ページ番号1006403 更新日 平成30年2月16日

戦争と石油(4)ー 真珠湾作戦、成功へのカギは洋上給油 ー

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レポートID 1006403
作成日 2010-05-20 01:00:00 +0900
更新日 2018-02-16 10:50:18 +0900
公開フラグ 1
媒体 石油・天然ガスレビュー
分野 エネルギー一般
著者
著者直接入力 岩間 敏
年度 2010
Vol 44
No 3
ページ数
抽出データ  エッセー戦争と石油(4)ー 真珠湾作戦、成功へのカギは洋上給油 ー石油問題研究家 岩間 敏主要なポストは枢軸派が占め、昭和15年9月に海軍は簡単に三国同盟の締結に賛成した。 昭和16年7月30日、永野軍令部総長が天皇に奏上した際、天皇は「伏見宮(博恭王・前軍令部総長)は戦争することを避くる様に言ひしも、お前は変わったか」と言っている。これに対して、永野総長は「主義は変わりませんが物か無くなり逐次貧しくなるのでどうせいかぬのなら早い方が良いと思ひます」と答えた。 同年9月6日の御前会議で永野総長は次のような海軍の考えを述べている。① 重要軍需物資、特に石油が禁輸され、国防力が段々衰弱しつつある。② 一方、極東における英米の国防力が、逐次、強化されつつある。1年もすれば対抗できなくなる。③ 英米との短期戦は望むところで、英国は欧州戦でアジアまで手が回らない。飛行機を組み合わせて戦えば十分に勝算がある。しかし、短期戦で勝敗が決するとは思われない。④ 長期戦の場合、日本が南方を占領して、その資源を活用して堅固な体制をつくれば戦うことができる。⑤ その後のことは国家総力と世界情勢(ドイツの勝ち敗け)による。 10月23日、永野総長は大本営政府連絡会議で、さらに海軍の現状を説明。「10月のか今になったのて(ママ)研究本海軍になることを意味した。では、なぜ、海軍は対米開戦の決意をしたのであろうか。  太平洋戦争に関して、一般的に「陸軍悪玉、海軍善玉」という言い方がよくなされた。これは、三国同盟締結に反対した海軍の米内光政海相、山本五十六海軍省次官、井上成美海軍省軍務局長のラインの存在、真珠湾攻撃とマレー沖海戦の衝撃、さらに、終戦後、海軍首脳部が行った極東軍事裁判への海軍擁護の対策が効果的に機能した結果であった。また、海外との接触の多い海軍は国際的、スマートであるとのイメージも作用した。では、海軍は戦争に対して具体的にどのような判断をしたのであろうか。 海軍は開戦に反対であったのか。首脳部は一部を除き米国と戦うことに自信がなかった。むしろ、戦えば負けると思っていた人が多い。しかし、中堅層(佐官クラス)には、枢軸派が多く、対英米戦に積極的であった。海軍にもの気運が起こり、昭和16年に入ると、前年末に設けられた「海軍国防政策委員会」の力が台頭してきていた。この委員会は第1から第4委員会まで分かれていたが、このなかで特に政策・戦争指導方針を担当する第1委員会の力が強かった。その構成者は海軍省軍務局第2課長石川信吾大佐、同第1課長高田利種大佐、軍令部第1課長(作戦・編成)富岡定俊大佐、軍令部第1部甲部員大野竹二大佐であった。 昭和14年の時点で三国同盟に反対した米内、山本、井上ラインは、むしろ少数派で彼らがポストを替わると、上じ剋こ下げょうく身み 昭和16(1941)年、日蘭会商の後、6カ月で日本は太平洋戦争に突入する。この期間、日本は米国との間で戦争を避ける包括的な「日米交渉」を同年4月から続けていた。交渉の舞台はワシントンであった。しかし、軍部は交渉の妥結を望まず戦争の準備を進めていた。 8月1日に発令された米国の対日石油禁輸は日本に大きな衝撃を与えた。9月1日、連合艦隊は臨戦準備を下令する。10月19日、永野修海軍軍令部総長は、山本五十六連合艦隊司令長官が強請した真珠湾への奇襲作戦に同意した。10月23日、大本営政府連絡会議で9月6日決定の「国策遂行要領」を白紙に還元し、情勢の再検討を開始。11月5日、御前会議は、対米交渉不成立の場合、対米英蘭戦争を決意、発動時期を12月初頭とする「帝国国策遂行要領」を決定した。 この後、11月26日、南雲機動部隊島単冠湾を出撃すはハワイに向け択る。そして、12月1日、日本は御前会議で対米英蘭開戦を決定した。捉ロおさエトフプロローグ1. 日本海軍はなぜ開戦に踏み切ったのか 当時、日本陸軍は100万近い兵力を中国大陸に送り、4年間も日華事変を戦っていた。戦況は泥沼化して解決の道は見えなかった。この状況下で、日本が米国と戦争をするということは、今度は舞台が太平洋となり、主役は日79石油・天然ガスレビューGッセー2. 昭和16年時点で「負けない」と思った日本海軍 この時期、日米は軍拡競争に入っていた。日本海軍はワシントン会議、ロンドン会議で決められた英米に比して、主力艦6割、補助艦7割を不服として、昭和11(1936)年に軍縮条約から脱退していた。日本海軍は戦艦大和、武蔵、空母他の軍艦の建造を進め、昭和16年の時点では日米の海軍比は10:6.8から10:7.5までその差は縮小していた。当初、日本海軍が成立させた昭和12年度海軍軍備補充計画(通称③計画)では、この計画が完成する昭和17年度には、この比率は旧軍縮条約量の約79%、つまり、対米比率が8割弱まで上昇することが見込まれていた。 しかし、米国は日本の軍拡を黙って見ていたわけではなかった。米国はビンソン海軍問題委員長が作成した膨大な海軍拡張計画(第1~3次ビンソン法)に加え、昭和15年7月には両洋艦隊法(海軍艦艇300万トン超)を成立させた。この米国の計画が実現すると、昭和16年をピークとする日本海軍の対米比率は、年々、低下して、日本が昭和14年度充実6年計画(通称④計画:昭和14~19年、艦艇80隻30万トン建造)の完成を昭和17年へ繰り上げても、昭和20年には艦船の対米比は4割に、航空兵力比率はさらに減少することが見込まれた。 開戦前の航空兵力を比較すると日本の海軍機は3,300機、対米比率66%。このうち、連合艦隊1,800機であるが予想決戦場付近に航空基地を整備しており、決戦場に展開される航空兵力はほぼ同程度。これに陸軍航空兵力を加味すれば、日本側が有利と海軍は見ていた。一方、米国の航空戦力は、海軍機は5,500機、これに陸軍戦略爆撃機100機程度、対日正面の海陸軍機は計2,600機程度と推測していたが、昭和2010.5 Vol.44 No.380時つは銘記するを要す」を)決意しますか』と尋ね、(島田)海相なずけり 海軍の決意は鉄30万屯の代こ償なり 哀れむべき海軍の姿かな 是ごれ永久に吾 また、この席上、永野総長は重大な発言をした。 東郷茂徳外相「私も米艦隊は攻勢に来るとは思はぬ、今戦争をする必要はないと思う」たの 永野総長「『来らさるを恃れ』(ママ)と言うこともある先は不明、安心は出来ぬ、3年たては南の防備が強くなる敵艦も増える」しか 賀屋興宣蔵相「然ら勝てるか」 永野総長「今! 勝機はあとには来ぬ(強き語調にて)」戦争したいらは何なかむ勿頷う人じん表1海軍保有液体燃料(昭和16年12月8日時点)原油1,435,000トン重油(1号、2号)3,624,000トン航空機用揮発油航空機用潤滑油普通潤滑油イソオクタン他477,500 k?6,470 k?13,600 k?26,987 k?計5,583,557 k?(注) 11月の御前会議時の数値(650万k?)より減少しているのは開戦前に各艦船に供給したためと推測。原油、重油はトン表記、計はk?換算なくそのまま加算。出所: 海軍省軍需局月頭報告、戦史叢書「海軍軍戦備(1)」表2海軍所要鉄鋼材の見通し(昭和16年10月31日)普通鋼(万トン)特殊鋼(万トン)昭和16年度17年度18年度19年度20年度13514513813813813.018.716.514.314.3(注)取得可能見込み=約70%出所:海軍省兵備局、戦史叢書「海軍軍戦備(1)」たし1時間に400屯会議も簡潔にやられ度(トン)の油を消耗しつつあり、ことは急なり。急速にどちらかに定められ度」と強く述べた。1時間400トンの石油消費量は年間350万トン、昭和15年の海軍の消費量108万k?、日本全体の484万k?、キロトンとリットルを同一としても、いずれとも合致しないが、海軍作戦の最高指揮官である軍令部長としての焦燥感を表したと取れる。 米国から屑鉄の禁輸を受け、製鉄量が不足するなか、11月1~2日、大本営政府連絡会議で昭和17年度の鉄の配分(総量430万トン)をめぐって話し合いが行われた。 海軍は、軍備の必要上、昭和16年度は135万トン、17年度は145万トン、18~20年度は138万トンが絶対に必要と主張した。幾度かの協議の結果、最終的に昭和17年度の鉄の分配は海軍110万トン、陸軍79万トン、民間261万トンとなり、生産量が450万トン以上になった場合、陸軍は90万トンまで配分を受けることと、機帆船の燃料を海軍から供給してもらうことで落着した。 この鉄の分配をめぐり、陸軍は、「右の如く海軍の鉄其他に対する主張は突如最近になりて強きものあり其真意はにありや疑はさるを得す。大量の物を海軍の希望通り取得し得すとし政府に帰せして、非戦の責を国力即めんとするか或いは陸軍か開戦を急く機会に海軍用物資鉄を奪取する如く容認せしめんとするかの何れとするも海軍ありて国家あるを知らさるものと言はさるを得す」(杉山メモ)と判断していた。 11月2日付の大本営陸軍部戦争指導班の機密戦争日誌には次の記述があにる。「会議席上海軍は鉄110万屯(之対し陸軍79万屯なり)貰ふことを条件として開戦決意を表明せるが如し。(杉山元)総長『鉄を貰へば島田さん(開戦辺へ奈な此こすなわちいずこれそのせんの7年末には米軍の航空戦力は1万機を超えると見込まれていた。日本海軍は戦争をするなら兵力差が一番縮小している「今だ!」