ページ番号1006560 更新日 平成30年2月16日

[連載]アラブの春から4年・・・混迷する中東・北アフリカ諸国-第5回 「7月3日体制」下のエジプト-

レポート属性
レポートID 1006560
作成日 2015-03-23 01:00:00 +0900
更新日 2018-02-16 10:50:18 +0900
公開フラグ 1
媒体 石油・天然ガスレビュー
分野 エネルギー一般基礎情報
著者
著者直接入力 長沢 栄治
年度 2015
Vol 49
No 2
ページ数
抽出データ JOGMECK YMC東京大学 東洋文化研究所教授長沢 栄治[連載]アラブの春から4年・・・混迷する中東・北アフリカ諸国-第5回 「7月3日体制」下のエジプト-はじめにイタリアイタリアギリシャギリシャ地中海リビアリビアチャドチャドキプロスキプロスシリアシリアレバノンレバノンイスラエルイスラエル/パレスチナ/パレスチナイラクイラクヨルダンヨルダンブルガリアブルガリアサウジアラビアサウジアラビアエジプトエジプト 2011年1月25日に始まったエジプト民衆の蜂起、エジプト革命から4年の年月が過ぎた。あの時のカイロ中心部、タハリール(解放)広場を埋め尽くした群衆の姿は、世界に衝撃を与えた。その17日後の2月11日には、ホスニー・ムバーラク大統領を宮殿から退去させることに成功し、人々の興奮は頂点に達した。この民衆蜂起は、現在、「1月25日革命」と公式には呼ばれている。しかし、当時はさまざまな呼び方が見られた。そうしたなかでロシアのメディアが「2月革命」という名をつけたことを覚えている。しかし、筆者はこれを聞いて、ロシア革命の「10月革命」のようにもう一度革命が起きるのか、「縁起でもない」と思った。しかし、果たしてそれから約1年半後の2013年6月に民衆は再び蜂起した。当時のムルシー大統領のムスリム同胞団(以下、「同胞団」)政権を打倒した「6月30日革命」である。二つの「革命」を経てエジプトは、今どこに立っているのか、またこれからどこへ向かおうとするのか。 就任から半年たった2014年12月に、アブデルファッターフ・シーシー大統領が一つの大統領令を公涜する行為は犯布した。それは、二つの革命、「2011年1月25日革命」と「2013年6月30日革命」を冒罪に当たるというものである。もちろんこの大統領令は、一貫して政府が弾圧を続けている同胞団の勢力に対して向けられたものである。同胞団は、6月30日の反政府勢力の示威活動の直後に起きた軍部の政治介入を、民主的に選挙された正統性を持つ政権を打倒した「軍事クーデタ」だとして非難を続けている。これに対し、政府側は、6月30日革命とは、全国民が望んだ1月25日革命の道が、同胞団政権によっじ曲げられたのを正す革命であったと考える。革命の正統な道に戻す、いわば第2の革命であるとて捻いう見方だ。しかし、4年前、蜂起に立ち上がった人々が望んだ「革命」は進展しているのか。図1 エジプトの位置出所:JOGMEC作成スーダンスーダントルコトルコ紅海ぼうとくね1石油・天然ガスレビューアナリシス_長沢.indd 115/03/02 10:41:25アナリシスOGMECK YMC この大統領令が出される前の月、2014年11月にムバーラク元大統領に無罪判決が出された。デモ隊への発砲による殺害の責任を問う裁判であり、1年半前の2012年6月の判決でいったんは大統領とハビーブ・アドリー内務大臣に無期懲役判決が出されていた。しかし、2013年1月に再審理が決定され、5月から審理が開始された。今般の無罪判決は、この再審理の結果である。もう一つの容疑である腐敗問題の審理は依然として続いている。こうした審理の経緯を考えると、「世紀の裁判」とも呼ばれたムバーラク大統領裁判は、司法の独立をめぐる大きな問題を提起していると言える。2011年革命当時の脱獄容疑などで罪を問われているムルシー前大統領に対する裁判の場合も同様である。軍と結託した司法エリートの権益は、革命によって何の変化もなかった。 今回の無罪判決は、ムバーラク元大統領と2人の息子アラーとガマール、内務大臣と6人の内務省幹部、そして大統領の元側近の政商フセイン・サーリム(海外逃亡中)に対してなされたものであった。この判決に対しては、若者運動勢力や同胞団による抗議デモが起きたが、それも瞬く間に押さえ込まれてしまった。 一方、判決の発表に際して、大統領側の弁護団は、ムバーラク大統領を宮殿から追い出した民衆蜂起、2011年革命と称されるものは「ワシントンがたくらんだ陰謀」との見解を示している。米国の介入に期待を寄せている同胞団を除いて、エジプトのほとんど全ての政治勢力、すなわち現政権支持派や左派・リベラル勢力だけでなく、ムバーラク支持派にも、反米意識が共通に見られることには改めて驚かされる。それはともかくとして、上記のムバーラク弁護団の見方が示すように、革命などといっても一時の興奮に過ぎず、混乱をもたらしただけで何の結果も残さなかったのだ、という見方をする人は、ムバーラク支持派だけではなく庶民の間にも多い。 革命後の4年間で何が変わったのか。ムバーラク無罪判決に象徴されるように、元の状態に戻っただけなのか。もちろん4年という年月は「革命」という歴史的現象全体を評価するのに十分な長さではないかもしれない。しかしそれは承知の上で、本稿では2013年7月の政変(「6月30日革命」)、およびその1年後のシーシー大統領就任(2014年6月)、およびそれ以降のエジプトの状況を概観することによって、その答えを示してみたい。 まず、発足後半年を経たシーシー政権の成果について、ムルシー前政権との比較でその評価を述べておこう。結論的に言えば表面的に見る限り、シーシー大統領は国民の政府に対する信頼を回復し、安定した「統治」に成功している、と言える。6月30日革命の成果を生かし、同胞団を共通の敵にすることによって、同政権はほとんど全ての政治・社会勢力の取り込みに成功し、強い政治的凝集力を獲得している。これに対し同胞団は、国民の敵、「非国民」の扱いを受けている。例えば、同胞団を共通の敵とするスンナ派イスラーム教学の最高権威、アズハル機構と、人口の10%以上を占めるコプト派キリスト教会の政権支持には強固なものがある。いわば、アズハル・コプト・軍の「3者同盟」ができている。その結果、2011年革命直後に起きたサラフ主義者(イスラーム厳格主義者)によるコプト派教徒襲撃や、ムルシー政権の末期に起きたシーア派住民殺害などといった宗派紛争を押さえ込んでいる。もちろんその背景には、政府による強圧的な治安対策がある。 シーシー政権の統治の評価として第2に指摘できるのは、経済政策の面で一定の実績を上げているこったムルシー政権の100日計画は、無残な失敗に終わった。この混乱とである。治安や経済の回復を謳のなかで、2012年憲法の制定を強行したことが同政権の命取りになった。これに対し、現政権の経済政策が一定の成果を収めているのは、もちろんサウジアラビアなどからの多額の財政支援に負うところが大きい。しかし、上述の「6月30日革命」に対する国民の支持を基盤にした着実で有効な改革を実施する可能性に期待する声は大きい。 本稿が主に対象とする時期は、2013年7月政変から2015年1月までの1年半である。このうち最初の7月政変から2014年6月までの約1年のアドリー・マンスール暫定大統領の政権期は、実質的に軍が背後で采配を振るっていたのであり、「マンスール=シーシー政権期」あるいは「シーシー政権準備期」だったと言える。それゆえ、この期間と現在のシーシー政権期を連続した一つの期間として扱うのには意味がある*1。 さて、1952年7月のナセルたち自由将校団によるクーデタで成立した体制を「7月23日革命体制」とうたアナリシス_長沢.indd 215/03/02 10:41:2522015.3 Vol.49 No.2アナリシスOGMECK YMC呼ぶ。この63年前の7月革命以前には、カイロ放火事件(1952年1月26日)という大衆暴動が発生し、なぞらこの民衆の街頭政治が革命の直接的な背景となった。これに擬えて言うならば、1年半前に成立した体制は、「6月30日革命体制」と呼んでもいい。しかし、1952年革命との比較で言うならば、軍が介入した7月3日にちなんで「7月3日体制」と名づけたほうがよいかもしれない。なぜなら、この7月3日にシーシー国防大臣(当時)が、新体制に向けての「行程表」(ロードマップ:roadmap)を示したからである。 そもそも2011年革命は、今から振り返れば、最初から軍が「行程表」によって管理してきた「革命」であった。1月25日に民衆蜂起が始まった時点で、既に人々の一部は軍の介入を予測し、あるいは期待していた。軍はこの期待に応えるとともに、2月11日に権力を掌握して以降、「行程表」を示すことによって、革命の政治プロセスを自ら管理しようとした。ただ、その結果は、人民議会選挙(2011年12月~2012年1月)と大統領選挙(2012年6月)での同胞団の勝利であり、同胞団主導の新憲法制定(2012年12月)であった。この「古い行程表」の失敗に懲りて、軍は、国民の意思の名においてムルシー大統領を解任するとともに、「革命の仕切り直し」をするために、「新しい行程表」を国民に示したのである。は「憲法改正→議会選挙→大統領選挙」の順序であった。実際には、憲法の国民投票は4カ月後(2013年11月)ではなく、遅れて半年後の2014年1月に実施された。 そして、この新憲法成立直後に、マンスール暫定大統領は、行程表の変更を表明した。