余地を残す、④使節団の帰国後も必要があらば所要の者を派遣する。 この方針を受けた使節団は蘭印側と最後の交渉を行い、蘭印側は回答した重要資源の対日輸出を行うことを約束した。6月下旬、使節団は、順次、帰つ国の途に就いた。かへ79石油・天然ガスレビュー戦争と石油(3) -『日蘭会商』から石油禁輸へ-010.3 Vol.44 No.280エッセー進論と南進論、米国敵対論と協調論が対立している。紙一重の状況にある時に、石油の禁輸を行えば日本に結論を出させることになる」と強硬論を抑えていた。しかし、「要綱」が解読されて以来、米国の政府内では対日制裁についての検討が慎重に続けられた。 7月19日、ウェルズ国務次官は国務省内部に、7月21日までに対日資産の凍結、生糸他日本製品の輸入拒否、石油禁輸に必要な命令の準備を命じた。7月24日、米国のラジオが「日本の輸送船12隻が海南島を出航して南下しつつある」と報じた。 24日の午前、ルーズベルト大統領は、ちゅう「米国が対日石油禁輸を躊してきたのは、それによって日本が蘭印へ進攻することを心配していたからだ。米国の慎重な政策によって戦争の拡大が防止されてきたのだ」と述べた。更に、大統領は24日の午後、閣議の席で、「日本の資産を凍結して対日貿易の制限を行うべきだ」と発言した。しかし、この段階では、大統領は、まだ、石油禁輸を行う決定はしていなかった。 大統領は「通常の方法で命令を出し、申請が財務省に出されれば許可を与える。しかし、政策はいつ変更されるかも分からない。変更の場合は全許可を取り消す」と発言した。そして、在米国の日本資産を26日に凍結できる準備を指示した。 この日の夕刻、ルーズベルト大統領は野村吉三郎大使と会談した。この席で、大統領は石油禁輸の可能性を示唆するとともに「仏印の中立化構想」を提案した。野村大使は直ちにこれを日本の外務省に連絡した。これが、米国の「最後の警告」であった。 7月24日の大本営陸軍部戦争指導班「機密戦争日誌」の記述では、「外相、南仏進駐に対する米国の動向に就き資金凍結、石油禁輸等強硬態度とるべきを発言す。野村大使よりの電『ヒステ躇ちょん進し策謀も激しく、このまま放置することはできない」であった。これが、いわゆる、南部仏印進駐である。 更に、日本は翌7月には御前会議で「情勢の推移に伴ふ帝国国策要綱」を決定して、南部仏印への進駐に関して「対英米戦を辞せず」とした。 7月2日、御前会議で「情勢の推移に伴ふ帝国国策要綱」が決定された。こまいの要綱は「支那事変の処理に邁し、自存自衛の基礎を確立するため南方へ進出し、情勢の推移に応じて北方問題を解決する」というものであった。 具体的には、中国本土の日華事変(昭和12年7月勃発、4年経戦)は継続しながら南方に進出し、状況が許せばソ連を攻撃するとの内容である。重要なことは、「本目的の達成のためには英米戦を辞せず」としたことである。この内容は、四方面の戦争体制で、「敵を分断して個別に撃破する」との戦略の基本からは程遠いものであった。 この要綱について、陸軍参謀本部の塚田攻次長が、「国家秘密に付き絶対漏れないようにしなければならぬので書類を返却願いたい」と御前会議の出席者に機密保持を依頼した。しかし、米国政府は、わずか、6日後の7月8日には、日本の外務省が米国、ドイツ、ソ連の駐在大使に宛てた外交電報を解読してその内容を知ることになる。 ただ、この電文では「要綱」の内容が漠然としており、また、文中には、「対英米戦を辞せず」の文句は含まれていなかった。しかし、米国は日本が南進の決定をしたことを把握した。 米国の政府内には、日本の行動に対して、より強硬策を採るべきだとするグループがいた。ウェルズ国務次官、モーゲンソー財務長官、イッキーズ内務長官、スチムソン陸軍長官たちで、彼らは早くから日本への石油禁輸を主張していた。