と思ったのである。 ただ、この判断はその場の戦闘に勝っても、その後の見通しについてはドイツの勝利に期待するだけで、具体的な終戦の姿は描けていなかった。軍人が「政治の延長としての戦争」の決定権を持った悲劇の源がここにあった。3. 真珠湾攻撃の先例「タラント攻撃」 真珠湾攻撃には前例があった。それまでの、「航空機からの攻撃で戦艦を撃破することはできない」との通説を覆したのは英国海軍だった。それは真珠湾攻撃の13カ月前、イタリア半島の先端に位置するタラント軍港で起こった。 昭和15(1940)年11月11日、英国海軍の地中海艦隊に属する空母「イラストリアス」を飛び立った艦載機が、イタリアの地中海艦隊を攻撃したのである。 当時、イタリアは欧州大戦に枢軸側として参戦してから4カ月が過ぎていた。強力なイタリアの地中海艦隊は英国の補給路を脅かしていた。英国海軍して、地中はこのイタリア艦隊を殲海の制海権を完全に確保することを狙っていた。 攻撃に先立ち、英国の空軍機はタラント軍港の空中撮影を行い、イタリア海軍の戦艦や巡洋艦が集結しているのを掌握していた。「イラストリアス」と護衛の巡洋艦、駆逐艦は軍港に近づき、270kmの洋上から2波の攻撃隊を発艦させた。第1波は12機、第2波は9機の計21機であった。攻撃は深夜の23~24時の間に行われた。目標をとらえるために英軍機からは照明弾が投下された。 英国海軍は旧型の複葉式「ソード滅めせんつ戦争と石油(4) -真珠湾作戦、成功へのカギは洋上給油-表3太平洋日米海上兵力(昭和16年末)日本米国空母97戦艦1017巡洋艦3537駆逐艦112180潜水艦65109計(隻)231350トン数96万トン138万トン(3)(9)(21)(54)(25) (112)(注) ( )は太平洋配備隻数。開戦直前の日本海軍の兵力=戦闘艦艇約230隻(約96万トン)、その他艦艇約160隻(約49万トン)、計約390隻(約145万トン)、その他に特設艦船約610隻(約135万トン)、兵員数32万3,000人。出所:戦史叢書「海軍軍戦備(1)」他表4日米両国の戦時中に就役した主要艦艇日本米国空母16102戦艦28重巡015軽巡駆逐艦53263746潜水艦118203計2041,106(注) 米空母には護衛空母76隻、米駆逐艦には護衛駆逐艦412隻を含む。米海軍はこの他に沈没した戦艦4隻を引き揚げた。出所:米国戦略爆撃調査団報告書表5日米保有戦闘艦艇(昭和20年8月終戦時)空母戦艦日本米国123出所:米国戦略爆撃調査団報告書498重巡426軽巡駆逐艦潜水艦2483682841265計881,288表6太平洋戦線の日米航空兵力比(機数)昭和16(1941)年  17(1942)年  18(1943)年  19(1944)年  20(1945)年日本米国日本米国日本米国日本米国日本米国陸軍1,5108,7201,62026,4502,03045,8902,89051,5402,47025,060海軍3,2603,5204,8408,3507,14020,00010,82025,5808,47015,750計 4,77012,240 6,46034,800 9,17065,89013,71077,12010,94040,810(注)数値は各年末。昭和20年は8月15日現在出所:米国戦略爆撃調査団報告書表7航空機製造数(実績)昭和16(1941)年  17(1942)年  18(1943)年  19(1944)年  20(1945)年日本5,0888,86116,69328,18011,066出所:米国戦略爆撃調査団報告書米国17,71045,52581,600-92,718 英国20,10023,60026,200-26,50081石油・天然ガスレビューGッセーンストン、パルミラ、サモアおよびグアムの防衛にあたる。ょ嶼し② 海軍はマレー防壁(マレー半島、蘭とう)から印から豪州へ東行する島日本をけん制してマーシャル諸島の占領を阻止する。③ 敵交通線を空襲して極東における連合国軍を支援し、カロリン、マーシャル諸島の支配を準備する。④ 陸軍はフィリピンの防衛は行うが、増援力は送らない。海軍は連合国の極東領土を防衛する地上軍、空軍を支援し、日本の海上交通を急襲して、枢軸軍を撃破する。 これらの計画を実行するために、「海軍戦争基本計画」(昭和16年5月)、「太平洋艦隊作戦計画」(同年9月)が作成、承認された。米国も日本の動きに合わせて戦争の準備を着々と進めていたのである。さらに、同年7月には、次の「勝利の計画」が米陸海軍統合会議で採用された。① 枢軸国が西半球に進攻―あらゆる手段を尽くしてこれに抵抗。② 英国に対する援助-援助供与の保障。③ その他、反枢軸国に対する援助。④ 日本の侵略を否認、米国はこれに対して積極的な行動に出る決意があることを日本に認知させる。⑤ 主要作戦地域は欧州、ドイツを屈伏させるにあり。⑥ 主要軍事政策―日本の領土支配の現在以上の拡張を防止すること。 日本の南部仏印進駐は、まさにこの④と⑥に抵触したものであった。5. 真珠湾攻撃の作戦案 真珠湾攻撃のアイデアが最初に出たのは、昭和15年前半と言われている。これは、ちょうど米国の太平洋艦隊の本拠地が、サンディエゴから真珠湾へ2010.5 Vol.44 No.382任としてハズバンド・E・キンメル少将が司令長官(大将に昇格)に着任した。 昭和16(1941)年2月、キンメル大将が司令長官に着任したその日、合衆国艦隊は太平洋艦隊、大西洋艦隊、アジア艦隊に分けられ、真珠湾には太平洋艦隊の司令部が置かれた。艦隊はそれ以前から真珠湾を基地として使用していた。キンメル大将は合衆国艦隊と太平洋艦隊の長官を兼務することになった。同大将はルーズベルト大統領が海軍次官を務めていた時の副官で、ルーズベルト人脈の1人、司令長官への着任前は巡洋艦戦闘部隊司令官を務めており、30~40人の専任者を追いばっ抜いての抜 リチャードソン前司令長官が真珠湾へ司令部を移すことに反対した理由は次のようなものであった。任命であった。擢てき① 人員、軍需品、石油等を本土(4,000 km)から輸送するのに経費と時間が掛かる。② 真珠湾は西海岸より3,200km、敵(日本)の潜水艦基地に近くなる。とう③ 大型艦艇の投地として真珠湾は水深が浅く(平均12m)、港へ入る水道が狭い(5m以上の水深幅250m)。ょう錨び このリチャードソン前司令長官の反対意見は10カ月後には的中する。 この時期、米海軍は海軍戦略の作成を行っていた。まず、昭和16年1月から3カ月間にわたって開催された「米英参謀会議」において、「米英参謀協定」がまとめられた。この協定は第2次大戦中、連合国軍の基本的な指導方針となった。 この協定に基づいて同年4月、米陸海軍統合会議は、さらに、次の具体的な「レインボー第5号」計画を承認した。① 海軍は連合国側の海上交通の護衛、東経155度以東、赤道以南水域の英海軍の支援、ミッドウェー、ジョフィッシュ」を使用した。この飛行機は時速わずか220km、3人乗り、搭乗員が上半身を露出させたオープンスタイルの万能機で、1930年代半ばから英国の空軍と海軍で爆撃、電撃、偵察に多用されていた。この作戦では、ソードフィッシュ機はその良好な安定性と低速を生かして港内に突入し、爆弾と魚雷を正確にイタリア艦艇に命中させた。 この攻撃によって、イタリア海軍の戦艦1隻が沈没、同2隻が大破の他、巡洋艦1隻にも被害が出た。一部の貯油タンクとドックも破壊された。英国海軍の被害はわずか攻撃機2機であった。この空襲では英国機から投下された一部の魚雷が海底に突き刺さり、航空魚雷は水深の浅い港内では効果が上がりにくいことも判明した。 この空襲で重要なことは、航空機で戦艦を撃破することが可能であることが判明したことであった。この時期、日本は日華事変の泥沼に入り込んでいたものの、世界大戦には参戦しておらず、日本の陸海軍は英国、イタリアそれぞれに駐在武官*を置いて詳細な欧州戦線の情報を収集していた。このタラント空襲の詳細は日本へ送られ、多くの情報と示唆を与えることになった。4. 米国の戦争準備 真珠湾攻撃は米国の太平洋艦隊の根拠地が、米国西海岸からハワイ諸島オアフ島に移されたことによって立案されたものである。昭和15(1940)年5月、フランクリン・D・ルーズベルト大統領はそれまで米国西海岸のサンディエゴにあった太平洋艦隊司令部を、ハワイの真珠湾(パールハーバー)へ移すことを発表した。当時、米国の合衆国艦隊は太平洋艦隊と大西洋艦隊で構成されていた。時の合衆国艦隊司令長官ジェームズ・O・リチャードソン大将は、この移動に反対して更迭され、後、究段階から連合艦隊の正式な研究対象へ格上げとなった。 同年8月中旬、連合艦隊と第1航空艦隊の幕僚が軍令部を訪問して、真珠湾の攻撃作戦案を提示したが、軍令部はこれに賛成しなかった。 同年9月中旬、軍令部の図上演習が行われた際、半日を割いて軍令部(福まとめ留部長以下)、連合艦隊(宇垣纏参謀長以下)、第1航空艦隊(南雲忠一中将以下)の幹部、参謀30名程度が集まり特別研究会(真珠湾攻撃作戦)が行われた。この研究会の結果、軍令部は真珠湾作戦への反対を表明した。軍令部がこの作戦に反対したのは次の理由によった。なるリスクを冒しても決行しなければならぬ作戦とは考えない。米国艦隊が、わが南方作戦の側背をつく態勢があっても、まずマーシャル群島を占拠して、しかる後、進攻して来るならば、わが全軍を集中して邀撃決戦を実施しやすくなり、大局上、不利はない。何かい1. 真珠湾攻撃は如さ2. 洋上燃料補給不可能のため作戦蹉れが少なくない。日本海軍の艦艇は本土近海守勢作戦(邀撃)方針の下に建造されているため、航続距離が全般に短い。ハワイへ進撃するためには全艦艇の燃料を洋上で補給することが求められる。駆逐艦は往路2回の補給が必要である。真珠湾攻撃は奇襲を絶対の条件とする。