すなわち、憲法制定の後に議会選挙を実施するのではなく、まず大統領選挙を優先するという新行程表であった。「憲法改正→大統領選挙→議会選挙」の順序である。もちろん、これは暫定大統領の意思というよりは、シーシー将軍をはじめとする軍の戦略見直しによるものであったろう。 さて、何事にも、特に改革には順序や手順が重要である。経済政策などはその最たるもので、政策の成否は、個々の政策の内容とともに、それぞれの順序や組み合わせ、実施時期の決定に懸かっている。しかし、経済政策の場合、利害関係者は、政策の成功によって、当初の利害が異なっていても最終的に互いにウィンウィンの関係となり得る。しかし、新体制づくりの行程表をめぐっては、ゼロサム-ゲーム的な(あるいは「オセロゲーム」的な)つ烈れ熾しな争いが展開するのである。 2011年革命において、軍が決めた行程表は、「議会選挙→大統領選挙→憲法改正」であった。ちょうどマンスール暫定大統領が提示した修正行程表「憲法改正→大統領選挙→議会選挙」の全く逆である。2011年革命の当初、民衆蜂起を先導した若者運動と彼らを支持するリベラル・左派勢力は、まず革命の理念を体現した新憲法の制定を最初に行うべきだと主張した。しかし、これに対して、革命政治の他の二つの主役であった軍と同胞団は結1. 軍が提示した2度目の行程表 2013年6月30日の民衆蜂起、「6月30日革命」を受けて、軍は翌日7月1日に声明を発表し、全ての政治勢力が48時間以内に和解するように求めた。そして合意に達しない場合には、軍が政治の安定化と新しい体制づくりのための「行程表」を発表すると通告した。しかし、翌7月2日、ムルシー大統領は、民主的選挙によって選ばれた自らの正統性を主張して、軍の勧告を拒否した。これに対し7月3日夜、48時間という和解合意の期限が過ぎたとして、シーシー国防大臣がテレビ演説を行い、軍が用意した行程表を発表した。それは、以下のような内容であった(発表内容の順序は入れ替えてある)。 (1)同胞団主導でつくられた2012年憲法を暫定的に停止する。 (2)ムルシー大統領を解任し、最高憲法裁判所アドリー・マンスール長官が暫定大統領に就任、暫定大統領が統治期間中は現憲法に代わり憲法宣言を公布する。 (3)憲法改正委員会を設置する。 (4)早期に大統領選挙を実施する。 (5)議会選挙の実施のために、最高憲法裁判所が議会選挙法の早期の承認を行う。 この「行程表演説」を受けて就任したマンスール暫定大統領は、7月8日に憲法宣言を発表して、行程表の具体的な内容を提示した。それは、まず憲法改正を最初に行い、4カ月後に新憲法の国民投票を実施する。この憲法に従って1カ月か2カ月後に議会選挙を実施し、その後で大統領選挙を実施する、という内容であった。つまり3石油・天然ガスレビューアナリシス_長沢.indd 315/03/02 10:41:25アラブの春から4年・・・混迷する中東・北アフリカ諸国 -「7月3日体制」下のエジプト-OGMECK YMCけいけん託してこの主張を押さえ込んだ。軍は、革命の若者たちを賛美しながらも、内心では自らの既得権益をはじめとして現状の体制の大幅な変更を望んではいなかった。 他方、同胞団は、自由選挙を優先することによって勢力の拡大と革命政治の主導権を狙った。こうして本来は利害が正面から衝突するはずの軍と同胞団が、一緒になって若者・リベラル勢力を押さえ込み、新憲法の制定を後回しにして議会選挙優先の行程表が実施されることになった。 軍と同胞団の結託は、2011年3月の限定的な憲法改正案の国民投票に現れた。同胞団の組織を動員した活動で、改正案は圧倒的多数で採択された。同胞団やサラフ主義者は、この国民投票は、イスラームを支持するか否虔なかの投票だとするキャンペーンを張った。それは敬ムスリム大衆に支持を訴えるためである。もちろん、この主張は憲法改正の内容を反映した内容ではなかった。だが、この国民投票がその後の同胞団とサラフ主義者の主導による2012年憲法の制定への出発点をつくったと考えれば、あながち全くの虚偽の主張ではなかったと言える。 この2011年3月の憲法改正国民投票の勝利で自信を深めた同胞団とサラフ主義者は、同年12月~2012年1月の人民議会選挙でも勝利を収める。両者が得た議席数は、総議席の3分の2を超えたが、これは憲法国民投票の賛成票とほぼ同じ比率であった。 さて、この勝利で議会を支配した同胞団は、行程表の次の段階である大統領選挙にどのように臨むかという選択の問題に迫られた。すなわち、自らの代表を送って国政を牛耳るかどうかという選択である。当時の厳しい経済の状況を見るなら、大統領選への出馬を見送り、政策実行の責任を取らず、議会の勢力を維持しながら、軍など既存の国家エリートと妥協しつつ着実に勢力を拡大し、エジプト社会における同胞団の公的地位を高めていくという選択肢はあり得た。しかし、議会選挙での勝利で自信を深めた同胞団指導部は、そのような慎重路線は採らずに、大統領選挙に突入していくことになる。 この時の同胞団の選択の決断については、今後明らかにされることも多いと思う。一つ考えられるのは、軍からの介入を恐れて、行政府の権力を握り自己防衛しようとしたことが考えられる。しかし、むしろ彼らにとって重要だったのは、行程表の最終段階である憲法改正において主導権を握るということだったのではないか。すなわち彼らには、この新憲法制定を通じて、長年にわたって同胞団が掲げてきた理想であるイスラーム国家体制の建設に向けて、その足固めをしたいという性急な願望があった。 いずにせよ軍と同胞団の対立は、この大統領選で決定的になった。同胞団のムルシー候補と決選投票を争ったのは、ムバーラク大統領の最後の首相となったアハマド・シャフィーク候補(元大統領の空軍時代の後輩)であり、実質的に同胞団と軍が対立する(ように仕組まれたという感があるが)図式の選挙であった。ただし、その後の展開を考えた場合、ムルシー政権は、8月に軍最高幹部の更迭という「クーデタ」の成功で過信が生じ、軍の実力と意思を見誤っていたことになる。 今回の新行程表(2013年7月発表)が意味するものは何だろうか。新憲法制定を最初に行うのは、若者・リベラル勢力が2011年当時に求めたように1月25日革命の理念を実現するためではない。次節で述べるように、新憲法の制定が目指したのは、2012年憲法に見られる「同胞団色」の一掃であり、軍をはじめとする既存の諸勢力(司法エリート、アズハルやコプト派教徒など)の権益や地位の再確認であった。 では、2014年1月に軍が新行程表をさらに修正して、大統領選挙を議会選挙の前に実施することにしたのはなぜであろうか。後に述べるように、現政権の基本的姿勢に垣間見られるのは、議会政治の軽視、あるいは不信である。選挙が実施され、形式的に議会政治が開始される前の段階での見方であるので、まだ印象論でしかないが、ムバーラク体制とは異なる新しい権威主義の道を歩もうとしているとの見解にはそれなりの理由がある*2。 上記で紹介した7月政変後のシーシー国防相の「行程表演説」(2013年7月3日)には続きがある。それは、テクノクラートによる挙国一致内閣の組閣、国民和解委員会の設置、報道の自由を保障する報道規範の作成、政府機関への若者の登用策の推進などである。しかし、第1のテクノクラートの挙国一致内閣は、ベテランのエコノミスト、ハーゼム・ベブラーウィー氏の首相登用などテクノクラート中心の組閣はなされたが、同胞団系などが排除され「挙国一致」は実現できなかった。「国民和解委員会」も設置されていない。後に述べるように、同胞団のテロ組織指定による弾圧は続き、現政府と同胞団との調停、「和解」の展望はいまだ示されていない。 また、「報道の自由の保障」は、むしろ危惧される事態に陥っている。若者の登用制度も目立った形ではなされていない(次回の議会選挙における「若者枠」の設置程度である)。後者の2点で見る限り、6月30日革命、すなわち反同胞団政権運動の主体であったリベラル勢力や若者運動に対するリップサービスに終わっている。アナリシス_長沢.indd 415/03/02 10:41:2542015.3 Vol.49 No.2アナリシスOGMECK YMC 新憲法の2012年憲法からの主たる改正点は、一言でいえば「同胞団色」の一掃である。改正の主要な目的は、同胞団やサラフ主義者が目指した「イスラーム国家」建設への足掛かりとなる条文を削除することにあった。もう一つの改正の柱が軍の特権的権利を再確認し、保全することであった。軍事予算が聖域であることはエジプト政治で不文律の慣行であった。この点が2012年憲法で明示化され、今回の改正でその「不可侵性」が再確認された。軍事法廷での市民の裁判の対象拡大も注目される改正内容であった。 ここでは前者の「イスラーム国家」建設阻止をめぐる条文の変更だけを紹介しておこう。2011年革命直後に問題となったのは、「イスラームを国教とし、シャリーア(イスラーム法)の原則を立法の主要な法源とする」旧憲法第2条の改正であった。革命の勢いに乗った世俗主義者やコプト派教徒などから改正の要求があった。しかし、これは強い反発に遭って一蹴されてしまった。むしろ革命後の「第1憲法」とも言える2012年憲法では、同胞団やサラフ主義者の要求が通って、この旧憲法第2条の内容を引き継いだ第4条に「イスラーム国家」の建設を準備するための新しい条文が追加された。そして、今回の2度目の革命後の「第2憲法」(2014年憲法)では、これらの条文が削除されることになった。 