これに対して、ルーズベルト大統領は、「今、日本国内では北印での「日本の経済的な特殊地位」をつながり、蘭印としては認めることに繋受け入れ難いものであった。日本が「自存自衛」体制の確立のために実力を行使しても必要な資源を確保するとの政策を進めるならば、日蘭会商が決裂した後の進路はすでに決まっていたと言える。12. 引き金になった南部仏印への進駐 昭和16(1941)年6月17日、日蘭会商の芳澤団長は蘭側へ交渉の打ち切りを通告した。27日、使節団は蘭印たって帰国した。この前後、事態はを発急速に進展する。その状況を時系列的に追ってみる。 日蘭会商が打ち切られた昭和16(1941)年の6月上旬、海軍第1委員会は「現情勢下に於いて帝国海軍の採るべき態度」を作成して、南部仏印への進駐と蘭印の石油資源を接収するとの海軍の方針を明らかにした。 6月24日、「南方施策に関する件」が閣議決定された。その内容は、「帝国は現下諸般の情勢に鑑み既定方針に準拠して対仏泰施策を推進する。特に、蘭印派遣代表の帰朝に関連し、速やかに仏印に対し東亜安定防衛を目的とする日仏印軍事的結合関係を設定する」であった。 具体的には、南部仏印に軍隊を進駐させて航空基地、港湾基地を取得し、次の段階であるシンガポールの攻略と蘭印の占領を準備することであった。フランス政府が日本の要求に応じない場合は、「武力を以って我が目的を貫徹する」としていた。 その理由は、「南方地域に於いて英ひそかに蘭印と提携し、政治的、経米が密済的、軍事的な圧迫態勢をとったことが、今般の日蘭会商の推移と結末を招いた。タイ、仏印に対する対日離反の熕ホ油の禁輸を続けた後、これを解除するのは米国側が譲歩したと取られると考えた。あるいは、8月段階から状況を把握していたが、様子を見るべきだと判断したとも思える。 「ハル回顧録」によれば、日本が南部仏印へ進駐したとの報告を受けた後、ハル国務長官は、「われわれの交渉は終わった。これから後、日本に対するわれわれの主な目的は国防の準備のために時を稼ぐことであった」と述べている。このことから、ハル国務長官は積極的ではないものの、石油禁輸を容認していたと取れる。 アチソン国務次官補やモーゲンソー財務長官らの対日強硬派は、「日本は米国とは戦争は出来ない、強力な経済制裁が日本を屈服させる」と信じていた。 8月2日の「機密戦争日誌」の記述、「同盟電に依れば石油を禁輸すると云う事実なり。とせば、遂に百年戦争避け難き宿命なり」とある。 8月7日と8日の同記述には、「対英米戦を決意すべきや、対英米屈服すべきや、戦争をせず而も屈服せず打開の道なきや。この苦悩綿々として尽きず」とある。 陸海軍の省部(陸軍省、海軍省、参謀本部、軍令部)の幕僚たちは、この自失となっ英米の強硬な反応に茫然ぜしかいぼうん表9日本の石油備蓄量(万k?)昭和14年昭和15年昭和16年原油B重油C重油航空揮発油自動車揮発油潤滑油合計247604561313107992413942620997443713137047366861出所:第2復員省(旧・海軍省)調査資料ん撼かる」であった。輸出管理局は数量を計算して許可証を発行するだけであった。しかし、実際は、これが米国の対日石油禁輸の手段になったのである。 8月1日、米国は「石油の全面的禁輸」を断行した。また、蘭印もこれに合わせて石油協定を破棄した。この時までに日蘭会商で合意した石油要求量のうち、日本へ向けて積み出された量は20万トンに達していなかった。日本の陸海軍は一部を除き「南部仏印進駐までは米国はこれを許容するであろう」との楽観的な見通しを持っていた。そのため「資産の凍結」と「石油禁輸」のしん報は陸海軍の政策決定者たちを震させ、驚愕の淵に落とし入れた。 