そのため、一般の商船との遭遇を避けるために、北方航路を選ぶ必要があるが、冬期の北太平洋は気象統計上、洋上補給可能日数は23%程度、月に7日の割合に過ぎない。洋上補給のはハワイ作戦の蹉跌であり、齬ご齟その虞跌てつおそ累を全作戦に及ぼす虞れが多い。3. 機密保持に困難性が多い。この作戦は60隻に上る艦艇が参加する大電報をハロルド・スタークス海軍作戦部長に渡した。米海軍情報部はその内容を分析して、「日本が真珠湾に対する攻撃を準備しているとの流言は信じられず、近い将来こうした行動は考えられない」との結論を出した。   一方、スタークス部長からこの情報を得た新任のキンメル長官は、2月18日付のスタークス部長あての手紙で、「真珠湾に対する奇襲は可能」と述べるとともに、その後、ハワイの陸軍部隊と協議して、陸海軍による次のような共同防衛計画を検討した。① 日本は過去において攻撃前に宣戦布告を行っていない。② 日本は高速巡洋艦を伴う空母部隊をハワイ方面に派遣する可能性がある。③ 最も可能性のある攻撃方法は、オアフ島300マイル(480km)以内に接近した空母による航空攻撃である。 この結論は、10カ月後に起こった実際の真珠湾攻撃をほぼ正確に予測している。しかし、この年7月に起こった日本軍の南部仏印への進駐以降、米国の関心が急速に東南アジアへ移ったため、米軍による対真珠湾攻撃の研究がこれ以上進むことはなかった。 その後、昭和16年1月、山本長官は秘密裏に真珠湾攻撃の研究を第11)参謀長の大航空艦隊(鹿児島県・鹿西滝次郎少将に依頼した。同少将は、第1航空戦隊(空母赤城、加賀)の参謀、源田實中佐に具体的な研究を指示した。 同年5月、大西少将は前月に連合艦隊参謀長から軍令部第1(作戦)部長に転出していた福留少将を訪ね、真珠湾の攻撃案を説明した。同じ時期、連合艦隊司令部内でも山本長官から幕僚たちに真珠湾攻撃の研究が指示された。この段階で真珠湾攻撃案は私的な屋やかの移されることが決定した時期と一致する。当時、連合艦隊参謀長の福留繁少将は、「昭和15(1940)年度前期訓練において航空戦訓練が着々成果を収め、特に、航空電撃が決戦戦法の中心をなすことの確信を得たことを(山本)長官、参謀長の私との両人にて喜び合った際『ハワイの航空攻撃はできないものだらうか』といふことを山本長官が独言ともなく私に語った」とその著「史観真珠湾攻撃」に書いている。 昭和16(1941)年1月、山本長官はこの構想を及川古志郎海相に手紙で知らせている。1月7日付の手紙では、「開へき、我が航空部隊をもって米主力戦劈艦隊に痛撃を加へ、米国の海軍および国民の士気を救ふへからさる程度に阻喪させる」また「同時に南方作戦を開始して米主力艦隊の損害により士気の阻喪するであらう南方海域の敵を撃破して、急速に要地を攻略確保する」と述べている。 ただ、山本長官の文面での奇襲による米国海軍、国民の士気を減じる(阻喪させる)との見通しは、実際には真珠湾攻撃が無通告攻撃となったこともあり、逆に米国民を団結させ対日戦の促進剤となった。また、米国人個人としての勇敢さは、集団的に発揮するとされる当時の大和魂に勝るとも劣らないものがあり、駐米経験もあって米国通で知られていた同長官が、これを看破できなかったのは不思議である。 この山本長官の書簡からわずか3週間後の1月27日、ジョセフ・C・グルー駐日米国大使はワシントンのハル国務長官へ日本軍の真珠湾攻撃に関する情報を送っている。その内容は、日本駐在のペルー公使がグルー大使に対して、「私の個人的な友人が日本人を含む幾つかの情報源から聞いたのだが、日本の軍部は日米間に事が起こった場合には、日本の全軍事力を使用して真珠湾を奇襲することを計画している」というものであった。ハル長官はこの頭とう戦争と石油(4) -真珠湾作戦、成功へのカギは洋上給油-83石油・天然ガスレビュー@開戦時、日本海軍は10隻の空母を保有していた。本格的な主力空母は「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」「翔鶴」「瑞鶴」の6隻であった。このうち、「翔鶴」と「瑞鶴」は昭和16(1941)年8月と9月に竣工したばかりの新鋭の高速空母であった。 山本長官は「長官職を賭しても空母6隻の投入案を堅持」するとの考えで、黒島亀人連合艦隊首席参謀を軍令部に派遣して、軍令部の永野総長、伊藤整一次長と折衝させた。山本長官の強要の結果、6隻案は11月5日、軍令部によって正式に承認された。真珠湾攻撃のわずか1カ月前であった。 しかし、この場合でも軍令部の真珠湾作戦の位置付けは、「米太平洋艦隊を減殺して主力の来攻を制し、その間に南方攻略を完成して、長期持久態勢を確立する。米艦隊の主力が来攻すればこれを邀撃する」であった。軍令部の戦略は「あくまでも重要物資確保のために南方へ進攻し、産油地帯を確保することが第一義で、真珠湾作戦は南方を制覇するために、米主力艦隊の出撃を遅らせる支作戦に過ぎない」のである。 真珠湾作戦はその目的と攻撃意図が、軍令部と連合艦隊司令部との間で共有、統一されておらず、さらに、連合艦隊司令部と実施部隊である機動部隊との間でも、攻撃意図が統一されていなかった。また、軍令部の幕僚には連合艦隊に山本長官の威光を笠に着て作戦を押し切られたとの思いが残った。 戦いの目的を統一、単純化し、部下に共有させるのは、指揮官の最も重要な役割であるが、真珠湾攻撃を軍令部の反対を押し切って、強引に推進した山本長官は自ら積極的に説明、説得して、この不統一問題を解決し、目標を同一化する努力が少なかった。エッセー7. 日本海軍の作戦を大転換させた真珠湾作戦 真珠湾作戦はそれまでの日本海軍の戦術を180度転換するものであった。日本海軍は、日露戦争の直後、明治40(1907)年に制定された「国防方針」で、米国を仮想敵国とした。それ以来、渡洋来攻する米艦隊を西太平洋において、邀撃する戦略を研究し続けてきた。邀撃海域は、当初、小笠原諸島からマリアナ諸島の西方であったが、艦船、航空機の発達とともに徐々に東進して、開戦前の昭和15年ごろには南鳥島とウェーキ島の中間以西の海域を想定していた。 日本海軍は、太平洋を横断しての決戦を想定していなかったため、艦船の航行距離が比較的短く、また、艦隊に随行する補助艦艇、特に油槽船の整備が遅れていた。日本海軍は、長距離航海をして敵を攻撃するように造られてはいなかったのである。したがって、真珠湾を攻撃する作戦を立てる場合、参加艦艇の航続距離をいかにして延ばすかが大きな課題になった。 日本からハワイへは米国の航空哨戒圏と航行商船を避けるために、北太平洋の北緯40度上を東航し、ハワイの真北に達した後、一気に南下するとの航路が選定された。この航路は片道約6,300km、帰路はハワイから半径1,100kmのミッドウェー島の哨戒海域を避けるために、台形型の上部3辺をたどって日本へ帰還することが計画された。 作戦に参加する艦船は攻撃用の航空機を搭載した空母6隻、護衛の戦艦2隻と重巡洋艦2隻、警戒隊として旗艦の軽巡洋艦1隻の他、駆逐艦9隻、哨戒隊として潜水艦3隻、補給隊として油槽船7隻の合計30隻であった。参加艦艇のうち、軽巡洋艦「阿武隈」と駆逐艦以外は航続距離が長い艦船が選ばれた。この作戦には、特別攻撃隊(小2010.5 Vol.44 No.384規模なもので、機密の漏れる機会が多い。4. 逆に、先制攻撃を受ける算少なしかいりとしない。ハワイ周辺は600浬(海里=1.852km。約1,100km)の航空ょうが行われている。攻撃部隊は150浬(約280km)圏まで接近しなければならない。発見される公算が多く、攻撃開始前に逆襲される危険が大きい。戒か哨しい5 . 日米交渉に累を及ぼす虞れがある。真珠湾作戦は開戦の1カ月前から行動を開始する必要がある。機密が漏れる虞れも多く、日米交渉に累を及ぼすこと必定である。(出所)史観真珠湾攻撃 これらの軍令部の反対理由のうち、重要なのは1.の邀撃作戦と2.の洋上補給であった。邀撃作戦は海軍が日露戦争以来、長年、研究し尽くしてきたものであった。洋上補給は訓練の機会が少なく、海軍は荒天の北太平洋上での補給は経験がなかった。6. 作戦目的に対する海軍内部の不統一 「日本海軍が保有する主力空母6隻を全部投入して、真珠湾を攻撃する」との連合艦隊の作戦構想に対して、軍令部は「投機的過ぎる」として反対する。軍令部としては作戦を実行するにしても、それに回せる空母は4隻で、2隻は南方作戦に使用する計画であった。 海軍の組織は、まず、海軍省と軍令部に分かれている。海軍省のトップは海軍大臣(開戦時:嶋田繁太郎大将)で、軍政、つまり、予算、人事、戦備などを主管する。軍令部のトップは軍令部総長(同:永野修身大将)で、作戦部門を主管する。軍令部は海軍全体の作戦を立案、実行し、その下に連合艦隊が所属して実動部隊となる。