ページ番号1006485 更新日 平成30年2月16日

疾走する中央アジア・カザフスタン

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レポートID 1006485
作成日 2012-11-20 01:00:00 +0900
更新日 2018-02-16 10:50:18 +0900
公開フラグ 1
媒体 石油・天然ガスレビュー
分野 基礎情報探鉱開発
著者
著者直接入力 白鳥 智裕
年度 2012
Vol 46
No 6
ページ数
抽出データ JOGMEC総務部白鳥 智裕疾走する中央アジア・カザフスタンはじめに 筆者は、2009年7月から2012年7月まで、在カザフスタン日本国大使館の経済・経済協力班で勤務する機会を得た。 赴任前、カザフスタンについてよく知っていたわけではない。日本を出発する前に最も強い印象を受けた同国を含めたこの地域を指し示す言葉は、「中央アジアを知る辞典」(平凡社)に記載されていた「1991年のソ連解体後、広大な中央ユーラシア地域が私たちの目の前に姿を現してきた……」という文章であった。文字どおり、旧ソ連時代、その一部地域であった中央アジアがその姿を見せ、多様多彩な社会・民族・文化が出現していた。そのなかでもカザフスタンは最も経済的・社会的に安定しており、資源国であることからもこのところ国際社会の注目を浴び、その存在感は大きくなってきている。 本稿では、在カザフスタン日本国大使館での勤務体験を基に、そこで見聞きし、体験したことを紹介する。1. 歴史 紀元前3世紀頃から、現在のカザフスタンの地域に最初の草原帝国が出現し、6世紀から8世紀の間にテュルク系民族による国家が興亡を繰り返した。カザフスタン人は、その多くがイスラムであるが、この時期から広まっロシアロシアモンゴルモンゴルウズベキスタンウズベキスタンキルギスキルギス中国中国出所:筆者作成図ユーラシア大陸の中央に位置するカザフスタン(都市名は、筆者の主な訪問地)出所:筆者撮影出所:筆者撮影写1アスタナ市中心に掲げられる国旗写2アスタナ市の象徴バイテレクタワーから見た大統領府85石油・天然ガスレビュー エッセー中華人民共和国中華人民共和国カザフスタンカザフスタンカザフスタンロシアロシアアスタナアスタナアティラウアティラウアクトベアクトベアラルアラルアクタウアクタウアルマティアルマティアラル海アラル海シムケントシムケントクズィルオルダクズィルオルダクルチャトフクルチャトフセメイセメイウスチカメノゴルスクウスチカメノゴルスクカラガンダカラガンダトいたようである。その後、モンゴルなども含めた周辺民族の侵入などを経て、モンゴル帝国の流れを組む族遊放政推を起源としてカザフ・ハン国が興り、現在のカザフスタンの地に広がり、16世紀初めまでにカザフ民族が形成されたらしい。18世紀初めまでにカザフ民族は、主として、大ジュズ、中ジュズ、小ジュズの3部族に分かれていた。この3部族のいずれに属するかについては、現在でもカザフ人同士お互いに探る様子である。 大ジュズに系譜を持つナザルバエフ大統領は、大ジュズ出身のカザフ人で主な側近を固めているとも聞いた。大ジュズはチンギスハンの系譜に連なるから格が違うと聞いたこともあるが、改めていくつかの資料に当たってみたところ、大ジュズだから別格であるといったことはないようである。しかし、大ジュズは大統領のほかに政治家を多く輩出し、伝統文化やイスラムの文化が残ったとのこと。現在では、顔つきや、氏名等からは、どの部族出身かを判別することや、国内で移動を繰り返すので、出身地からも判別するのは難しい。 カザフスタン全域がロシアに編入されたのは、1860年代。その後、旧ソ連時代にカザフ自治ソビエト社会主義共和国が樹立され、ソビエト連邦の共産党政権のコントロール下に置かれた。 旧ソ連の崩壊とともにカザフスタンは、1991年12月16日、独立した。ナザルバエフ氏はソ連カザフスタン共和国であった1989年6月にカザフ共産党第1書記、1990年4月にカザフ共和国大統領に就任し、その後の独立以降も大統領として20年以上同国を統治している。2. ナザルバエフ大統領 ナザルバエフ大統領は、1940年7月6日に誕生し、1989年6月にカザフ共産党中央委員会第1書記に就任した。その後、カザフスタンが独立する直前にカザフスタン共和国大統領に選出された。それ以前の1984年には、カザフ・ソビエト社会主義共和国首相も経験しているので、独立以前より同国のトップとしての地歩を固めてきたと言える。 同大統領の政治手腕として、そのバランス外交が高く評価されている。中央アジアに位置しているため、他の中央アジア諸国と適切な関係を結ばなければならず、また、隣国にロシア、中国という大国が存在しており、米国、欧州とも適度な関係を保たなければならないからだ。しかし、ナザルバエフ大統領のバランス感覚は、それだけではない。国内では、カザフ民族を中心にロシア系カザフスタン人、ウズベク系カザフスタン人、ウクライナ系カザフスタン人など130にも及ぶ民族をまとめていかなければならないからだ。 宗教面においても、カザフスタン人は多くがイスラムであるが、キリスト教等ほかの教徒もいる。このような、さまざまな分野で相互の利益関係等で衝突するかもしれないものを見事に均衡を保たせていると言える。1997年にアルマティからアスタナに遷都したが、アスタナを遷都先として選定した理由は諸説ある。その一つとして、英国人が大統領や側近に直接インタビューして執筆した書籍Nazarbaev and the Making of Kazakhstan(Continuum Intl Pub Group)によれば、周囲を取り巻く外国、都市部からそれぞれある一定の距離をとることを遷都の理由として示していた。 20年以上、大統領としての地位を維持しており、また、政府高官レベル出所:筆者撮影写3アスタナ(首都)の日(7月6日)に国旗の前で演説するナザルバエフ大統領しいたで起きる政治的な思惑をめぐる排斥や登用を除いて、欧米の人権関係の団体等から、カザフスタンはナザルバエフげら大統領による独裁国家であり、虐れている人々がいるといった理由でしばしば非難されているのも事実である。実際、そのような話も聞くことはあるし、現在のカザフスタンの体制に批判的な人々もいるとはいえ、ナザルバエフ大統領は強力なカリスマ性を持って独立後の混乱期から現在に至るまで国を造ってきた。独裁国家というと、自由な言論や活動が制限され、横暴な官憲、特に政治的な話題は避けるといったイメージがある。