ページ番号1006581 更新日 平成30年2月16日

石油探鉱開発における技術革新と石油鉱業(その2)

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レポートID 1006581
作成日 2016-01-22 01:00:00 +0900
更新日 2018-02-16 10:50:18 +0900
公開フラグ 1
媒体 石油・天然ガスレビュー
分野 技術探鉱開発
著者
著者直接入力 本田 博巳
年度 2016
Vol 50
No 1
ページ数
抽出データ JOGMECK YMC京都大学大学院工学研究科本田 博巳石油探鉱開発における技術革新と石油鉱業(その2)はじめに 第1章(本誌前号〈2015.11 Vol.49 No.6〉に掲載)では、18世紀半ばからの第1次産業革命期における熱源、照明、動力の各燃料の代替過程を見た。Drake井(1859年)が、この供給能力を地下の油層から坑くみ上げによって確保できることを実証すると、捕鯨船が掘削リグと石油井に、鯨が地下から井による汲坑井によって汲み上げられた石油にそれぞれ置換され、さらに、鯨油が石油灯油に置換された。それは同一機能資源の異種資源間での代替過程であったと考えられる。 石油を資源として開発するための条件である石油精製と石油灯油の販売の二つの課題は、地表石油池から汲み取った石油の精製が、19世紀半ばまでに、米ペンシルベニア州北西部で先行して操業されていたため、地下の油層からの石油の精製には、既に設備が整い、新たな資源の受け入れが容易であった。 精製技術の源は、蒸留酒の技術にあった。石油の鯨油代替の過程は、需要の確立している分野で、供ほ給に不足が生じ、その不足を補する既存のマイナーな資源で補?できるように、十分な供給量確保の方法を探した過程である。また、石炭の液化技術の原理が確立され、初期のプラントが建設されていた状況もあった。その結果、Drake井が代替燃料としての石油灯油を商業化できることを示したことで、石油生産の産業化が始まった。いわば、Drake井は、石油灯油ビジネスモデルのミッシングリンク(Missing-link)であった、上流部門での供給能力を保証したものであった。?てん第2章:石油輸送技術の拓いた世界-Rockefellerの着眼と独善;河川から鉄道へ この第2章では、主に19世紀半ばから20世紀初頭までの石油生産量の推移をアメリカ合衆国の生産量推移に沿って、産業としての石油鉱業の成立過程をたどろう。供給側では、坑井の掘削、原油の地層水との分離、貯蔵・輸送が課題であった。需要側では、需要量、需要の多様性の保証と供給源と消費地を結ぶ輸送方法、消費方式と消費量の拡大が課題であった。供給・消費両面において、輸送方法の確立は鍵であった。河川経路に束縛される河川輸送には、供給源と消費地を結ぶという点で限界がある。大量輸送が可能な鉄道の敷設が必要になった。また天然ガスの供給には産地から消費地までを結ぶパイプラインを要した。 地下に埋蔵される石油鉱床の位置を特定する方法の基礎となる背斜説に関しては、第3章でその萌芽と確立の過程を考察する。1. 序 18世紀半ばには既に鯨油灯油ランプが、中産階級上層と上層階級の社会階層に普及し、鯨油灯油に対する需要は安定していた。その後の鯨油需要の増加に伴って、捕鯨が過剰になり、鯨資源の衰退、捕鯨の遠距離化が生じた。供給量の減少と捕鯨コスト増加から、鯨油の枯渇と価格高騰傾向が見えてくると、その代替灯油が求められるようになった。鯨油灯油の代替資源として、石炭液化燃料やラード、テレピン油*、混合油あるいは石油灯油の可能性が追求された。石油灯油が採用されたのは、まず石油が薬用に普及していたこと、石油からの精製に1石油・天然ガスレビューアナリシス_本田.indd 12016/01/12 17:22:06アナリシスOGMECK YMCよって、灯油に適した分画が得られることが分かったことによる。 分析は、Yale大学のBenjamin Silliman, Jr.(1816~1885)とThomas Sterry Hunt(1826~1892)による。米東部の銀行家の集団らからの依頼分析であったが、結果報告の引き渡しの際に、問題が生じ、裁判ざたになった。灯油の精製には、蒸留酒製造のための蒸留器があり、この改良によるものが利用された。