アメリカとイランの対立構造とアラブの春
レポートID | 1006460 |
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作成日 | 2012-01-20 01:00:00 +0900 |
更新日 | 2018-02-16 10:50:18 +0900 |
公開フラグ | 1 |
媒体 | 石油・天然ガスレビュー 2 |
分野 | エネルギー一般基礎情報 |
著者 | |
著者直接入力 | 高橋 和夫 |
年度 | 2012 |
Vol | 46 |
No | 1 |
ページ数 | |
抽出データ | 放送大学教授高橋 和夫アメリカとイランの対立構造とアラブの春嵐の中の風景 2011年は中東イスラム世界にとって激動の1年であった。民衆の抗議運動が、チュニジア、エジプト、リビア、イエメンで政権の没落をもたらした。こうした変化が、これまでの中東を規定してきた国際政治の構造に大きな影響を与えた。その構造とは、アメリカを中心とする諸国とイランを中心とするグループの対立であった。前者は現状維持を、後者は現状の変更を求めてきた。アラブの春と呼ばれる現象が、この構造に与えた影響は何か。アラブの春は、砂嵐の季節である。この嵐のなかの中東の風景を描く。中東情勢の構図 2011年は、中東・イスラム世界で事件の多かった年として記憶されるだろう。1月にチュニジアの独裁者ベンアリがサウジアラビアに亡命し、2月にエジプトでムバラク政権が倒れた。5月にパキスタンでオサマ・ビンラーディンが殺害され、10月にはリビアでカダフィが、やはり殺害された。こうした一連の展開は、どのような影響を中東の国際関係に与えたのだろうか。 ここでは、まずエジプトの政変、トルコとイスラエルの対立、バーレーンでの民主化要求と弾圧、そしてパキスタンとアメリカの関係悪化を順に論じよう。次にシリアの動揺に言及しよう。そして、最後にリビアのカダフィ政権の没落の意味について考えてみよう。なぜならば、NATO軍の介入による政権転覆という前例が、今後の中東情勢の展開全体に深い影を投げかけているからだ。 しかし、影響を論じる前に、影響を受ける前の中東の風景を描く必要があるだろう。さて、2011年のように事件の多発した年に1979年がある。この年の2月にイランで革命政権が誕生し、11月にテヘランのアメリカ大使館が占拠された。やはり同年11月にメッカの大モスクが占拠される事件が発生した。さらに12月にはソ連軍がアフガニスタンに侵攻した。 革命はイランを中東における「安定の孤島」から反米の牙城へと変えた。現状維持勢力の中核的な存在から現状変更を求める爆心地へと変えた。そして大使館の占拠事件は、イランとアメリカの間に埋めがたい感情的な「しトルコトルコレバノンレバノンパレスチナパレスチナシリアシリアイスラエルイスラエル(ガザ)(ガザ)ヨルダンヨルダンリビアリビアエジプトエジプトカザフスタンカザフスタンウズベキスタンウズベキスタントルクメニスタントルクメニスタンイラクイラクイランイランアフガニスタンアフガニスタンパキスタンパキスタンクウェートクウェートバーレーンバーレーンカタールカタールUAEUAEサウジアラビアサウジアラビアオマーンオマーンイエメンイエメンうずこり」を残した。これが、アメリカ人にとっては、いまだに疼き続けている心の傷であり、強い反イラン感情の源泉となっている。 またメッカのモスクの事件は、サウジアラビアのイスラム国家としての正統性に対する正面からの挑戦であった。この挑戦は、形を変え、挑戦者を変え、今日まで続いている。挑戦者の1人はビンラーディンであった。さらにソ連軍のアフガニスタン侵攻は、プレイヤーを変えながらも今日まで続くアフガニスタンでの戦いの始まりを告げていた。つまり1979年は、それまでの時代と、それ以降を分ける断層である。1石油・天然ガスレビューアナリシスAラブの春以前アラブの春以前アラブの春以降アラブの春以降現状維持勢力現状維持勢力現状変更勢力現状変更勢力現状維持勢力現状維持勢力現状変更勢力現状変更勢力アメリカイスラエルエジプトヨルダントルコパキスタンアフガニスタンイラクパレスチナイランシリアハマス(ガザ)ヘズボッラー(レバノン)アメリカイスラエルエジプトトルコパキスタンGCC (バーレーン)アフガニスタンイラクパレスチナイランシリアハマス(ガザ)ヘズボッラー(レバノン)両者のせめぎ合いが進行している地域両者のせめぎ合いが進行している地域で囲んだのは動揺や陣営内での対立を経験した国家と組織出所:筆者作成図1現状維持勢力と現状変更勢力 1979年以降の中東を規定する風景は、二つのグループの対立である。一つはアメリカを中心とするグループであり、もう一つはイランを中心とするグループである。中東における現状を基本的にはよしとして、その維持をアメリカは求めてきた。アメリカを中心としてイスラエル、トルコ、エジプト、ヨルダン、GCC(湾岸協力会議)諸国などが、この現状維持勢力を構成してきた。そして中東を広く解釈してアフガニスタンとパキスタンを含めて考えれば、アフガニスタンの戦争でアメリカと同盟関係にあるパキスタンも、このグループの重要なメンバーであった。もちろん、このグループのメンバーの間に対立が存在しないわけではない。イスラエルのパレスチナ占領地に対する政策に対しては、サウジアラビアなどは不満を募らせてきた。しかし、こうした矛盾にもかかわらず、このグループは、なんとか一体感を保ってきた。 これに対してイランを中心とするグループは、中東の現状に対して異議を唱え、その変革を求めてきた。イランの西の地域では、イスラエルのみが核兵器を独占し、周辺を威圧し、しかもパレスチナ占領地の実質上の併合を進めている。ペルシア湾のアラブ諸国側に、またイランの東西の隣国アフガニスタンとイラクにアメリカ軍が展開している。こうした現状をイランは拒絶してきた。イランの陣営に属するのは同盟国のシリアである。またシリア経由でイランの支援を受けるレバノンのシーア派組織ヘズボッラーとガザを支配するスンニー派組織のハマスである。 イランとアメリカの関係については、改善の動きへの期待と憶測が何度も浮上しては消え去ってきた。1989年から1997年にかけてのラフサンジャーニー大統領時代にも、そして1997年から2005年のハタミ大統領の時代にも、両国が関係を改善する機会はあった。特に1990年から1991年の湾岸危機・湾岸戦争の期間においては、アメリカはイラク封じ込めのためにイランの協力を必要とした。また2001年のアフガニスタン攻撃の際にも事情は同様であった。対ターレバン戦争においてアメリカとイランは同じ側に立っていた。しかし両国関係は、結局は改善されなかった。なぜであろうか。 もちろんアメリカ側の対応に問題があった。ブッシュ父大統領は、イランの助力を得ながら、最後はイランとの関係改善のための手を打たなかった。またブッシュ息子大統領も対ターレバン戦争政権ではイランの協力を得たにもかかわらず、ターレバン政権崩壊の直後ともいえる2002年1月の議会演説でイランをイラクや北朝鮮と同列の「悪の枢軸」の一つとして名指しで批判した。そして、その政権の転覆を望んだ。この大統領の任期中は、ある意味ではアメリカの方が現状変更を求める勢力ですらあった。 しかし、ブッシュ親子の間に大統領を務めたクリントンは、8年間の任期中に関係改善に努力した時期もあった。だが今度は、イラン側が積極的には応えなかった。22012.1 Vol.46 No.1アナリシスッじことが、ブッシュ息子政権の後に成立したオバマ政権の対イラン外交に関しても起こった。オバマは、ハメネイ最高指導者へ書簡を送ったり、イラン向けのビデオ演説をネットにアップしたりするなど、さまざまなジェスチャーを送った。しかし、イランからは結局は前向きな返事が届かなかった。 こうした挫折の繰り返しを見ると、やはりイランの指導層がアメリカとの関係改善を望んでいないと判断せざるを得ないのではないか。もちろん、それはイランの指導層の内部にアメリカとの和解を主張する声が全くないということではない。前に触れたようにラフサンジャーニー元大統領は、レバノンで人質になったアメリカ人の解放に尽力したし、アメリカ企業のコノコに石油の開発利権を与えようとした。これは、実質上のアメリカへの和解のメッセージであった。 またハタミ前大統領が唱えた「文明間の対話」というスローガンは、アメリカとの交渉をも可能にしようとする暗号であった。しかし、イランの政策を最終的に決断するハメネイ最高指導者は、イラン革命の指導者ホメイニ師の路線に忠実であり続けた。その路線は反アメリカであり、反イスラエルであり、反王制である。イランが現状変革を希求する革命勢力である限り、現状維持勢力であるアメリカとの和解は困難である。1979年のイラン革命政権の成立以来の32年間、ホメイニとハメネイという2人の最高指導者に率いられたイランは革命勢力として現状変更を志向してきた。この動かし難い事実が、イランとアメリカの接近を妨げてきた。 それぞれアメリカとイランを中心とする相容れない二つのグループの衝突の現場は、アフガニスタンであり、イラクであり、パレスチナである。またイスラエルの核独占という現状への挑戦という視点から見れば、イランの核開発をめぐる交渉、制裁、威嚇も、両者のせめぎ合いの舞台の一部を構成している。アラブの春とエジプト 本稿のテーマを繰り返しておこう。それは、この二つのグループの対立構造に、アラブの春以降の情勢の展開が、いかなる影響を与えたのかである。1月のチュニジアの政変、そして2月のエジプトの政変は、アメリカとイランの対立の構図から見ると、アメリカ陣営にとってのマイナスであった。エジプトのムバラク政権はイスラエルと密接な関係を維持し、ガザの封鎖の片棒を担いでいた。パレスチナのガザ地区は、北と東をイスラエルに、西を地中海に、そして南をエジプトのシナイ半島に囲まれている。このガザを支配しているのはハマスである。ハマスは2006年パレスチナの議会選挙で勝利を収めた。さらに、この地区でのファタハとの武力衝突でも勝利を収めガザを名実ともに掌握した。ファタハはアラファトが創設した組織で、その死後はアッバスが率いている。このファタハが、ヨルダン川西岸地区を根拠地とし、パレスチナ自治政府を支配している。つまりハマスのガザでの勝利により、パレスチナがガザと西岸に分裂した。 さて、イスラエルはハマスの支配するガザ地区を封鎖した。つまり北と東の検問所を閉鎖し、また地中海岸を海上封鎖した。そして南の検問所をエジプトが封鎖してガザを孤立させた。ガザの陸上部分は高い壁に囲まれてのように幾つかの検問所がある。いる。そして、空気孔あなくこの検問所を閉鎖すれば、簡単に封鎖できる。後は海上を封鎖すれば、ガザは巨大な監獄となる。 