しかし大統領は国民に対して十分配慮して国家運営を行っていることは実感できるので、国際社会が批判するような独裁国家の印象はなかった。ただし、初代大統領(つまり、ナザルバエフ大統領)のみが無期限に大統領でいられること、大統領選挙や議員選挙では圧倒的にナザルバエフ大統領と彼の所属するヌル・オタン党が圧倒的な勝利をつかむこと等から、独裁的と判断されるのか862012.11 Vol.46 No.6エッセー塔uル州などは、同GDPが58万900テンゲ(約3,962ドル)と非常に低い。また、GDPが高い州においても、都市部を離れると草原が広がり、主に畜産業等に限られてしまうため、地方経済が国全体に見合って高いとは言えない。ただし、各州のGDPの動きを見ると近年では少しずつ上昇しているようだ。 西カザフスタン州などの石油生産を行う州のGDPは高いと上述したが、カザフスタンの経済を支えているのは石油である。もともと、同国に参入した企業は、まず初めに欧米の石油会社で、それを追うようにして、コンサルティング企業や会計事務所などが参入してきた。更にこれらの企業等の後を追って、製造業などの他の業種が参入してきている。また、石油生産から得られた国家収入をもって、他の産業に投資することができるので、後述する経済政策の柱である経済・産業の多角化を実際に実施するためにも、石油生産による収入が支えとなる。 2007年に始まった世界的な金融危機のなかで、カザフスタンの金融分野は、国内銀行の不良債権の増大、国際社会からの信頼を失う等の大打撃を受けた。銀行等の金融分野が脆であったことも露呈した。幸いなことに石油等の資源価格の高騰により、同国経済は崩壊から免れた(ちなみに2008年のGDP成長率は3.3%、2009年は1.2%であった)。しかし、この危機を教訓として、カザフスタンは金融など実体のない経済ではなく、交通インフラ、情報通信網の整備、製造業、中小企業の活性化等といった実体経済を振興する経済政策の強化に努めた。筆者が、赴任した当初、その国の経済が活性化していることの目安の一つは、建築部門が活発に動いていることだと教えられた。赴任当時の2009年は、アスタナ市内の建築業がほとんど動いていないような状態だった。しかし、1年経弱じぜいゃく表主要な経済指標(特記ない限り、2011年)人口面積GDP1人あたりGDP国家予算(2012年)輸入総額(ロシア・ベラルーシを除く)輸出総額(ロシア・ベラルーシを除く)外国からの投資額鉱工業生産額石油生産量ガスコンデンセート生産量ガス生産量ウラン生産量(世界第1位)石炭生産量鉄鉱石生産量合金鉄生産量粗鋼生産量ボーキサイト鉱石生産量アルミニウム生産量電解銅生産量出所:カザフスタン統計庁、同中央銀行等1,681万5千人(2012年8月1日現在。日本の9分の1程度)2,724,900km2(日本の9倍)1,864億ドル11,356ドル3兆6,544億ドル380.4億ドル(日本は9位で6.5億ドル)805億ドル(日本は19位で10.4億ドル)19,850百万ドル(日本は621.9百万ドルで第8位)1,067.9億ドル6,773.5万トン1,230.4万トン93.7億m319,450トン1億1,634万トン2,481.3万トン166.9万トン480.8万トン549.5万トン24.9万トン34.3万トンもしれない。それでも、この20年間の大統領の政策により、国民の生活がある程度上昇したことなどもあり、国民の大統領に対する信頼が厚いことは確かだろう。3. 経済(1)概要 1991年にカザフスタンが独立した直後は、社会的な混乱の上、非常に貧しい国であったということは、いろいろな人の話や書籍等からも分かる。しかし、ナザルバエフ大統領による各種の社会・経済政策の実施、市場経済を徐々に取り込んだことや資源価格の高騰もあり、飛躍的な経済成長を遂げている。特に2000年以降のGDP成長率は、2008年、2009年を除いて、毎年7~10%以上を維持しており、そのことからも外国からカザフスタンへの経済・投資に対する期待は大きい。 同国の統計庁によれば、2011年のGDPは、27兆3,340億テンゲ(1,864億ドル)で1人あたりGDPは1万1,356ドル。ナザルバエフ大統領も、2011年1月に行われた年初の教書演説では、カザフスタンの経済成長率を称賛していた。ただし、国全体としての数字を見ると高いが、州レベルで各地ののみにGDPを見ると、その数字を鵜することはできない。 州同士で比較すると、例えば、西カザフスタン州など石油生産を行う州の1人あたりGDPは641万3,600テンゲ(約4万3,743ドル)と高く、逆に南部のジャう87石油・天然ガスレビュー疾走する中央アジア・カザフスタン゚すると徐々に動き出し、また、離任するここ1年くらいでは、気候の厳しい冬季は別にしても、暖かくなると、アスタナ市内では、各地で急ピッチで建設が進められていた。 赴任当時、トヨタ・レクサス等の日本の高級車が多く市内を走っていることに驚いた。当時は、裕福な層が、厳寒期でも走ることのできる大排気量を備えた高級車を購入する傾向があると聞いたが、この1年くらいは、欧米の小型車や韓国車等、以前より多種類の車を町で見かけるようになった。夏には自転車に乗るカザフスタン人も目立ち、いわゆるミドルクラスについては、裕福になってきたようである。(2)経済政策 現在の国家政策のバイブルとも言えるのが、ナザルバエフ大統領が1997年10月に発表した国の長期的な政策方針である「カザフスタン-2030:全てのカザフスタン人の繁栄、安全保障と福祉の増進」である。7つの優先事項として、①(独立国としての)国家安全保障②内政の安定と社会の連帯③外国投資と国内貯蓄による市場経済型の経済発展④カザフスタン国民の保健、教育および福祉の向上⑤パワーリソーシズ(経済発展と国民生活の向上に資するエネルギー資源の効率的利用)⑥運輸・通信分野を中心とするインフラ整備⑦プロフェッショナル・ステート(能率的かつ時代に即した公務員制度及び国家体制の構築) が述べられている。もちろん、このプログラムは1997年に策定されたものなので、現在の経済環境等に必ずしも合致するものではない。しかし、「カザフスタン-2030」に基づいて各省庁は、その時宜にかなった政策を取り入れながら、おおむね5年、10年の期間のプログラムを策定し、実施しているところである。 