2/1412/1412/1512/1512/1312/1312/1212/1112/1212/1112/1012/10600浬600浬哨戒圏哨戒圏F12/912/912/512/512/612/612/712/7D12/812/8Eハワイ諸島ハワイ諸島モロカイモロカイマウイマウイハワイハワイ20°20°ミッドウェーミッドウェー12/812/812/812/8カウアイカウアイオアフオアフ600浬600浬哨戒圏哨戒圏ジョンストンジョンストンマウイ島マウイ島ラハイナラハイナラナイ島ラナイ島カウラエ島カウラエ島真珠湾真珠湾ワワイイ諸諸島島20°N20°Nハワイ島ハワイ島ヒロヒロ160°W160°Wハハカウアイ島カウアイ島ニイハウ島ニイハウ島オアフ島オアフ島ホノルルホノルルモロカイ島モロカイ島千千島島列列島島11/2611/26機動部隊機動部隊12/112/112/212/212/312/312/412/4155°W155°W40°40°機機L隊隊部部動動12/1612/1612/1712/1712/1812/1812/1712/17隊隊本本12/1812/18隊隊撃撃攻攻12/2012/20ウェーキウェーキL-212/2112/2112/2012/2012/2612/26サイパンサイパンテニアンテニアンロタロタ南鳥島南鳥島12/1912/1912/2312/2312/2512/25ウェーキウェーキ12/2412/2412/2112/2112/2212/22択捉島択捉島樺太樺太A 単冠湾単冠湾北海道北海道日本日本本州本州四国四国八丈島八丈島鳥島鳥島12/2812/28朝朝鮮鮮12/2312/23九州九州12/2212/2212/2712/27硫黄島硫黄島12/1912/1940°40°台湾台湾20°20°ルソンルソンフィリピンフィリピンミンダナオミンダナオグアムグアムマリアナ諸島マリアナ諸島ボルネオボルネオ120°120°140°140°マーシャル諸島マーシャル諸島ブラウンブラウントラックトラックカロリン諸島カロリン諸島160°160°ケゼリンケゼリンウォッゼウォッゼヤルートヤルート180°180°160°160°4,100km(参考) 600浬=約1,110km、各地点間の直線距離:横須賀-真珠湾=約6,300km、ミッドウェー-真珠湾=約2,100km、真珠湾-サンディェゴ=約 (注) 12月6日0530(日本時間)第2補給隊分離(?手前 )、?で待機(予定)、実際はL-2で会合。12月7日0345(日本時間)第1補給隊分離(?出所:「真珠湾攻撃の記録及び報告」、戦史叢書「ハワイ作戦」他を参考に筆者作成地点)、?で待機。?=全機発進。図1真珠湾作戦部隊(機動部隊)行動図型特殊潜航艇)も参加しているが、本稿では対象を機動部隊に絞る。 機動部隊の哨戒隊として潜水艦が加えられた理由は、洋上で燃料補給ができなかった場合には、軽巡洋艦「阿武隈」と駆逐艦は航続距離が短いため途中で帰還させる必要があった。駆逐艦の役割は、攻撃してくる敵艦隊に対する水雷攻撃と不時着した攻撃機の救助であるが、これを潜水艦隊が代わって行うことが期待されていた。作戦に参加した潜水艦は3隻とも伊号乙型で、基準排水量2,200トン、積載燃料(重油)750トン、水上巡航は速度16ノット時で2万6,000kmと長距離の航行が可能であった。 機動部隊に随行する油槽船は昭和13~14年に神戸の川崎造船所で竣工した高速(19~20ノット時)の1万トン級「川崎型」の7隻、「極東丸」「國洋丸」「健洋丸」「東栄丸」「神國丸」「東邦丸」「日本丸」が配属された。当時、油槽船の速力は12~14ノット時が一般的であったが、この川崎型は昭和12年4月から実施された補助金を受ける代わりに、有事には特設給油船として海軍に徴用される「優秀船舶建造助成策」の適用を受けていた。特設給油船として助成を受けるためには、1万トン級、速力16ノット時以上、備砲塔取り付けのための甲板補強、洋上給油装置(毎時1,000トン以上)などの条件を備えていることが必要であった。補給隊には、「あけぼの丸」(日本海運、1万表8南雲機動部隊の編成第1航空戦隊第2航空戦隊第5航空戦隊空母「赤城」「加賀」空母「蒼龍」「飛龍」空母「瑞鶴」「翔鶴」第3戦隊(護衛)第8戦隊警戒隊哨戒隊第1補給隊第2補給隊戦艦「比叡」「霧島」重巡洋艦「利根」「筑摩」軽巡洋艦「阿武隈」、駆逐艦「谷風」「浦風」「濱風」「磯風」「陽炎」「不知火」「霞」「霰」「秋雲」潜水艦「伊19」「伊21」「伊23」 油槽船「極東丸」「健洋丸」「國洋丸」「神國丸」油槽船「東邦丸」「東栄丸」「日本丸」出所: 戦史叢書「ハワイ作戦」85石油・天然ガスレビュー戦争と石油(4) -真珠湾作戦、成功へのカギは洋上給油-010.5 Vol.44 No.386エッセー45度に位置する。空母「加賀」は浅沈度魚雷(100本)の受け取りのため、佐世保を遅れて出港し、23日朝に同湾に到着した。横須賀を出航した潜水艦隊3隻は同日午後に入港した。 通常、魚雷は航空機から離れ水中に入ると一度深く50m程度沈み、その後、設定深度まで浮上して進む。既述したが、真珠湾の水深は平均12mと浅く、発射された魚雷は海底に突き刺さる恐れがあった。米海軍も真珠湾では航空機用の魚雷の使用は不可能と判断していた。そのため、日本海軍では魚雷の沈深度を12m以下にする研究が行われていた。その結果、沈下度安定器(木製のヒレ)を取り付けた魚雷が完成したのは出撃直前であった。 洋上での給油作業の成否を左右するのは風であった。当時、北太平洋の気象予測は神戸海洋気象台が行っていた。10年分の記録を集め統計表をつくって予測が行われた。・ 東経180度の日付変更線以西では、風速15m以上の荒天が続き、給油ができる可能性は10%。・ 東経180度から西経170度のミッドウェーを通る経度までは、天候は平穏の見込みで給油ができる可始された。まず、給油方法は大型艦(空じゅう母、戦艦)には油槽船が後ろにつく縦い法、中小艦(巡洋艦、駆逐艦)には油槽船が並行して航行する横曳法と、前を走行する縦曳法が使用されることになった。油槽船と艦艇の間は曳索(直径48および50mm)と蛇管で結ばれるが、横曳法の場合、艦間距離は30~50mで給油量は毎時200トンである。それが縦曳法の場合だと、70~80m、毎時100トンであった。洋上給油の訓練は各艦それぞれ10回程度が実施され、出航までにほぼ訓練を終了した。 洋上給油の訓練を終えた空母は、11月7~17日の間に佐世保と呉の軍港で不要物資の陸揚げ、必要物資の積み込みを行った。この時、燃料を増量するドラム缶、石油缶も搭載され、増設された燃料タンクにも重油が満たされた。空母、戦艦、巡洋艦の空きスペースにはドラム缶と石油缶が押し込まれ、軍艦が石油の運搬船へと変貌した。この積み込まれた燃料は、荒天に遭遇して危険になった場合は、洋上に投棄することが決められていた。 その後、機動部隊は大分県の佐伯湾に集合した後、11月18~19日に同湾を出航して22日、千島列島の択捉島単冠湾に到着した。単冠湾は北緯曳え182総トン)の参加も予定されていただパイプ)が機動部隊の艦が、給油蛇艇と合わず、最終段階で残留した。第1補給隊の油槽船「極東丸」には、補給隊の指揮官である特務艦長(大佐)が、その他の油槽船には監督官(同)が乗り込んだ。ん(管か8. ドラム缶、石油缶を積み込んだ戦艦 航続距離を延ばす対策として、軍艦に積み込む燃料の増量と洋上給油が考えられた。積み込み燃料の増量策としては予備油槽が増設された。しかし、大正14(1925)年竣工と艦齢の古い「阿武隈」は耐久性の観点から、駆逐艦は船体が小さく余裕空間が少ないため油槽の増設は行われなかった。空母「赤城」「蒼龍」「飛龍」、戦艦「比叡」「霧島」、巡洋艦「利根」「筑摩」には予備油槽が取り付けられた。さらに、石油缶(18?入り)、ドラム缶(200?入り)も積み込まれた。艦内の通路はもちろん、甲板上にまで石油缶とドラム缶が積み上げられた。艦隊に積み込まれたドラム缶は3,000個、石油缶は4万個以上にもなった。 10月中旬から洋上給油の訓練が開受給艦(小型艦)30?50m給油管横曳法油槽船受給艦(大型艦)給油管70?80m油槽船給油管70?80m油槽船受給艦縦曳法表9機動部隊各艦の搭載燃料と航続距離等油槽容積(トン)5,2007,2003,1005,5006,1002,6001,500600航続距離(浬)9,80013,8009,90015,50014,90011,5007,0005,800庫外搭載(トン)1,450-700-230580--搭載総計(トン)6,6507,2003,8005,5006,3303,1801,500600総計航続距離(浬)12,60013,80012,20015,50015,50014,2007,0005,800赤城加賀2航戦5航戦3戦隊8戦隊阿武隈駆逐艦(注) 浬=1.852km。庫外搭載=ドラム缶、石油缶、予備タンク等。2航戦=空母「蒼龍」「飛龍」。5航戦=空母「瑞鶴」「翔鶴」。3戦隊=戦艦「比叡」「霧島」。8戦隊=重巡「利根」「筑摩」。航続距離は12ノット時。ノット時=1.852km時出所:戦史叢書「ハワイ作戦」図2洋上給油の方法12月3日荒天で単冠湾出撃以来初めて給油ができなかった。(風速最大毎秒24m)12月4日 荒天で給油なし。(風速最大毎秒27m)12月5日「利根」「筑摩」「阿武隈」、駆逐艦に給油。「利根」「筑摩」「阿武隈」、駆逐艦に給油。午前5時20分、第2補給隊(「東邦丸」「東栄丸」「日本丸」)を分離する。第2補給隊には護衛のため駆逐艦「霰」が同行して攻撃後の給油点ミッドウェー西方海域のL点(北緯35度、東経160度)へ向かった。午前3時45分、「阿武隈」と駆逐艦に給油後、第1補給隊(「極東丸」「健洋丸」「國洋丸」「神國丸」)を分離、護衛として「霞」が同行してF点(北緯34度、西経162度)へ向かった。12月6日12月7日 草鹿参謀長は、「今日で全軍最後の補給が完了する。第1補給隊の5隻は、こちらの空母、かなたの戦艦、巡洋艦、および昨日補給した艦にも、さらに、満腹するまでの大サービスである。朝から始まった作業は、正午過ぎには全部終わり」と決戦を前に艦隊の間を給油して回る油槽船の様子を記している。10. 真珠湾攻撃当日 12月8日(日本時間)、真珠湾攻撃の日がきた。攻撃の内容については多くの出版物が既に記述しており、また、本稿は戦闘内容を詳細に記述することが目的でないため、概要のみを記す。・ 1時00分(現地時間7日5時30分)「利根」「筑摩」より零式水上偵察機各1機が発射された。・ 1時30分(同6時00分)第1次攻撃隊183機発艦、艦位ラナイ島北230浬(約430km)、雲量5~7、風速13m、うねり大。・ 2時45分(同7時15分)第2次攻撃隊167機発艦、艦位ラナイ島北れた。安全を考慮して給油作業は、当初、9ノット時で行われていたが、慣れるにしたがい12ノット時まで速度を上げて作業を行えるようになった。 駆逐艦隊は就航から2~3年の航続距離が長い新型駆逐艦で構成されていあられ」は公試排水量た。