エジプトのムバラク政権が、この面でイスラエルに協力した背景は何か。それは、ガザを支配するハマスが、エジプトの最大野党であるムスリム同胞団と長く深く強い関係を有しているからである。ムスリム同胞団の運動は、1928年にエジプトに起こった。奇しくもムバラク大統領の生まれた年である。 創設したのはハサン・アル・バンナーである。バンナーの教えは、下からの社会のイスラム化であった。個人のイスラムの実践から積み上げて、家庭を地域を社会を純化し、そして最終的には国家全体を純粋なイスラム国家に変革しようと呼びかけた。この主張は多くの人々に受け入れられ、ムスリム同胞団は20世紀の中盤までにはエジプト最大の大衆運動に発展した。同時に、その運動は周辺のアラブ諸国に波及した。各国でムスリム同胞団が結成された。 その一つがパレスチナのムスリム同胞団であった。それが、1987年末にハマス(イスラム抵抗運動)と名乗ってイスラエルの占領に対する抵抗運動を開始した。したがってハマスの力の伸長は、エジプトのムスリム同胞団への追い風になるというのがムバラク政権の認識であっ3石油・天然ガスレビューアメリカとイランの対立構造とアラブの春国関係の摩擦の要因であった。イスラエルは、誰が何を言おうが、核兵器を放棄する意思は持っていないからだ。そもそも核兵器の保有さえ公式には認めていない。 さらにエジプトは、イスラエルを承認したものの、存在を承認しただけであって、その権利を承認したわけではない、とエジプト外交官が発言した例があったようで、怒りをあらわにした。その是非はともかく、イスラエル側の議論にじかに触れる貴重な機会であった。 長らくアラブ諸国から承認を拒絶されてきたイスラエルにとっては、カイロのイスラエル大使館は心理的に重要である。それは、ついにアラブ諸国のなかで最大の国家が、4度の中東戦争を戦った相手が、つまりエジプトが、イスラエルを認めてくれたという証しである。ナイル川のほとりにダビデの星のイスラエル国旗の翻る風景そのものに大きな意味がある。1979年にエジプトとイスラエルが平和条約を結んだ際には、両国間の長年のわだかまりが溶解しつつあった。戦争に疲れたエジプト国民が平和を歓迎していたからだ。 しかし、その後にエジプト人の対イスラエル感情は再び悪化した。オスロ合意下での一時的な進展はあったものの、結局はパレスチナ和平が進展しなかったからだ。イスラエルがパレスチナ占領地で入植を続けたからであされている様子が衛星テり、パレスチナ人の権利が蹂レビで日夜エジプト家庭の茶の間に流れ続けたからだ。 厳重に警備されたイスラエル大使館は、エジプト国民の強い反イスラエル感情の海に囲まれた小島であった。そして独裁者ムバラクが退陣し、エジプトに民主主義が訪れると、その小島のようなイスラエル大使館が暴徒の波に洗われ、館員は帰国を迫られた。この事件の際に、警備の兵士は真剣に暴徒を押さえようとはしなかった。兵士もエジプト人である以上、庶民の反イスラエル感情を共有していたのであろうか。アメリカの懸命の説得を受けてエジプト政府が特殊部隊を派遣して、何とか同大使館員は無事であった。しかし、民主国家では国民感情を無視した外交が困難だという事実がエジプト政府に突きつけられた場面であった。この国民感情という移ろいがちなものを、どう外交に反映させるのか。新しいエジプトの直面する課題の一つである。 「中東の気温の高さからすると冷たくなったとしても、平和が凍りつくわけではない」とあるイスラエルの研究者が、冗談を言っていたのを思い出す。凍りつきはしないだろうが、エジプトとイスラエルの平和が温まることは望むべくもない状況である。 エジプトばかりでなくヨルダンにおいても国民の民主化要求が高まれば、イスラエルとの関係は、難しくなる躙りじゅうんた。ガザの封鎖に協力した背景である。協力というよりはエジプトはイスラエルとともにガザ封鎖の当事者であった。 この政策はエジプト国民の間では不人気であった。同じアラブ人を狭いガザ地区に閉じ込め、飢餓線上近くにまで追い詰めようという非人道的な政策である。国民の支持など期待できるはずもなかった。ムバラクの独裁下でのみ可能な政策であった。ガザの封鎖は、ムバラク政権の正統性を傷つけた。 こうした政策を遂行していたムバラク政権の崩壊は、ガザのハマスを勇気づけた。また、エジプトの民主化は民意を無視した親イスラエル政策を困難にした。9月に発生したカイロのイスラエル大使館襲撃事件は、エジプトの民意がどこにあるのかを示した。表立ったイスラエルやアメリカへの協力はエジプトには難しくなった。 イスラエルが外交関係を維持しているアラブ国家は、エジプトとヨルダンしかない。そのエジプトとの関係も国民レベルでの温かさがなく「冷たい平和」と呼ばれていた。ムバラクの独裁をもって、ようやく維持が可能な関係であった。例えばカイロのイスラエル大使館の警備の厳重さに、その冷たさが反映されていた。筆者は1990年代に聞き取り調査のためにイスラエル大使館を訪問したが、その警備は厳しかった。大使館の入っているビルの前は一方通行になっていた。ビルの前には高速道路のフライ・オーバー(高架)が走っている。そして、そこには機関銃を装備したエジプト治安当局の車両が構えている。ビルの入り口にエジプトの治安当局者がおり、そこを抜けてビルの中に入ると今度はイスラエルの担当者がいた。丹念な荷物検査があった。エレベーターに乗って指示された階に向かった。階に着くと、まず荷物を渡し、次に鋼鉄製のドアを開けて入ると、もう1枚ドアがある。後ろにしたドアが閉まり、次に2枚目のドアが開いて、めでたく大使館内部に到着した。 面談してくれたのは女性の外交官だった。大学でアラビア語を専攻したという経歴の持ち主だった。エジプト・イスラエル関係については、エジプトの対応が冷たく、思うように進展していないとの話だった。例えばエジプトのキリスト教徒で聖地つまりイスラエル(支配地域)に旅行したいという人はいる。だが、実際に旅行をすると帰国後に内務省に呼び出されて厳しい尋問を受ける。そのため、旅行者の数が伸びないとエジプトの対応への不満を説明してくれた。ちなみにエジプトの人口の1割程度はキリスト教徒である。 また中東地域の非核化構想を当時エジプトが提案しており、イスラエルの核兵器の保有を問題にしたのも、両2012.1 Vol.46 No.1アナリシスセろう。そもそもヨルダンの国民の多数派はパレスチナ出身者と、その子孫である。エジプト以上に国民の対イスラエル感情は冷たい。にもかかわらずヨルダンがイスラエルとの外交関係を維持しているのは、王制ゆえに国民の声をある程度までは無視できるからである。しかし、民主化要求が高まれば、イスラエル・ヨルダン関係が維持されるにしても、ますます冷たいものにならざるを得ないだろう。ヨルダンの首都アンマンのイスラエル大使館も、堅固に防御されている。周囲から孤立した一戸建てで、西部劇に出てくる騎兵隊の砦さえ想起させる。中東の厳しい日差しと人々の冷たい視線にさらされた大使館である。トルコ・イスラエル関係の危機を擁護したが、これにエルドアンは激しく反論した。しかも十分な反論の時間を与えられなかったとして、怒って退席した。この事件によってエルドアンはイスラム世界の英雄となった。トルコでもアラブ世界でも、正面切ってイスラエルに言うべきことを言った勇気が賞賛された。この事件を伏線として前に触れた2010年5月の援助船への襲撃事件が発生したわけだ。 トルコは1949年、イスラム教徒が多数派の国としては初めてイスラエルを承認した。それ以来、両国は緊密な戦略関係を構築してきた。イスラエルは、トルコ軍の兵器の近代化に協力してきたし、トルコは自国領土をイスラエル空軍の訓練のために開放してきた。ちなみに国土の狭いイスラエルにとっては、陸地の上空を長距離にわたって飛行する訓練の場所の確保が困難である。奇襲攻撃の際にレーダーをかいくぐるためには、地上すれすれの低空飛行が求められる。これには高度の技術が要求される。トルコでの訓練飛行はイスラエルのパイロットにとっては有り難い経験である。1967年の第三次中東戦争の際にはイスラエル空軍機が低空飛行でエジプトの空軍基地に接近し地上で同国の空軍を壊滅させた。1981年には、やはり低空飛行でイラク上空に侵入したイスラエル空軍機が、バグダッド郊外のオシラクの原子炉を爆撃した。将来イランの核関連施設を爆撃するような際にも、イスラエル空軍機は低空飛行でレーダーをかいくぐろうとするだろう。 またイスラエルとトルコの両国は、長年にわたりシリアを共通の敵として挟み撃ちにする姿勢を取ってきた。現在のバシャール・アサド大統領の父親の故ハーフェズ・アサド大統領の時代には、シリアがPKK(クルディスターン労働党)を支援しているのに業を煮やしたトルコは、シリアの国境地帯に兵力を展開して侵攻の構えを見せた。1998年のことであった。この時にはトルコとイだ捕ほ アメリカ陣営のなかのイスラエルとエジプトの関係の悪化と同様に、イスラエルとトルコの関係が危機的な状況に直面している。 2011年9月2日、トルコのダウトオール外相は、同国からのイスラエル大使の追放と両国間の軍事協力の凍結を発表した。背景となったのは2010年5月の事件であった。トルコからガザ地区に向けて出航した人権団体の船団をイスラエル軍の特殊部隊が拿する事件があった。船団の目的は、ガザに対するイスラエルの海上封鎖を突破して、支援物資を届けることであった。またガザ封鎖の非人道性を世界に訴えるための航海であった。船団の1隻にヘリコプターから降り立ったイスラエル軍の特殊部隊員が、乗客に発砲した。その結果、9名が死亡した。そのうちの8名はトルコ市民であり、1名はトルコ系のアメリカ市民であった。トルコ政府は、イスラエルによる謝罪と補償を要求している。 イスラエルは、軍事物資の搬入を阻止するための自衛措置であるとしてガザ封鎖を正当化し、その特殊部隊による封鎖突破の試みの阻止も正当防衛であると主張している。犠牲者が出た事実に対しての遺憾の意は表したが、謝罪はしない方針である。 ガザへの援助船がイスラエルの特殊部隊に襲われたという事件には、前段があった。それは、2008年末にイスラエル軍がガザを攻撃した事件であった。2009年1月のオバマ政権の成立前に、ハマスに打撃を与えようとする動きであった。1,300名以上のパレスチナ人の命が奪われた。そしてイスラエルは2009年1月17日に攻撃をやめた。オバマの大統領就任式の3日前であった。 その月末、つまり2009年1月末、スイスのダボスで開かれた世界経済フォーラムという会議の場でイスラエルのペレス大統領とトルコのエルドアン首相が同席する討論会があった。ここでペレスはイスラエルのガザ攻撃5石油・天然ガスレビューアメリカとイランの対立構造とアラブの春Xラエルの同盟関係が、シリアに対する大きな圧力となった。