現在では、ビジネス環境の改善、金融システムの安定化、信頼性のある法的環境の形成を継続することを目的とした、「戦略計画2020:カザフスタンのリーダーシップへの道」、経済の多角化や競争力の向上を目的とした「2010~2014年におけるカザフスタン共和国産業イノベーション発展推進国家プログラム」等の各種プログラムを中心に、経済・産業の多角化や同国への最新技術の導入を柱とした経済政策を実施している。 「経済・産業の多角化」「最新技術の導入」等を経済政策の柱として掲げているのは、石油等の地下資源は確かに経済を支える背骨であるとはいえ、有限な地下資源に依存するだけでは、将来に不安が残る上、地下資源生産による収入は国際的な価格によって左右されるので、自国経済がそれによって揺さぶられることになるからだ。また、近年ではカザフスタン人の雇用確保を目的とした政策も重点的に推し進められている。 この政策は、外国企業にとってカザフスタンへの参入障壁の一つとなっているもので、最も大きな関心事項のひとつである。具体的には、ローカルコンテンツ政策(特に労働者)および外国人に対する労働許可証の発給が厳しいということである。これら二つの政策は、主にカザフスタン人の雇用確保を目的としているものであるが、そこに至る手法は異なる。 ローカルコンテンツ政策は、同国でプロジェクトを実施する場合、そのプロジェクトで使用されるヒト・モノ・サービスをある一定以上の割合でカザフスタン製のものとすることである。基本的には、カザフスタン政府の関わるプロジェクトに対して適用される政策であり、外国企業のカザフスタンへの投資を奨励した上で、プロジェクトが実施される場合に適用されるものなので、これは厳しいと言える。もともとは石油天然ガスプロジェクトを対象としたが、近年になって、全産業に適用されるようになった。 ただし、カザフスタンで投資プロジェクトを実施する場合、同国内では調達できないものも多く、それは外国企業にとって頭の痛いところである。とはいうものの、プロジェクトが増えれば増えるほど、雇用が創出されるため、これを所管しているローカルコンテンツ推進庁は、外国企業の投資の参加には積極的で、外国企業のカザフスタン国内でのプロジェクト実施をバックアップするために、積極的な支援策を採っているようである。また、外国投資企業もそれに応えて、できるだけカザフスタン製のものでプロジェクトを推進しようとしていると聞く。 他方、労働許可証については、これが発給されないとカザフスタンでの労働査証が発給されない。現在では、例えば外国企業が入ってくると1人目(つまり、社長や所長等)に対する労働許可証は、比較的発給されやすいが、2人目以降はその条件が厳しくなる。また、労働許可証の発給件数は1年を区切りとして、各自治体ごとに枠がある。2012年は、外国労働者の数をカザフスタン国内の経済活動人口の1%以内に抑えると発表していた。しかし、外国企業からすると、カザフスタン国内での経済活動やプロジェクトの規模が大きくなると、社長の他にも自国、その他の国からマネジメントや技術力のある社員を連れてきたいと考えよう。少なくとも当初は、社長の代わりに経営やカザフスタン人に技術を教えることができる人材が必要だからである。労働許可証について政策を実行する省庁は、労働社会保障省で、実際に発給882012.11 Vol.46 No.6エッセーキるのは地方自治体であるが、“国内に目を向けた官庁”という印象がある。そのためか、この考え方はなかなかカザフスタン政府関係者に理解されないようで、外国投資家からすると同国でプロジェクトを実施する際の悩みの種となっている。キルギスやウズベキスタン等からの不法労働者を排斥することも目的であったと聞いている。 日本にとって、カザフスタンに投資することの障害としてよく聞かれたのは、運輸・交通面のカザフスタンの地の利の悪さである。石油・金属などの地下資源に加え、どれほどカザフスタン側が自国に工場を誘致したいといっても、製品を、例えば日本に持っていくのは困難である。カザフスタンは周囲を陸で囲まれており、船舶による輸送は困難だし、航空機による輸送はコストがかかる。また、車両による輸送はロシア、中国を経由するか、南部を経由するか、東部を通して黒海の港へ輸送し、それから船で輸送しなければならないためである。 ところがカザフスタンとしては、投資環境の利点として中央アジアの中心地であることをむしろ強調している。特に同国南部と西部の州の投資誘致関係者によれば、中国から西ヨーロッパへとつなぐ幹線道路があるため、アジアと欧州を結び、更にカザフスタン国内、中央アジア諸国へとロジスティックスがつながる運輸・交通のハブとなる可能性を挙げ、これをカザフスタンの投資環境の魅力として強調していた。特に、ロシア、ベラルーシとの3カ国関税同盟の始動や統一経済圏の創設により、今後、同国の投資環境に対する見方が変化していく可能性がある。(3)地下資源関連概要 カザフスタンの経済を支えているのは石油を中心とした地下資源産業である。現在、同国内の地下資源に関する政策を担当しているのは、石油・ガス省および産業新技術省(石油、ガス以外)である。石油・ガス産業について述べると、実際に石油や天然ガスの開発・生産を行うのは、国営石油・ガス企業KazMunaiGasで、カザフスタン国内での国が関与する石油・天然ガスプロジェクトを実施する。ただし、KazMunaiGasは直接石油・ガス省の傘下にあるのではない。首相直轄の機関である国営持ち株企業の国家福祉基金Samruk-Kazynaの傘下にある。Samruk-Kazynaは、カザフスタン国内の投資プロジェクトを効率的に推進する目的で設立された。傘下に400社以上の国営企業を従えている。KazMunaiGasはそのなかで最も大きな企業で、更に下部機関に、KazMunaiGas Exploration Production社(KazMunaiGas EP)国営石油輸送企業KazTransOil社や国営天然ガス企業KazTransGas社のほかJV企業などを従えており、国内の石油・天然ガス産業に大きな影響力を及ぼしている。 また、資源の国際価格の変動が国の財政に影響を与えるため、国家石油基金を創設し、石油生産によるロイヤルティー収入の一部を石油基金(財務省の管轄)にプールし、国際価格の下落に備えている。 この3年間においては、ケンキヤック・クムコール間の石油パイプラインプロジェクトが完成し、カスピ海にある油田から中国への石油パイプラインがつながったこと、南部のトルクメニスタンからの天然ガスパイプラインが中国までつながったことが大きな関心をもって見られていた。