削除された条文の第1は、第4条のなかの「シャリーアに係る事柄については、高貴なるアズハルに属する大ウラマー機構の意見が聴かれることとする」とした条文で2. 新憲法制定と改正内容 新しい行程表の第1段階である憲法制定のプロセスと新憲法の内容について次に見てみよう。まず2013年8月20日に法律・憲法専門家の10名から成る専門家委員会が組織され、短期間の審議の後で提出されたその改正案を各界の代表者で構成する50人委員会が9月1日から審議することになった。50人委員会の委員長は、2012年の大統領選挙に立候補した元外務大臣でアラブ連盟事務局長も務めたアムル・ムーサであった。この50人委員会は、2012年憲法の時とは異なり、アズハルやサラフ主義者などイスラーム系の委員は1割程度であった。こうして2012年憲法を廃棄し、新しい憲法前文を付した改正憲法の草案が12月3日に完成した。そして翌2014年1月14~15日の2日間にわたって新憲法の賛否を問う国民投票が実施された。 当初の4カ月間での憲法国民投票のスケジュールから2カ月遅れたとはいえ比較的スムーズに改正作業は行われたと言ってよい。なぜなら、争点のイスラームに関係する条文の改正について反対を主張するはずであった同胞団系のメンバーは排除され、またサラフ主義者も参加したがその主張は一部しか通らず、順調に議論が進んだからである。 2014年憲法の国民投票の結果は、賛成が98.1%と圧倒的であり、投票率は38.6%であった。2012年憲法の国民投票の投票率32.9%よりは5.7ポイント高かった。2012年憲法の場合は、賛成票が63.8%であった。また、前述の2011年3月憲法改正の国民投票の場合は、投票率41.9%、賛成票が77.3%であった。2012年憲法および2014年憲法の国民投票では、いずれもそれぞれの反対する勢力が投票ボイコットのキャンペーンを張ったため、2011年革命直後の国民投票の投票率には及ばなかった。しかし、数字で見る限りこれらのキャンペーンにそれほどの影響力があったとは言えない。 ここで簡単に新憲法、2014年憲法の内容の特徴を旧憲法との比較で解説しておこう。新憲法の条文数は247であり、2012年憲法の236より11増えた。2011年革命以前の2007年改正憲法(サダト大統領時代の1971年恒久憲法を改正したもの)は207であったから改正のたびに増えてきたことになる。今回の新憲法で新たに追加された条文が40、2012年憲法の条文の一部修正が約100、残りの約100が修正なしに踏襲されたものである。出所:2013年3月、筆者撮影、カスルアイニー通り(カイロ)写1「憲法にイエスを」新憲法に賛成票を投ぜよとのキャンペーンの巨大ポスター5石油・天然ガスレビューアナリシス_長沢.indd 515/03/02 10:41:27アラブの春から4年・・・混迷する中東・北アフリカ諸国 -「7月3日体制」下のエジプト-OGMECK YMCある。第2には、シャリーアが意味する内容の規定を憲法に盛り込んだ第219条全文が削除された。この第219条は、サラフ主義者の主張で入れられた条項であった。 2012年憲法による「イスラーム国家」建設への足固めとは、推測でしかないが、アズハル機構を同胞団およびそのシンパである一部のイスラーム学者(ウラマー)が乗っ取ることで、いわばイランのイスラーム共和国体制に似た仕組みをつくることではなかったかと考えられる。革命前の旧憲法第2条(および2012年憲法第4条)が規定しているように、エジプトのあらゆる法律はシャリーアに反しないことが原則とされている。この点を審理する権限を与えられているのが最高憲法裁判所である。2012年憲法では、同裁判所の判決に対し、アズハルの大ウラマー機構に介入の権限を与える内容となっていた。 ここでアズハル機構と憲法改正との関係にも触れておきたい。アズハルは、ムルシー政権当時、他の国家機関と同じく、いわゆる「同胞団化」(アフワナ)の脅威を感じていた。この経験から、従来どおり、最高憲法裁判所(裁判官の大半はアズハル出身者ではなく、国立大学法学部卒である)に、シャリーアと実定法との関係を裁定する権限を委ね、自らは政治から超絶した地位を確保するという考えを示したのであろう。アズハルは、2012年憲法によって「政治的超絶性」という地位を獲得していた。すなわち、アズハル総長(大イマーム)の大統領任命制が実質的に廃止され、大ウラマー機構による自律的選挙となった。またこの大ウラマー機構そのものも、ナセルによって1960年代に廃止されていたものが、今度の憲法で復活したのである。2012年1月にアズハル機構法が改正されたが、アズハルが同胞団の影響力を排除するために軍に頼ることによって同法が改正されたというのが筆者の見解である*3。 憲法におけるイスラームと国家との関係をめぐるもう一つの重要な論点は、「市民国家」あるいは「市民性」(マダニーヤ)(この言葉には非宗教と非軍事という二つの意味がある)をめぐる問題である。1月25日革命および6月25日革命の主体の一部であったリベラル勢力からは、今回の憲法改正において、エジプトは「市民的国家」であるとの規定を挿入せよとの要求がなされた。しかし、イスラーム系の委員の強硬な反対のため、「市民的国家」の文言は条文に入らず、憲法前文中の「市民的支配による近代的民主的国家」という表現にとどまった。この問題はさらに検討しなければならないが、今回のエジプト革命の成果を考える材料となるだろう。 その他、「同胞団色」の一掃だけではなく、同胞団そのものの政治的排除を狙った改正として、宗教政党の禁止の問題がある。この問題は、もともと政党法にあった「宗教的見地もしくは宗教的基礎に基づく」政党の結成を認めないという条文を、同胞団対策でムバーラク時代に憲法の条文に「格上げ」したこと(2007年憲法改正)に発する。2012年憲法では旧憲法の「宗教政党」の定義が緩和されたが、新憲法では再び定義が厳しくなった。この新憲法に従って、既に裁判所で解散命令の出た同胞団系の自由公正党だけではなく、サラフ主義者がつくった諸政党の活動が禁止される可能性が出ている。 最後に今回の憲法改正で注目されるのが、ムバーラク政権期の政治家たちに復権の機会が与えられたことである。2012年憲法の第232条では、「解党された国民(民主)党指導部は、本憲法の施行の日から10年間、大統領選挙および議会選挙に立候補する被選挙権の行使が禁じられる(略)」とされていた。この政治的パージ条項が撤廃されたのである。この変更が議会選挙に与える影響は少なからぬものがあろう*4。3. 大統領選挙とその結果 新憲法国民投票が実施されてから10日後、3回目の1月25日革命記念日の翌日、すなわち2014年1月26日に、既に述べたようにマンスール暫定大統領は、「行程表」の順序を入れ替える考えを示した。大統領選挙を議会選挙より先に行うという入れ替えである。変更の理由の説明としては、議会選挙を先に実施すると、6月30日革命によって達成された国民の団結が妨げられるおそれがある、というものだった。この変更が軍の意向に沿ったものであることはほぼ間違いがない。2013年7月3日にテレビに登場して演説し、一躍、有名になったシーシー国防相への人気が高まっている時期に、彼を大統領選に立候補させ、現体制「7月3日体制」を確実なものにしたいとの狙いである。と同時に、軍の側には、議会選挙を先行させた場合の議会政治の運営に不信感があったのではないか、とも考えられる。2011年革命以来の小政党の乱立や、旧野党である既成政党の足並みの乱れや内紛に6アナリシス_長沢.indd 615/03/02 10:41:302015.3 Vol.49 No.2アナリシスOGMECK YMCのサバーヒー候補を圧倒した。この圧倒的票数は、サダト・ムバーラク時代の国民投票や大統領信任投票の時の比率を思い起こさせる。また有効投票率は47%であった。2012年大統領選挙の第1回投票が46%、ムルシー大統領が選ばれた決選投票が52%であった。したがって、今回の選挙で投票日を1日引き延ばしたのは、同胞団などボイコット運動が起きているなかで、どうしても前の2回の投票率のレベルには近づけたいという配慮があったからだと考えられる。 この大統領選挙には、そのようなボイコットの運動もあったことから、政府には公正に実施されたことを示す必要があった。立候補前からの選挙キャンペーンの一つとして、さまざまな「シーシー・グッズ」が売られていたが、そのうち筆者が見つけたのは露店で売られていたシーシー将軍のIDカードの模造品(2エジプトポンド=32円:以下、エジプトポンドは「LE」と略記)である。シーシー候補の氏名と生年月日(これは正確)の他、「住所:国防相、職業:エジプトを陰謀から救う仕事」などと書かれ、ID番号には「1954・11・19(生年月日)・2013・6・30(6月30日革命記念日)」という数字が印刷されている。しばらくして選挙戦が始まると、立候補者のID番号は正確に書くように、との政府からの広報が始まった。つまり立候補資格を得るためには、各県から一定の数の推薦者名簿が必要なのであるが、この用紙に立候補者の正確なID番号を書く必要があったからである。 筆者が目にした模造品のIDカードとこの政府の広報に関係があるかどうかは不明だ。ただし、ある地方の県知事が公的権限を利用してシーシー候補の推薦者名簿を作成したとして更迭されるというニュースもあった。政府としては、公正な選挙を実施していると見せるために、 その後、2014年3月8日大統領選挙法が発表された頃から事実上の選挙戦が始まった。