シリアは、圧力に負け、かくまっていたPKKのオジャラン党首をレバノンから追放した。当時シリアは、レバノンに軍隊を展開しており、同国を実質的に支配していた。オジャランは、世界を逃げ回ったが、結局1999年ケニアでトルコの諜報機関によって捕らえられた。この拘束についても背後でイスラエルの諜報機関の支援があったと信じられている。 今回の両国関係の悪化は、トルコとイスラエルの間の上記のような同盟関係の終わりの始まりを意味しているのかもしれない。というのは、トルコ国内では、イスラムの影響力が拡大しているからである。現在の与党の公正発展党が宗教的な層を支持基盤に躍進してきたのは衆知の事実である。 イスラム教徒としての感情の高まりは、パレスチナのイスラム教徒への同情につながっている。これがイスラエルとのあまりにも密接な同盟関係の維持を難しくしている。同時に外交的には、トルコがアラブの産油諸国に接近の姿勢を示している。トルコは、第一次世界大戦後の共和国建国以来の西欧志向から、それ以前のオスマン帝国の時代のイスラム国家としての、さらにはイスラム世界のリーダーとしてのアイデンティティーを復活させつつある。 イスラエルへの厳しい態度は、イスラム諸国との関係を深めるために必要なジェスチャーであり、代償である。もし、そうであるならば、事件に対する謝罪と補償の要求は、トルコの方向転換を正当化する口実に過ぎない、とイスラエルの一部勢力はトルコの姿勢を解釈している。もし、この解釈が正しいのであれば、中東の国際関係の構図が変わり始めている。撃つか撃たないか エジプトの政変、トルコの外交の方向転換、いずれもアメリカ陣営を混乱させる流れである。さらに、もう一つの動きはバーレーンでの民主化要求の高まりである。民衆はバーレーンの真珠広場を占拠した。エジプト人がカイロのタフリール広場を革命の拠点としたように、ここをバーレーンの民主化の「グラウンド・ゼロ」にしようとした。しかし、当局の発砲により、民主化運動は鎮圧されてしまった。またサウジアラビアが、同国の東部とバーレーンとをつなぐ橋、コーズウエイを使って軍隊を送り、バーレーンの体制を支える姿勢を明確にした。 議論を進める前に、ここで立ち止まって、各国での政変の過程を整理しておきたい。前提となるのは、長年の圧制と失政、国民の不満である。これに対して、まずツイッターなどを利用した小規模な抗議運動が発生する。それがアルジャジーラなどの衛星放送に報道されると、多くの大衆が参加する大規模な抗議運動となる。この段階に入ると警察による鎮圧が困難になる。ここで政権は軍隊を投入する。軍が発砲を拒否すると、抗議運動は止められなくなる。そして政権は崩壊する。そびえ立っていたチュニジアのベンアリ政権もエジプトのムバラク政権も、あっさりと瓦解した。あたかもピラミッドが突然に崩れたかのようであった。 鍵を握るのは軍の動向である。軍が発砲を拒否したチュニジアとエジプトでは政権が倒れた。しかしリビア、シリア、バーレーンでは、抗議する大衆に対して軍が発砲し、多数の死傷者が出た。リビアは内戦状態となった。そして、その内戦が2011年10月のカダフィの殺害まで続いた。またシリアとバーレーンでは、依然として政権が存続している。エジプトとチュニジアでは、何が軍隊に発砲を拒否させたのだろうか。リビア、シリア、バーレーンでは、何が違ったのだろうか。 一言でいえば国民としての一体感の有無である。あるいは強弱とでも表現した方が適切だろうか。同じチュニジア人なのだから発砲できない。同じエジプト人だから撃てない。そうした感情が兵士に発砲させなかった。しかしリビア、シリア、バーレーンでは、そうした感覚は強くなかった。 小難しい表現を使って言い直すならば、国民統合のレベルが高い国では軍と民衆の一体感が発砲を止めた。リビアの場合には、地域格差や部族意識の強さが指摘される。バーレーンの場合は少数派のスンニー派が、多数派のシーア派の上に君臨する政治体制である。シリアでは、少数派のアラウィー派が支配層で多数派のスンニー派が被支配層を構成している。62012.1 Vol.46 No.1アナリシスoーレーンのシーア派の多くはアラブ人としての強い誇りを抱いている。つまりイラン人と同じシーア派としての同胞意識は抱いているが、それ以上に強いアラブ人意識を持っている。 同じアラブ人ではある。しかしバーレーンにおけるスンニー派とシーア派の格差は大きい。シーア派の村とスンニー派の居住地では、外国人の目にも明らかな生活水準の差が見て取れる。そもそも、この島はシーア派の居住地域であり、人々はナツメヤシの栽培や漁業で生計を立ててきた。バーレーンは、正確には大小40の諸島から成っている。歴史的には、ペルシア人やポルトガル人などの島外からの勢力が支配者としての興亡を繰り返してきた。そして一番最後から二番目に島外から侵入してきた勢力がハリーファ一族である。アラビア半島から遊牧民を率いて侵入し、バーレーンの支配者となった。そして最後に侵入したのはイギリスである。ハリーファ家はイギリスの保護領の時代を経て、今日まで支配者として君臨している。この一族と同盟者はスンニー派である。この歴史がバーレーンの支配構造を規定してきた。そこでは少数派でスンニー派の侵入者が、先住の多数派のシーア派の上に君臨している。日本史風に言えばバーレーンの国家は騎馬民族征服王朝である。 少数派のスンニー派が多数派のシーア派を支配する発砲するバーレーン軍少数派のスンニー派の支配体制少数派のスンニー派の支配体制多数派のシーア派多数派のシーア派出所:筆者作成図2バーレーンの支配体制 さて議論をバーレーンに戻そう。バーレーンでの民主化要求の背後にイランの陰謀があるとの見方が流布している。しかし、人権活動家のブライアン・ドゥーリーが『フォーリン・ポリシー』誌の2011年10月8日号で、イランの関与の証拠は示されていないと反論している。イラン陰謀説をまき散らしているのは、対イランで超強硬な論調で知られる『ウォール・ストリート・ジャーナル』紙や、サウジ資本のアラビア語紙、その他である。 さて前記のドゥーリーは、「赤におびえる真珠広場(Red Scare in Pearl Square)」との同誌での論考で、バーレーンの民主化要求が内発的であると論じている。民主化要求が始まって以来の2回の現地調査を踏まえての議論である。タイトルの「赤におびえる」は、冷戦期に何があってもソ連の陰謀ではないかとアメリカが神経質になっていた時代を想起させるフレーズである。かつては世界で何が起こっても共産主義者の影を見ていたアメリカが、今や何を見てもイランの陰謀のせいだとしていると揶している。真珠広場は、もちろんバーレーンで民主化を要求する人々が占拠した広場の名前である。真珠という地名は、かつてバーレーンがペルシア湾の天然真珠の採取で栄えていた時代があったからである。ちなみにバーレーンの真珠産業は、第二次世界大戦前に日本の養殖真珠との競争によって壊滅的な打撃を受けた。その打撃からバーレーンを救ったのは、1932年のアラブ世界で初めての石油の発見であった。 民主化要求の先頭に立っているのは、欧米で教育を受けた層であり、イランとの関係はない。また立ち上がった民衆の間では、イランからの指示と支援を受ければ民主化運動が外国の手先との非難を受けることは、よく理解されている。バーレーン政府もサウジアラビア政府も、あるいはイランの関与を主張するメディアも、その証拠を何ら示していない。もし本当にイランの陰謀がバーレーンのデモの原因であれば、これだけの時間が経過しているのであるから、証拠が出てくるはずである。しかし、上記のように確固たる証拠は何ら示されていない。以上がドゥーリーの議論の要旨である。 付言すれば、伝統的にバーレーンのシーア派はイランの聖地コムではなく、イラクの聖地ナジャフの宗教界の指導に従ってきた。また同じシーア派ではあるが、揄ゆやバーレーン7石油・天然ガスレビューアメリカとイランの対立構造とアラブの春\造であるので、そもそも座りの悪い政治体制である。シーア派の不満は長年くすぶってきた。イランにそそのかされなくとも抗議に立ち上がる十分な理由がある。それは多数派でありながら、政治から排除されており、経済的な格差も存在するからでもある。しかしスンニー派は、少数派であるがゆえに民主化を受け入れ難い選択として見なしている。なぜならば、民主化は権力の喪失を意味するからである。 アメリカは民主化要求には理解を示しながら、何ら行動は起こさなかった。それはバーレーンにアメリカ海軍の基地があり、基地の維持のためにはバーレーンの現政権との良好な関係が必要だからだ。また重要な同盟国のサウジアラビアがバーレーンの現状維持を望んでいる以上、アメリカがバーレーンの大衆の民主化要求を積極的に支持するわけにはいかない。アメリカが掲げる民主主義、自由、人権、言論の自由などの理想は、国益の前に引っ込まざるを得なかった。イランの指導層は、ペルシア湾岸の反対側からアメリカの直面する矛盾に冷笑を送った。パキスタン跡であった。しかし、首はおろか、足跡さえも見失ってしまった。この大統領は、アフガニスタンではビンラーディンを見失い、イラクでは大量破壊兵器を発見できなかった。探しものは得意ではなかったようだ。 オバマ大統領は、前任のクリントンとブッシュの2人の大統領が成し得えなかったビンラーディンの殺害という目標を達成した。アメリカにとっての勝利であり、オバマにとっての大勝利であった。しかし大勝利には大きな代償が必要であった。その代償とは、アメリカ・パキスタン関係の緊張であった。ビンラーディンの隠れ場所がパキスタンの首都イスラマバードの郊外のアボタバードであったという事実が、パキスタンとアメリカの関係に大きな影を落とした。ISI(Inter-Services Intelligence統合情報部)と呼ばれるパキスタンの諜報当局が、ビンラーディンの居場所を知っていたのではないか、との疑問が誰の心にもわくからである。今後のアメリカ・パキスタン関係を難しくする事実であった。そしてアメリカはパキスタン政府から情報が漏れるのを懸念して、同国に通告せずにビンラーディン殺害作戦を敢行した。パキスタンから見れば明白な自国の主権の侵害である。 もしアメリカが疑っていたようにパキスタン当局がビンラーディンの居場所を知っていたとすれば、なぜアメリカに通告しなかったのだろうか。なぜパキスタンはアメリカの敵をかくまうような行為をしたのだろうか。恐らく、こうした疑問への解答の一部はパキスタン国家の抱える構造的な矛盾に起因しているのではないか。その矛盾とは何か。8そ イランの西、つまりアラブ世界でのアメリカ陣営の乱れを見た。イランの東でも同様にアメリカは難しい局面に直面している。パキスタン・アメリカ関係の齟が表面化してきたからである。その直接のきっかけは、アメリカ軍によるオサマ・ビンラーディンの殺害であった。 