当初、ケンキヤック、アティラウ間の石油パイプラインは、ケンキヤック市からカスピ海へと西へ向かって輸送されていたところであるが、米国エネルギー省のサイトによれば、既に逆送して、カスピ海から中国までつながったとのことである。 独立後の10年間は、混乱期であったことや経済力が脆弱であったこと等から国内の地下資源権益を外国や外国企業に取られてしまったという思いがあったようである。しかし、経済力をつけてくると同時に発言力を増しているカザフスタンは国内資源権益の獲得に懸命である。2012年1月の大統領教書演説で、ナザルバエフ大統領は、現在のカザフスタン政府による成果として、カラチャガナク油田、カシャガン油田、ENRC、Kazakhmys等の主要株式は国家所有となった旨発言し、カザフスタン国内の権益を自国が保有していることを強調した。 先述したように、カザフスタンの経済を支えているのは石油生産をはじめとした地下資源によるものであり、同国の工業生産の約65%が鉱業によるものである(2011年)。国家福祉基金Samruk-Kazynaの資産(1兆1,700億テンゲ以上)のほとんどがKazMunaiGas傘下のKazMunaiGas EP(6,990億テンゲ)によるものであるため、2012年5月の報道によれば他のSamruk-Kazyna傘下の国営企業に利用させるよう副社長が発言した。また、同月の後半に、大統領が石油価格の下落により、新たな経済危機の波が2012年後半にカザフスタンを直撃する可能性があるとして、その景気悪化に備えた計画を立てるよう指示していることからも、資源(特に石油)への依存度は高い。 最近では、ジャナオゼン油田での暴動、今年5月のKazakhmysのジェズガスガン地域でのストライキの発生など、石油や金属生産上流の鉱業部門でのストライキが多発していることからも、カザフスタン政府はなんらかの対応を余儀なくされている。4. 国際関係等 先述したように、ナザルバエフ大統領の外交手腕は他国との関係において優れた均衡を保っているという点であ89石油・天然ガスレビュー疾走する中央アジア・カザフスタン驕B北はロシア、東は中国、その他は中央アジア諸国に囲まれており、また、米国と欧米との関係を上手にバランスよく保っていかなければならない。 ロシアとは、旧ソ連から独立したものの、政治・経済関係の結びつきは非常に強い。特に、最近ではロシア、ベラルーシとの3カ国関税同盟や共通経済圏の創出などにより、中央アジア諸国およびロシアとの政治・経済への統合が進んでいるような動きを見せている。特に3カ国関税同盟以降、ロシアとカザフスタンとの間には、通関施設等がなくなったようである。なお、2011年からは、ロシア、ベラルーシの輸出入額に関するデータを公表しなくなった。 カザフスタンは、もともとロシアの一部だったのでロシアと強い結びつきがあることは否定する者はいない。また、筆者はロシアについての専門家ではないので詳細は知らないが、カザフスタンの政策は、ロシアの政策を後追いしているようである。例えば、3カ国関税同盟に加盟した上で、いろいろと制限を受けるWTO加盟についても結局ロシアの動き、やり方を見て加盟することになるだろう等。 米国とは、カザフスタンの独立当初に旧ソ連時代に保有していた核兵器や、中央アジアの麻薬に関する事案なども含め、政治・経済・環境面から幅広い分野で協力関係を築いている。 欧州とは大統領を含む政府高官レベルで頻繁に相互交流を行っており、EU諸国との間で製造業、交通、環境、人権等の分野で協力強化が図られている。EUの発表によれば2011年のEUの域外からの石油輸入量を見ると、ロシア、ノルウェー、サウジアラビアに次いでカザフスタンから2億3,500万バレルを輸入しており、全輸入量の6.43%を占めている(ロシア29.63%、ノルウェーは12.29%、サウジアラビアは、8.20%)ので、EUにとってもカザフスタンを重視せざるを得ないだろう。 中国の動向については、多くの人が関心を寄せていたが、中国に対するカザフスタンの心象は複雑だ。カザフスタン・中国間での協力関係が進展しているものの、中国に対する不満も垣間見えるからだ。中国はカザフスタンの隣国であることから、当然のことながら日用品など安い中国製品は流入してくるし、大きなプロジェクトを立ち上げ、カザフスタン国内にある油田開発等のプロジェクトや運輸交通分野での大きなプロジェクトに資金を次々と拠出している。また、トップも含めた両国の政府高官による相互訪問は頻繁にあるので中国のカザフスタンにおける存在感は大きい。実際に、旧ソ連時代にソ連に向かうのみであった石油パイプラインがカスピ海からカザフスタンを横断して、中国にもつなげられた。ケンキヤック・クムコール間の石油パイプラインの完成により将来のカシャガン油田をはじめとするカスピ海の油田の石油が中国に行く可能性もある。 他方、中国のヒト・モノが大量にカまゆをひザフスタンにやってくることに眉そめる者もいる。中国からカザフスタンに流れ込んでくる河川に関する問題(その水量や、工場廃水による汚染等)など隣国故に抱える課題もある。 中央アジア諸国のなかでカザフスタンは、政治、経済、社会政策は最も安定している。このことは、中央アジアの人の移動にも表れている。労働市場が比較的よい。労働市場の原理に従い、他の中央アジア諸国は労働者を流出する国であるのに対し、カザフスタンは賃金が周辺と比較して高いことからも労働者が流入してくる唯一の国であるとのことだ。例えば隣国のウズベキスタンやキルギスの教師の月収は、金額をはっきり覚えているわけではない出所:筆者撮影出所:筆者撮影写4南カザフスタン州ケンタウ市にある日本人慰霊碑(きれいに整備されていた)写5カラガンダ州にある日本人墓地902012.11 Vol.46 No.6エッセー驛Vムケント市では1940年代当初、ほ旧ソ連時代に捕となった人々によって建設された建物が五つあり、そのうちの一つは日本人の捕虜たちによって建てられた建物とのことであった。その時期になぜ日本人が捕虜になったかの経緯の詳細については分からないが、日本人が建設した建物のみが現在も残っており、いまだに小学校として使用されている。この学校を訪問した当時には、このような建物があるとはカザフスタン在住の日本人は知らなかったと思うが、この小学校の生徒たちは、この小学校を建設したのが日本人であることを教えられて知っていた。