シーシー将軍は、早くも前年7月の演説直後から、顔写真の入りの「シーシー・チョコレート」が販売されるなど、国民の間に爆発的な人気が出ていた。いよいよ選挙が迫る時期になると、シーシー大統領を待望する勝手連的なキャンペーンが熱を帯び、カイロの中心街には、地元の裕福な有力者がつくった巨大なポスターが各地区で掲げられた。シーシー将軍が軍籍を離脱して、ようやく立候補の意思を表明したのは、立候補受け付けが開始される3月31日の5日前、26日のことであった。この際の演説では、国民の熱烈な期待に応えるため、長年、着慣れてきた軍服を脱ぐ決意をした、という感慨がこもった決意が示された。 当時、筆者はカイロに滞在していたが、演説の翌日にシーシー候補の巨大ポスターの一つが手回しよく軍服姿から背広姿に替わったのを見て驚いた。シーシー元将軍が正式に立候補を表明して、届け出を出したのは、4月14日のことである。その5日後の19日には、ハムディーン・サバーヒーも立候補を表明した。サバーヒーは、ムルシー政権を追い込む「救国戦線」を組織した中心人物である。2012年の大統領選挙では大方の予想を覆して第1回投票で第3位の健闘を見せた。選挙に立候補したのは、この2人だけだった。ちなみに2012年の大統領選に立候補したのは、13名(その他、立候補資格を満たさないとされた候補届出者が4名いた)であった。 大統領選挙の投票は、当初、5月26日と27日の2日間であったが、1日延長されて28日まで行われた。6月6日に選挙結果について正式の発表があり、シーシー候補は2,378万票(96.9%)を獲得し、75万7,000票(3.1%)きえき易していたのであろう。辟へ出所:2013年3月、筆者撮影、オラービー広場(カイロ)出所:2013年3月、アルフィベイ通り(カイロ)で購入写2 立候補直前のシーシー候補の大写真:「ザイーム(指導者)」と書かれてある写3 露店で売られていたシーシー元帥の模造IDカード7石油・天然ガスレビューアナリシス_長沢.indd 715/03/02 10:41:33アラブの春から4年・・・混迷する中東・北アフリカ諸国 -「7月3日体制」下のエジプト-OGMECK YMC拭しようとする努力を見せている。大統領のように、夫人がファーストレディとして華々しく活動することは控えており(これはムルシー大統領夫人も同じだった)、まだその人柄とか人脈とかについて多くは明らかにされていない。サダト大統領と同じく額に「祈りダコ」(胼胝)がある敬虔な人物であり、選挙キャンペーン中は自転車に乗るパフォーマンスをするなど軍人のイメージを払 国防大臣時代にはロシアを訪問してプーチン大統領と会談、大いに意気投合し、その後はサングラスなど心酔したプーチンの真似をした服装をしていると一部のメやディアからは揶されることもあった。確かに、ストロングマンの志向があるように見えるが、2011年革命当時、最高軍事評議会の最若手メンバーとなったのがいわば政界へのデビューであって、公式のキャリア以外は知られていないことが多い。 シーシー大統領の就任で思い出すのは、筆者がエジプトに初めて長期滞在した1980年代初頭、就任直後の若々しいムバーラク大統領の姿である。同じく軍人出身のムバーラク大統領は、当時53歳、今回のシーシー大統領よりもさらに6歳若く、国民の期待を一身に集めた。 新大統領が当時しきりに繰り返していた言葉が「インディバート」(規律)であった。サダト大統領時代にピラミッド近くの国有地に不法に造られた歓楽施設、サハラシティー(外国人観光客がベリーダンスを観賞した)は、一夜のうちに撤去された。道路の違法駐車も厳しく取り締まられ、カイロの街路は見違えるようにきれいになった。後者はすぐに元の姿に戻ってしまったが。今回もシーシー大統領は、同じ「インディバート」という言葉を口にしている。2011年革命後、民衆の信頼を失った警察の元気とやる気がなくなり、カイロの中心街の目抜き通りは、衣料品や果実を売る移動式の露店や屋台が占拠する状態となった。しかし、新大統領の号令一下、全ての屋台が撤去され、露店商たちは中心街から外れた地方行きバスの発着ターミナルの広場に強制的に移された。こうした手法は、初めの頃のムバーラク大統領と同じく軍人的なものであり、その評価は人によってさまざまであろう。ゆ揄た こふっしょくあえて厳しい処断をこの知事に下したのだろう。実際に選挙のプロセスが公正なものであったかというと、敗れたサバーヒー候補側が当局の妨害があったと訴えていることもあり正確なところは分からない。 サバーヒー候補は、2012年の大統領選(第1回)では健闘して450万票を獲得したが、今回はその6分の1の票しか獲得できなかった。サバーヒー候補の敗因としては、投票した有権者の多くが、実行力があると考えて軍人のほうを選んだためであろう。サバーヒー候補は、選挙中に盛んに軍の政治介入を批判したのであるが、選挙結果を見る限り、この問題は争点にならなかった。この点は今後のエジプトの民主化を考える上で重要な点である。例えば、トルコの民主化と軍の文民統制の動きとの比較は参考になるであろう*5。 また、そもそも「ナセルの再来」を自任するシーシー候補と*6、新ナセル主義とも言える政治潮流を率いるサバーヒー候補の間では、軍の政治介入というこの論点以外に他に目立った政策的な争点がなかった。また、軍の政治介入を批判したサバーヒー候補であるが、2014年初頭、反ムルシー政権運動が高まるなかで軍の介入を期待する発言をしていた*7。また、シーシー大統領の単独立候補では、信任投票のようになってしまうから、負けると分かっていてあえて出馬したのだという見方もある。 シーシー将軍は、前述のように1954年11月の生まれであり、サバーヒー候補(1954年7月生まれ)やムルシー元大統領(1951年8月生まれ)とほぼ同じ世代である。職業軍人の道を進んだ彼には直接の関係はなかったと思われるが、1960年代末から1970年代初めにかけての大学の学生運動の世代、いわゆる「70年世代」(日本の安保「全共闘世代」と重なる年代)に属する。 シーシー氏は、イスラミック・カイロの庶民街、ガマーリーヤ地区の生まれで、父親はハンハリーリに店を出していた銅細工職人という庶民階級の出身である。ただし、父方の親族は軍人が多いことで知られるムヌーフィーヤ県の出身である。ちなみにサダトとムバーラクの2人の元大統領ともに同県の生まれである。ただ、この2人の4. 議会選挙制度改革と選挙の展望 議会選挙の実施は行程表が示した予定より大幅に遅れた。シーシー新大統領が高等選挙委員会を召集したのは2014年7月15日であり、さらに同委員会の審議も長引き、投票日も当初の2014年秋から、最終的には2015年3月まで延びた。遅延の理由の一つは、おそらく選挙制度の見直しをめぐって、新政府側と政党側との間で意見の相違が8アナリシス_長沢.indd 815/03/02 10:41:332015.3 Vol.49 No.2アナリシスOGMECK YMCあったからではないかと思われる。新憲法の下での議会制度の大きな変更点は、サダト大統領時代に設置され、革命後の2012年憲法においても継承してきたシューラー(諮問)議会が廃止され、一院制となったことである。問題となったのは、この一院制の新議会において個人選挙区と政党別比例区との間で議席数をどのように配分するかであった。 当初の案では個人選挙区を全議席数の80%、政党別比例区を20%とする案であったという。これに対して政党側が反発し、若干の調整をして決まったのは、全540議席、その70%を個人選挙区、25%を政党別比例区、5%を大統領任命とする案であった。その後11月になってさらに個人選挙区の選挙区数に関する新しい案が出された。それは全国を146区とし、そのうち1人区を約60%、2人区を約25%、3人区約15%とするという改正案であった。これまでの選挙はムバーラク時代も、前回の2011~2012年選挙も全て2人区であったから大幅な変更と言える。最終的に12月になって、修正案をほぼ踏襲した内容の議席配分が発表された。それは全議席数567、そのうち大統領の任命議員である27議席を除いた残りの540議席のうち、420議席を個人代表区、120議席を政党比例区とする案であった。また、革命直前の2010年に実施されたムバーラク期最後の選挙で導入された「女性枠」が復活して56議席が指定された他(2010年選挙では64議席)、16議席が「若者枠」、8議席が「身体障がい者枠」、24議席が「コプト派教徒枠」と指定されたという。 これまでの選挙制度(議席数・選挙区)の変化を簡単に見てみよう*8。 ・2010年選挙:大統領任命10議席;個人選挙区444議席(全て2人区の222選挙区):総議席数454 (女性枠64) ・2011~2012年選挙:最高軍事評議会(大統領の代行)任命10議席;政党別比例区332議席;個人選挙区166議席(全て2人区の84区):総議席数508 ・2015年選挙(予定):大統領任命27議席;政党別比例区120議席;個人選挙区420議席(1人区・2人区・3人区に区分);総議席数567 (女性枠の他優先枠104) これら3回の選挙の選挙制度を比較した場合、総議席数が毎回増えていることが分かる。また、前回の選挙と比べた場合、今回の選挙では大統領任命(前回は最高軍事評議会任命)議員が10名から27名へと増えているのに加えて、多数の優先枠が設けられているのが目を引く。民主化の進展を気にしている人には否定的な傾向と考えられるかもしれない。 