周知のように、そして冒頭で触れたように2011年5月アメリカは、パキスタンの首都イスラマバードの郊外のアボタバードという町に潜んでいたオサマ・ビンラーディンを特殊部隊を送って殺害した。この人物をお尋ね者にしたのは、アメリカに対するテロであった。2001年のアメリカ同時多発テロの前にも何件も目立ったテロが起きていた。その黒幕は、ビンラーディンであった。例えば1998年に発生したケニアとタンザニアのアメリカ大使館の爆破事件であった。当時のクリントン大統領は、ビンラーディンの居場所とされる地点に対して巡航ミサイルを発射した。しかし、ミサイルはビンラーディンに命中することはなかった。それ以上の手を打たなかったので、メディアの一部はクリントン大統領に巡航ミサイル大統領とのニックネームをった。モニカ・ルウィンスキー嬢とのスキャンダルらすためのが暴露されたころでもあり、世論の目を逸ミサイル攻撃との批判の声も一部では挙がった。 クリントン大統領が2期8年を務め終えると、今度は息子の方のブッシュ大統領がビンラーディンの追跡を担当する番となった。特に2001年のアメリカでの同時多発テロ以降は、その首に多額の懸賞金を懸け「生死にかかわらず」との西部劇並みのレトリックを使っての追齬ごそてまつ奉た2012.1 Vol.46 No.1アナリシスツのパキスタン三つのA 繰り返そう。ビンラーディン殺害の後味の悪さは何だろう。なぜパキスタンの首都イスラマバードから車で1時間の郊外に潜んでいたのだろうか。しかも隠れ家は、パキスタンの士官学校の敷地から目と鼻の先である。 そんな場所に、高い塀で囲まれた豪邸が100万ドルをかけてビンラーディンのために2005年に建設されたと伝えられている。当局が関与も関知もしていなかったとは信じ難い。パキスタンのISIの少なくとも一部は、この事実を知っていたのではないか。ビンラーディンに共鳴している勢力がパキスタン軍の中枢に存在しているのではないかと推測させる事実であった。既に述べたように今回の作戦をアメリカはパキスタン政府に事前に通告しなかった。なぜならば情報が漏れるのを懸念したからだ、と当時のCIA長官のレオン・パネッタはメディアに対して公然と発言した。アメリカはパキスタンを信用していない。実質上のアメリカの同盟国の軍部の中枢に反アメリカ勢力が存在するのだろうか。この国はどこを向いているのだろうか。 この国が、どの方向へ進むのかは、重大な問題である。パキスタンは核武装した唯一のイスラム国家であり、その人口は1億7,000万を超える。これは1億4,000万強のロシアの人口を上回っている。しかもロシアの人口が長期的な減少傾向にあるのに対し、パキスタンの人口は年率2%以上のスピードで増加している。この国がどちらを向くかで南アジアと西アジアは大きな影響を受ける。アメリカから軍事・経済援助を受けるパキスタンに、なぜアメリカの敵をかくまうような人々が存在するのだろうか。 パキスタンは二つの国から成っている。一つは上層階級のパキスタンである。人々は豊かで、英語に堪能で、子弟を旧宗主国のイギリスのオックスフォードやケンブリッジ大学に留学させる。これが、欧米を向いたリベラルなパキスタンである。 もう一つの国は貧しい宗教的なパキスタンである。こちらの国の方が広く人口も多い。しかも拡大している。こちらの国が、豊かなリベラルな国を圧倒する過程がパキスタンのターレバン化として知られる。なぜターレバン化が進んでいるのだろうか。その理由を解説する前に、パキスタン国家の骨組みについて語りたい。それが、ターレバン化の意味を理解する準備となるからである。 そもそもパキスタンはイスラムという宗教を建国理念として建設された国家である。インドと一緒にイギリスから独立すれば、イスラム教徒は少数派になってしまう。そこでヒンズー教徒が多数派のインドから分離した。しかし、独立後のパキスタンとインドはカシミールの領有を争い対立関係にある。その対立が激化し戦争にさえ発展した経験すらある。 人口でも国土面積でも圧倒的に大きなインドと対抗するために、まずパキスタンは強い軍隊を必要とした。軍は大きくなり、その大きな存在ゆえに、しばしばパキスタンの民主主義を窒息させた。軍は何度もクーデターで政権を掌握した。現在は、政治家が政府を構成しているが、その政府がパキスタンの全てを支配しているわけではない。軍は強い独立性を維持しており、安全保障問題に関しては、政治家の関与を拒絶する場合さえある。パキスタン国家が軍を保有しているのではなく、軍が国家を保有していると表現されるほどである。また、その軍のなかでも諜報機関のISIは、特別に影響力と独立性が強い。軍にISIが付属しているのではなく、ISIに軍が付属している。いずれも誇張された表現であるが、軍の独立性を、そして軍のなかでの諜報機関の存在感の大きさを反映した表現である。 その軍をインドと対抗するほどに強くするには、パキスタンは支援者を必要とした。それがアメリカであった。インドは、その圧倒的な力ゆえに同盟者を必要としな国に軍が付属しているのではなく、国に軍が付属しているのではなく、軍に国が付属しており、軍に国が付属しており、軍にISIが付属しているのではなく、軍にISIが付属しているのではなく、ISIに軍が付属している。ISIに軍が付属している。ISIArmy軍国出所:筆者作成図3パキスタンの権力関係9石油・天然ガスレビューアメリカとイランの対立構造とアラブの春Aッラーアッラー(Allah)(Allah)アーミーアーミー(Army)(Army)アメリカアメリカ(America)(America)出所:筆者作成図4パキスタンの三つのAく沢たかった。それゆえ非同盟主義の理想を高らかに掲げた。ぜいパキスタンには、そうした贅は許されなかった。アメリカの支援なしにはインドに対抗するだけの軍事力の育成は困難だったからである。 しばしば指摘されるように、こうしてパキスタンでは三つのAが重要になった。イスラム国家としてのアイデンティティーとしてのAllah(アッラー)のA、インドと対抗するための軍ArmyのA、そして軍を強くするためのアメリカの支援AmericaのAであった。 パキスタンという国家のイスラム色が強くなればなるほど、アッラーのAとアメリカのAがぶつかりやすくなってきた。そもそもパキスタンを建国した指導者たちはイスラム教徒ではあったが、穏健なイスラム教徒であった。建国の父ジンナーは、人前でハムを食べて見せたことで知られていた。豚肉をハラーム(禁忌)とするイスラム教徒の国の指導者がである。それほど軽やかにしかイスラムをまとっていなかった。ターレバン化 しかし、イスラムがだんだんと重くなってきた。これを先に触れたようにターレバン化という。その理由は多い。まず建国以来のインドとの対立である。ヒンズー教徒が多数派の国との戦争は、パキスタンのイスラム国家としてのアイデンティティーを深めずにはいなかった。またアラビア半島の産油国へ出稼ぎに行ったパキスタン人は、貯金ばかりでなく、より厳格なイスラムの教えを故国に持ち帰った。そして、サウジアラビアなど湾岸産油国の資金がパキスタンの宗教界に流れるようになると、これもパキスタンのイスラムを厳格な方向へと押す力となった。 さらに大きな影響を与えたのは、1979年から1989年まで続いたソ連軍のアフガニスタン占領であった。ソ連軍と戦うためにイスラムの聖戦士たちがイスラム世界せ参じた。パキスタンを基地に全体からパキスタンに馳アフガニスタンでの聖戦へと出撃した。イスラムのために命を捧げようというのであるから、急進的なイスラム教徒である。そうした人々がパキスタンに集結した。その1人がオサマ・ビンラーディンであった。パキスタンが自分の国を根拠地として隣の国で戦うゲリラたちの存在から影響を受けないはずがなかった。パキスタンのイスラムの急進化はさらに進んだ。は 特定の宗教を国家建設の理念としたもう一つの国家の歴史も、時間の流れとともに、宗教色が社会を染めていった実例である。もう一つの国家とは、イスラエルである。イスラエルを建国したシオニストたちは世俗的なユダヤ教徒であった。しかし、度重なるアラブ諸国との戦争を経て、現在のイスラエルでは非常に宗教的な人々の力が増してきている。ハムを食べたジンナーのパキスタンが本当のイスラム国家になったように、イスラエルもまたユダヤ教色の強い国家へと成長した。 イスラム的に急進化すると、パキスタンの外交の基本方針であるアメリカとの密接な関係の維持が困難になってくる。イスラム的に急進化すればするほど人々は反米感情を強く抱くようになるからである。明らかにアッラーのAとアメリカのAが、ぶつかり始めた。二つのAが衝突しているポイントが三つ目のAであるアーミーである。軍で両者がぶつかり合っている。軍はアメリカの援助を長年受けてきた。アメリカの影響は確かに存在する。しかし同時に軍におけるイスラム急進派の影響力の浸透を窺わせる状況証拠も多い。より具体的には軍の中枢である諜報機関の一部にイスラム主義者の影響力が浸透しているのではないか、と推測させる事件が起こるからである。パキスタンの士官学校の目の前にアメリカがうかが102012.1 Vol.46 No.1アナリシスヌうテロリストが隠れていたという事実は、最も明白な例である。しかし、唯一の例ではない。 軍は、その社会を反映する。社会がイスラム化すれば、軍もイスラム化せざるを得ない。パキスタンやイスラエルのように社会が宗教化すれば、軍の宗教化は避け難い。現にイスラエルでは、将校団に保守的なユダヤ教徒が増えていると報道されている。パキスタンでは、どうだろうか。ことに軍が下層階級出身者にとっての社会的な地位上昇の機会となっている場合には、パキスタンを建国したエリート層の世界観ではなく、より宗教的な庶民の世界観が、やがては将校団に反映されるようになるのではないか。建国以来60年以上という時の流れは、その「やがて」というには十分以上な時間ではなかっただろうか。 通常、軍は最も厳しい競争社会である。戦場での無能力は敗北と死を意味するからである。そこでは出身の家柄とか所属する階層ではなく、実力が評価の対象となる。アメリカで最初に人種差別を撤廃した組織の一つは軍であった。そして1990年代には黒人がトップに上り詰めていた。湾岸戦争時の制服組のトップである統合参謀本部議長は、黒人のコーリン・パウエルであった。パキスタン軍でも同じ力学が働いていれば、イスラム化した世界観が下から軍に染み込んでいるだろう。 パキスタンの諜報機関は、アフガニスタンでソ連軍と戦うゲリラを育て支援してきた。またカシミールの解放運動で戦うゲリラ組織も支援してきた。こうしたゲリラ組織は、一様に過激派の組織である。そして、こうした組織を支援していたISIの一部は、単にイスラム過激派を使ってきたというだけでなく、実はイスラム過激派と同じイデオロギーつまり世界観と歴史観を共有しているのではないか。