当初は地表に漏れた石油池から汲み出した石油を精製したが、灯油需要の増加につれ、需要に見合う量の石油供給が求められるようになった。Samuel Martin Kier(1813~1874)は従前から地表油池からの石油を薬用セネカ油として販売していたが、鯨油灯油の代替となることを知り、製油所を建設し、石油灯油の製造販売を始めた。 18世紀半以降の第1次産業革命期における北米の石油需要は、燃料用ではなく、薬用に基づくものであった。北米地域東部では、原住民が薬として石油を利用していた。Kierは、その伝統の延長で、瓶詰めの薬用セネカ油(1瓶50セント)を販売した。また石油ゼリーを軟膏として販売した。この事業はうまくいかなかった。この時期には既に、鯨油灯油ランプが普及していた。1840年代に、捕鯨の限界が見え、1850年代に、鯨油の供給量の頭打ちが明瞭になると、鯨油は値上がりし、代替灯油として石油灯油が候補に挙がった。その初期には、地表に湧き出た石油を精製して灯油として用いたが、より多量の石油供給が求められるようになった。Kierはここに着眼し、石油灯油の精製販売を始めた。 この事業は発展した。図1にその代替過程の資源種を示した。既に、第1章の図3(「世界人口の推移とエネルギー種の変遷」前号3頁参照)として示したものを別途の趣旨で表示する。エネルギー源という観点からは、歴史的に紀元前から家畜・奴隷が使用された。今日では、役牛・役馬が利用されているが、広く機械化され、石炭・石油を燃料として動力源を動かしている。その機構は歴史的発展を、現在でもなお利用目的に沿って同時並行的に世界各地で利用されている。ある場所ではまだ水牛が役牛として田畑を耕作しているし、ある場所では大型のトラクターが耕作している。現在、主に動力燃料・化学原料として利用されている物も紀元前から別の用途に利用されてきた。紀元前に神殿の灯明燃料であった石油はその例である。 ランプ灯油の代替は、この図1中の動物油脂を石油灯油が置換する過程である(赤線矢印と赤枠で示す)。同一機能を異種資源が置き換えた例となっている。絹織物をナイロンなどの化繊が代替していった過程と逆の例である。 John Davidson Rockefeller(1839~1937)は、こう虔なバプティスした資源供給の急激な転換の時期に、敬トの貧困家庭に生まれ育った人である。信仰心の篤い真面目な優等生であった。Drake井掘削以前、16歳で、製造委託業者に簿記係として雇用され、特に原料・資材・製品の輸送コストの記録計算に習熟した。けいけんあつPetrochemicalsSpindletopDrakeWellRevolutionFirstIndustrialLamp-keroseneOilboilerforsteamengineCombustionengineBoiler, blastfurnaceteamengineSSRenaissanceKineticagents; ThermalenergyPetroleum+ChemicalmaterialsWater-proo?ng agentHousehold fuelShrinelightingThermalenergy++ChemicalmaterialsCoalElectricenergyAtomicenergyGeophysicsGeologyWhaleoilWild?reThermalenergyKinetic energyBioenergy,Biofuels,Hydraulics,Humanpopulation7,0006,0005,0004,0003,0002,0001,0002A.D.110020030040050060070080090010001100120013001400150016001700180019002000Year A.D.-200-100Year B.C.-3004000-出所:本田(本誌前号〈2015.11 Vol.49 No.6〉)の図3に加筆修正図1世界人口と燃料種の歴史;鯨油と石油の代替関係アナリシス_本田.indd 22016/01/12 17:22:062016.1 Vol.50 No.1アナリシスOGMECK YMC2. Drake井、1859年8月28日 1859年8月28日。