もちろん前回の選挙制度との最大の相違は、政党別比例区の議席数と個人選挙区の議席数の比率が逆転したことである。2011~2012年選挙ではこの比率が2対1(332議席:166議席)であった。今回はこれが逆転して1対3.5(120議席:420議席)となっている。あるいはムバーラク時代の個人選挙区中心の制度に回帰していると言ってもよい。この変化と前述した新憲法による旧国民民主党の幹部の復権を重ねて考えることは意味のあることであろう。すなわち、個人選挙区では、おそらく旧国民民主党のメンバーなど地方の有力者を中心にして、既得権益の保持を求め、政府に忠実な態度を取る保守系の議員が選ばれるのではないか、ということである。また、個人選挙区の議席数を増やし、政党比例区の議席数を減らしたのは、現政権が政党政治に不信感を持っていることの表れなのかもしれない。 また、今回の個人選挙区が2人区だけでなく1人区や3人区を加えた複合選挙区となっているのにも大きな変化の意味がある。エジプトの議会選挙における2人区は、1960年代のアラブ社会主義体制の遺物であり、議席の半数を「国民」(あるいは人民:シャアブ)の主体である「労働者」「農民」に割り当てるという原則に由来する。つまり、2人区で選ばれる2名の議員のうち必ず1名は労働者か農民にする、という考え方であった。しかし、それは虚構であり、実際には労働者枠で裕福な企業経営者が、農民枠で大規模土地経営者がそれぞれ立候補していた。今回の選挙では、この議席の優先枠が拡大し、労働者・農民に加えて、コプト派教徒、若者、障がい者、在外エジプト人、女性も加わった。この変更は、新しい2014年憲法の条文を反映したものである。労働者・農民を議席の半数以上にという規定の代わりに、それぞれの資格の枠に議会で「適正な代表性」を与えるという条文である。 なお、今回の選挙では、同胞団系の議員の当選の可能性は、ほとんどないと考えていいだろう。自身の政党、自由公正党は解散を命じられているし、同胞団が選挙ボイコット戦術を取るか否かにかかわらず、高級幹部・中堅幹部のほとんどが現在、逮捕されているか、あるいは海外逃亡中だからである。また、仮に立候補した場合でも、選挙妨害が起きる可能性は十分に考えられる。 以上のように2014年12月に選挙制度の概要が示された後、今年2015年1月になってようやく選挙日程が発表された。それによると3月21日から5月7日の間、約6週間をかけて、第1期14県、第2期13県と2段階に分けて投票が行われるという。3月に選挙の日程が決まったのには、おそらく同じ月に開催されるエジプト経済支援会議との関係が考えられる。エジプトに対する西側ドナー国の経済支援の条件として、陰に陽に「民主化の進展度」が議論されてきたからである。以下、事態は極め9石油・天然ガスレビューアナリシス_長沢.indd 915/03/02 10:41:33アラブの春から4年・・・混迷する中東・北アフリカ諸国 -「7月3日体制」下のエジプト-OGMECK YMC ・エジプト・ワフド連合:新ワフド党を軸にして、エジプト社会民主党、改革発展党、保守主義者党、意識(ワイイ)党、アラブ連盟党、公正自由アラブ党、改革覚醒党、民族協調潮流などの少数政党が結集。政治的傾向としては「保守リベラル系」。「旧リベラル」と分類した新ワフド党は、1952年革命前の大政党がサダト大統領期に再結成を認可された「老舗」の野党。地主など地方有力者などが支持者に多い。改おい革発展党は、故サダト大統領の甥のムハンマド・アンワル・サダトが党首である。サダトは旧国民民主党に属していた頃は反主流派に属し、2011年革命後は同党のメンバーから再建の希望を託されてきた保守政治家である。 ・エジプト戦線:旧国民民主党の有力者たちが再結成した諸政党の連合体。近代エジプト党、エジプトわが祖国党、共和人民党、エジプト国民運動、民主的世代党、アラブ民主ナセル主義党、エジプト民族党、エジプト解放党。このうちエジプト国民運動は、前に述べたムバーラク政権で最後の首相を務めたアハマド・シャフィークが率いている。 ・エジプト自由連合:ムーサ元外相が率いる連合。大会(ムウタマル)党、明日の党、タガンマウ党などが結成。実はこれらの3政党は、上記の旧国民民主党系のエジプト戦線に入っていたが(エジプト労働総同盟や専門家協会連合も加入)、その後分離して新しい連合を結成。ムウタマル党はムーサの政党、明日の党は2001年に新ワフド党から分離したリベラル政党、タガンマウ党は、「旧左派」と分類したが、サダト時代に「見せかけの政党政治」を演出するため、アラブ社会主義連合を3分割してできた左派政党。 ・市民的勢力の民主的連合:前大統領選挙でサバーヒー候補を支持した「新リベラル」「新左派」の諸政党の連合。民衆的潮流(サバーヒーの政党)、社会主義民衆同盟、自由エジプト党(アムル・ハムザーウィー党首)、尊厳(カラーマ)党、ドストール党、公正党、パンと自由党。 ・エジプト復興連合:思想傾向は上記とほぼ同じと思われる。同胞団や旧国民民主党の復活を阻止することを要求。25-30連合、市民民主潮流、国民ブロック、エジプト社会党、エジプト共産党。「25-30連合」とは、1月25日革命と6月30日革命の理念を引き継ぐことを目指す若者運動が組織した政党。 ・社会公正連合:変革のための国民協会、ナセル主義人民大会党、エジプトの騎士党、革命エジプト党、平等発展党、自由社会党、人民党など「新左派」諸政て流動的であるが、3月の選挙に向けての政党の動きを簡単に紹介しておこう。 まず、議会選挙に向けての政党間の競合と協調の動きを概観する。現在のエジプトでは、単独で与党を形成するような政党は存在しない。したがって、選挙において複数の政党が連合を組んで政党リストを作成するためにしのぎ互いに鎬を削ることになる。2011~2012年の人民議会選挙において、第一党となった同胞団系の自由公正党も、与党となる政党連合「エジプトのための民主的連合」を結成して選挙戦に臨んだ。同連合の獲得議席は、全議席508議席のうち235議席(46.3%)、自由公正党自身の獲得議席は213議席(41.9%)であり、与党の地位は得たが、単独では過半数を獲得できなかった。 7月3日の政変以降、選挙に向けて最初に目立った動きを見せたのは、元外相のアムル・ムーサであった。彼は、2012年の大統領選挙では第5位(獲得票数11%あまり)と落胆する結果に終わったこともあり、大統領になる希望は捨てて来るべきシーシー政権の足固めに向けて補佐役の仕事を求めていたのであろう。実際、彼は、9月には憲法制定50人委員会の委員長に就任し、その職務をまっとうした。当時、ムーサがシーシー大統領の政権でさえあった。7月政は首相を務めるのではないかとの噂変後、間もなく、ムーサは6月30日革命に結集した新旧のリベラル・左派勢力の統合を目指して、「エジプト民族連合」というプラットフォームを組織しようとした。彼自身は否定しているが、シーシー政権結成時に与党となる政党連合を形成する動きであったといってよいであろう。 しかし、この「エジプト民族連合」の結成はすぐに挫折した。シーシーを支持する点では一致していた「新旧」のリベラル・左派勢力が互いに敵対したからである。ムバーラク時代の野党であった「旧リベラル」の新ワフド党や「旧左派」である連合(タガンマウ)党は、「新リベラル」の憲法(ドストール)党などと連立を組むのを拒否した。ドストール党は、国際原子力機関(IAEA)元事務局長でノーベル平和賞受賞者のムハンマド・エルバラダイが結成した政邁な理念は、「旧リベラル」「旧党である。同党が掲げる高左派」の立場からは、あまりにも西洋直輸入的でエジプトの実情には合わないと見られたからであろう。また、同じ「新リベラル」の政党、コプト派教徒でエジプト一の富豪、ナギーブ・サワイリスが結成した自由エジプト人党もムーサの「エジプト民族連合」に加わることを拒否した。 その結果、8月以降、八つ以上の政党連合が乱立することとなった。3月の選挙に向けて、政党の組み合わせの変化や連合そのものの結成・解消があると思われるが、以下、現時点で報道されているものを挙げてみよう。こうまいうわさアナリシス_長沢.indd 1015/03/02 10:41:33102015.3 Vol.49 No.2アナリシスOGMECK YMC党の連合体。 ・独立潮流連合:民主平和党、エジプトアラブ社会主義党、革命勢力ブロック。 ・エジプト万歳連合:新しい夜明け党、革命の党。 以上の他、カマール・ガンズーリー元首相が率いるグループが、上記の旧国民民主党系の「エジプト戦線」を含め、イスラーム勢力の復活を阻止するため世俗派勢力の結集を目指して活動を進めている。ガンズーリーは、元計画大臣の経済専門家で、ムバーラク期と革命後の軍政期で2度首相を務めており、革命の前と後の時代をつなぐ役割を果たそうとしているのであろう。 さて、全くの劣勢に置かれているイスラーム系の諸政党のなかでは、ワサト(中道)党、独立党(旧社会労働党)、強いエジプト党(元同胞団改革派リーダー、アブデルムネエム・アブールフトゥーフ党首)、サラフ主義者のヌール(光)党と国民(ワタン)党などが選挙参加の意向を示しているようである。武装闘争(テロ)路線を放棄したイスラーム団の建設発展党などは選挙をボイコットするとの報道がある。 2015年1月12日にシーシー大統領と21の政党代表との会議が開かれた。大統領は、公正な選挙を約束したが、それと同時に政党連合の乱立を避けて、挙国一致の統一リストを求める発言があったという。