米国は石油の輸出許可を止めるのではなく、石油代金の支払い手続きによって圧力を掛けてきた。対日強硬派が大勢を占める合同(国務省・財務省・司法省)外国資金管理委員会(委員長ディーン・アチソン国務次官補)と財務省は許可済みの石油製品の購入資金を凍結した口座から引き出す許可を与えなかった。 委員会は、「米国にある手持ちドル、現金のみで決済を受け付ける」と主張した。日本側は、日本からのドル紙幣の輸送などを提案したが、事務当や金局は回答を保留して、日本を実質的な石油禁輸へと追い込んでいった。 この時期、ルーズベルト大統領はチャーチル首相との「大西洋会談」*6に出席するためワシントンを離れていた。また、ハル国務長官も病気静養のため電話での報告は受けていたもののワシントンにいなかった。アチソン国務次官補はウェルズ国務次官に手続き上、実際に起こっていること、つまり、口座の凍結により石油が輸出されないことを報告しなかった。 9月に入り、ハル国務長官は野村大使から米国が石油を輸出しないために日本で「石油危機」が発生していることを聞いた。ハル国務長官は1カ月以上きんリック』なるに一驚ならんか。当班右不同意。外相遂に本性を発揮しつつあり。警戒を要す」とある。 7月25日の同記述では、「米大統領、今まで日本に油を供給したのは南太平洋の平和を欲したるに在りと演説す。『日本の南進により今や遂に平和は破やむなし』というが如る。全面禁輸も已こうまるき口限り禁輸なしと確信す」。 7月26日の同記述では、「当班(戦争指導班)全面(石油)禁輸と見ず、米はいせざるべしと判断す。何かは来るべし。その時期は今明年早々にはあらずと判断す」としている。とどなり。当班、仏印進駐に止時つ吻ふん13. 対日石油禁輸 この後、ついに、日本の運命を決める出来事が起こった。7月26日、米国は在米の日本資産を凍結した。英国も同じ処置を採った。 7月27日、蘭印は在蘭印の日本資産を凍結して、日蘭会商で調印した石油協定を停止した。7月28日、日本軍は南部仏印へ進駐する。 7月30日、ハル国務長官はウェルズ国務次官に対し、「日本に対して、戦争以外の包括的な手段を出来るだけ早く実行せよ」と指示した。日本は、「南部仏印への進駐は平和的手段で行われ仏印政府も了承済み」と考えていた。 しかし、ハル国務長官は、「平和的な手段とは何か。南部仏印への進駐は侵略の第一歩だ。平和のための日米交渉中に進攻基地を確保するための南進は交渉継続の基礎をなくする」と判断したのであった。 8月1日、米国の経済制裁の具体的内容が発表された。「日本の1935年から1936年にかけての石油の輸入額(年度)を限度として、航空ガソリン以外の石油製品の輸出許可証、凍結資金の解除証を発行する。その他の通商は原綿と食糧を除き全面的に不許可とす81石油・天然ガスレビュー戦争と石油(3) -『日蘭会商』から石油禁輸へ-Gッセーた。彼らは、日本が南部仏印に進駐しても米国は、それを許すと思い込んでいたのである。日本の政策決定集団は経済制裁を冷徹に実施してきていた米国のカードが読めていなかったのであった。14. 石油禁輸後の石油需給予測 日本軍の南部仏印への進駐、米国による在米日本資産の凍結、対日石油禁輸と続く環境変化のなかで、日本の軍部はいくつかの石油需給の見通しを行っている。 本誌に掲載した拙稿(「戦争と石油(1)」2006年1月号、「戦争と石油(2)」同年3月号のなかで、「現情勢下に於いて帝国海軍の採るべき態度」(昭和16年6月)と「企画院の石油需給の見通し」(昭和16年11月)については説明した。海軍と陸軍は米国が石油禁輸を実施した直後にもそれぞれ石油の需給見通しを行っている。参考までに、その要旨を掲載する。