朝潮型の「霞」「霰2,370トン、いずれも昭和14(1939)年の竣工、その他は陽炎型、公試排水量2,500トンの大型駆逐艦で昭和14~16年に竣工した。 駆逐艦の燃料タンクの容積は約600トン、航続距離は14ノット時で約5,700浬(約1万600km)であった。呉から佐伯湾経由で択捉島に到着し、単冠湾出撃から30時間、2,400浬(約4,400km)の航行後、1駆逐艦あたり200トンの燃料が給油された。横曳方式で給油を行い1艦あたり1時間程度で作業は規定どおり順調に終了した。11月28日 空母「翔鶴」「瑞鶴」を除く各艦に給油。11月29日「翔鶴」「瑞鶴」、駆逐艦に給油11月30日「阿武隈」、駆逐艦に給油。12月 1日「蒼龍」「飛龍」「利根」「筑摩」「阿武隈」、駆逐艦に給油。12月 2日「赤城」「加賀」「比叡」「霧島」「阿武隈」、駆逐艦に給油。 当初の予想では西経180度付近までは荒天が続き、給油は不可能と見込まれていたが、連日給油ができたため、12月2日以降、給油がなくても作戦の実行は可能となった。ここで燃料の給油問題は解決した。  この日、機動部隊は連合艦隊電令作10号「新山登れ、1208」を受信した。草鹿参謀長は、「開戦日を8日と決定する。予定のごとく攻撃を決行せよといふのだ。今までの心の中のわだかまっていたシコリもいっぺんに吹き飛んで、私の心は一片の雲もない空に澄む秋月のごとくであった」(「連合艦隊参謀長の回想」)と記している。高たにいか能性は40~50%。・ 西経約170度の待機海域からホノルルの真北、600浬の哨戒線外側の接敵地点の間は風速10m以下で、給油はほぼ可能である。9. 順調な洋上補給 昭和16年11月26日、午前6時。機動部隊30隻は警戒隊(駆逐艦)を先頭に、第8戦隊(重巡洋艦)、第3戦隊(戦艦)、哨戒隊(潜水艦)、空母部隊の順に単冠湾を出撃した。機動部隊の参謀くさ長草龍之介少将は出撃に際して、「作戦実行上の最難関は戦艦、航空母艦への洋上補給である」と述べた。 冬季の北太平洋の天候は安定せず、例外的に良好であった昭和12(1937)年以降、毎年、荒天の日が続いていた。しかし、後に、当時の天気図を見ると機動部隊が単冠湾を出撃した前日、25日午後9時30分のアリューシャン海域には1,030ミリバール以上の高気圧が覆っていた。さらに、西の東シナ海、日本海上空には1,025ミリバールの高気圧が連なっていた。通常、この時期はアリュ-シャン低気圧が北太平洋に発生して、この低気圧が悪天候をもたらしていた。出撃時、北太平洋海域はその時期にはまれな高気圧に覆われていたのである。そして、この高気圧は機動部隊の東航に合わせるかのように、東へと移動していった。高気圧の傘の下を幸運にも、機動部隊は進んで行ったのである。 27日正午に機動部隊が艦上で行った気象観測では、快晴、気温4.5℃、風速毎秒8mが記録されている。この日、さっそく、洋上給油が行われた。「給油が可能な状況になると直ちに作業を行う」との方針に沿ったものであった。艦隊は燃料を節約するため経済速力の14ノット時を保って東航した。 この日は油槽の容積が小さな軽巡洋艦「阿武隈」と駆逐艦9隻へ給油が行わ鹿か87石油・天然ガスレビュー戦争と石油(4) -真珠湾作戦、成功へのカギは洋上給油-Gッセーパールシティパールシティモナガンモナガンフェラガットフェラガットディルディルエイルウィンエイルウィン(駆逐艦隊)(駆逐艦隊)中入江ラムゼーラムゼーギャムブルギャムブルモントゴメリーモントゴメリー(機雷敷設艦)(機雷敷設艦)トレバートレバーブリースブリースゼーンゼーンペリーペリーワスムスワスムスベッコニング岬ベッコニング岬東入江ヘンリーヘンリーパターソンパターソンタルフ・タルボゥトタルフ・タルボゥト(駆逐艦隊)(駆逐艦隊)セルフリッヂセルフリッヂケースケースタッカータッカーレイドレイドカニンガムカニンガム(駆逐艦隊)(駆逐艦隊) ホイットニー ホイットニー (駆逐艦母艦) (駆逐艦母艦)フェルブスフェルブスマクドナウマクドナウウォーデンウォーデンデューウィデューウィハルハル(駆逐艦隊)(駆逐艦隊) ドビン ドビン (駆逐艦母艦) (駆逐艦母艦)ソーレスソーレス(病院艦)(病院艦)ブルーブルーフェニックスフェニックスマグルー岬パールシティパールシティ半島半島デトロイトデトロイト(軽巡)(軽巡)ローリーローリー(軽巡)(軽巡)ユタユタメデューサ                   ーサメデューサ                   ーサ(工作艦)(工作艦)(標的艦)(標的艦)タンジールタンジール(水上機母艦)(水上機母艦)カーチスカーチス(水上機母艦)(水上機母艦)フォード島フォード島石油タンク石油タンク海軍航空海軍航空基地基地航空航空管制塔管制塔ガソリンガソリン桟橋桟橋ネオショーネオショー(給油艦)(給油艦)アレンアレンチューチュー(駆逐艦隊)(駆逐艦隊)ネバダ(戦艦)ネバダ(戦艦)アリゾナ(戦艦)アリゾナ(戦艦)ベスタル(工作艦)ベスタル(工作艦)テネシー(戦艦)テネシー(戦艦)ウエスト・バージニア(戦艦)ウエスト・バージニア(戦艦)メリーランド(戦艦)メリーランド(戦艦)オクラホマ(戦艦)オクラホマ(戦艦)油槽地帯油槽地帯))クク5555ンン??タタ油油o.2o.299石石NN((太平洋艦隊太平洋艦隊総司令部総司令部ペリアスペリアス魚雷艇魚雷艇基地基地(潜水艦)(潜水艦)ナーホールナーホールガジョンガジョンドルフィンドルフィンタウトグタウトグソーントンソーントン ハルバートハルバートサムナーサムナーカスターカスター海軍補給廠海軍補給廠潜水艦基地潜水艦基地メリーメリー岬岬ホノルル(軽巡)ホノルル(軽巡)修理用修理用ドックドック海軍海軍補給廠補給廠南東南東入江入江ニュー・オルリーンズ(重巡)ニュー・オルリーンズ(重巡)サンフランシスコ(重巡)サンフランシスコ(重巡)セントルイスセントルイスバークレー(軽巡)バークレー(軽巡)海軍航空隊海軍航空隊司令部司令部アバセットアバセット(救助艦)(救助艦)カルフォルニア(戦艦)カルフォルニア(戦艦)10101010埠頭埠頭アルゴンヌアルゴンヌサクラメントサクラメントラマボラマボリーゲルリーゲルラグフォートラグフォートチャービスチャービスヘリーナヘリーナ(軽巡)(軽巡) オグララ オグララ(機雷敷設艦)(機雷敷設艦)グレープグレープシュレーシュレーシカードシカードブレートブレートトレイシートレイシープレブルプレブルカミングカミングカシャロットカシャロット(潜水艦)(潜水艦)浮ドック浮ドック第2第2 第1第1乾ドック乾ドックカッシンカッシン(駆逐艦)(駆逐艦)タウンズタウンズ(駆逐艦)(駆逐艦)海海軍  工軍  工廠廠ペンシルバニアペンシルバニア(戦艦)(戦艦)ショー(駆逐艦)ホスピタルホスピタル岬岬アイエアアイエア海軍病院海軍病院石炭石炭埠頭埠頭ワイピオ岬ワイピオ岬西西入入江江海兵隊 海兵隊 第14海軍区司令部第14海軍区司令部油槽地帯油槽地帯石油タンク(No.1?28)石油タンク(No.1?28)将校用住宅将校用住宅ハレマカイハレマカイ兵舎兵舎ワイピオ半島ワイピオ半島飛行艇飛行艇基地基地海軍用地海軍用地イロクオイスイロクオイス岬岬ヘルムヘルム(駆逐艦)(駆逐艦)ビショップビショップ岬岬米陸軍航空基地米陸軍航空基地ハレマカイ兵舎ハレマカイ兵舎被 害被 害沈没転覆沈没転覆大 破大 破中 破中 破ヒッカム陸軍ヒッカム陸軍飛行場飛行場ヒッカム飛行ヒッカム飛行場桟橋場桟橋魚雷防禦網、艦船阻塞網魚雷防禦網、艦船阻塞網真珠湾口真珠湾口カメハメハ兵舎カメハメハ兵舎(注) 日本海軍第1航空艦隊戦闘詳報図面第1号では、マグルー岬沖南西に停泊中のフェニックス(軽巡)は爆弾2発(蒼龍隊)を受け中破とある。出所:各種資料を参考に筆者作成図3真珠湾攻撃時在泊艦船停泊位置2010.5 Vol.44 No.388アう戦果報告を行った後、「巡洋艦群、工ょう、石油タンクが無傷で残っている。第3波、第4波の出撃の必要がある」と報告している。南雲長官と草鹿参謀長は、攻撃隊からの報告を聞いたものの、「成果は十分に上がった」として艦隊に北上を命じた。 これに対して、第2航空艦隊司令長官山口多聞少将は「第2撃準備完了」との信号を掲げて、「間接的意見具申」を行った。戦史叢書「ハワイ作戦」は、「明確に第3波攻撃の実施を意見具申したのは、機動部隊次席指揮官の第3戦隊司令官三川軍一中将だけであった」と記している。 草鹿参謀長は高速で攻撃海域から離れた理由として、「真珠湾攻撃の大目的は、敵の太平洋艦隊に大打撃を与えて、その進攻企図を挫折させるにあった。だからこそ、攻撃は一と定め、周到なる計画のもとに手練の一撃を加えたところ、奇襲は成功してその目的を達成することが出来た。機動部隊の立ち向かうべき敵はまだ一、二に止まらないのである」と述べている。  さらに、「山本長官も、空母を逸したことに不満であったとか、なぜ、大型巡洋艦以下の残敵を殲滅しなかったとか、工廠、重油槽を壊滅しなかったのかとか、戦力の主力である空母を徹底的に探し求めて壊滅していたら東京空襲はなかったとか、いろいろ専門的批判もあるが、この際、これらはいずの戦法である」と切り捨ててれも下いる。また、「出撃前、軍令部において、わが空母を損傷しないよう強く要望された」と記している。 実質的に機動部隊の航空作戦を指揮した航空参謀の源田實中佐は、「石油タンクを攻撃対象とは考えていなかった」「南雲司令長官と草鹿参謀長は初めから第2次攻撃はやらないと決めていた」と述べている。 この地上に露出した石油タンク(450刀ち太た廠し司すげひととど戦争と石油(4) -真珠湾作戦、成功へのカギは洋上給油-200浬(約370km)。・ 3時19分(同7時49分)第1攻撃隊、突撃信号「トトト」を発信。・ 3時22分(同7時52分)第1攻撃隊、奇襲成功の信号「トラトラトラ」を発信。