この発言に積極的に反応したのが、やはりムーサ元外相であり「統一的な国民的リスト」の作成に向けて動き出したという。もしこの工作が成功すれば、「7月3日体制」支持、シーシー政権支持の「翼賛会的」政党連合が形成され、この与党連合に参加しない諸政党が野党となるという具合に、新議会の勢力地図が描かれるかもしれない。いずれにせよ同胞団勢力を徹底排除する一方で、旧国民民主党勢力が復権するという議会の風景になる可能性が高い。5. 同胞団の弾圧とテロの激化、そして若者運動の抑圧つ烈れかしつようかつ執会」(NASL)を結成し、復権を求める運動を進めた。海外でもカタールやトルコに逃れたメンバーを中心にして、欧米やアフリカ諸国など国際社会に働きかけた。例えば2014年1月には、国際刑事裁判所に非人道的行為に関する審査の要請を行った。しかし、政府の弾圧が続くなか、同年8月にワサト党、9月にサラフ系のワタン党がNASLから離脱するなど国内での反対運動は押さえ込まれていった。拗であった。 政府による同胞団弾圧は、苛2013年12月、ナイル・デルタのダカハリーヤ県治安警察襲撃事件をきっかけに、政府は同胞団をテロ組織に指定した。翌年2014年2月にはカイロ緊急事態裁判所が同胞団をテロ組織と認定する判決を示し、司法も政府の決定に正統性を与えた。同年8月に自由公正党に裁判所から解散命令の判決が下され、翌9月に政府が解散の執行を命令した。同じく10月には裁判所の判決に従ってNASLの解散も執行された。 また、同胞団の活動を押さえ込み、サラフ主義者を統制するために、ワクフ(宗教的寄進)省が全国のモスクの管理強化の政策を打ち出した。これは政権末期のサダト大統領が全てのモスクの国有化を決定した時を想起させる措置であった。また、経済面での締めつけも強まり、「ムスリム同胞団資産凍結委員会」が設置され、同胞団幹部が所有する不動産・動産・資金の移動を禁止し、1,000以上の団体に資金凍結の処分を下した。同胞団の社会活 2013年8月14日は、同年の6月30日(民衆蜂起)、7月3日(軍の介入)とともに歴史的な記念日となるであろう。この日、クーデタを批判し、ムルシー大統領の復職を求めて座り込みデモを続けていた同胞団支持者に対して、治安当局による強制排除が行われ、多数の人命が失われたからである。特に中産階級の居住地区であるナスル・シティーのラーバア・アダウィーヤ広場での「虐殺」を、ヒューマンライツ・ウォッチ(HumanRightsWatch)は「エジプトの天安門事件」と呼んで非難した。この広場での犠牲者の数について、同胞団は1,000名以上と主張し、政府側の事実究明委員会は736名と発表、ウィキサウラ(革命ウィキペディア)という民間団体の統計では少なくとも932名の死亡が確認とされている。 事態の真相の究明には、さらに時間がかかるだろう。その場合、銃器の使用など治安当局の不必要な強制措置は当然非難されるべきだが、この強制措置を予測しながら多数の女性や子どもを動員し、殉難者(シャヒード)を増やして国際メディアなどからの同情をかう戦略を同胞団指導部が採ったとしたら、その行動に対しても無批判の同情はできない。この弾圧で幹部の子息や子女が死亡したという報道にも接したが、それゆえにこそ人道主義的で客観的見地に立った事実の究明と評価が必要なのである。 その後、同胞団は、イスラーム団の建設発展党などとともに、ムルシー政権の正統性を訴える「正統性支持国民協11石油・天然ガスレビューアナリシス_長沢.indd 1115/03/02 10:41:33アラブの春から4年・・・混迷する中東・北アフリカ諸国 -「7月3日体制」下のエジプト-OGMECK YMCロ事件が起きた。2004年10月のタバ事件(31名死亡)、2005年7月のシャロムシャイフ事件(88名死亡)といった過激派の襲撃・爆弾テロ事件である。注意したいのは、いずれの事件も10月戦争記念日や7月革命記念日を狙って計画され、エジプト政府の正統性を損なうことを目的にしていたという点であった。2011年革命後の現在のテロ事件においても、これと共通した特徴が見られる。 10年前のテロでは、事件への関与を疑われてシナイ半島の地元民であるベドウィン系住民が大量に逮捕された。彼らはカイロなどいわばエジプト「本土」資本による観光開発から疎外されているという経済的不満を抱いていただけでなく、そもそも元々エジプト人意識が希薄であった。彼らに兵役が課せられるようになったのも革命後の最近のことである。そうした住民の不満や反政府感情に外部から来たイス出所:2013年3月、筆者撮影、カスルニール通り近辺(カイロ)写4 殉難者(シャヒード)を悼む壁画(グラフィティ):絵の下に軍政打倒などと書かれている動の基盤であった病院や学校は活動の継続は認められたが、学校からは同胞団系の教員の解雇が相次いだ。 昨年、世界を驚かせたのは、同胞団の幹部・メンバーに対する大量死刑判決であった。特に中エジプトのミニヤ地方裁判所は2014年3月に同胞団員529名に死刑判決を下したのに続いて、4月にはさらに683名に死刑判決を下し、そのなかには最高指導者ムハンマド・バディーウも含まれていた。ただし、8月に死刑の最終的判断を下す共和国ムフティー(イスラーム法判断の最高権威)は、証拠不十分として死刑判決の無効を宣言し、裁判はやり直しとなった。NASLの運動を含め、抗議デモが規制されるなか、若手同胞団員の関与が疑われるテロ事件が頻発した。以下では、革命後のテロ活動の展開について簡単に概観しておきたい。 2011年革命後、シナイ半島でのテロ活動が活発化した。革命直後に起きた天然ガスのパイプライン(イスラエル・ヨルダン向け)の爆破事件がその前触れであった。テロ活動は、リビア内戦の終結とともに流出した武器が大量にシナイ半島に渡ることでさらに勢いを増した。テロ問題は、シーシー政権の登場によって早々に解決できるかと期待されたが、さらに事件は凶悪化していった。ダーイシュ(ISIS「イラクとシャーム〈大シリア〉のイスラー首死体ム国」)の台頭にも刺激されて、シナイ半島でも斬がたびたび発見されるようになった。テロ組織の壊滅に時間がかかっているのは、米国の支援(アパッチ・ヘリコプターの供与の遅れ)やイスラエルとの関係(和平条約によるシナイ半島駐留軍の制限)などの問題もあるが、そもそもこのテロ問題の根が深いことに原因がある。 今から10年前、シナイ半島では相次いで大規模なテざんしゅラーム過激派が付け込む形で勢力を拡大してきた。 これらの過激派組織のうち最もよく知られているのが「エルサレムの支援者」(その後、「シナイ州のイスラーム国」を名乗る)であり、7月政変以降、さらに活動を拡大した。2013年9月の内務大臣爆殺未遂事件や2014年7月の西部砂漠の軍事チェックポイント襲撃事件などが代表的である。さらに最近になって活動を激化させているのが、「エジプトの兵士」と呼ばれる組織であり、政府側は同胞団の過激分子が加わっているとの見方をしている。2014年1月25日革命3周年記念日および同年6月30日革命記念日に爆弾テロなどを起こしている。 政府はこうした頻発するテロ事件に対して、テロ団体の定義とテロから防衛する公共施設を指示する「テロ団体法」を2014年11月に公布している。こうしたテロ活動の激化によって実質的に大きな影響をこうむっているのが、2011年革命を先導した若者運動である。彼らの運動は、テロ事件の頻発を口実にして、治安を最優先とする政府の世論操作によって大きな制約を受けることになった。彼らの活動に大きな打撃を与えたのが、2013年11月の抗議規制法の公布であった。同様の治安立法は、ムルシー政権下でも用意されていたが、この法律によって街頭でのデモ活動の事前届け出制が強化されることになった。その結果、同年12月以降、4月6日運動などの若者活動家の多くが逮捕・勾留されることになった。前出のウィキサウラによれば、2013年12月末までの逮捕者は2万1,317名、さらに2014年5月15日までで逮捕者が4万1,163名に増えたとする。その大半は同胞団関係者であるが、少なくない数の若者運動の活動家も含まれている。ウィキサウラのサイトには、その後の更新がアナリシス_長沢.indd 1215/03/02 10:41:34122015.3 Vol.49 No.2アナリシスOGMECK YMCかいゃく刺激的な皮肉と諧で人気を集めたキャスターのバッサーム・ユースフが、抑圧的な政治環境を理由に人気番組「バルナーミグ」(プログラム)の終了を表明したのも同様である。10月には、政府系・独立系17紙が、国家・軍・警察・司法に疑義を抱かせる内容の報道を自粛するとの共同声明を発表するに至った。2011年2月以降、革命政治の主役を演じてきた若者運動、同胞団、軍の3者は、2度目の行程表によって、軍のオセロゲーム的な一人勝ち状態になっているように見える。謔ぎないことから、シーシー政権期に入って以降、この団体の活動にも規制がかかったことが推測される。 こうした街頭運動の規制など若者運動を抑圧し、いわば革命の時代を終わらせようとする政府の政策に、官民のメディアも協力している。典型的な例が、2013年12月に逮捕されたばかりの4月6日運動の活動家の電話の会話記録を放送で流して、外国勢力との関係を示唆しようとした民間テレビ局「カイロと人々」による報道である。また、シーシー政権が成立した2014年6月には、6. 革命後の外交政策の展開 2011年革命直後から、エジプト外交は新しい展開を見せ始めている。それはムバーラク時代の束縛から解放されたかのようであった*9。