この予測には、既に戦争そのものが織り込まれているのが特徴である。(1) 海軍省軍務局の石油需給予測  (昭和16年8月) 海軍省軍務局は石油の禁輸が断行された8月1日には、石油の需給予測を行っている。その予測の特色は蘭印の油田地帯の占領を前提にしたもので、占領した油田の修復と生産を行う石油部隊の編成をし、機材の準備をすることを考えていたことである。① 前提条件・ 南方を占領した時には油田施設は破壊されている。・ 敵による原油の被害損失率は10%とする。・ 破壊された油田の施設は日本から運ぶ資機材と人員によって復旧して採油する。(作業計画)・掘削リグ  現在の保有は200基、一年後には製造中のリグ100基が完成する見込み。1基につき所要鋼材200トン。・作業人員  内地の現在員数は7,800人、現地の要員数としてボルネオへ3,200人、スマトラへ1,500人の計4,700人を派遣する。・鋼管類  国内の生産能力は年25万トン(700m×井戸2,000本分)。(輸送力)・現有の油槽船は44万トン、47隻。・ 日本~蘭印間の年間の輸送回数は10~15往復、年間の輸送量約500万トン。・ 油槽船の建造計画(3年間)は1万トン級10隻、5,000トン級20隻、計20万トン。・ 戦時における油槽船の損耗率をね可。実10%とすれば、本計画で概績を見て必要ならば建造量を増量する。おおむ②着目すべき問題・ 空襲等による国内の石油備蓄の被害は算定していない。・ 原油の被害損失10%の想定を著しく超える可能性がある。戦争3年目の補給線の維持は相当に困難である。・ 掘削作業中の各種の故障は見込んでいない。・ パイプラインの修復、整備期間はセリア油田で6カ月、パレンバンで7カ月。更に、長期間を要する可能性もある。・ 北樺太の原油は計算外、国内油田の生産量は平時量より半減する。戦時の対応で平時の生産量を維持できる見込みがある。・ スマトラの北部と中部の油田は計算外とし、スマトラの南部油田は開戦時に掘削リグの製造に着手すれば増産の可能性がある。③ 石油の需給見通し・ 保有石油量、8月1日現在、約940万k?。・ 保有量から決戦のための予備量50万k?、国内の予備量100万k?、タンク内の焦げ付き80万k?の合計230万k?を引いた710万k?を使用可能量とする。[戦争1年目]・ 供給は備蓄の940万k?、国内の原油生産約20万k?、人造石油約30万k?、南方からの還送原油30万k?の合計1,020万k?。・ 消費量は月平均で45万k?、年間で540万k?。戦争1年目の残量は480万k?となる。[戦争2年目]・ 供給は戦争1年目の残量に南方からの還送原油約240万~250万k?、国内の生産原油20万k?、人造石油70万k?を加えた810万~820万k?。・ 消費量は戦争1年目と同様の540万k?、2年目の残量は270万~280万k?となる。[戦争3年目]・ 供給は戦争2年目の残量に南方からの還送石油約477万k?、国内の生産原油40万k?、人造石油150万k?を加えて937万~947万k?となる。・ 消費量は年間で540万k?、差引した残量は約400万k?となって備蓄量は増加が見込める。 この需給予測では、・ 人造石油の生産量が戦争2年目の70万k?、3年目の150万k?と、通常、想定される生産量(昭和16年の実績19万k?)より大幅に多い。・ 還送原油が油槽船の輸送能力に合わせて計算されている。・ 通常、戦時の消費量は平時の3~4倍になるが、この消費量は平時と殆ほとん2010.3 Vol.44 No.282サ鋼原料、米は所要量の80%、石炭、肥料、大豆、鉱石、綿花、塩は40%、その他10%になって国民生活の維持は不能となる。