・ 3時25分(同7時55分)降下爆撃隊、ホイラー飛行場、ヒッカム飛行場爆撃開始。・  4時05分(同8時05分)機動部隊、反転して北上を開始。・ 4時32分(同8時32分)第2次攻撃隊、攻撃を開始。・ 4時45分(同8時45分)第1次攻撃隊、収容開始。・ 9時22分(同13時52分)全攻撃隊の収容を終了(未帰還機、第1次攻撃隊9機、第2次攻撃隊20機、計29機、人員の損害55名、航空攻撃とは別に特殊潜航艇5隻、人員損害9名)。11. 温存された米空母と石油タンク この時期、米海軍は3隻の空母を太平洋に配置していた。真珠湾攻撃で米国に幸いしたのは空母のいずれもが真珠湾から出撃中で攻撃を免れ、そのまま温存されたことであった。 空母「エンタープライズ」はウェーキ島に海兵隊の戦闘機を輸送した後、真珠湾に向け帰港中でオアフ島西約320kmの海域にあった。空母「レキシントン」は爆撃機をミッドウェーに輸送中で、ミッドウェー島南東約740kmの海域にあった。空母「サラトガ」は米本土西岸のサンディエゴのドックで修理中であった。 南雲機動部隊が2波の全攻撃機の収容を終えたのは、現地時間で13時50分ごろであった。帰還した攻撃隊総隊長の淵田美津雄中佐は、草鹿参謀長に表10真珠湾攻撃による米軍側被害戦艦アリゾナ戦艦カリフォルニア戦艦ウエスト・バージニア戦艦オクラホマ戦艦ネバダ戦艦テネシー戦艦メリーランド戦艦ペンシルバニア軽巡ヘリーナ軽巡ホノルル軽巡ローリー駆逐艦ショー駆逐艦カッシン駆逐艦ダウンズ工作船ベスタル敷設艦オグララ水上機母艦カーチス標的艦ユタ沈没沈没沈没着底転覆沈没沈没着底中破中破中破大破中破大破大破大破炎上大破炎上大破転覆中破転覆火薬庫爆発、記念館として存続1944年5月、引き揚げ後修理完了1944年7月、引き揚げ後修理完了浮揚後移送中沈没1942年12月、引き揚げ後修理完了1942年2月、修理完了1942年2月、修理完了1942年3月、修理完了魚雷1発命中魚雷1発命中火災発生ヘリーナに命中した魚雷により舷側に大穴爆弾1発命中魚雷2発命中航空機人員戦死海軍123機 陸軍機96機 合計219機海軍2,086名 陸軍219名 合計2,305名 他に民間人約50名出所:「真珠湾攻撃調査報告書」米国上下両院真珠湾攻撃合同調査委員会89石油・天然ガスレビューGッセー文で日米交渉の経緯を延々と記し、最かくて日米国交を調整し後の項で、「斯ずさあいへて太平洋の平和を合衆国政府と相維持確立せんとする帝国政府の希望はよっここ遂に失われたり。仍にて帝国政府は?かんがみ今後交渉を継合衆国政府の態度に鑑続するも妥結に達するを得すと認むるの他なき旨を合衆国に通告するを遺憾とするものなり」(「時代の一面」)と、交渉を続ける意図がなくなったことを述べているに過ぎない。 ルーズベルト大統領とハル長官は日本の外交暗号を解読して、日本大使館よりも早く対米覚書を通読していた。同大統領が電文を読むと、「これは戦つぶや争を意味する」と呟いたと言われるが、それは状況からして電文の意味をそのように解釈したに過ぎない。老練な政治家である彼らが、攻撃前に対米覚書を受け取ったとしても、「これは交渉の継続打ち切りに過ぎず、開戦通告ではない」と主張したと思われる。日米開戦が通告時間において開戦条約に違反しているのは確かであるが、外務省が作成した対米覚書の内容も開戦通告に該当しない可能性も大きかったのである。 では、なぜ、当初の文案「両国の間に戦争状態が存在することを通告する」(加瀬俊一同省アメリカ局第1課長案)の文章が消滅したのか、それは不明である。なお、真珠湾の攻撃を受けた米国が上下両院合同調査委員会をはじめ七つもの委員会を設置して、奇襲問題を徹底的に解明しようとしたのに比べ、日本はこの通告の遅延問題を本格的に解明しなかった。当時、在米大使館に勤務していた参事官、書記官たちは、戦後、次官等へ栄達した。 日本は真珠湾攻撃の約1時間前にマレー半島のコタ・バルに上陸して対英戦を開始した。この際、英国への開戦通告は行わず、その準備もしていなかった。後に東郷外相は、「同盟国米携た2010.5 Vol.44 No.390 日本海軍の真珠湾攻撃は米国に甚大な衝撃を与えた。その被害はもちろんであるが、日本が開戦通告を行わずに攻撃を断行したことは、「リメンバー・パールハーバー」の言葉とともに対日戦争への米国民の意思統一を生み出した。 当初、日本側はワシントン時間で12月7日13時(ハワイ時間同7時30分)、攻撃開始予定の30分前に野村吉三郎大使からハル国務長官への通告文書「対米覚書」を手交することになっていた。しかし、実際に手交されたのは、14時20分(ハワイ時間同8時50分)であった。真珠湾での最初の爆弾投下は7時55分、攻撃開始から55分が過ぎており、真珠湾が奇襲されたとの報告は既にハル長官に届いていた。この開戦通告が遅延した理由については多くの資料、出版物が明らかにしているところであるが、それは在ワシントン日本大使館の弛緩であり、かつ緊張感の欠如の結果であった。 過去、対米開戦については通告時間の遅れが問題にされてきたけれども、では、この対米覚書が予定どおりの時間、13時(攻撃開始25分前)に手交されていたらどうであったのか。その場合は完全な騙し討ちとの非難は避けられたとはいえ、開戦通告は行われなかった可能性が大きい。 戦争開始に関する国際法には、明治40(1907)年に成立した「開戦に関する条約(開戦条約)」(日本は明治44年11月に批准)がある。その第1条には、「締結国は、理由を附したる開戦宣言開戦宣言を含む最後の形式又は条件附事前の通告なくして、其の相互間に、戦争を開始すへからさることを承認す」とある。 対米覚書は在米大使館へ14部に分けて電送された。その内容は長文の美の形式を有する明瞭且牒ち通つつきかつだまょううふ12. 開戦通告の問題い蔽ぺ万バレル)と海軍工廠の温存は半年を待たず戦況(米軍の反攻)に大きな影響を与えることになる。結果論的ではあるが、ヒッカム飛行場と工廠、ドックとの間、太平洋艦隊司令部の建物の背えんもなく後には大型の石油タンクが掩裸の姿で整然と並んでいた。 攻撃参加機の5~6機程度を石油タンク群の攻撃に回せば、鉄製のタンク側壁は比較的簡単に軽量爆弾で破壊される。特に側壁下部が開口した場合、内部圧力で重油が噴出し、小型ダムが破壊されたのと同様の状況になる。石えん油タンクは周囲を堰で囲まれていたが、爆撃で簡単に破壊されてしまう。石油450万バレルはリットル換算で71万k?、縦25m、幅20m、深さ2mの水泳プール710杯分の重油と航空機用揮発油が流れ出せば、かなりの規模の火災が生じたと想像される。 真珠湾奇襲成功の報を受けた連合艦隊司令部では、再攻撃を主張する参謀たちが激高していた。宇垣纏参謀長は日記(「戦藻録」)に次のように記述している。堤ていいおいただし際さ 「機動部隊、L点を経て帰投するの電昨夜到達す。泥棒の逃げ足と小成に安んずるの弊なしとせず。但自分が指て更に部下揮官たりしせば、此して戦果を拡大、真珠湾を壊滅を鞭する迄やる決心なり。自分は自分、人は人なり」に於撻たこのべんまでつ 機動部隊が攻撃直前に保有していた艦上攻撃機は144機、艦上爆撃機は135機、艦上戦闘機120機の合計399機であった。このうち、350機が攻撃に参加し、未帰還機29機を除いた収容直後の使用可能な機数は265機、修理して使用可能な機数は86機。また、機動部隊各艦艇の燃料槽には十分な重油があった。ゥら米海軍の潜水艦出没の情報を得たため、航路を小笠原諸島の南鳥島、父島経由に変更して、父島西方から九州と四国との間の豊後水道に北上する航路をとった。 12月21日、機動部隊本隊は、第2補給隊および駆逐艦「霰」と会合した。会合点は当初のL点から変更され、北緯22度20分、東経138度30分(地図上のL-2点)となった。ここで警戒隊は第2補給隊から給油を受けた。これが機動部隊への最後の給油となった。 12月23日、午後6時30分、機動部隊は、遂に、択捉島単冠湾を出撃して以来29日ぶりに瀬戸内海の柱島に帰着した。真珠湾攻撃は偵察機の発艦から攻撃隊の帰艦まで8時間、実質的な攻撃時間(爆撃、電撃)は2時間強であった。この2時間のために、29日にわたる航海と給油作業の時間と労力が費やされた。ちなみに、この30隻の機動部隊が作戦に使用した燃料は重油等約17万k?(15万トン)であった。14. 真珠湾攻撃、開戦に対する指導層の反応もどため・昭和天皇 総理になった東條は、9月6日の御前会議の決定を白紙に還すへく、連日連絡会議を開いて1週間、寝ずに研究したが、問題の重点は油であった。 及川(古志郎海相)の戦争回避案は、内地で人造石油を造るにある。その為に200万噸の鉄が入用で、之は陸海軍から提供せねばならぬ、又非常に多くの工場を使用せねばならぬ関係上、内地の産業は殆ど停止の危態(ママ)に陥ることとなる、之では日本は戦はすして亡びる。 実に石油の輸入禁止は日本を窮地に追込んだものである。かくなった以上に期しても、戦った方は、万一の僥が良いといふ考へが決定的になったのは自然の勢ひと云しはねばならぬ、若倖こほとんぎょうトンういも拗よく必要もなく、また、たたいてみたところで土地をたたくようなものである。また、一面、つまらぬ感情の点から言っても、相手の横綱を破った関取に、帰りにちょっと大根を買ってこいと言うようなものだ」と述べ、荒天、給油不能を理由にこの攻撃命令を無視している。 この草鹿参謀長の言葉には、日本海軍が戦艦、空母などの戦闘艦以外の施設を攻撃することを避けようとする気持ちが強く表れている。その後、戦争の進展とともに米海軍の空母や潜水艦が日本の貨物船、油槽船だけでなく、うしつ陸上の港湾施設、飛行場をも執に攻撃したことと比較すると総力戦下の戦争概念の把握において、日本と米国の海軍の間に大きな違いがあったことが分かる。 12月10~15日の6日間は、最大風速毎秒24mの荒天が続き、給油ができなかった。