この流れは、軍政期、ムルシー政権期を経て、現在のシーシー政権においても続いている。この新展開の主な特徴、あるいは課題として次の3点を挙げることができる。①域外大国との関係の見直し、②アフリカ外交の重視、そして③アラブ世界での地位回復である。もちろん、各国別の政策では時期によって大きな変化があった。特に中東域内の二つの大国、イランとトルコとの関係について最初に触れておこう。 まず、対イラン関係について。2011年革命直後にイランの軍艦がスエズ運河通行の許可を得たことは世界を驚かせた。さらに、就任直後のムルシー大統領が、2012年9月にテヘランで開催された非同盟諸国首脳会議に出席した他、アフマディーネジャード大統領(当時)が翌年13年2月にエジプトを訪問したことなどから、イラン革命後の1980年以来の断交状態が変化するのではとの観測も流れた。一方、革命の年2011年9月にエジプトを訪問したトルコのエルドアン首相(当時)は、市民から大歓迎を受けた。しかし、その後のイランとの国交回復の観測が遠のいたのと同じく、またトルコとの関係も2013年7月政変によって一挙に悪化した。トルコの公正発展党(AKP)政権は、エジプトの同胞団政権に同じ道を歩む同志として期待していたからである。このような激しい動きがあったが、この2011年の革命が与えた域内大国の3カ国の関係の変化は、今後の中東の地域政治に大きな影響を与える可能性がある。 さて、第1の課題として挙げた域外大国との関係の見直しとは、つまりは対米関係の変化である。7月政変を予測できなかったのは、米国の見通しの甘さであった。以前からポスト・ムバーラク期を見越して同胞団と接触していた米国は、穏健派イスラーム主義勢力が民主化を導くという「トルコ・モデル」の図式的理解に固執していたのかもしれない。全面的に支えてきた同胞団政権の崩壊を見て、米国は、政変後の9月に予定されていた合同軍事演習、ブライト・スターの中止を通告した。さらに10月に米国議会は、7月政変をエジプトの民主化改革に遅延をもたらしたと批判して、援助の供与中止を決議した。さらに、テロ組織対策に必要なアパッチ・ヘリコプターの供与も中止された(その後14年12月に供与)。その上、翌2014年3月の同胞団メンバーに対する大量の死刑判決でさらに米国は態度を硬化させた。両者の関係が改善に向かうのは、シーシー政権が成立する頃からであり、凍結されていた軍事援助の一部が7月に供与されることになった。9月にケリー米国務長官がカイロを訪問、その後、シーシー大統領が国連総会に出席して国際社会にデビュー演説したのを機会にようやくオバマ大統領と初会見をするにいたった。しかし、両国の間のわだかまりはまだ解けてはいない。 対米関係と対照的であったのが、対ロシア関係である。7月政変後の2013年8月に、国防大臣であったシーシーがモスクワを訪問したのは、エジプト・ロシア関係の歴史において画期的な出来事であった。ほぼ同じ時期には化学兵器問題でシリアへの軍事介入を米国が断念するという動きが起きていた。その結果、米国の対シリア「弱腰」政策に不満を持ったサウジアラビアが、ロシアの武器(ミサイル・システム、ミグ戦闘機など)をエジプトが購入する資金を援助するという複雑な構図ができあがった。こうしてエジプトとロシアは、旧ソ連時代の友好協定(1971年3月締結)を1976年5月に廃棄して以来、約40年ぶりに急接近することになった。2013年9月にエジ13石油・天然ガスレビューアナリシス_長沢.indd 1315/03/02 10:41:34アラブの春から4年・・・混迷する中東・北アフリカ諸国 -「7月3日体制」下のエジプト-OGMECK YMCプト外相がモスクワを訪問した後、11月にロシアの外相・国防相がカイロを訪問し、初めて両国で2+2の会議が開催された(第2回は2014年2月に開催)。また、2月にはプーチン大統領が初めてエジプトを訪問した。 第2のエジプト外交の課題は、アフリカ外交の重視である。特に喫緊の課題となっているのが、エジプトの生命線、ナイル川の上流の青ナイルで進められているルネサンス・ダム建設問題である。一説では、ムバーラク大統領が1995年にアジスアベバでの暗殺未遂事件が起きて以来、ないがしろにされて対エチオピアをはじめアフリカ外交全般が蔑きたという見方もある。しかし、ルネサンス・ダムは、予定される貯水量が630億?で、エジプトの誇るアスワン・ハイダムの貯水量1,110億?の半分以上にも及ぶ大規模ダムであり、その影響は甚大である。それゆえ革命直後から、現在まで熱心な外交努力が続けられてきた。 最近では「ナイル川にとってのエジプトの中心性」をエチオピアに認めさせるなど成果も上がっている、というのがエジプト外務省当局の説明である。エジプトのコプト派教会と縁の深いエチオピア正教会の総主教が訪問して両国の歴史的絆を確認するといった外交を見ていると、ナセル時代の外交が甦ったように思える。アフリカ独立の旗を振った1960年代のナセル時代のエジプト外交の遺産は、まだ対アフリカ外交では有効であるのかもしれない。エジプトは、7月政変の後、これをクーデタと判断したアフリカ連合のメンバーから外された。しかし、同胞団の妨害工作をも乗り越え、就任直後のシーシー大統領が同連合の総会に参加を許され、アフリカ地域政治に復帰を果たしている。 第3のアラブ世界での役割の回復は、2011年以降の激しい変動のなかで舵取りの難しい課題となった。7月政変後にエジプト外交が達成したのは、サウジアラビアとの枢軸関係の再構築であった。7月政変を支持したサウジ・アラブ首長国連邦(UAE)・クウェートは、総額120億ドルの財政援助を表明した。また後述のように、3カ国は対エジプト投資にも積極的な姿勢を見せている。これと対照的だったのが、同胞団政権を支援してきたカタールとの関係悪化であった。しかし、サウジの圧力にかじカタールが屈服する形でGCC内での協調関係が回復するのと並行して、カタール・エジプト関係も改善し、カかくまタールが匿っていた同胞団メンバーの海外退去措置などが取られるようになった。 このエジプト=サウジ枢軸、あるいはエジプト=湾岸同盟の結成をめぐって注意したい出来事は、昨年2014年8月のリビア民兵組織に対するエジプトとUAEの合同空爆作戦である。同作戦は、事前に米国への通知がなかったとも言われる。当時、政情不安なリビアでは、エジプト人殺害事件が断続的に起きていた。現在のシリアやイラクで燃え盛るテロの猛火の発火点となったリビアに対して、アラブの枢軸同盟が実施した軍事作戦の意味は大きい。 最後にパレスチナ問題への対応についても見ておきたい。パレスチナ問題への関与は、現在でもアラブ政治において変わらない重要性を持っている。2011年以降、イスラエルによるガザ地区への攻撃が2度起きた。2012年11月と2014年8月である。特に後者では2,200名以上のパレスチナ人が殺害され、10万名以上が家を失う被害を受けた。いずれにおいてもエジプトは停戦交渉の主役となったが、2012年のムルシー政権、2014年のシーシー政権の調停の成果については、同胞団側・現政権側の立場によって評価が大きく異なる。2012年の調停は迅速だったが、2014年は遅すぎたとか、反対に2012年の停戦内容は屈辱的だったなどとするものである。シーシー政権は、被害の大きかった2014年の攻撃に対して、10月にガザ復興会議の開催に成功している。ただし、ガザ地区に対しては、物資搬入のトンネルの破壊を徹底して実施してきた。 その理由は、シナイ半島でのテロ活動の制圧であるが、ガザ地区を実効支配するハマースへの対抗策でもある。同胞団と関係の深かったハマースに対しては、国内での全ての活動を禁止する判決が出る(2014年3月)など抑圧姿勢を示してきた。とはいえ、2011年革命直後にパレスチナ解放機構(PLO)とハマースの和解の調停役を演じたように、パレスチナ問題における複雑多様なプレーヤー相互の関係を調整する役割を、エジプトが国際社会から期待されているのも確かである。7. 経済改革の展望 7月政変の直後に株価は7.3%急上昇した。同様の上昇は、2011年革命時にも、ムルシー政権発足時にも起きている。市場がいつも政変を歓迎するのは、経済改革への期待からであろう。シーシー政権の経済実績を見る14アナリシス_長沢.indd 1415/03/02 10:41:352015.3 Vol.49 No.2アナリシスOGMECK YMCと、国際通貨基金(IMF)は2015年のGDP成長率を3.5%と予測している。当初の4.1%の予測から引き下げられたが、それでも2011年革命以来、この3年あまり2%台に低迷していたことを考えるなら、経済成長に回復の兆しが見えている。経済回復の鍵の一つは、観光収入の増加である。2014年第3四半期の観光収入は前年比112%増加したとされており、7月政変後、中断されている日本へのEgyptAirの直行便も再開の話が出ている。観光収入の増加が治安の安定化と直結していることは言うまでもない。シーシー政権の二つの政策課題、治安回復と経済成長は互いに深く結びついている。 2011年革命の背景の一つとされたのが、若者層の失業問題であった。しかし、失業率は革命前の8.9%に対し、2014年第3四半期で13.1%へとむしろ悪化している。前年の同時期と比べ0.1%改善されているというがほとんど変わらないといってよい。失業者の80%が大卒・中等教育修了者と高学歴であり、男性の失業率9%に対し女性のほうが23%と高い状況も変わらない。