間違いなく日本人が建てたものであることは、建物が堅牢で現在も使用されていることと同時に、訪問した際、2階に上がる階段の段差が全て一定幅であることを指摘した同行の日本企業の方の言葉からも納得できる。この国では、立派な建造物であっても階段の段差が安定していないことがしばしばだからである。虜りょ(3)日本とカザフスタンの経済関係 日本からだと中央アジア内陸部にあるカザフスタンまでは遠く、貿易がほとんど行われていないようにも感じるが、日本とカザフスタンの間では経済関係がもちろん継続している。日本からカザフスタンへの主な輸出製品は、鉄鋼製品、鋼管、自動車等である。また、カザフスタンから日本への輸入品目は合金鉄など鉄鋼副原料、非鉄金属などの金属が中心である。日本の財務省の貿易統計によれば、特に、2011年の日本の輸入品目のなかでは、輸入額の86%をフェロアロイ(特にフェロクロム)が占めた。日本とカザフスタンの貿易額は2011年の輸出入総額で約880億円で、10年前の240億円と比較するとおおむね順調に伸びている。カザフスタンからすると、日本は貿易総額では第16位の相手国である(2011が、月に100ドル程度であるが、カザフスタンであれば300~400ドルとなるそうだ。 移民については、アフガニスタンからの難民も多いようであるし、また、スターリンの圧政時代にカザフスタンから他国へ逃れ、その後帰国してきた者(オラルマンと言われる)もいる。また、近隣諸国での圧政から逃れてきた者もいる。そのような事情と自負もあるのだろうか、ユーラシア経済共同体、ユーラシア同盟、上海協力機構、アジア信頼醸成措置会議(CICA)、CIS集団安全保障条約機構等について、カザフスタンは中央アジア地域での結束や協力を積極的に推し進めてもいる。また、国際会議の場でナザルバエフ大統領が中央アジアから世界へ提案するといったニュアンスを含んだ演説をよくしていたように思う。5. 日本・カザフスタンの関係あこが(1)カザフスタンの日本に対する印象 カザフスタン人の日本人に対する印象は好意的である。第二次世界大戦で日本が敗戦した時のどん底の経済状態から、世界でもトップレベルの経済力を持つに至ったこと、その経済力を支える日本の技術力は特にカザフスタンの経済政策「経済・産業の多角化」「技術力の導入」に合致していることもあれを抱いていり、日本に対して強い憧る。また、日本とカザフスタンは決して近くないことから、近隣国であるが故に生じる争いもないため、日本に対して悪い印象を持つ者はほとんどいない。 カザフスタンにも日本語の学習者がいるが、彼、彼女たちに日本語を学ぶきっかけを聞くと、日本の文学作品や最近では日本のポップカルチャー、漫画、アニメに憧れて日本語を学習するようになった者が多い。もちろん、英語や欧州言語、中国語などと比較して日本語を学ぶ人は格段に少ないが、これらの言語の学習者は小学校から既に履修科目として学んでいるか、ビジネスを目的に学び始めた者も多いようである。これに対して、日本語学習者の場合は、日本文化に興味を持って学ぶようになった者がほとんどのように感じる。 しかし、カザフスタンにおける日本の印象は他国と比較するとまだまだ薄い。やはり、多くのカザフスタン人が外に目を向けるとしたら、ロシアや中国、中央アジア諸国などの近隣諸国は別にしても、米国、欧州となる。大使館やJICA等が中心になって広報活動を行っているものの、多くのカザフスタン人にとって、日本に触れる機会が少ない。(2)日本人の足跡 カザフスタンは、独立して20年たつが、それ以前は旧ソ連の一部地域とはいえ、全く日本とつながりがなかったわけではない。第二次世界大戦後、シベリアに抑留されていた日本人もおり、この地で亡くなった方々もいる。カラガンダ市には慰霊碑、またアルマティ市には日本人墓地もあり、カザフスタンの日本人会が企画して、慰霊碑訪問や日本人墓地の清掃などを行っている。 南カザフスタン州を訪れた際には、州内を巡る機会を得た。アスタナ市からシムケント市まで飛行機で飛び、その後、車で6時間前後走ったところでやっと到着したケンタウ市においては、第二次世界大戦後、シベリアに抑留されてこの地で亡くなった日本人のための慰霊碑が建立されていた。慰霊碑は、戦友会によって建立されたものであるが、その場所は、ケンタウ市が管理している公園で、丁寧に保存されていた。 また、南カザフスタン州の州都であ91石油・天然ガスレビュー疾走する中央アジア・カザフスタン2 日本企業を中心とした経済関係においても、先述した2009年10月の日本・カザフスタン経済官民合同協議会において、住友商事がカザフスタンの国営原子力企業Kazatompromとウラン鉱からレアアースを回収する事業石残に合意している。また、東芝もKazatompromと同社の鉱山・精鉱などの上流工程、東芝の高付加価値製品の製造能力等の下流工程のシナジーを生かした合弁事業の開始を検討することに合意するなどに至った。 JOGMECはこれらのプロジェクトに渣さざん2011年に冬季アジア大会がカザフスタンで開催された時に、氷結したエシル川を走る聖火ランナー写8出所:筆者撮影がほとんどだったように思う。2010年の尖閣諸島での事件が起きた頃から、中国に依存していた資源の供給元の多角化のため、豊富な地下資源を持つカザフスタンに対する関心も高まった。しかし、同時に日本のインフラの海外輸出政策や省エネルギー・環境技術に対する両国の意識の高まるなか、日本とカザフスタンの経済関係において、運輸交通分野、通信、宇宙関係、環境・省エネルギー等の他産業にも関心が広がってきた。 日本とカザフスタンの両国間においては、2008年12月に東京で署名された日・カ租税条約が2009年に両国での国内批准手続きを終え、2009年12月に発効し、2010年1月から適用となった。日・カ原子力協定も2010年5月に発効し、現在両国間で日本・カザフスタン投資協定締結に向けた交渉が進められている。年。ロシア・ベラルーシを除く)。日本とカザフスタンとの間で貿易を行う際の製品の陸上での移動は、ロシアのハバロフスクもしくは中国のチンタオまで列車で運び、そこから船で輸送するのが主なルートになるようである。 「貿易額」等といった数字上での増加だけなく、日本とカザフスタンとの間で経済協議会を開催するなど人的交流等においても活発になってきている。例えば、日本側は民間企業が中心となり、また、カザフスタン側は政府が主体となって、日本・カザフスタン経済合同会議が1994年から開催されてきた。