機動部隊は連合艦隊司令部からのウェーキ島攻略作戦の支援要請に対して、機動部隊の一部、第2航空戦隊「蒼龍」「飛龍」、重巡「利根」「筑摩」、駆逐艦「谷風」「浦風」を分離、派遣して、本隊は日本本土へ向かうことになった。 12月15日、毎秒15mの風雨下、分離前の第2航空戦隊へ給油が行われた。 このウェーキ島の攻略作戦は、12月11日、海軍の第4艦隊(司令官井上成美中将) 指揮下の部隊が上陸を試みたが、残存していた米軍戦闘機の攻撃と砲台の反撃によって、駆逐艦2隻を失い上陸作戦を中断していた。 この戦闘機は空母「エンタープライズ」が、真珠湾攻撃の直前に日本軍の上陸を予想して、守備の海兵隊用に輸送したものであった。機動部隊から分離した第2航空戦隊が到着し、さらに、海軍の支援部隊、重巡「青葉」「古鷹」他も加わって再攻撃が行われた結果、同島は陥落した。 その後、機動部隊は連合艦隊司令部国から連絡を受けると思った」などと国際法を専門とする外交官らしからぬことを言っている。開戦前の通告にだわったのは昭和天皇と山本連合艦隊司令長官であったが、その指示は実行されなかった。 昭和4(1929)年に日本が批准した不戦条約との関係を含め、「日本の開戦は自衛戦争であり、通告は不要」との論もあるが、自ら侵略戦争と主張する国はなく論理性に乏しい。拘こ13. 日本へ向かう艦隊明めいれい 攻撃の翌日、12月9日の黎、24~26ノット時の高速で北上した機動部隊は早くもオアフ島を中心とする半径1,100kmの飛行哨戒圏を脱していた。午前8時30分(日本時間)には、先に分離していた第1補給隊の「極東丸」「健洋丸」「國洋丸」「神國丸」とF点で会合した。 直ちに、駆逐艦への給油が開始された。作業は風速毎秒13mの強風のなかで行われたため夜半までかかった。この際、荒天下の作業によって駆逐艦「浦波」「濱波」「霞」に死傷者4名を出している。また、上空警戒をしていた零戦1機が「蒼龍」への着艦に失敗して海中に落ち搭乗員1名が犠牲になった。日本海軍の栄光の陰に太平洋上で失われた命もあった。 この日、機動部隊は連合艦隊司令部から、「機動部隊は帰路、状況の許す限りミッドウェー島を空襲し、再度、使用が不可能となるように徹底的に破壊されたい」との作戦電報を受け取った。連合艦隊司令部は同島が航空哨戒と潜水艦の基地にされるのを防止しようと企図したのである。 この命令に対して、機動部隊司令部は不満であった。草鹿参謀長は後に、「私はこの命令を企図した人々の浅いを覚えた。その当時の情勢心根に憤として、必ずしもミッドウェーをたた懣まふんん戦争と石油(4) -真珠湾作戦、成功へのカギは洋上給油-91石油・天然ガスレビューGッセーた。昭和18年1月、シンガポールからトラック島に重油、航空燃料を輸送中、トラック島南西100浬で米潜水艦「シルバーサイド号」の電撃を受け沈没。「東邦丸」 昭和11年12月竣工。9,997総トン。「川崎型」油槽船の5番船、速力20.1ノット時。飯野海運所属。昭和16年8月、海軍に徴用。トラック島を中心にボルネオ、シンガポールなどからの燃料輸送に従事した。昭和18年3月、セレベス島沖合西マカッサル海峡をシンガポールに向けて航海中、米潜水艦「ガジョン号」の雷撃を受けて沈没。「日本丸」 昭和11年6月竣工。9,974総トン、速力19.2ノット時。山下汽船所属。昭和16年9月、海軍に徴用。昭和18年2月のガダルカナル撤退作戦、同年5月のキスカ撤退作戦の艦隊給油作業に従事した。昭和19年1月、「健洋丸」「國洋丸」とともに海軍の拠点であったトラック島へボルネオのバリクパパンから航空燃料を輸送中、パラオ、トラック間で米潜水艦「スカンプ号」の電撃を受けて爆発、2分間で沈没。「健洋丸」 昭和14年10月竣工。1万24総トン。「川崎型」油槽船の11番船。速力20.2ノット時、同型13隻中最速であった。國洋汽船所属。昭和16年8月、海軍に徴用。蘭印作戦、インド洋作戦に参加して艦隊への給油任務に従事した。昭和19年1月、バリクパパンから「日本丸」「國洋丸」と3隻で船団を組みトラック島に艦隊用重油と航空機用燃料を輸送中、ヤップ島南東海上で米潜水艦「ガードフィッシュ号」の電撃を受けて沈没。「神國丸」 昭和15年2月竣工。1万20総トン。2010.5 Vol.44 No.392撃前進中の事実を始めて知って驚くとともに、自分のうかつさが恥ずかしかった。 帰宅の気も吹きとび、戻って秘書官室で待機した。12月8日が開戦日であることはあらかじめ知っていたが、これほどの秘密保持はただ驚くよりほかはなかったのである。午前5時ごろ真珠湾攻撃成功の第一報がとどけられた。(出所)「東條秘書官機密日誌」んちょいしんまった何か如じ一い人じ・大本営陸軍部戦争指導班12月8日あた 戦争第1日を送るに方り作戦の急襲と言ひ全国民戦意の昂揚と言ひ理想的戦争発起の成功せるを確認し戦争指導班として感激感謝の念尽きさるものあり。然に求むへきや是の境地に於れども戦争の終末を如本戦争最大の難事 神て始めて之か完きを得べきしかこれおい。な哉か(出所)「機密戦争日誌」15. 真珠湾作戦に参加した油槽船はすべて沈没 真珠湾作戦に参加し補給業務に従事した油槽船は、往復航路の29日間、黙々とその任務を果たして作戦を成功させた。艦隊行動に必要不可欠な油槽船は真珠湾から帰還した後も多くの作戦に参加した。しかし、防備力がなく可燃物を満載して洋上に浮かぶ油槽船は、攻撃を受けた場合、瞬時に爆発、炎上した。真珠湾作戦に参加した7隻の油槽船は、昭和18~19年の間に太平洋と東南アジア海域で全船が沈没した。以下、その概況である。あの時、私が主戦論を抑えたらは、陸なが海に多年練磨の精鋭なる軍を持ち乍ら、ムザ  米国に屈伏すると云ふのよで、国内の輿論は必ず沸騰し、クーデタ(ママ)が起こったであらう。実に難しい時であった。(出所)「昭和天皇独白録」・ウィンストン・チャーチル英国首相 ルーズベルト大統領が電話に出た。「大統領閣下、日本はどうしたというのですか?」「事件はほんとうです。日本はパール・ハーバーを攻撃しました。これでわれわれは手をたずさえて戦わなければなりません」「これではっきりしました。御健闘を祈ります」 戦争はどれほど長引くか、また結果はどうなるか、私にも誰にもわからなかった。私にはそんなことはどうでもよかった。ヒットラーの運命もムッソリーニの運命も、すでに定まった。日本も滅びなければならない。(出所)「第2次大戦回顧録抄」つょうこんはい暁ぎ謁え祈願す。・木戸幸一内大臣 12月8日(晴)7時15分出勤。今既に海軍の航空隊は大挙布哇(ハワイ)を空襲せるなり。之を知る余は其の成否の程も気づかはれ、思はず太陽を拝し、瞑 7時半、首相と両総長に面談、布哇奇襲大成功の吉報を耳にし、神助の有難さをつくづく感じたり。 11時40分より12時迄、拝す。国運を賭しての戦争に入るに当たりても、恐れながら、聖上(天皇)の御態度は誠に自若として些の御動揺を拝せざりしは真に有難き極まりなりき。(出所)「木戸幸一日記」目もいささかめいく・赤松貞雄陸軍大臣秘書官(陸軍大佐) 午前3時、私の仕事も一段落したので一応帰宅しようとしたとき、官邸の庭で鹿岡秘書官(海軍大佐)が出勤してった。そのとき、真珠湾攻来たのに逢あ「東栄丸」 昭和14年2月竣工。1万22総トン。速力19.4ノット時。日東鉱業汽船所属。昭和15年12月、海軍に徴用。真珠湾作戦後はジャワ島攻略作戦、第1次インド洋作戦に機動部隊とともに参加し0°N40°Nオアフオアフ真珠湾真珠湾ハワイハワイ0°0°ミッドウェーミッドウェーフレンチフリゲートフレンチフリゲートM点M点(1)(1)ウェーキウェーキ(2)(2)(1)(1)ウォッゼウォッゼサイパンサイパントラックトラックヤルートヤルート単冠湾単冠湾AA横須賀横須賀40°N40°N20°N20°N0°0°140°E140°E160°E160°E180°180°160°W160°W(注) (1)=第2次真珠湾、(2)=ミッドウェー偵察作戦出所:各種資料を参考に筆者作成図4第2次真珠湾作戦(K作戦)作戦」)であった。使用されたのは、海軍が昭和17(1942)年2月に制式採用したばかりの川西航空製「二式飛行艇11型」で、1,410馬力エンジンを4基搭載、時速433km、最大航続距離6,500km、爆弾搭載量2,000kgの性能を備えていた。使用機は横浜海軍航空隊所属の2機(乗員各10名)であった。 この作戦も給油が最大の課題であった。給油艦としては潜水艦が選ばれた。作戦に投入する3隻の伊号型潜水艦は小型偵察機を搭載し、甲板上に格納庫を装備していた。偵察機を下ろした格納庫に、飛行艇用の燃料タンクが設けられた。給油能力は1隻毎分200?であった。 昭和17年2月12日、2機の飛行艇ち、サイパン島、トラッは横須賀を発ク島経由でヤルート島に到着。ここで訓練を続けた後、マーシャル諸島た表11補給基地初度・毎月補給量重油重油毎月補充分航空用揮発油(92)航空用揮発油(78)同(92)毎月補充分同(78)毎月補充分石炭石炭毎月補充分サイパン12,0002,5004,0003,500必要時必要時10,001,500ウォッゼケゼリン--3,0001,500---2,5001003,0001,000-1,000ヤルート5,0001,0002,0005005,000トラック2,0001,0001,5001,2001,500500-2,500(注) 単位:重油=トン、揮発油=k?、(数値)=オクタン値、石炭=トン、毎月補充分ウォッゼ、ケゼリン、出所:戦史叢書「ハワイ作戦」ヤルート+タロアの合計、トラック+ポナペの合計。速力19.7ノット時。神戸桟橋所属。昭和16年8月、海軍に徴用。昭和19年2月、米第58任務部隊の空母「エンタープライズ」他8隻の艦載機による「トラック島空襲」(海軍T事件)に遭遇して爆沈。トラック島の空襲では大型油槽船5隻が失われた。「國洋丸」 昭和14年5月竣工。1万26総トン。速力19.6ノット時。國洋汽船所属。