また、貧困率も26.3%と革命前と変わらず、4人に1人が1日1.65ドル以下の生活を送っている。 2011年革命当時、さまざまな職種の労働者から賃上げの要求が出された。この要求への答えの一つが、2014年1月の公務員・公共部門労働者の最低賃金を月額1,200LE(1万9,200円)とする決定であった。これは、革命当時に主張されたのに近い金額であった。ただし、中央統計局の推計では5人家族で最低生活費1,620LEであるという。2014年6月には公務員・公共部門労働者に10%の賃上げ決定がなされた。他方、インフレ率は、2014年前半期で8.2%(6月)に低下したが、その後再び上昇し、本年2015年1月には10%になった。これには後述のエネルギー価格の上昇が影響している。 シーシー政権の経済政策の舵取りを任されたのは、ムハンマド・メフレブ元住宅相である。メフレブ首相が就任したのは、政権が発足する前、大統領選が始まった2014年3月であった。1949年8月生まれ、65歳のメフレブ首相は、エジプト最大手のゼネコン、ArabContractorsの元経営責任者である。これまでの歴代の首相の多くが博士号を持つ経済の専門家であったのに対し、たたき上げの実業家である。就任早々のメフレブ首相は、労働運動の拠点であるデルタの繊維工業都市、マハッラ・クブラー市に乗り込んで労働者と直接対話を行うパフォーマンスを見せた。 メフレブ首相がまず取り組んだのが積年の課題、補助金制度改革である。まず、7月に電気料金およびガソリン料金値上げが発表された。これによってエネルギー関連の補助金予算を400億LE(6,400億円)まで抑制し、前年のGDP比12%から10%に引き下げるのに成功したという。また、富裕層の負担を大きくする電力料金制により5年間で67%の補助金削減を目指している。この制度改革への国民の反応はおおむね好意的であった。革命後、停電やガソリン不足など日常的なエネルギー問題に悩まされてきた国民にとって、今回の改革が高所得層に大きな負担を求める「公正」な政策だと判断されたのであろう。 また、補助金制度改革のもう一つの柱である食糧補助金についても、スマートカード導入が成果を上げているようである。20品目(その後さらに20品目追加)の補助金付き食料品から選択的に購入することで、消費者により合理的な家計支出を促す効果を持っている。また税制改革にも積極的に取り組んでいる。5月には年収100万LE(1,600万円)以上の個人に対し、3年間限定で5%の所得税を引き上げ(25万LE以上の所得税は25%に)、6月に200万LE以上の個人住宅への課税額の引き上げを行い、7月には株式譲渡益の10%課税を導入した。 しかし、経済改革の道のりはまだ先が長い。2011年革命に際して批判されたのは、それまでのナズィーフ政権が行った民営化などの自由化政策であった。軍が民衆蜂起を支持した背景には、軍自身の経済権益を損なうおそれのある急激な自由化政策への不満があったとも言われた。ただしこの民営化政策の見直しは、自由化推進路線の同胞団政権ではあまり進まなかった。現在、海外逃亡中のムルシー政権のカンディール元首相にかけられた容疑は、革命後の裁判所の民営化見直しの判決に従わなかったことであったという。公共部門の経営者であったメフレブ首相自身は、労働者を懐柔する姿勢を見せるため、民営化には慎重な姿勢を取るであろう。しかし、国内の異なる利害関係者の調整をしながら改革を前進させ、海外投資環境の整備に努力したいと考えていることは間違いがない。 2014年11月にIMF代表団がカイロを訪問し、2015年3月の支援会議で援助再開の見通しが出てきた。経常収支は2013/2014年度15億ドルの黒字であり、前年度2億ドルより改善した。その要因は、湾岸諸国からの無償援助であり、2013/2014年度304億ドルと前年度の193億ドルから急増した。海外直接投資も前年度30億ドルから、41億ドルへ37%増加した。ただし、アラブ産油国資本が中心であり、欧米からの投資は戻っていない。UAEなどの湾岸資本の投資先は、以前から多い食品工業などが目立つが、インフラ建設関係など軍関係の企業に投資しているのが注目される。 ナセルの再来を目指すシーシー大統領としては、いわゆるメガプロジェクトの推進を重視しているようであり、15石油・天然ガスレビューアナリシス_長沢.indd 1515/03/02 10:41:35アラブの春から4年・・・混迷する中東・北アフリカ諸国 -「7月3日体制」下のエジプト-OGMECK YMCその第1の目玉は、第2スエズ運河の建設である。就任間もなく8月に発表された新スエズ運河構想は、9月に売り出しが開始された運河建設債の約半分の55億LEが即売されるなど国内外の関心を集めている。全長72㎞の建設区間のうち約半分の35㎞を軍が請け負うという軍主導のプロジェクトでもある。このスエズ運河地域開発プロジェクトには、湾岸資本やロシア資本の参加が予定されている。 さて、ムルシー政権を倒した2013年7月の軍のクーデタをすぐさまサウジやUAEが支持したのは、自国内の同胞団勢力の台頭を警戒しただけではない。湾岸資本のエジプト経済への進出が背景にあると考えることもできる。軍に代表される公共部門特権層は、ムバーラク時代末期に急成長した新興富裕層と革命当初、対立した時期があったが、関係を回復し、さらに湾岸資本の支援を得て、エジプトの経済発展の新しい道を模索しているのかもしれない。単純化すれば、同胞団系の企業家層を排除しながら成立した軍=湾岸資本=新興資本家の3者同盟である。これが「7月3日体制」を支える階級的背景である。この新しい支配構造は、治安の安定(対テロ戦争)と経済回復の優先を掲げることによって、同胞団と革命の若者運動を、国民と労働運動から切り離すことで支えられている。再び繰り返して述べるなら、現在のところ、この2度目の革命の行程表の上で展開したオセロゲームでは、軍(黒の駒)は、同胞団(緑の駒)と若者運動(白の駒)を駆逐し、一人勝ち状態にあると言える。<注・解説>*1:*2:*3:*4:*5:*6:*7:*8:*9:2011年革命の背景と当初の状況については、拙著『エジプト革命 アラブ世界変動の行方』(平凡社新書、2012年)を、その後のムルシー政権とその崩壊に至る経緯については、鈴木恵美『エジプト革命 軍とムスリム同胞団、そして若者たち』(中公新書、2013年)を参照。本稿ではその後の時期を扱った。横田貴之「エジプト―二つの「革命」がもたらした虚像の再考」(青山弘之編『「アラブの心臓」に何が起きているのか―現代中東の実像』〈岩波書店、2014年〉所収)を参照。拙稿「アズハルと2011年エジプト革命」『ODYSSEUS地域文化研究紀要』(東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻)第20号(別冊)2015年3月[近刊]を参照。本稿での2012年憲法の条文の邦訳は、以下の論考に依っている。竹村和朗「エジプト2012年憲法の読解 過去憲法との比較考察」(上・下)『アジア・アフリカ言語文化研究』87号・88号(2014年3月・9月)所収。また2014年憲法の条文についても、同氏の未刊行翻訳に従っている。岩坂将充「トルコにおける『民主化』の手法―文民化過程にみる『制度』と『思想』の相互作用―」(『国際政治』〈178号、2014年11月〉所収)を参照。拙稿「エジプトに彷を参照。サバーヒー候補については、拙稿「エジプト革命後の風景とナセルの遺産」Asahi中東マガジン「アラブを見る眼」の行方~エ第3回(2011年11月14日配信)を参照。軍の政治介入をめぐる問題については、同「サラディンの鷹ジプト大統領選挙と軍の引き際」同第7回(2012年6月29日配信)を参照。総議席数は、女性枠などの優先枠を除外した数である。革命が直後に起きて議会がほとんど活動しないうちに解散となった2010年選挙の場合、64議席の女性枠を加えると総議席数は518、今回の2015年選挙の場合、女性枠など特別枠の合計104議席を加えると総議席数は671となるが、実際にどのように運用されるかは、選挙が始まってみないと分からない。革命後、ムルシー政権期までのエジプト外交については、土屋一樹「エジプトの対外政策と地域秩序」同編『中東地域秩序の行方―「アラブの春」と中東諸国の対外政策―』(〈アジア経済研究所、2013年〉所収)を参照。徨う『ナセルの亡霊』」―7月3日が突きつけた課題」(『世界』〈849号、2013年11月号〉所収)さまよたか執筆者紹介長沢 栄治(ながさわ えいじ)学  歴:1976年、東京大学経済学部卒業。職  歴:特殊法人アジア経済研究所(当時)入所。1995年、東京大学東洋文化研究所助教授。1998年より現職。趣  味:ベランダ・ガーデニングほか。近  況:現在、住んでいるマンションが大規模改修のため、ベランダの植栽を移動するのに一苦労。一部(バオバブ、ミカンなど)は苦渋の決断で処分。アナリシス_長沢.indd 1615/03/02 10:41:35162015.3 Vol.49 No.2アナリシス
地域1 アフリカ
国1 エジプト
地域2
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国10
国・地域 アフリカ,エジプト
2015/03/23 [ 2015年03月号 ] 長沢 栄治
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