そう疑わせるようなビンラーディンの隠れ家の場所であった。パキスタン国家全体で、そして軍の内部で、さらにはISIの内側で、アメリカとの関係とイスラムというアイデンティティーの間のバランスが揺らいでいるのが感じられる。なぜワシントンはパキスタンを見離さないのか? 何度も触れたように、ビンラーディンは、パキスタンの首都イスラマバードの郊外に潜伏していた。この事実にアメリカは同国への不信を強めた。パキスタンへの援助の再検討さえワシントンでは議論されるようになった。だが多くの専門家は、ワシントンがパキスタンを見離し切り捨てることはないだろうと考えている。理由は三つある。第1にアフガニスタン、第2に中国、第3にパキスタン自身である。順に説明しよう。 アフガニスタンに展開するアメリカ軍を中心とするNATO諸国の軍隊の補給は、パキスタン経由で行われている。兵器も燃料も食料も大半が陸路パキスタン経由でアフガニスタンへと流れている。空輸できる量は限られている。パキスタンの協力なしにはアフガニスタンでの戦争は戦えない。アフガニスタンからの撤退が完了した後でなければ、パキスタンとの関係は切れない。 第2の理由は、アメリカが手を引けば中国の影響力が増大するとの懸念である。対アメリカ関係の悪化を受けて、パキスタンが中国との密接な関係をアピールしている。ビンラーディン殺害後にパキスタン政府要人の北京詣でが続いた。アメリカ以外にも頼れる相手が存在する事実をワシントンに向けて発信しているわけだ。 そのパキスタンの中国カードのうちでも切り札的な存中国中国イランイランアフガニスタンアフガニスタンペルシア湾ペルシア湾パキスタンパキスタンホルムズ海峡ホルムズ海峡インドインドグワダル港グワダル港在がグワダル港である。中国がパキスタンの西部のグワダルに建設した港湾が稼働を始めている。イラン国境に近く、ペルシア湾の出入り口であるホルムズ海峡に近いグワダル港は、西アジアと東アジアの間の物流の経路を変えるだろう。グワダルから北に延びる道路がカラコルム・ハイウェーを通じて中国に至るからである。この道路沿いにパイプラインを建設すれば、ペルシア湾の原油や天然ガスを陸路で中国に運ぶことができるようになる。しかも中国はグワダルでの海軍基地の建設を視野に入れていると報道されている。実現すれば、ペルシア湾11石油・天然ガスレビューアメリカとイランの対立構造とアラブの春フ出入り口に中国海軍の艦艇が五星紅旗を掲げて常駐する事態となる。それは、この海域でのアメリカ海軍の覇権に対する挑戦へと発展する可能性のある展開である。アメリカはパキスタンに無関心ではいられない、と『アシア・タイムズ』の特派員のペペ・エスコバールが、2011年5月27日にアルジャジーラの英語放送で報道した。 これに対して、グワダル港の戦略的な価値に関して懐疑的なのが、『フォーリン・ポリシー』の2011年6月号に掲載されているウルミラ・ヴェヌゴパランの論文である。その議論は、グワダル港の第1段階の工事は完成したものの、その利用は限られている。一つには、他の都市と同港を結ぶ道路網が十分でないからである。第2に同港の存在するバローチスタン地域の治安が安定していないからである。中国人へのテロが発生している。また現段階では、中国はグワダルに海軍の艦艇を派遣する予定はない。グワダルの問題で、中国はアメリカを刺激することを避けようとしている。人民元の交換レートの問題など、米中間に山積する課題で北京政府は手いっぱいであり、グワダルの件でワシントンと事を構えるつもりはない。海軍基地うんぬんの話は、パキスタンがアメリカに対して大げさに主張しているだけで、実態は存在しない、とアルジャジーラとは対照的な解説を加えている。なお、バーレーンの項でも引用したが『フォーリン・ポリシー』はアメリカで出版されている外交専門誌である。 どちらが正しいのであろうか。筆者の考えでは、どちらも正しい。『フォーリン・ポリシー』論文は短期的な実情を詳細に捉えており、アルジャジーラの報道は長期的な可能性を論じているからである。いずれにしろ長期的に見て中国の影響力のパキスタンへの浸透は、アメリカが考慮せねばならない要因である。この問題を、もっと深刻に捉えているのはインドであろう。 最後に、このままパキスタンが破綻国家への道を転がり落ちていくのを、放置しておけるのかとの問題がある。パキスタンは普通の国家ではない。核保有国である。国家の枠組みが緩みターレバン的な勢力が核兵器のボタンに手をかける事態は阻止せねばならない。となれば、この国への援助を打ち切り、影響力を消滅させるべきではないとの議論はアメリカで根強い。こうした議論から出て来る結論は、アメリカは問題を抱えつつもパキスタンとの関係を維持せざるを得ない。アメリカ・パキスタン関係は、愛が残っていなくとも離婚のできない夫婦のような状況である。シリア革派の人々が大規模な抗議活動を展開した。「グリーン(緑の)運動」と呼ばれた改革派の動きであった。この動き自体は、体制側に押さえ込まれた。だが、その影響がアラブ世界に広がった。こちらは約2年のタイムラグしかなかった。つまり、この解釈によればアラブの春の源泉はイランの緑の運動に発していた。事実、イランにおける改革派の動きは1997年のハタミ大統領の当選以来アルジャジーラを筆頭とするメディアによって広くアラブ世界でも報道されてきた。1996年に開局したアルジャジーラを通じてアラブ世界はイランの政治に強い興味を示してきた。イランの改革派の動向は、アラブ世界に少なからぬ影響を及ぼしてきた。 アラブ世界とイランとの間に相互の影響を見る視点から、アラブの春がイランに跳ね返り、現体制を揺さぶるのではないかと期待している向きもある。またイランの体制は、それを懸念しているだろう。 こうした解釈が妥当であるかは別として、アラブの春はイランの外交関係に具体的な形で影響を与えている。12播ぱ エジプトの政変、トルコ・イスラエル関係の悪化、対パキスタン関係の悪化、いずれを見てもアメリカの陣営にとってはマイナスの展開であった。 それではアメリカと対立するイランは、アラブの春をどのように見つめてきたのだろうか。イランの体制にとっては、これは1979年にイランで成就したイスラム革命の影響の波及であった。イランに端を発した「イスである。イスラムの目ラムの目覚め」という現象の伝覚めとは、この宗教の持つ革命性にイスラム教徒が気づき立ち上がる現象を意味している。1979年から2011年までの32年間を要したものの、ようやくアラブ世界のイスラム教徒も覚醒しつつある。つまり、この解釈によればイラン発のイスラム革命が周辺に広がる過程がアラブの春である。 またイランの反体制派にとっては、アラブの春は2009年のイランの大統領選挙の後に発生した大規模な抗議活動の伝播である。アフマドネジャド大統領が再選された2009年の大統領選挙で不正があったとして、改でん2012.1 Vol.46 No.1アナリシスオてしまう可能性すら意味している。るからである。それは、シリア以東のイランの同盟者たえちが壊 春に始まったシリアでの大規模な抗議行動は冬に入っても終わる気配がない。厳しい弾圧にもかかわらず、抗議運動はシリア各地に広がっている。これほど長期にわたり抗議活動が続き、しかも、これほど各地に抗議活動が広がったという事実に、民衆の政権に対して抱く不満の強さが表れている。 政権側は2011年末までの複数政党制の選挙を約束するなど譲歩の姿勢を見せた。だが民衆側は弾圧による犠牲の大きさもあって、現政権の退陣という要求を引き下げようとはしていない。そもそも、アサド政権が信用できるとは思っていない。 同時に、これほど長い、これほど広範な抗議行動にもかかわらず、政権の倒れる気配はない。軍や治安当局に大規模な反乱の兆候はない。弾圧に主として動員されているのは、アラウィー派だけで構成される陸軍の第4師団などであると報道されている。軍の動向に政権が神経質になっているのが推測される。一方では政権には抗議活動を押さえ込む力はなく、他方では大衆には政権を倒す力はない。バース党政権と民衆の力いっぱいの綱引きが、しばらくは続きそうである。死しこの現象によってアメリカが受けたマイナスは、イランにとってのプラスである。例えばエジプトである。ムバラク後の新しい政権は直ちにイランとの国交回復へと動き始めた。かつて王制の時代は、イランのシャー(国王)とエジプトのサダト大統領は親密な関係を維持していた。革命後の1980年に亡命先で死亡したシャーがカイロのアルリファーイ・モスクに葬られたのは、象徴的である。シャーのイランとエジプトの関係が良好であったということは、シャーの体制を打倒して成立したイランの革命政権とエジプトの関係がよいはずはなかった。革命の起こった1979年にイランとエジプトは国交を断絶し、現在に至っている。エジプトの方向転換はイランにとってのプラスである。 しかしイランにとっても、アラブの春は手放しで喜べる状況ではない。それは民主化要求がイランの同盟国のシリアに波及したからである。シリアの動揺はイランにとっての大きなマイナスである。もしシリアのアラウィー派の支配体制が倒れるような事態になれば、イランは同盟国を失う。それはシリア経由でイランが支援を与えてきたレバノンのシーア派組織ヘズボッラーにとっても、またパレスチナのハマスにとっても重大な事態である。シリア経由では、もはやイランからの支援が届かなくなシリアとハマス イランを中心とするグループでの、このシリアの動揺の最初の犠牲者は、シリアとハマスの友好関係であった。シリアはイスラエルに対する圧力をかけるカードとしてハマスを支援してきた。ハマスの政治指導部は長年ダマスカスに本拠地を構えてきた。しかし、ハマスはスンニー派の組織である。エジプトのムスリム同胞団の影響を受けた組織である。そして現在のシリアでは反政府運動を行っているのは、人口の多数派である。つまりスンニー派である。同じスンニー派のハマスは、アラウィー派のシリア政府との友好関係の維持が難しくなった。シリア政府がハマスにアサド政権支持声明を出すように求め、これをハマスが拒絶したとの情報が流れている。アサド政権とハマスの関係の緊張を裏書きするかのように、2011年8月に海岸沿いのパレスチナ難民キャンプをシリア海軍が砲撃したとのニュースが流れた。またハマスの政治指導部がダマスカスからカイロへ本拠地を移すとの噂も絶えない。アサド体制 シリアの将来を展望する際に押さえておくべきポイントの一つは、その支配体制である。シリアのバース党独裁体制とは、宗教的な少数派のアラウィー派の支配体制の別名である。アサド独裁とはバシャール・アサド大統13石油・天然ガスレビューアメリカとイランの対立構造とアラブの春艪ヲんだけでなく全国各地で国民が反乱を起こしている状況である。