昭和15年11月、海軍に徴用。ポートモレスビー攻略作戦、第2次インド洋作戦と南方での艦隊補給に従事した。昭和19年7月、フリピンのスルー海南部、ボルネオ沖合で米潜水艦「ボーンフィッシュ号」の電撃を受けて沈没。「極東丸」 昭和9年12月竣工。1万51総トン。速力19.3ノット時。飯野海運所属。昭和13年7月、海軍に徴用。真珠湾作戦の後、帰路、ウェーキ島攻略戦に参加した。昭和19年9月、マニラ湾沖合に停泊中、米艦載機のマニラ空襲に遭遇して炎上、沈没。戦後、引き揚げられて、昭和27年9月、「かりほるにあ丸」として中東航路に復帰した。 真珠湾攻撃に参加した南雲機動部隊の艦船も、戦争期間中に全滅した。北太平洋の荒波を走破した駆逐艦「霞」「磯風」「濱風」は、昭和20(1945)年4月、連合艦隊最後の艦隊出撃(菊水作戦)に戦艦「大和」とともに参加した。太平洋戦争開始の真珠湾作戦と日本海軍最後の艦隊作戦、沖縄特攻に参加した駆逐艦3隻は、九州・坊ノ岬(鹿児島県)沖で沈没した。エピローグ 真珠湾作戦の後、連合艦隊は、再度、真珠湾攻撃を試みる。修復を続ける真珠湾港内を、再度、空襲する作戦(「K93石油・天然ガスレビュー戦争と石油(4) -真珠湾作戦、成功へのカギは洋上給油-Gッセーした。ウォッゼ環礁を出撃してから33時間後の帰着であった。横須賀を発ってからサイパン島-トラック島-ヤルート島-ウォッゼ環礁-オアフ島と飛行距離は片道約7,000km、航空機による長距離渡洋の大作戦であった。 この第2次真珠湾攻撃から5日後、帰還した飛行艇のうち1番機はミッドウェー島の日中偵察(写真撮影)を命じられ、ウォッゼ環礁を出発した。今度も米軍は無線通信を解読していた。特に、連合艦隊がウォッゼ基地に送信した天気予報は、その目的を米軍側に知らせることになった。3月10日朝、近づく二式大艇をレーダーで捉えたミッドウェーの米軍守備隊は邀撃戦闘機を発進させてこれを撃墜した。 ここには情報の管理と漏洩、同じ作戦を繰り返す習性、輸送や搭乗員救助が目的の飛行艇を爆撃、偵察行などに使用する用兵の過ち等日本海軍が持つ本質的な問題点が開戦当初から露呈していた。米潜水艦、航空機の襲撃に備えての態勢であった。 日没2時間後、飛行艇は真珠湾を目指して出発した。しかし、米軍はこの攻撃を日本海軍の無線暗号を解読して察知していた。情報はキング海軍作戦部長まで上がっていた。カウアイ島とオアフ島のレーダーは近づく日本の飛ほした。米軍は邀撃戦闘機4行艇を捕機を発進させたが、夜間であることと雲のため日本機を発見することができなかった。 真珠湾上空に到達した飛行艇は雲の中からドックを狙って爆弾を投下した。1番機の爆弾は目標を大きく外れ山中に落下した。2番機の爆弾も海中に落下して成果を上げなかった。1番機は「真珠湾奇襲成功」の報を打電した。この報告を受けた連合艦隊司令部では歓声が上がった。 2機の飛行艇は真珠湾上空から離脱して、翌5日朝、1番機はウォッゼ環礁、2番機はヤルート環礁に、別々に帰着捉そくゃ射しウォッゼ環礁に移動した。 3月4日早朝、2機の飛行艇は燃料と爆弾(各250kg、爆弾各4発)を搭載すると、真珠湾へ向けて出撃した。今回の攻撃目標は海軍工廠、ドック、艦艇の順である。 まず、飛行の第1目的地はフレンチフリゲート環礁であった。この環礁はミッドウェー島とオアフ島の間、北回帰線上(北緯23度27分)にあって、北西ハワイ諸島で最大の環礁である。ウォッゼ環礁からフレンチフリゲート環礁への直線上のM点(北緯19度0分、西経174度20分)に、潜水艦伊9号がふく待機して無線誘導の長波を輻した。とらえ近づく飛行艇に伊9号は浮電波を捉上して位置を示した。 日没直前、飛行艇はフレンチフリゲート環礁に着水し、先行していた3隻の潜水艦伊15(予備艦)、19、26号から各12k?の給油を受けた。給油は曳航方式、飛行艇はプロペラを回しながら5ノット時で航行した。これは<注・解説>*: 駐英武官は近藤泰一郎大佐、駐イタリア武官は光延東洋中佐(タラント攻撃数日後に大佐に昇任)。真珠湾作戦の航空参謀源田實中佐は昭和15年10月まで駐英武官補佐官。【参考文献】1.「戦史叢書」防衛庁防衛研修所戦史部 朝雲新聞社 「海軍航空概史」「大本営陸軍部大東亜戦争開戦経緯(1~5)」「陸海 軍年表」「海軍軍戦備(1)」「蘭印攻略作戦」「ハワイ作戦」「南東方面海軍作戦(2)」2.「大本営陸軍部戦争指導班機密戦争日誌」軍事史学会編 錦正社3.「現代史資料太平洋戦争(1~5)」みすず書房4.「真珠湾攻撃の記録及び報告(1~5)」米国上下両院合同調査委員会 5.「米国戦略爆撃調査団報告書」6.「太平洋戦争秘史―米戦時指導者の回想」ヘンリー・スチムソン他 毎日新聞社訳・編 毎日新聞社7. 「ルーズベルト秘録」産経新聞取材班 産経新聞社8. 「ハル回想録」コーデル・ハル 宮地健次郎訳 中央公論新社9. 「第二次大戦回顧録抄」ウィンストン・チャーチル 毎日新聞社訳・編 毎日新聞社10. 「ニミッツの太平洋海戦史」C・W・ニミッツ、E・B・ポッター 実松譲ほか訳 恒文社2010.5 Vol.44 No.394岺?ニ石油(4) -真珠湾作戦、成功へのカギは洋上給油-11. 「モリソンの太平洋海戦史」サミュエル・E・モリソン 大谷内一夫訳 光人社12. 「真珠湾攻撃」ジョン・トーランド 徳岡孝夫訳 文藝春秋13. 「真珠湾」G・モーゲンスターン 渡辺明訳 錦正社14. 「真珠湾は眠っていたか(1)~(3)」ゴードン・プランゲほか 講談社15. 「真珠湾の真実」ロバート・B・スティネット 妹尾作太男訳 文藝春秋16. 「真珠湾、クラーク基地の悲劇」ジョン・コステロ 左近允 尚敏訳 啓正社17. 「アメリカの対日戦略」ジョナサン・G・アトリー 五味俊樹訳 朝日出版社18. 「米国諜報文書ウルトラ・イン・ザ・パシフィック」ジョン・ウィントン 左近允 尚敏訳 光人社19. 「太平洋暗号戦史」W・J・ホルムズ 妹尾作太男訳 ダイヤモンド社20. 「盗まれた暗号」エドワード・ローア 豊田穣訳 三笠書房21. 「暗号はこうして解読された―対日情報戦と連合艦隊」原勝洋 KKベストセラーズ22. 「時代の一面―東郷茂徳外交手記」東郷茂徳 原書房23. 「東郷茂徳―伝記と解説」萩原延壽 原書房24. 「杉山メモ(上・下)」参謀本部編 原書房25. 「回想の日本外交」西春彦 岩波書店26. 「昭和史の謎を追う(上)」秦郁彦 文藝春秋27. 「戦争論」カール・フォン・クラウゼヴィッツ 清水多吉訳 中央公論新社28. 「戦藻録―宇垣纏日記」原書房29. 「史観真珠湾攻撃」福留繁 自由アジア社30. 「連合艦隊参謀長の回想」草鹿龍之介 光和堂31. 「真珠湾作戦回顧録」源田實 文藝春秋32. 「真珠湾攻撃―実戦体験記」淵田美津雄 河出書房33. 「日本海軍海上航空戦史―機動部隊」奥宮正武 朝日ソノラマ34. 「空と海の涯で―第一航空艦隊副官の回想」門司親徳 毎日新聞社35. 「幻の最後通牒―米国大使館附海軍武官補佐官の太平洋戦争」実松譲 五月書房36. 「真珠湾までの365日」実松譲 光人社37. 「最後の飛行艇―海軍飛行艇栄光の記録」日辻常雄 今日の話題社38. 「潜水艦隊」井浦祥二郎 学習研究社39. 「幕僚たちの真珠湾」波多野澄雄 朝日新聞社40. 「山本五十六と米内光政」高木惣吉 光人社41. 「山本五十六再考」野村實 中央公論新社42. 「山本五十六(上・下)」阿川弘之 新潮社43. 「凡将山本五十六」生出寿 徳間書店44. 「山本五十六」戸川幸夫 光人社45. 「山本五十六の無念」半藤一利、恒文社46. 「日本・油槽船列伝」松井邦夫 成山堂書店47. 「戦時船舶喪失史」池川信次郎 元就出版社48. 「検証・戦争と気象」半澤正男 銀河出版49. 「真珠湾1941.12.7―アメリカの見たハワイ奇襲作戦」原勝洋監修 学習研究社50. 「ドキュメント真珠湾の日」佐々木隆爾他編 大月書店51. 「昭和16年12月8日―日米開戦・ハワイ大空襲に至る道」児島襄 文藝春秋52. 「“真珠湾”の日」半藤一利 文藝春秋53. 「運命の夜明け―真珠湾攻撃全真相」森史朗 文藝春秋54. 「真珠湾―12月8日の終戦」池上司 角川書店55. 「サムライたちの真珠湾」早瀬利之 光人社95石油・天然ガスレビューGッセー56. 「海軍の昭和史」杉本健 光人社57. 「海の昭和史」秋田博 日本経済新聞社58. 「海軍くろしお物語」福地周夫 光人社59. 「未公開写真に見る真珠湾攻撃」別冊歴史読本 新人物往来社60. 「歴史群像―日vs.米徹底分析陸海軍基地」学習研究社61. 「帝国海軍艦艇ガイド」学習研究社62. 「日本の軍艦」福井静夫 出版協同社63. 「連合艦隊軍艦銘銘伝」片桐大自 光人社執筆者紹介岩間 敏(いわま さとし)鳥取県出身。早稲田大学第一法学部卒業。日本経済新聞社、トヨタ自販系研究所に勤務。その間、フリージャーナリスト(アサヒグラフ特約)としてバングラデシュ独立戦争(第4次印パ戦争)、フィリピン・ミンダナオ島イスラム教徒反乱、ビルマ山岳民族紛争等のアジアの民族問題を取材。その後、石油開発公団(後の石油公団)に入り、通商産業省(現・経済産業省)調査員(国際資源)、ハーバード大学中東研究所客員研究員、石油公団パリ事務所長、計画部長、ロンドン事務所長、理事などを経て、現在、石油問題研究家。著書:「世界がわかる石油戦略」(ちくま新書)、「石油で読み解く完敗の太平洋戦争」(朝日新書)、「アジアのエネルギー・環境と経済発展」(共著、慶応義塾大学出版会)。2010.5 Vol.44 No.396
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2010/05/20 [ 2010年05月号 ] 岩間 敏
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