2009年10月には、第10回日本・カザフスタン経済合同会議とともに第1回日本・カザフスタン経済官民合同協議会がアスタナで開催され、両国間の経済協力について官民を交えての協議が初めて行われた。2010年10月には東京で第2回、2011年10月にはアスタナで第3回目が開催された。2012年5月には、枝野幸男経済産業大臣がアスタナを訪問した。 筆者が赴任したばかりの頃、日本のカザフスタンに対する経済的関心は、石油(カシャガン油田等)、ウラン(ハラサンプロジェクトなど)、レアメタル、レアアース等の資源に対する関心出所:筆者撮影出所:筆者撮影写6産業新技術省ビルから見たアスタナ市の夕焼け手前に見えるのは、石油・ガス省、KazMunaiGas等が入居する建物。建物は、石油備蓄タンクを模して、円形に建設されている。遠くに見えるテント状のものは、アスタナ市を象徴する建物で、中はショッピングセンターとなっている。写7アスタナ市を横断する真冬のエシル川2012.11 Vol.46 No.6エッセー煌ヨわっているほか、2010年7月に国営鉱山企業Tau-Ken Samrukとの間で、鉱物資源開発分野での協力に関する相互理解覚書に署名等も行っている。 確かに、日本からカザフスタンに対する関心と、日本から他の国(米国、欧州、アジア諸国等)に対する関心を比較すると、まだまだ薄いと思われる。しかし、上記のような経過を通じて、日本とカザフスタンの経済関係は今後そのボリュームとともに、より幅広い経済関係が構築されることが期待できる。6. カザフスタンに対する印象 JOGMECは、以前アルマティ市に事務所を構えていたこともあり、カザフスタンで生活することについて特別に不安を抱くことはなかった。しかし、赴任、出張する前にそれまでこの地域を全く知らなかった人たちは、「スタン」がつく国は危なくて貧しい国というイメージを持っており、相当身構えていたようである。実際には欧米の文化や製品が流れ込んでくるので、都市部であれば、貧富の差はあるものの、欧米流に近い生活ができる。他方、カザフスタンには遊牧民、イスラム、旧ソ連(ロシア)の文化や習慣が根強く残っている。カザフ人やロシア系住民に加えて、中国系住民やスターリン時代に中央アジアに連れてこられた韓国系住民などが同じように生活しているため、町を歩いていても異国の地に住んでいるという実感が湧いてこない。 広大な国土を持つカザフスタンには、各地に特徴的な地域がある。以下は、筆者が訪れた代表的な地域である。(1)新首都アスタナ市 仕事、生活の拠点となったアスタナ市には、もともと小さい村しかなかった。そこに1997年、当時の首都アルマティ市から遷都した。首都移転前に、各国の大使をアスタナ市(当時:アクモラ市)に招待したそうだが、誰もここに首都が造られること、首都としての機能を果たすことが信じられなかったそうである。首都移転時には、何もない地区に政府職員等を引っ越しさせなければならず、引っ越しを余儀なくされる職員には住宅を供与したとのことである。 アスタナ市のマスタープランは、故黒川紀章によって設計された。新市街と旧市街にエシル川を隔てて分かれている。新市街に建築される建物は、私たちから見ると斬新な建物が多い。マスタープランを基に建設されたため、非常に整った印象を受ける。アラブ首長国連邦のドバイにしばしば例えられていた。 カザフスタンを代表する都市として、現在でも、オペラハウスなど、将来アスタナ市の象徴となるだろう多くの施設の建築が進められている。筆者が赴任した当時と比較しても、ショッピングモールやレストラン、カフェなどが増えている。また、国際会議なども頻繁に開催されており、このような機会を利用してアスタナ市を世界に対して強く印象付けようとしているようだ。(2)商業都市アルマティ カザフスタンの最初の首都であり、現在では商業都市として、最も大きな都市である。首都移転後は、各省庁や政府関係機関がアスタナ市に移ってきており、最近では2011年に国営原子力企業Kazatompromがアスタナ市に移転した。それでも、中央銀行、カザフスタン証券取引所等の金融系機関は、アルマティ市に依然、本社を置いている。他方、外国企業、国連機関等からすると、商業的に発展していること、地の利のよさから、カザフスタン事務所はアスタナ市に置いていても、中央アジア事務所としてアルマティ市に地域事出所:筆者撮影出所:筆者撮影写9昔、アラル海のあった地域地下水流により草木が生えるが、毎年その流れも目の前の草原も翌年には砂漠となっていたり、その逆もあり、生態が予測できないとのこと。写10旧アラル海に植林するため、サクサウールの種をまいた地区93石油・天然ガスレビュー疾走する中央アジア・カザフスタンャ量が激減、1960年代以降、面積が急激に縮小した。アラル市はもともと港町であったが、湖が減少したため湖岸が105kmまで離れてしまった。現在では、世界銀行のプロジェクトにより、アラル海をいわゆる大アラル海と小アラル海に分断し、小アラル海に対して集中的に再生に取り組むなどの効果もあり、湖岸が18km近辺にまで回復してきたとのことである。 アラル海を訪問した際には、まず、アラル市のあるクズィルオルダ州の州都であるクズィルオルダ市まで、アスタナ市から南部へと向かってフライトした。そこから、寝台列車に6~7時間ほど揺られ、深夜にアラル市に着いた。翌朝、アラル地域長を訪問した後、午後になってから5~6時間ほどかけて、アラル地域で植林を行う前線基地ともなっているカラテレン村へ向かい、夜中に着いた。 アラル地域長の話やクズィルオルダ州関係者、旧アラル海での植林作業を行っているNGOなどの話をまとめると、アラル海の減少により、1960~1970年のアラル地域の経済は悲惨なものであったとのことである。もともと、アラル地域の人口は10万人程度であったが、水質の低下により病院や学校への水の供給状態が悪くなり、子供や母親の死亡率が高まったため、人口が減少した(現在は、2007年時点でアラル地域は8万7,000人、アラル市は4万4,000人)。また、水産物の養殖業もアラル海の水量の減少により衰退していったため、養殖業を営んでいた人々などは、アラル海からカムチャガイ、セレクなどといった近隣の町へ移住していってしまったようである。しかし、最近では、アラル海の水量の増加に伴い、住人も戻ってきているとのことである。 現地では、アラル海の衰退により、産業が停滞していったにもかかわらず、近隣の町へ移動せず、そのまま居残っていた人もいた。なぜ漁業資源がなくなり、生活の糧がなくなっていくにもかかわらず、他地域へ移動したりしなかったのか。