兄弟間の争いはアサド家支配体制の命取りになりかねない。アサド家の兄弟の関係に注目が集まる所以である。 ここで話を進める前に、立ち止まって論じておきたいのは、いかにして少数派のアラウィー派が多数派のスンニー派を支配するようになったかである。伝統的にはシリアでは、多数派のスンニー派が優勢な時代が続いてきた。これが逆転するメカニズムを提供したのは軍であった。スンニー派に比べ貧しく十分な教育の機会を得られなかったアラウィーの若者たちを、授業料の要らない士官学校が引きつけた。やがて軍の内部でアラウィー派が影響力を拡大する。そして軍がクーデターで政権を支配するようになり、アラウィー派の支配体制が確立された。歴史を通じて貧しく少数派としての悲哀を味わってきた人々が、今度は多数派を支配する立場になった。大衆が求める民主化が意味するのは、アラウィー派の支配体制の終である。なぜならば、多数派はスンニー派であり、民主主義が数の原理で動くのならば、アラウィー派が権力を維持できる可能性は限りなくゼロに近いからである。あたかもフセイン後のイラクでの民主主義の導入が、多数派のシーア派の支配体制を生み出したように、シリアではスンニー派の政権が生まれるだろう。現在、シリアで実権と利権と暴力装置を独占しているアラウィー派が、民主主義を受け入れるだろうか。焉えしゅうん発砲するシリア軍少数派のアラウィー派の支配体制少数派のアラウィー派の支配体制多数派のスンニー派多数派のスンニー派出所:筆者作成図5シリアの支配体制14遽き領個人の手中への権力の集中ではない。アラウィー派支配の核心はアサド家と周辺の人々への権力の集中である。この体制が、民衆の大規模な民主化を求める抗議行動に直面している。その対応をめぐって体制内部で意見の対立があるとの見方が広がっている。具体的には、穏健なアプローチを志向するバシャール・アサド大統領と強硬な対応を主張する弟のマーヘル・アサドの間での綱引きである。 そもそもアサド家には4人の息子がいた。長男のバシールがハーフィズ・アサド前大統領の後継者と考えられていたが、1994年に交通事故で死亡した。ロンドンで眼ょきゅう科医としての教育を受けていた次男のバシャールが急帰国し、後継者として育てられた。そして2000年に父親のハーフェズが死亡すると大統領に就任した。激しい性格と伝えられる3歳年下の弟のマーヘルは、軍人として教育を受け、戦車部隊の指揮官を経験し、現在は軍の精鋭部隊である共和国防衛隊と第4師団の司令官の職にある。共和国防衛隊はアラウィー派の将兵のみで構成されている。そもそもシリア軍の将校団の大半がアラウィー派である。なお四男マジードは、つい最近病死している。マーヘルが代表するのは軍、そして数万人の要員を擁する治安当局の意向である。それゆえ、バシャール大統領も弟を軽視できない。抗議行動への対応が手ぬるいとしてクーデターを起こされる可能性も排除できない状況のようだ。2008年には親族によるバシャール大統領に対するクーデター未遂が報道されている。 住民の蜂起、そして兄弟のライバル関係は父親のハーフェズの時代にもあった。1982年にハマーという都市でムスリム同胞団が蜂起した際には、ハーフェズの弟のリファートの部隊がハマーを包囲し、砲撃し、部隊が突入して大量虐殺によって事態を鎮静化させた。 その2年後の1984年に、弟のリファートが自分の部隊を首都ダマスカスに進軍させる事件があった。兄のハーフェズが心臓病の発作を起こしたからである。しかし、回復したハーフェズも部隊を動員した。シリアは、兄弟による内戦の瀬戸際まで近づいた。この際にハーフェズが老いた母を弟のリファートの元に送り、そして自らが弟の軍営を訪れた。母の目の前での直談判で資産の海外持ち出しなどを認めて、弟を亡命させた。内戦は避けられた。 バシャールは、父親ハーフェズのようなカリスマ性や豪胆さは持ち合わせていない。また前回と違い、ハマー2012.1 Vol.46 No.1アナリシスo済制裁 さて、話をアサド体制の成立の過程から、現状へ戻そう。政治不安は、シリアの経済に深刻な影響を与えている。ワシントンにあるカーネギー財団中東センターのラフチェン・アチ研究員によると、2011年のシリアの経済成長率は3%と予測されていたが、政治不安の影響を受け、逆に少なくとも5%のマイナス成長となる。つまり5%の経済の縮小である。これでも超楽観的な予測だろう。実際には、もっと大幅に経済は縮小していよう。 例えばシリアの外貨収入で最大の稼ぎ頭は、観光である。雇用でも国内総生産でも、およそ1割を占める重要産業ではあるが、各国政府はシリアへの旅行の中止を勧告しているし、旅行会社はパッケージ・ツアーをキャンセルしている。厳しい状況のようだ。シリア政府は近年においては観光事業に巨額の投資を行ってインフラを整備し、観光客の誘致に成功していただけに、衝撃も大きいだろう。ちなみに、2008年には600万だった外国人訪問客が2010年は4割増しの850万にまで激増していた。この観光収入の大半が失われる。 もう一つの外貨収入の柱である石油輸出も打撃を受けている。世論の圧力を受け、2011年9月に入ってヨーロッパ諸国がシリア産の石油の輸入を禁止した。シリアの石油輸出の95%はEU向けなので、これは大きな打撃となるだろう。英国の『フィナンシャル・タイムズ』紙によれば、2009年の統計で輸出量は日量15万バレルほどに過ぎない。しかし、石油輸出からの収入は金額でシリアの輸出の3分の1を占めている。さらに当然のことながら外資の流入も止まっている。なお2011年初頭のデータではシリアの外貨準備高は170億ドルあった。これは通常の7カ月分の輸入代金に当たる。2011年3月からの混乱で外貨の獲得が難しくなってきているとすると、だんだんと底を突き始めるころだろうか。 こうして収入面での落ち込みが激しい反面、政府は国民をなだめるために公務員の給与の引き上げ、食料品や燃料代の値下げを進めた。その費用は国内総生産の2%と推定されている。収入が激減し、支出が増えているのであるから、シリア経済は火の車である。国民は預金の引き出しに、そして引き出した現金の外貨への交換に走っており、シリアの通貨であるリラの価値が下落している。 経済状況の悪化が続けば、シリア国民全体が生活水準の低下を経験するだろう。これまで比較的に平穏であったシリアの二大都市ダマスカスとアレッポの住民のアサド政権に対する支持も揺らぎかねない。親子2代にわたるアサド政権下で経済的に最も潤ってきた二大都市の商人層の動向が特に気になる。シリアは経済的に追い詰められつつある。 このピンチを切り抜ける手段は外国からの借金であるが、そう簡単に貸し手は見つからないだろう。助け舟を出せるのは、イランである。となると、シリアのアサド政権の将来を左右するのはイランの次の一手だろうか。そのイランを含む周辺諸国の対応を見ておこう。周辺諸国の目 追い詰められたアサド政権の頼みの綱はイランである。イランにとって同盟国シリアはレバノンのヘズボッラー、そしてパレスチナのハマスという二つの組織との橋である。シリアなくしては、イランの両組織への支援は困難である。この点については既述した。またイラン・イラク戦争でイランが孤立していた際に支援してくれたシリアに対する恩義もある。イランのイスラム政権は、シリアと先代の故ハーフェズ・アサド大統領の時代から2代30年以上にわたる同盟関係を維持してきた。シリアのアサド政権を見捨てるわけにはいかない。そうした議論がテヘランでは支配的だろう、という推測が少なくともイランの外では支配的であった。 事実、イランが何十億ドル単位の経済援助をシリアに既に与えている。またインターネットなどの管理の専門家を派遣した。あるいは、デモ隊監視用のカメラなどの機器を供与した。さらには、革命防衛隊を送り込んだ、といった内容の未確認情報が流されている。流しているのは主としてイスラエルとアメリカ筋である。確認でき15石油・天然ガスレビューアメリカとイランの対立構造とアラブの春驍フだろうか。あるいは、逆効果になるとして静観するのだろうか。 イランの同盟国シリアの混乱は、対立するスンニー派のサウジアラビアにとっても悪い展開ではない。シリアが内戦状況にでも陥れば、サウジの資金が反アサド勢力に流れるとの展開も予想される。シリアの一部は、既に湾岸アラブ産油国が、反政府勢力を援助していると主張している。なお同年10月、アラブ連盟がシリアにおけるデモ参加者の殺害を非難する声明を発した。また11月には、シリアの資格を一時的に停止した。 周辺諸国の不安は、アサド後のシリアが見えない点である。どのような勢力がシリアを支配するようになるのか、誰にもシナリオが描けない。シリアの混乱は当面はイランへの打撃である。しかし、その後が読めないのである。周辺諸国の期待と懸念のまなざしがシリアで交叉している。 長期的には、国際社会が果たすべき役割は、政権と大衆の和解の枠組みづくりである。少数派のアラウィー派の政権が、これほどまでに残虐な弾圧を行っている理由は何であろうか。多くの識者は恐怖心を挙げる。1970年代からのアサド家2代にわたる支配下で秘密警察による監視、逮捕、拷問などが日常的に行われてきた。また前々ページで紹介したように、1982年のハマーでのムスリム同胞団の蜂起の鎮圧の際には、シリア軍は1万人以上を虐殺した。シリア政府は国民の恨みをかってきた。 もし権力を手放せば、多数派のスンニー派に報復される。そうした恐怖心が政権を残虐な弾圧に駆り立ててきたという理解である。であるならば、事態の落とし所は、政権が倒れても、報復が起こらない、フセイン没落後のイラクで起こったような、バース党関係者の公職追放、軍や秘密警察の解体、関係者の年金の停止といった懲罰的な措置を伴わない、そうした民主化を国際社会が保障することで、シリアの改革を可能にすべきである。こうした議論である。 国際社会に対して、こうした枠組みの設定を求めるというのは、なかなか難しい注文である。また現在シリアで実権を握っている人々に、権力を手放しても身が安全であると納得してもらうのは、さらに難しそうである。2011年8月、エジプトではムバラク前大統領が病床に身を横たえたまま法廷に引き出された。恐らくアサド一族は、あの映像を見たであろう。アサド一族の結論は、大胆な改革ではなく虐殺の継続であった。蜂起したハマーにシリア軍の戦車部隊が突入した。16る情報を見ても、2011年7月にイランの最高指導者のハメネイ師が、アサド政権への支持を表明している。 だが、アサド政権に対して政治改革を求める声が、イランでも挙がり始めた。例えば同年8月末にアフマド・アヴァイ議員が、アサド政権への絶対的な支持に疑問を表明した。抗議運動は信仰深い人々による正統な行為であると主張し、少数派が多数派を支配する体制であるとシリアの情勢を分析した。