・ 陸海軍の徴用が合計300万総トンの場合、製鋼原料、米は100%、石炭他の重要物資は70%、その他8%の輸送になって国力の維持は可能である。・ 判決として、陸海軍の徴用は合計300万総トン程度に抑えることが絶対に必要である。作戦の開始時期は冬期、蘭印への奇襲の方策、マレー半島の陸路による攻略の方法を考慮する。対英米戦は持久戦であり船舶の保持が絶対に必要である。[重慶攻略の場合]・ 作戦の期間中、民需用の船舶は270万総トンに低下するが、そのあと、300万総トン以上に回復する。[現状維持の場合]・問題なし。③石油需給の判断(万トン)・現在の備蓄量 総計837航空揮発油普通揮発油重油合計陸軍474087海軍(陸軍の推計) 民間422211401555070547・原油の内地到着量昭和16年度昭和17年度昭和18年度昭和19年度昭和20年度北方作戦―なし70120150南方作戦―20150300500人造石油供給28374790―国産原油43434343―無水アルコール 年8万トン(参考) 実際の南方石油の到着量は種々の数値があるが、昭和17年128万トン、18年228万トン、19年91万トン、20年0 (戦史叢書海軍軍戦備(1))。1トン=1.162k?で換算。戦争と石油(3) -『日蘭会商』から石油禁輸へ-表10海軍軍務局の石油需給の予測(万k?)戦争1年目戦争2年目備蓄国産原油人造石油南方還送供給計需要残予備量▲230万k?9402030301,0205404802504802070240~250810~820540270~28030~50出所:戦史叢書大本営海軍部・連合艦隊(2)戦争3年目270~28040150477937~947540397~407167~177んど変化がない。 石油禁輸後の戦争時の需給予測としては意図的にか楽観的数値が使用されている。(2)陸軍の国力判断 昭和16年の8月4日、陸軍省山田清一整備局長は陸軍の首脳部に対して「物的国力判断」を説明した。また、同省岡田菊三郎戦備課長は杉山元参謀総長他の参謀本部各部課長に対して「判断」を説明した。これは鉄、石油、食料などの物資の需給予測と重要物資を輸送する船舶量について調査したものであった。 この「判断」は、参謀本部が次の前提条件を示して物的な国力の推移(船舶輸送力、鉄、石油、食料)を検討させたものであった。そのなかで、物的な国力判断の最重要な要因と思われる船舶輸送力と石油需給の分析を記述する。・ 昭和15年並の物資の動員のためには、民需用の船舶300万総トンが必要である。・ 現在の民需用の船舶は220万総トン、現状が継続すれば生産力は低下する。・年間の新造船の増加は45万総トン。[北方へ武力を行使する場合]・ 現陸軍の徴用船舶は150万総トン、北方への動員が終了した後は100万総トンに減少する。・ 現海軍の徴用船舶は62万総トン、作戦時は80万~100万総トンに増加する見込み。・ 船舶の損害は、当初、約20万総トン、年間約35万総トンと想定する。・ 民需用の船舶は平均250万~320万総トンが残り、新造船の40万総トンを加えると300万総トンの確保は可能となる。①前提条件・ 北方への武力行使:使用兵力約20[南方へ武力を行使する場合]・ 陸軍の徴用は150万総トン、海軍~30個師団200万総トン。・ 南方への武力行使:使用兵力約10・ 損害は第1年度50万総トン、第2年個師団度70万総トンと想定する。かいう傭よ・ 民需用の船舶は開戦時には約130万に総トンに低下するが、陸軍の解より、逐次、増加して12カ月後には200万総トンになる。・ 民需が130万総トンに低下した場合、・重慶を攻略:使用兵力約20個師団・現状を維持②船舶輸送力の判断(全般)83石油・天然ガスレビューGッセーち切り前後から具体的な動きが現れている。