当時は、移住していった場合、バイコヌール宇宙基地の近辺にある町等で働く手段はあったようである。しかし、アラル地域に住んでいた人々は、カザフ語のみで、ほとんどロシア語が話せなかったため、基地周辺の町に移動したとしても、よい働き口は見つからず、そのため、移住したとしても最底の暮らししかできないということで居残ったと聞いた。94務所を構えている企業等も多い。多くのカザフスタン人にとってアルマティ市は、国内最大の大都市として認識されており、アスタナ市に居を構えていても、連休など利用して頻繁に家族、知人が居たり、遊ぶところの多いアルマティ市を訪問しているというから、アスタナ市よりはアルマティ市に住むことを好んでいるようだ。 欧州やアジアからの飛行機が発着すること、仕事等を求めて、カザフスタン国内や隣国のキルギスやウズベキスタンなど他の中央アジア諸国から移民が来ることが多いことなどもあり、アスタナ市と比較して、人種面、貧富の差等が大きく、実にさまざまな人々が住んでいる。そのためか、アスタナ市ではカザフスタンの政治体制を容認しているのに対し、アルマティ市では批判的な人々もいるように思えた。かんい漑が(3)アラル海 アラル海はカザフスタンとウズベキぐ湖であり、世界でも4番スタンを跨目に大きい湖であった。ところが、旧ソ連時代に綿花栽培等のための灌やアムダリア川の上流部にカラクム運河を建設したことにより、アラル海に流れ込むアムダリア川とシルダリア川のまた出所:筆者撮影出所:筆者撮影写11セミパラチンスク旧核実験場内の放射能等測定施設の跡写12旧ソ連で初めて核実験を行った場所から撮った周辺の写真2012.11 Vol.46 No.6エッセーo所:筆者撮影出所:筆者撮影写13視察先の東カザフスタン州にある鶏肉工場の様子写14カザフスタンで最も大きな自動車組み立て工場アジア・オート内で出荷を待つ車 筆者が訪問した際には、カザフスタンが独立する以前からアラル海問題に取り組んでいる石田紀郎・NPO法人市民環境研究所代表理事(京都学園大学教授)や植林などのプロジェクトを実施しているNGO団体の関係者などとお会いする機会があった。植林プロジェクトなどを実施しつつも、その過程で試行錯誤していること等の話を聞く機会になったが、関係者の強い熱意や苦労を感じた。(4) セミパラチンスク地域(クルチャトフ市、セメイ市) 日本とカザフスタンの協力関係を語る時、核・原子力は外せないテーマである。日本は、1945年に広島と長崎で原爆を落とされ、カザフスタンは旧ソ連時代の核実験場として、被爆した国である。この、核の被害に対して共通の認識を持っているからだ。 カザフスタン北東部にあるクルチャトフ市は、旧ソ連時代、当時の名称はセミパラチンスク21、いわゆるナンバリング都市で、軍事的な秘密都市であった。この地は、旧ソ連で最初の核実験が行われた場所であり、その後456回にわたる大気中の核実験、地下核実験が行われた場所でもある。 ナザルバエフ大統領が大統領に就任した際、最初に行ったことの一つとして、カザフスタン国内における核実験を停止したことが挙げられる。公式に終了したのは、1991年8月31日であるが、カザフ共和国の書記だった時から、核実験を停止していた。他方、同国は独立当初から、非核化と原子力の平和利用を目的としてのプロジェクトを実施しており、その中心となっているのが、現在の国立原子力センター(NNC)である。 筆者は、国立原子力センターの現在の平和利用を目的とした実験施設等を案内してもらい、また、旧ソ連で最初に核実験が行われた実験場にも案内してもらった。ロシアに向かう飛行機の中で浴びる放射能のほうがまだ多いと言われてはいたが、中心部に近づいた時に放射能測定装置の数値が上昇し、警告音が鳴った時には、さすがにどきりとした。 この核実験地域内にはまだ立ち入り禁止区域となっている地区もある。NNCは、カザフスタン全土にわたって、放射能汚染に関する環境測定などを行っている。また、クルチャトフ市に向かうために経由するセメイ市の国立医療大学は、日本の長崎大学などとも協力関係にあるし、放射能に関する研究ではかなり優れているようである。 NNCでは、独立当初から、日・カザフスタン核兵器廃棄協力委員会が中心となって、カザフスタン国内における非核化事業を行っている。他方、日本の原子力研究開発機構(JAEA)や東芝などと協力して、原子力の平和的利用についての研究・開発を行っている。 クルチャトフ市での核実験により、現在のセメイ市の方角へ放射能が流れた結果、現在でもその後遺症に苦しんでいる人々がいる。そのため、東カザフスタン州のセメイ市は、日本のカザフスタンに対する経済協力が最も手厚く行われている場所である。筆者が別の機会にセメイ市を訪問した際、通訳をしてくれたセメイ市出身の女性が子供の頃、しばしばドーンという地響きがあったと聞いた。(5) 東カザフスタン州ウスチカメノゴルスク市 旧ソ連時代に恐らく軍需工場として建設された工場が多く、今ではそれらの工場を民間企業に転換している。自動車組立工場Asia Auto、チタン・マグネシウム工場、亜鉛生産企業Kazzinc、銅生産企業Kazakhmys、95石油・天然ガスレビュー疾走する中央アジア・カザフスタン@イスラム文化も根付いているが、それほど強くイスラムの戒律を厳しく求められているわけではない。毎週金曜日、モスクにはイスラム信者が集まるが、ほとんど行ったことがないという人もいた。ラマダン(断食月)の時期には、イスラムであれば日中は食事をしないという戒律があるが、必ずしも皆が守っているわけではない。もともとあった遊牧民の文化・習慣とイスラムの戒律が相反することもあったので、カザフスタンのイスラムは、そのような習慣に溶け込みやすいスンナ派ハナフィー学派が入り込んだとのことである。また、イスラムがこの地に広がってきた時にうまく地域の文化・習慣に融合してきたようである。 さて、仕事を進めるにあたって、戸惑ったこともある。身近なところでは、カザフスタンの仕事関係者との面談を申し込む時には、大使館から面談を要請する手紙を出さなければならない。実際に面談が実現するまでに数週間かかることもある。また、法制度等が未成熟と口では言うものの、非常にルールや習慣に対して厳格であろうとすることもある。例えば組織のトップで物事を決定したにもかかわらず、実際に実務作業をする段階で、規則などを理967. カザフスタンの文化・習慣等 カザフスタンの文化の背骨になるものとして、遊牧民文化がある。