地下の石油の貯留部からの汲み上げによって、当時、十分多量の石油が得られることが、Drake井によって証明された。地表下69.5フィート(21.2m)地点で産油(日量約12~20バレル(1.9~3.2?)を確認し、石油に対する需要と供給両面での事業環境が整った。Drake油田は以後日量約20~40バレル(3.2~6.4?)で産油した。Drake井の成功以後、たちまちにアパラチア西部の山地には石油井が林立することになった。石油を地下から坑井によって地表に汲み出し、それを灯油に精製して都市に運び販売する、という今日で言うビジネスモデルの原型がDrake井によって成立することが示されたことになる。しかし、油価が安かったため、Drakeそのものには事業利益がなかった。 鯨油と石油を需要と供給の関係について比較すれば、鯨を地表石油池の石油に、捕鯨をこの石油池から石油を汲み出すことに対比できる。鯨の皮下脂肪を熱湯で煮沸して油を搾り出す作業は、石油を精製して灯油分を抽出する作業に当たる。ここに、もっと大量の石油を供給する方法として地下から坑井によって汲み上げることを考える者が出現した。この事業の産業化は、東部の銀行家の集団によって周到に準備された。彼らは、石油の化学組成分析により灯油成分が含有されていることを確認した。より多量の石油を生産する方法を考える者を、既存いっかく精油設備のある現地に送り、事業化を実行させることとなった。結果、以前、鉄道会社に雇用されていたEdwin Laurentine Drake(1819~1881)は、事業の円滑な遂行のために「大佐」という偽称号を与えられ、タイタスヴィル(Titusville)に送り込まれた。 当時は、石油などの事業は投機的事業と考えられており、そのような事業への出資をBissell、Townsend らの堅い業種であるべき銀行家らが手を出すことは、社会的に疑問視されていた。鉱山出資は一攫千金の投機と考えられ、石炭の液化事業に関して、Coal Oil Johnnyなどの芳しくない事件(前号4頁参照)があったこともその原因の一つであろう。しかし、Drakeは、Bissell、Townsend らのセネカ石油社の意思に反して作業を継続し、「時代画期事業」を成し遂げてしまった。実直一辺倒のDrake自身は、自分が成し遂げた事の大きさを理解していなかったことも明白である。彼は、石油からの利益に浴することなく、人生の大半を貧乏人として暮らした。州が年金($1,500)を拠出し、彼の功績を顕彰したのは、死去の直前であった。 Drake井成功の背景には、①地表徴候と背斜密接な構造の関係が、既に認識されていたこと、②機械掘り井の掘削技術と掘削職人が塩水井のために既存していたこと、③鯨油灯油生産の衰退によって、灯油の供給が需要ValueNaturalGas(MMUS$)1101009080706050403020100duetoitsillegalmonopoly.due to its illegal monopoly.1911: Standard Oil TrustendedIllinoisLa.Ohio1908: FordTypeT1903:Wright Flyer1901: SpindletopNumber of wells drilledwith no scalingTexasKansasoftehManningtonOilField1892:ICWhite'sdetailedreport1892:Diesel engine1888:Tesla’spracticaldynamoand motor bicycle1885:Daimler’s gasoline engine1885: IC White Paper appeared1883: Gas FirstPiped to Pittsburgh1880:Edison’ electric dynamo1879:Edison’ electric rampOhioW. Va.Cal.OilIndiana becomes important factorGasYearEdwinL.Drake(1819-1881)CivilWarthe book of electromagnetics.1873:JCMaxwell published Pennthe Standard Oil Co.1870: Establishment of re?nery plant over the world. 