まず、国内の油田で政府の補助金で掘削されていた補助油井の9割の作業を停止した。掘削機器は取り外されて、海外運搬用に荷造り後、神戸埠頭の三菱倉庫に運び込まれた。 この動きとは別に、陸海軍では、油田を破壊から守って占領するために前年から挺身隊(落下傘部隊)の編成と訓練が行われていた。連合艦隊の大部分の艦艇は8月下旬には訓練を打ち切り、各母港に帰港して作戦準備を開始した。 9月、陸軍は「南方石油資源取得準備要領」を決定し、10月には「石油開発要員徴用令」が発令された。陸軍の関係要員は千葉県国府台(現・市川市)の陸軍兵舎へ、海軍の要員は兵庫県姫路市の紡績工場の宿舎に集められて待機させられた。 同月、海軍は油田防衛班を編成した。防衛班とは占領した油田を敵側の破壊工作から守るもので、1班285名で2班が編成され、ボルネオ東岸のバリクパパンとタラカンへ派遣されることになった。 さらに、11月、海軍は特設海軍燃を定め、本部をボルネオのバリ料廠クパパン、作業部をタラカンとバリクパパンに置くことを決めた。油田地帯の占領構想が着々と進められていた。 蘭印の石油資源を武力で占領するとの考えは軍部だけでなく民間にも広まっていた。当時、日本石油地質調査課長であったO氏は、「米国が日本に対して石油の輸出禁輸を断行すれば、我われとしては国家の生存上、いかなる手段を講じても一方に血路を求めねばならぬことは必然の要求である。したがって、万一、かかる情勢を現出せざるを得ない結果になったならば、その責任者はアメリカ合衆国であると言わねばならぬ」(昭和15年10月8日、神戸新聞特集「蘭印の石油資源」)と述べている。石油専門家までが政治と焦令れしょうい2010.3 Vol.44 No.284[北方作戦の場合]・ 空襲の被害は航空揮発油18.4万ン、普通揮発油13万トン、重油38万トンと推定する。判決(結論)・ 昭和17年、先に北方作戦を行い、18年に反転して南方作戦を行うことは、まず、困難である。・ 昭和17年、北方作戦を行い、19年、または、20年に南方作戦を行うことは不可能である。北方作戦における石油の消耗は大である。・ 昭和17年、先に南方作戦を行い、18年に反転して北方作戦を行う場合、17年、あるいは、19年に石油は不足するが、20年以降は自給が可能となる。・ 先に北方作戦を行い、次に、南方作戦を行うよりも、南方作戦の後、北方作戦の方が安全率は高い。・ 重慶攻略の後、北方作戦、または、南方作戦を行う場合、航空機用揮発油は、昭和18年は可能であるが、19年は至難となる。普通揮発油は至難である。・ 現状維持の場合、航空機用揮発油は昭和18年、19年とも可能である。普通揮発油は至難である。・ 北方作戦か南方作戦かいずれかの突破を要す。石油だけで言えば、南方作戦を行うのが良い。(出所) 櫛田中佐業務日誌、戦史叢書大本営陸軍部大東亜戦争開戦経緯(4)エピローグ 米国による石油禁輸の後、日本は戦争への道を急速に進んでいく。昭和16(1941)年9月6日、御前会議で「帝国国策遂行要領」が決定された。その内容は、日米交渉が妥結しない場合には、「10月末を目途として戦争準備を完整する」というものであった。日米交渉とは昭和16年4月から11月まで野村吉三郎駐米大使とコーデル・ハル国務長官との間で行われた日米間の戦争を回避するための総括的な交渉であった。 石油に関しては6月の日蘭会商の打・ 樺太原油の取得分は30%、現地で70%が消費される。・ 重油消費量年150万トン、昭和20年以降には行き詰る。・ 航空揮発油は昭和18年までは大丈夫、19年以降は不足する。・ 普通揮発油(自動車用燃料)は昭和17年において既に不足している。それ以降も不足が続く。[南方作戦の場合]・ 油槽船の損耗は1年目20%、2年目は10%と推定する。