そこに起因することだが、彼らは馬、羊等といった肉をよく食べる。世界で1番肉を食べるのはオオカミ、その次がカザフスタン人というのは、筆者が滞在中によく耳にした話である。お祝いやお客を歓待する際には、5本の指で食べるため「5本の指」という意味の名のベシュパルマックという馬の料理がよく出てきた。食事は全般的に日本人からすると、味は濃いし、脂っこいが、氷点下40℃にも達する厳しい冬を乗り越えるためには、太ったほうがよいという人もいる。レセプションなどでは相当な量の肉を中心とした食事、ウオツカ等のアルコールをおなかに無理に入れなければならないこともあった。特に男性は20歳代前半くらいまではなのに、20代後半から急体格が華に体格が大きく変わっていく。他方、最近ではカザフスタン人の意識も変わりつつあり、特に若い人たちを中心に、ランニングやスポーツジム等に通って、欧米的な健康維持に努めている人も多い。奢しきゃゃUlba冶金工場(UMP.Kazatomprom傘下)、鶏肉生産工場など、カザフスタン内でも代表的な工場が設置されている。町の様子は、アスタナ市やアルマティ市等と比較して、ロシア系の住民の割合が多いようで、ロシアの田舎町といった風情が漂う街であった。 中国から数時間で来ることができるらしく、中国ナンバーの車を見かけることもあった。(6)アクタウ市、アティラウ市 石油生産により繁栄している町である。特にアティラウ市は、欧米を中心とした石油関連企業が集中するためか、他市と比較すると米国の田舎町といった雰囲気であった。(7)シムケント市、クズィルオルダ市 南部地域のシムケント市、クズィルオルダ市になると、ロシア語よりむしろカザフ語を話す人の割合が大きくなる。町には、カザフスタン北部やアスタナ市、アルマティ市と異なり、カザあふれる。また、これらのフ語の看板も溢市やアルマティ市には、ウズベキスタンやキルギスなどから移民が来ることが多いようである。出所:筆者撮影出所:筆者撮影写15東カザフスタン州を訪問した時、カザフスタン側の関係者等と食事を介しての意見交換写16カザフスタンの民族音楽(右側)と欧州のオーケストラ(左側)の共演2012.11 Vol.46 No.6エッセーRになかなか進まないこともある。このような時の頑固さには困惑させられたものだ。他方で、権力を持っている者や知り合いだからということで“融通”してもらうこともよくあるようである。なお、プロジェクト等で仕事の窓口になっている関係者が、突然、2週間の休暇を取ったり、転職したりしても引き継ぎがなされていないことがほとんどで、そうなると物事を最初から説明して理解してもらわなければならないことも多々あった。 さまざまな文化が取り込まれてくる一方で、カザフスタンには独自のアイデンティティを持とうという意識もある。最も典型的だったのは、ここ数年でカザフ語を推奨・強制する動きが強くなったことである。旧ソ連時代には、カザフ語ではなく、ロシア語ができないと出世ができなかったようである。現在はナザルバエフ大統領の指導により、カザフ語の使用率を高めようとしている(ただし、外国の情報入手や技術の導入はカザフスタンの国力増強のために欠かせないと考えているので、ロシア語ができることが前提。また、英語もできるようになることを推奨している)。確かに、アスタナ市内のスーパーマーケットでの店員同士の会話などではカザフ語を耳にする機会が増えてきたように思う。国際会議における同時通訳は、3年前は、ロシア語と英語だけだったのが、最近ではカザフ語も含めた3カ国語で行っている。 筆者の印象としては、カザフスタンでは複数の文化が積み重なって形成されていると感じる。遊牧民の文化があり、イスラム文化が入り込み、さらにそこへ旧ソ連時代の社会システム・習慣等が取り込まれ、最近では、米国や欧米の文化に強い憧れを持つ。そして、カザフスタン人固有の文化を持とうとしている。 毎年行われている大きな国際会議「アスタナ・エコノミック・フォーラム2012」のイベントとして、カザフスタンの伝統的な音楽と欧州のオーケストラが素晴らしい共同演奏を行った。こうした試みは、今後のカザフスタンの方向を象徴しているもののように筆者は受け止めた。おわりに 上述したように旧ソ連の崩壊によって、突然現れた中央アジア地域という印象を最初に抱き、その気持ちを持ったまま3年間を過ごした。独立してやっと20年を過ぎたばかりで、国としては若いので、国の制度など、まだまだ未整備な部分が多いと説明するカザフスタン人もいた。また、国際社会でイニシアチブを取ろうと、大統領を中心に積極的な取り組みを行っていた。カザフスタンが国際的な水準を参考に、国の制度、法律等を次々と制定・改訂し、現在も引き続き国を造ろうとしている姿が見て取れた。世界的な金融危機で、一時的に勢いが衰えた時もあったが、その後は様変わりで、今は勢いがある。独立後、20年という節目に当たる年にカザフスタンに滞在でき、体験・見聞きできたことは非常にいい経験であった。それらの経験で執筆する機会を頂いたが、本稿ではまとまりがなくなってしまったかもしれない。 カザフスタンでの業務は、外部、内部を問わず、さまざまな人から協力を得ながら進めた。そのお陰で、政府関係者、民間企業関係者、教育機関や医療機関、NGO、国際機関等の多くの関係者と接することができた。筆者の力不足もあり、成し遂げられなかった業務等も多々あるが、3年間無事に過ごせたのは、関係した皆様のご協力によるものである。この場を借りて、皆様に感謝申し上げたい。執筆者紹介白鳥 智裕(しらとり ともひろ)学歴:2001年、北海道大学大学院法学研究科修了。職歴:1996年3月~1998年3月、在ガーナ共和国日本国大使館派遣員。    2001年11月から、金属鉱業事業団総務部総務課、独立行政法人石油天然ガス・金属鉱物資源機構総務企画グループ企画調整チーム、企画調査部調査課。   2009年7月から、在カザフスタン日本国大使館二等書記官。   2012年7月から、JOGMEC総務部人事課で現在に至る。趣味:合気道、水泳、読書、映画鑑賞等。97石油・天然ガスレビュー疾走する中央アジア・カザフスタン
地域1 旧ソ連
国1 カザフスタン
地域2
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国・地域 旧ソ連,カザフスタン
2012/11/20 [ 2012年11月号 ] 白鳥 智裕
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