1868: They established the biggest partnership of re?nery company. 1863: JDRockefellerestablishedthe 1861: FirstPaperbyTS HuntNew YorkProductionCrudeOil(MMbbl)US出所:Howell (1934)に加筆図2アメリカ合衆国の原油・天然ガス生産量推移と石油開発・石油に関する出来事3石油・天然ガスレビューアナリシス_本田.indd 32016/01/12 17:22:07石油探鉱開発における技術革新と石油鉱業(その2)OGMECK YMCに追い付かない状況にあったことの3点があったことは強調するに値する。 当時、Drake井直後から石油生産量はどのように増加したのであろうか。19世紀後半におけるアメリカ合衆国の原油・天然ガス生産量の推移を、Howell (1934)が示した同国の生産量推移グラフに石油関連事項を加筆して示す(図5)。その時期での石油生産量推移は、需要の推移と並行するように見える。需要形成に資した発明などを併記すると、その新たな需要が生産量の増加に現れることが分かる。19世紀後半はアメリカ合衆国にとって、産業革命による蓄財と南北戦争による疲弊を超えて、20世紀での経済強国の建設の礎石を築いた期間であった。その経済強国の建設は、アパラチア山脈西部、カリきん)フォリニア州、テキサス州などから産出した石油(と金に支えられたものであった。 19世紀中葉までの需要はずっとランプ灯油需要が主体であったが、1870年前後から、原油の生産量が増加した。天然ガスは1880年頃から生産供給が進み始め、1883年頃から、パイプラインによるピッツバーグ(Pittsburgh)への供給が進んだ。3. Standard Oil Company 1870年はStandard Oil Co. がJohn D. Rockefeller, Sr.らによって、ペンシルベニア州の西に隣接するオハイオ州に設立された。競合する相手企業に対し、ダンピングなどの敵対的競争を仕掛け、倒産させ吸収併合して、瞬く間に巨大化していった年であった。1870年までにRockefellerは仲間と組合を組織し、競合する精油業者をStandard Oil Co.の設立後は特に業界の供給源(油ガス田の権利取得と操業)から販売までの全系列を統合する方向に向かった。いわゆるカルテルによる市場支配が進んだ。1911年に反トラスト法・独占禁止法により、トラストの中心であったStandard Oil Co.が資本分割により解体され、Rockefellerは引退した。彼個人はアメリカ合衆国の最大の資産家となっていた。この分割後、いわゆる“セブンシスターズ”が、旧Standard Oil Co.系の石油会社とは別会社でありながら、同国の石油業界を支配し続けてきた。ExxonMobil、Chevronなどはその流れを汲むものである。旧Standard Oil Co.系のなかでは中規模会社とされたAMOCO、ARCOなどは、1990年代からの業界でのM&Aによって、BPに吸収された。 1901年にはテキサス州南東部の平野部で、Spindletop油田が発見され、石油の大量供給の時代の幕が開けた。1875年、1888年、1901年に原油生産量がステップ状に増加した。1901年以後は指数関数的な伸びを示した。原油と天然ガスは塩水井掘削時の邪魔者であり、Drake 井登場以前から、天然ガスは塩水の煮沸乾燥による塩の生産に利用されたり、空中放散したりすることが一般的であった。しかし、1883年にペンシルベニア州で製鉄業・窯業が盛んであったピッツバーグまでパイプラインが敷設され、天然ガスは工業用に大量の販売が開始されるようになった。特に、溶鉱炉、窯業炉の熱源として、天然ガスが利用された(White, 1885)。炉の燃料として天然ガスを利用することの利点をWhite(1885)は強調している。何より、天然ガスを使用することで工場の汚れがなくなり、清潔度が向上したことを取り上げている。4. Drake井以後(1)石油の輸送 第1章の表(前号8頁参照)に示したように、アパラチア地域では、鉄道網が南北戦争の時期に拡大した。