・ 重油の消費量は年220万トン、昭和18年は少し不足する。19年は必要量の半分が不足、20年は三分の一が不足、21年以降に十分となる。・ 航空揮発油は陸軍と同様位。2年目は大丈夫、3年目からは現地で取得する。少々不足。戦のやり方で調整と持続は可能である。・ 普通揮発油は昭和17年、18年共に不足するが、19年以降には回復する。[重慶作戦の場合]・ 航空機用揮発油は2カ年経たつと飛行機は動かない。・ 重油は昭和20年には著しく不足する。・ 普通揮発油は昭和17年末には備蓄となって18年以降は行き少しきんょう量が僅詰る。[現状維持の場合]・ 航空機用揮発油は従来の三分の一位、輸入が出来れば当分の間は可能になる。昭和21年には行き詰る。・ 普通揮発油は昭和17年、18年はなんとかなる。19年以降には行き詰る。重油はなんとかなる。@10月18日、第3次近衛内閣が総辞職して東條内閣が成立した。米国と英国はこの内閣を「戦争内閣」と見た。11月1日、御前会議で「第2次帝国国策遂行要領」が決定されて、日米交渉の打ち切りは12月1日とされた。11月10日、連合艦隊は真珠湾の攻撃日を12月8日とする作戦命令を発令した。11月26日、海軍機動部隊(南雲艦隊)が千島列島の択捉島単冠湾を出撃して北太平洋を真珠湾へ向かった。 11月27日(日本時間)、ハル国務長官は野村駐米大使と来栖三郎特命大使に対し、中国、仏印からの撤退、三国同盟の解消、重慶政府(蒋介石)を中国政府とする、などを内容とする「合衆国及び日本国間協定の基礎概略」(通称ハル・ノート)を提示する。このハル・ノートの冒頭には「試案にして拘束されず」と記述してあったが、日本はこれを米国の「最後通牒」と受け取った。同日付けの「機密戦争日誌」の記述、「之にて帝国の開戦決意は踏切り容易となれり芽出度  之れ天佑とも云うべし」とある。その後、12月1日の御前会議で米国、英国、蘭との開戦が決定された。12月8日、日本陸軍がマレー半島に上陸し、日本海軍はハワイの真珠湾を爆撃した。いずれも無通告の攻撃で、太平洋戦争が開始された。日蘭会商の打ち切りから6カ月、米国の石油禁輸から4カ月で日本は戦争に突入した。責せ熱感に駆られていた時代であった。 そして、当時の日本では、このような考えは広く共有されていた。 昭和16年6月、陸軍省燃料課長の中村儀十郎大佐が米国の対日石油禁輸と石油需給の予測を東條英機陸相に説明し、対応策として南方油田確保の決心を問うた。これに対して、東條陸相しっきし人造石油は、「泥棒」は駄目だと叱などによる更なる対応策の研究を指示している(「油断の幻影」高橋健夫)。 アジア民族の解放、大東亜共栄圏、っ一宇、自存自衛、南方油田の確保などの標語と言葉が飛び交うなかで、陸軍将校団のエースであった東條陸相は南方進出の意味を正確に把握していた。紘こ八はう戦争と石油(3) -『日蘭会商』から石油禁輸へ-い帥す<注・解説>*1: 大本営=戦時中のみ設置された天皇直属の陸軍、海軍の最高統とう機関。明治26(1893)年に制定。過去、日清、日露の戦争時に開設されていた。日華事変は正式には戦争ではなかったが条例の改正によって設置され、太平洋戦争の終結まで続いた。*2: 大本営政府連絡会議=大本営の設置とともに大本営と政府との間で協議をすることを目的に設置された会議。その後、名称を大本営政府連絡懇談会、大本営政府連絡会議、最高戦争指導会議と変えた。*3: この時期、商工大臣の交代が頻繁で昭和15年1月から16年10月の1年9カ月の間に藤原銀次郎、小林一三、河田烈(蔵相との兼務)、豊田貞次郎、左近司政三、岸信介の6人が就退任している。*4: 石油の換算率=原油1トン(t)は1.162k?。原油300万tは348万6,000k?