この点は繰り返しになるが、シリアの政治体制は、12%のアラウィー派が多数派のスンニー派を支配する構造である。また9月に入るとアフマドネジャド大統領が「軍事的解決は正しい解決ではない」と、やんわりとアサド政権を批判した。 こうした微妙な変化は何を意味するのだろうか。イランがアサドを見限ったと判断するのは、まだ尚早であろう。リスク分散がイラン外交のパターンである。アフガニスタンを見ると、カブールのカルザイ政権を支援しつつ、地方の軍閥とも密接な関係を維持している。イラクに対しても、やはりバクダッドのマレキ政権との友好関係を強調しながらも、政権に批判的なサドル師にも支援を与えているし、北部のクルド人とも浅からぬ関係を維持している。こうしたパターンから判断すると、イランはシリアに関してもリスクの分散を図り始めたと見ることもできよう。あるいは、最高指導者と大統領の見解の相違が表面化したとの解釈も可能かもしれない。イランは、一枚岩ではなく、それなりの「民主国家」であり、多様な人々がいろいろな発言をする。 シリアが一枚岩である限り、イランのリスク分散型の外交は可能でも必要でもなかった。しかしアサド政権の国内掌握度の低下を受けて、イラン外交の王道が浮上してきたのであろうか。シリアの騒乱状況に対して、どう向き合うのか。各国が直面している問題である。イランも、この問題を真 イランの動きに微妙な揺らぎが見える。それでは、そのイランと敵対し、シリアと国境を接するイスラエルは、どう対応しているのだろうか。イスラエルの『ハーレツ』紙が2011年5月7日に伝えたところによると、前モサド長官のメイア・ダガンが、アサド政権の没落はイスラエルの国益に合致すると発言している。イスラエルのエフード・バラク国防相も、同じ立場を表明している。イスラエルは、どう動くのだろうか。ユダヤ人国家は、かそぐために占領つてPLO(パレスチナ解放機構)の力を削地でのムスリム同胞団の成長を支援した。現在のハマスの母体となった組織である。この点は前にも言及した。同じように、何らかの形でシリアの反政府勢力に加担すに議論し始めたようだ。摯ししん2012.1 Vol.46 No.1アナリシス@住民による武装抵抗の開始を傍証するかのように、翌6月1日付の同紙によると、バグダッドを訪問中のシリアのムアッリム外相が、イラクに対して武装集団が同国からシリアに流入しないように協力を要請した。かつてはシリアを拠点とする武装勢力がイラクに侵入し、同国の治安を悪化させていたが、状況が「逆転」したようだ。シリアは次第に内戦状況へと滑り落ち始めているのだろうか。内戦の風景は、2006年から2007年までの内戦ほう状態のイラクを彷させるものとなるかもしれない。この時期のイラクではシリアから侵入するジハーディストにアメリカ軍が手を焼いた。しかし、今度はシリア政府がイラクを拠点にする反政府ゲリラの侵入に苦慮することになるだろう。彿ふつ武装闘争へ こうした内外情勢を踏まえて将来を展望すると、見えてくる風景は血塗られている。やがては大衆が武器を取り、平和的な抗議行動が武装闘争へと転化するだろう。2011年5月31日付の『アルハヤート』紙が伝えたところによると、中部の村々でシリアの民間人が、機関銃やロケット弾などを使って抵抗を始め、治安当局側にも多数の死傷者が出た。 同年3月に始まったシリアにおける抗議行動は、基本的には撃たれても撃たれても非武装でのデモを続け、兵士や警察官にデモ隊の側に寝返るように呼びかけるものであった。しかし、政府の容赦ない弾圧を受けて住民側が、ついに武器を使い始めたのだろうか。武器はレバノンやイラクから持ち込まれている、と『アルハヤート』紙は伝えている。同紙は武器の密輸入が数年前に始まっていたとも解説している。リビア シリアより1カ月早い2011年2月に民衆の抗議行動が発生したリビアでは、8月に首都トリポリが反政府側の手に落ち、10月には独裁者のカダフィが殺害されて、新たな体制が誕生した。リビアは、アメリカとイランの対立というドラマの主要な登場人物でもないし、舞台でもない。しかし、リビアのカダフィ体制の没落から、他の国々のアラブの春の参加者は、それぞれの教訓を学ぶだろう。恐らく一方で体制側は没落の意味を熟思し、そして他方で反体制側は平和的な抗議行動の限界を熟視しただろう。ここでリビアにおける独裁体制の崩壊とカダフィの死亡の意味を論じる前に、リビアと欧米諸国との関係を振り返っておこう。 リビアはイラク戦争の正当化の根拠の一つであった。2003年のイラク戦争によってフセインの独裁体制が打倒された後に、カダフィが米英と取引を行ったからだ。リビアは、大量破壊兵器開発計画の放棄、その全貌の公開、1988年のスコットランドのロカビー上空での民間航空機爆破事件のリビア人容疑者の引き渡し、同事件の犠牲者の家族への補償などの一連の措置を取った。これで、カダフィは依然として風変わりな独裁者だったが、もはや危険ではなくなった。 なぜリビアは大量破壊兵器の製造計画を放棄したのだろうか。それは、イラクのフセイン体制が大量破壊兵器の「秘匿」を理由に攻撃され打倒されるのを見たからである。つまりリビアの大量破壊兵器の放棄は、米英のイラク戦争の成果である、との解釈がアメリカのブッシュ息子大統領とイギリスのブレア首相によって強調された。イラク戦争はフセインという1人の独裁者を倒したばかりでなく、カダフィという、もう1人の独裁者の牙を抜いた。世界は、より安全になった、というわけだ。 リビアの譲歩には、ついでにボーナスもついてきた。リビアの核兵器製造の計画にカーン博士の関与が浮かび上がってきたからだ。パキスタンの原爆の父とされるカーン博士が、核開発に必要なノウハウや機材などの調達を請け負う闇のネットワークの中心人物となっていた。このカーン博士のネットワークのイランの核開発へのつながりも明らかになった。リビアの譲歩を受けて、米英は、それまで孤立していたリビアの国際社会への復帰を認めた。そして、リビアの石油産業へ米英の資本が参入した。 この一連の取引により、米英はカダフィ体制の存続を保証した。つまり独裁の継続を認めた。その意味は、カ17石油・天然ガスレビューアメリカとイランの対立構造とアラブの春_フィの息子のセイフ・イスラムへの権力の世襲であった。実は、これこそがカダフィが軟化した理由であると信じられていた。つまり、リビアの「カダフィ王朝」が安全な「北朝鮮」として米英に認められた。しかも、この北朝鮮は豊かな石油資源に恵まれており、米英の石油会社を儲けさせてくれる。カダフィ一族にとっても、米英政府にとっても、そして石油会社にとっても幸福な共存関係が始まった。 カダフィがクーデターで政権を握ったのは、1969年ひかれながらも、欧米はカダであった。リビアの石油に惹フィの体制と摩擦を繰り返してきた。そして21世紀に入って、やっと安定した共存関係が始まった。欧米にとってカダフィは付き合える独裁者に変身した。庶民の言葉を使えば、カダフィが「やくざ」から「かたぎ」になった。 しかし、この幸福な同棲関係を終わらせたのは、唯一不幸であったリビア国民であった。カダフィの独裁下で苦しみ続け、さらに息子による独裁を押し付けられるはずの人々であった。この人たちの6カ月にわたる反乱により、8月にリビアの首都トリポリがカダフィの支配から解放された。そして10月にはカダフィ自身が殺害されて、カダフィ王朝は終わりを迎えた。既に見たように、同棲関係で潤った欧米は、今度はNATO軍としてカダフィの打倒に協力し、反対側のドアからリビアに戻ってきた。シルトからシリアへ反カダフィ派の間で銃撃戦が始まり、その過程で右腕と頭に弾丸が命中してカダフィは死亡した。その真偽は確認できない。反カダフィ派の兵士が射殺したとの説も流れている。 ここで問題にしたいのは、カダフィの脱出を阻止したNATO軍の空からの攻撃である。NATO軍のリビア介入の法的な枠組みとなったのは、2011年3月に成立した国連安保理決議1973号である。この決議は、リビアの民間人の保護を求め、そのための必要な行動を国連加盟国に認めている。しかし、実際の介入は、単に民間人を保護するというにとどまらなかった。NATO軍は、カダフィ政権の転覆まで爆撃を続けた。そしてカダフィ自身をも負傷させた。これが安保理決議の求めている民間人の保護であろうか。政権転覆が、人道的な介入であろうか。モスクワや北京から見れば、NATO軍の作戦行動は、国連安保理決議の枠組みを、はみ出したのではないだろうか。それも大幅に。さ この決議を拒否権で葬らなかったロシアと中国は騙れたという感情を抱いているのではないか。両国ともにカダフィの軍隊によってベンガジの反カダフィ勢力と民間人が「ネズミ」のように虐殺されるのを阻止するために、外国軍による介入を支持した。正確に表現すれば、投票を棄権し安保理決議の成立を妨げなかった。ところが結果は、政権の転覆であり、独裁者の殺害であった。ロシアが今後この種の決議に賛成するとは考えにくい。しかも現実主義外交で知られるプーチンが2012年3月に大統領として復帰するとすれば、今回のリビアへの軍だま18ふっょく拭し さて生まれ故郷の都市シルトでのカダフィ殺害の意味は何か。第1にリビアの内戦状況の長期化が阻止された。第2に今回のような国連安保理の決議に基づいての外国軍隊の介入というのは、これが最後になるのではないか。第3に独裁者の最後の映像は、現在も独裁政権と民衆が力いっぱいにわたり合っている国々の状況を、さらに厳しくするのではないだろうか。 リビア北部の地中海沿岸の都市シルトでのカダフィの死亡は、親カダフィ勢力による抵抗運動の継続と内戦状態の長期化の懸念を、ある程度まで払した。シルト守備軍の抵抗の激しさから、カダフィの息子などの大物が潜んでいるとは推測されていたものの、カダフィ自身は、既に南部の砂漠地帯に逃れているのではないかと考えられていた。そして、そこで支持者を結集して反攻に転じるのではないか、そして長期にわたるゲリラ戦を開始するのではないかと懸念されていた。それが反カダフィ勢力にとっては、最悪のシナリオであった。それゆえカダフィのシルトでの死亡に、新しい政権側は驚きつつ安堵した。もちろんカダフィの率いるゲリラとの長期戦が避けられたということが、そのままリビアの安定を保障するものではない。カダフィ以外の諸勢力の利害の調整という困難な課題が残されている。 シルトから脱出しようとしたカダフィの車列がNATO軍の空からの攻撃を受けた。カダフィは脱出を断念し、排水管に隠れていた。しかし発見され、拘束された。反カダフィ勢力の説明によれば、シルトからミスラタにカダフィを移送しようとしたが、親カダフィ派と2012.1 Vol.46 No.1アナリシス哩贒?ェ、少なくとも当分は、国連の錦の御旗の下での外国軍の内政干渉の最後になるだろう。 