図3には、アパラチア地域のその時期の石油生産量と鉄道網の地域総延長の推移を示す。鉄道の敷設の長さは一定の率で増加している。これは鉄道路線の敷設に要する労働力、レールの生産率、鉄道の運営のための人材教育などが、急激に進展しなかったことの証左であると考える。石油は一旦生産が始まり、生産性が向上するに従い、生産量が指数関数的に増加している。石油生産量が揺らいでいるのは、人為的な影響(Rockefellerらの組合による市場操作があった)によるものであることを考慮する必4アナリシス_本田.indd 42016/01/12 17:22:072016.1 Vol.50 No.1アナリシスOGMECK YMCCrude Price(US$/bbl)Crude Price corrected to the present value at 2014Crude ProductionCrude Price at that timeAnnual ProductionCrudeOil(MMbbl)出所:本田(2015)とHowell (1934)から作成図3アメリカ合衆国東部五大湖地域での鉄道路線長と原油生産量の推移140,000120,000100,00080,00060,00040,00020,0000出所:Howell (1934)とBP statistical review of world petroleum resources 2015から作成YEAR図41860~1880年のアメリカ合衆国の原油生産と油価の推移要があろう。 一旦、Drake井が成功すると、オイルクリーク一帯は掘削リグが林立し、無秩序な石油開発が始まった。石油開発を規制する法制がない時代で、地下の石油資源の最大回収という概念もない時代であり、試掘活動を適正に律するのが困難であった。石油井の数が急激に増加し、総生産量が急増したため灯油の価格は低迷した。Drakeは、近代石油産業の端緒を開いたにもかかわらず、利益が上がらない状態に甘んじた。その後産業としての社会組織化が石油鉱業において進むと、石油灯油の価格は上昇し、営利産業として発展し始めた。図4に、1860~1880年の原油の生産量と油価(当時価格と2014年現在等価価格)を併記したグラフを示す。油価は上昇傾向を示すものの、生産量の増減と逆を示し、油価と生産量の積(年生産原油の総価値)はある程度の揺らぎ(原因は生産量と同様の理由)を伴うが、増加傾向を示す。19世紀後半において、石油の経済価値は確実に増加していったと言えよう。5石油・天然ガスレビューアナリシス_本田.indd 52016/01/12 17:22:07石油探鉱開発における技術革新と石油鉱業(その2)OGMECK YMC(2)アメリカ合衆国の資源保護と適正生産量 現在、アメリカ合衆国のほぼ全州で施行されているような石油あるいは資源の権利・保護あるいは資源の浪費の防止を目的とした法制度が整備されるのは20世紀前半からであった。鉱業権は、土地所有者の所有権の一部とされたが、権利登記制度も不十分で不備なものであったため、現在に至るまで、陸上での権利関係の確定には、現実的な石油鉱床の発見等が生じなければ困難であることもしばしばである。20世紀に入って、gusher(巨井)と呼ばれる大量の石油生産を1坑のみで可能とする坑井が多数出現し、生産過剰が日常的な問題となって、資源保護、経済破綻の防止の目的で、生産調整を行う州政府機関(例えば、テキサス州の鉄道委員会)が設営され、州の条例として、資源保護法制を制定するようになった。オクラホマ州では、1920年代に軽質油の生産過剰が生じ、たるが街道脇に積み上げられ、放置石油が詰まった無数の樽される状態にもなった。アメリカ合衆国での石油生産調整の仕組みは、後にOPEC結成の際の前例となった。 アパラチア地域だけでなく、地表油徴地のある地域で、次第に北米全体に石油の試掘が実施されていった。5. 