になるが、当時、日本では1t=1k?で計算する場合があった。*5: 物資動員計画=日華事変下、昭和13(1938)年から国家総動員法によって、軍需生産に物資を集中させるために実施された物資の年間需給計画。*6: 大西洋会談=1941年8月9~14日、カナダ・ニューファンドランド沖の英国戦艦プリンス・オブ・ウェールズ上で行われたルーズベルト米大統領とチャーチル英首相の会談。第2次世界大戦後の構想「太平洋憲章」が同意された。この構想は後の国連憲章となる。85石油・天然ガスレビューy参考文献】1.  「日蘭会商関係資料」外務省外交史料館 「交渉経緯概要」「詳細石油関係参考資料」「輿論並新聞論調」2.  「戦史叢書」防衛庁防衛研修所戦史部 朝雲新聞社  「大本営海軍部開戦経緯(1~2)」「大本営陸軍部大東亜戦争開戦 エッセー経緯(1~5)」 「大本営海軍部・連合艦隊(1~2)」「海軍軍戦備(1)」「蘭印攻略作戦」3.  「海軍対南方方策研究委員会資料」海軍省調査課4.  「杉山メモ(上)」参謀本部編 原書房5.  「大本営陸軍部戦争指導班機密戦争日誌」事事史学会編 錦正社6.  「大本営機密日誌」 種村佐孝 芙蓉書房出版7.  「木戸幸一日記(下)」東京大学出版会8.  「近衛日記」近衛文麿 共同通信社9.  「東條内閣総理大臣機密記録」東京大学出版会10.  「軍務局長武藤章回想録」上法快男 芙蓉書房11.  「太平洋戦争への道(6-南方進出、8-資料編)」日本国際政治学会太平洋戦争原因研究部 朝日新聞社12.  「第二次世界大戦(二)-真珠湾前後」軍事史学会編 錦正社13.  「ハル回顧録」コーデル・ハル 宮地健次郎訳 中央公論新社14.  「泡沫の三十五年―日米交渉秘史」来栖三郎 中央公論新社15.  「開戦と終戦」五百旗頭真、北岡伸一編 情報文化研究所16.  「南進論と北進論」森山優 岩波講座アジア・太平洋戦争17.  「日米開戦の政治過程」森山優 吉川弘文館18.  「油断の幻影 技術将校の見た日米開戦の内幕」高橋健夫 時事通信社19.  「海軍の選択―再考真珠湾への道」相沢淳 中央公論新社20.  「日本海軍燃料史」燃料懇話会 原書房21.  「現代日本産業発達史Ⅱ石油」現代産業発達史研究会 22.  「帝国石油50年史(経営編)」帝国石油23.  「日本石油100年史」日本石油24.  「石油公団関連資料」石油天然ガス・金属鉱物資源機構資料室25.  「戦時戦後の日本経済(上)」J.B.コーヘン 大内兵衛訳 岩波書店26.  「石油で読み解く完敗の太平洋戦争」岩間敏 朝日新聞社執筆者紹介岩間 敏(いわま さとし)鳥取県出身。早稲田大学第一法学部卒業。日本経済新聞社、トヨタ自販系研究所に勤務。この間、フリージャーナリスト(アサヒグラフ特約)としてバングラデシュ独立戦争(第4次印パ戦争)、ミンダナオ島イスラム教徒反乱、ビルマ山岳民族紛争等のアジアの民族問題を取材。石油開発公団(後の石油公団)に入り、通商産業省(現・経済産業省)調査員(国際資源)、ハーバード大学中東研究所客員研究員、石油公団パリ事務所長、計画部長、ロンドン事務所長、理事などを経て、現在、石油問題研究家。著書に「アジアのエネルギー・環境と経済発展」(共著、慶応義塾大学出版会)、「石油で読み解く完敗の太平洋戦争」(朝日新書)、「世界がわかる石油戦略」(ちくま新書、近刊)。2010.3 Vol.44 No.286
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2010/03/19 [ 2010年03月号 ] 岩間 敏
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