最後に、カダフィの哀れな末路のインパクトである。その映像を、現在も独裁政権にしがみついている中東の指導者たちも、見たであろう。権力の喪失は、政治的な生命ばかりでなく物理的な生命をも危険にさらす。独裁者たちは、徹底的に戦い抜く決意を固めたのではないだろうか。また民衆の方も、一般の市民も参加したボランティアの軍隊がカダフィ政権を打倒するのを目の当たりにした。平和的な抗議活動ではなく、武装闘争こそが独裁政権打倒の道であるとのメッセージを受け取ったのではないだろうか。これは、やがては平和的な民主化運動を武力闘争に変えるのだろうか。一方で独裁者たちは姿勢をかたくなにし、他方で市民は武装闘争へと傾いている。双方が決意を固めている。そして内戦の風景が見えてきた。特にシリアの状況は、いっそう厳しくなるだろう。シルトでのカダフィ死亡のシリアにとっての意味である。1973年から1973号へ リビアの議論を締めくくる前に、42年にもわたって続いたカダフィ独裁の残したものを考えておきたい。端的に言って人類は全てカダフィの影で生きている。それはカダフィが石油の高価格の時代を開き、その時代が現在まで続いているからである。カダフィの歴史的な評価に関して言えば、その他は全てマイナーな問題に過ぎない。 1969年にクーデターで政権を奪取したカダフィは、唯一の外貨収入源とも言うべき石油収入の増加を狙った。1960年代は石油価格の低迷した時代であった。そこでは、欧米のセブン・シスターズとよばれる七つの石油会社(メジャーズ)が圧倒的な支配力を石油市場で発揮していた。 しかし1960年代末から石油市場の状況はリビアに有利に傾き始めていた。まず1967年の第三次中東戦争があった。この戦争はイスラエルの圧勝に終わった。イスラエルがエジプトからシナイ半島を奪った。その結果、スエズ運河の東側までをイスラエルが支配し、スエズ運河を挟んでエジプトとイスラエルが向かい合うようになった。ここが最前線になり、両国間での武力衝突が頻発した。なんとか本格的な戦争には発展しなかったが、平和ではなかった。1967年の戦争以降、スエズ運河は閉鎖されたままであった。ペルシア湾岸の石油をヨーロッパに運ぶのに、アフリカの南端の喜望峰周りを利用するしかなかった。余分な距離を走るタンカーの燃料代だけでも大変な負担であった。タンカーの運賃が高騰した。 しかも1970年5月、サウジアラビアの油田とレバノンを結ぶパイプラインが切断された。このパイプラインはTAP(トランス・アラビアン・パイプライン)と呼ばれており、日量50万バレルの石油を、サウジアラビアからレバノンまで、つまりペルシア湾岸から地中海まで運んでいた。中東情勢の悪化を背景とした事件であった。これが、またしてもタンカー運賃のさらなる高騰を引き起こした。運賃は3倍になった。 スエズ運河の閉鎖、そしてTAPの切断はペルシア湾岸の原油をヨーロッパやアメリカに運ぶのを、難しくした。その分だけ、リビアの石油の価値が上がった。ヨーロッパと目と鼻の先にあるリビアからなら石油の輸送コストが安いからである。しかもリビア原油は硫黄分が少なく燃やした際に空気を汚さない。石油業界ではリビア原油をスィート(甘い)と呼ぶ。リビアの石油は、石油会社にとっては利益を生む黒い甘い汁であった。 そうした状況を背景にカダフィ政権は、リビアで石油を生産していた外国の石油会社と交渉に入った。リビアの石油会社への要求は税率の5%引き上げ、さらに石油価格の1バレルあたり30セントから40セントの値上げであった。1973年の第1次石油危機の前の感覚では、法外な大幅な値上げ要求であった。リビアでは幾つかの石油会社が操業していた。当時、世界の石油会社は二つに分類されていた。既に紹介したセブン・シスターズと呼ばれる超巨大企業群と独立系(インディペンデント)である。前者は、国際石油資本とも呼ばれ、カルテルを結成し世界規模で生産と販売を調整して価格を操っていた。後者は、その枠外で活動をしていた。リビアでは国際石油資本と独立系の両者が操業していた。リビア政府の要求を受けても国際石油資本は、応じようとはしなかった。たとえ交渉が決裂してリビアでの原油生産が止19石油・天然ガスレビューアメリカとイランの対立構造とアラブの春ワっても、リビア以外での石油生産を増大させて、その分を埋め合わせる力を持っていたからだ。またリビアでの原油価格の値上げは世界全体での原油価格の値上がりを意味する。国際石油資本は、カダフィ政権の要求を受け入れようとはしなかった。 だが、リビアで操業していた独立系のオクシデンタル社は違った。リビアでの石油生産を止められれば、他の諸国に生産余力を持っているわけではなかったので、たちまち販売する石油がなくなってしまう。オクシデンタル社は国際石油資本に「リビア政府との交渉が決裂し、油田が国有化されたりして同社がリビアで石油を生産できなくなった場合には、他の諸国でセブン・シスターズが生産する原油を回してもらえるか」と支援を打診した。 セブン・シスターズの目には、独立系のオクシデンタルは、可愛げのない会社と映っていた。というのは、リビア以外に大きな油田を保有していないので、同社は、国際的な価格には無頓着にリビアでの生産を急増させていたからである。国際石油資本は、オクシデンタルの依頼を拒絶した。オクシデンタルは、やむなくリビア政府の要求を受け入れ、石油価格の値上げと税率の引き上げに同意した。1970年9月のことであった。これがOPEC(石油輸出国機構)の攻勢の第1弾であった。1960年代が石油価格の低迷の10年であったとすれば、1970年代は石油価格の高騰の10年となった。 翌1971年にはリビアなどの産油国は、再び石油価格の大幅な値上げに成功した。価格が1バレル2ドル台から3ドル台へと1ドルも上昇した。そして1973年の第四次中東戦争の混乱のなかで価格は4倍になった。世界は石油高価格時代に入った。カダフィの開いた新しい時代であった。そして人類は依然として、その時代に暮らしている。カダフィという人物は1973という数字に縁がある。石油会社との闘争での勝利を象徴するのが1973年の第1次石油危機であった。そして、その没落の背景となったのは、国連安保理決議1973号だった。時代の終わりの始まり これまで述べてきたように、アラブの春以降の展開は、アメリカとイランを両極とする二つの陣営の両方を激しく揺さぶった。一方で、パキスタンとの対立、エジプトの方向転換などの問題にアメリカは直面している。他方で、イランを中心とするグループも同様に重大な危機に瀕している。それは、まずハマスとシリアの対立であり、またイランとシリアの同盟関係の崩壊の危機である。さらには、ハマスとヘズボッラーに対するイランの影響力の大幅な低下の可能性である。どちらの陣営もアラブの春が引き起こした嵐に大きく揺らいでいる。この嵐が通り過ぎた後には、これまでとは違った風景が姿を現すのだろうか。アメリカやイランが同盟関係を維持してきたアラブの独裁政権の動揺と崩壊は、両者の対立が中東を規定していた一つの時代の終わりの始まりを示唆しているのだろうか。新しい時代の方向を決めるのは、最大の現状変更勢力として姿を現した民衆であろう。嵐のなかでの思いである。202012.1 Vol.46 No.1アナリシスN18世紀1928年1932年1948年1949年1967年1979年1980~1988年1981年1990~1991年1989~1993年1989~1997年1993~2001年1996年1997~2005年1998年1999年2000年2001~2009年2001年2002年2003年2005年2006年2008年2009年2010年2011年2012年2014年末月3月5月2月6月11月12月10月9月10月1月12月1月12月5月1月2月3月5月6月7月8月9月10月11月12月3月主な出来事ハリーファ一族、バーレーンを征服ムスリム同胞団結成ムバラク誕生バーレーンで石油発見イスラエル建国トルコ、イスラエルを承認第三次中東戦争イランで革命政権樹立イラン、エジプトと国交を断絶テヘランでアメリカ大使館が占拠されるメッカで大モスクが占拠されるソ連軍、アフガニスタンへ侵攻イラン・イラク戦争イスラエル、イラクの原子炉を爆撃湾岸危機・戦争ブッシュ父大統領ラフサンジャーニー大統領クリントン大統領アルジャジーラ放送開始ハタミ大統領トルコ軍、シリア国境に展開PKKのオジャランを拘束バシャール・アサドがシリアの大統領にブッシュ息子大統領アメリカ同時多発テロアフガン戦争開戦ブッシュ息子大統領、議会演説でイラン、イラク、北朝鮮を「悪の枢軸」と非難イラク戦争アフマドネジャドが大統領に就任パレスチナ選挙、ハマスの勝利イスラエル軍、ガザへ侵攻オバマ大統領就任オバマ大統領、アフガニスタンへのアメリカ軍の増派を発表ガザに向かう救助船をイスラエル軍が阻止チュニジアで政変エジプトで政変リビアで民主化運動始まるシリア、バーレーンで民主化運動始まる。リビアへの軍事介入を容認する安保理決議1973号成立ビンラーディン殺害アメリカ軍、アフガニスタンからの撤退開始を発表イランの最高指導者ハメネイ師、アサド政権支持を表明シリアでの弾圧を非難する国連安保理の議長声明ムバラク、裁判所に白衣で檻に入って出廷リビアの首都トリポリ陥落イランのアヴァイ議員、アサド政権支持に疑問を表明トルコ、イスラエル大使を追放EU、シリア石油の輸入を禁止カイロのイスラエル大使館が襲われるパレスチナ、国連への加盟申請駐アメリカ・サウジアラビア大使の「暗殺計画発覚」ハマスとイスラエル、人質を交換カダフィ殺害チュニジアの選挙でイスラム系政党が勝利アラブ連盟、シリアの資格を一時的に停止アメリカ軍、イラクからの撤退完了(予定)ロシア大統領選挙(予定)アメリカ軍、治安権限をアフガニスタン政府軍に委譲(予定)21石油・天然ガスレビューアメリカとイランの対立構造とアラブの春キ筆者紹介高橋 和夫(たかはし かずお)学歴:大阪外国語大学ペルシア語科卒 米国コロンビア大学国際関係論修士職歴:クウェート大学客員研究員などを経て放送大学教員趣味:スカッシュ、短歌近況:中東で次々と起こる独裁政権の没落に世の無常を覚えている。もっと強く世の無常を感じたのは、母校の大阪外国語大学が大 阪大学に吸収合併されてなくなったこと。しかし、それよりも人生で寂しかったのは、西鉄ライオンズが西武ライオンズになったこと。九州人としては、邪馬台国近畿説は許せても、これはつらかった。しかも、かつての西鉄のライバルの南海が福岡ソフトバンクホークスとして九州の球団になっている。最近は本当に何が何だか分からなくなった。中東情勢よりも入り組んできた。そろそろ引退の時期だろうか。222012.1 Vol.46 No.1アナリシス |
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