需要の拡大・需要の創出 主要な石油需要の拡大過程・創出の歴史的過程を19世紀半ばから今日まで振り返ると、①19世紀半ば~20世紀初頭までランプ灯油(鯨油灯油の代替)、②製鉄、窯業の炉燃料(石炭の代替)、19世紀後期以後の③発電用ボイラー燃料、④ディーゼル内燃機関燃料(燃料として瞬発燃焼力の利用が付加された)、⑤ガソリン内燃機関燃料(20世紀初頭以後爆発的に需要が増大)、⑥その他の動力燃料(航空機など)、⑦化学合成材料原料(機能性材料の合成原材料;石油消費態様の新機軸)、⑧水素燃料原料(水の電気分解よる生成から、高温・高圧での陽子(水素原子核)の分離と水素分子合成の原材料(高温・高圧も油ガス層から得易い)の生成)となろう。 ①~⑥は石油の可燃性による需要であり、⑦~⑧は、水素結合・ケクレ結合による有機化学合成材料工学の進歩によるものである。ここでの射程期間を19世紀~20世紀初頭と設定すると、需要の内容は①~⑤となろう。 19世紀には有機化学が成立し、ケクレ構造まで発見解明されていたが、石油から機能性有機物を大量生産する段階はまだ遠かった。戦争における要請から,火薬・ゴムなど無機材・生体材料から機能有機合成材料を生む機会が生じた。 20世紀の両世界大戦では、人工ゴムの製造が課題となった。ナイロン繊維は1937年に合成され、1940年からストッキングとして販売された。原材料は石炭、水、空気であった。石油系原材料からはポリエステルが1941年に発明され、1953年から実用生産が始まった。合成樹脂(いわゆるプラスチック)は、フェノール樹脂が19世紀には合成されていたが、20世紀半ばまでは、セルロイドなど植物のセルロースを原材料とするものが主であった。その後、ベークライト、レイヨンの他、カーバイド原料からのポリ塩化ビニルが合成された。第二次世界大戦後、必要とされる機能が多様化するにつれ、有機合成による機能材料の需要が増大し、石油からの合成樹脂材料供給が増加した。 18世紀後半を通して、ランプ灯油の他、石炭を代替して、製鉄と窯業の炉燃料となったが、新たに電気利用のための発電ボイラー燃料、さらに自動車を中心とする動力のための内燃機関燃料の需要が加わった。それら需要の顕著な増加は、20世紀を待ち、今日に至ることとなる。 まず、電気に関しては、18世紀後半から研究の進んできた電磁気学がまとまりを見せるのが、James Clerk Maxwell(1831~1879)の成果である『電気磁気論』の出版によってであった(1873年)。応用として、電灯、電話、無線、発電などの課題に対する結果が出るようになった。発電の実用化は、Thomas Alva Edison(1847~1931)による。電磁波による無線は、原理と初期実験(1884年)をHeinrich Rudolf Hertz(1857~1894)が、また電波通信の実践的な実験をGuglielmo Marconi(1874~1937)が成功させた(1895年)。しかし、電気が広く普及するには、20世紀を待つこととなった。 もう一つの需要源となったのは内燃機関であった。実用的な内燃機関を実現し始めたのは、Nikolaus August Otto(1832~1891)とGottlieb Wilhelm Daimler (1834~1900)であった。1860年から実用化に向かい、DaimlerはWilhelm Maybach(1846~1929)と共同で1885年にガソリンエンジンの二輪車を完成した。翌年には、モーターボートにガソリンエンジンを搭載し、スイスのレマン湖で湖面を航行した。6アナリシス_本田.indd 62016/01/12 17:22:072016.1 Vol.50 No.1アナリシスOGMECK YMC ガソリンエンジンあるいはディーゼルエンジンの自動車が完成し、普及する段階に入ると、軽質油需要が急激に増加した。テキサス州南西部でのSpindletop油田からの中軽質油の出油が確認され、ガソリンエンジンの実用化による自動車が生産販売されるようになると、自動車の便利さによって爆発的にガソリン需要が発生、増大した。T型フォードがその典型事例となった。1908年発売、1913年から流れ作業による大量生産が行われ、年産30万台に達した。オクラホマ州、カンザス州で1920年代に、軽質油田の多数の発見があり、自動車燃料の不足は解消された半面、過剰生産による油価の暴落が生じた。 20世紀初頭、1910年代では、艦船の蒸気機関燃料を石炭から石油に転換することが始まった。英国海軍がその先端を切り、重油ボイラーを軍艦に搭載するようになった。重油需要にはカリフォルニア州のVentura-Los Angeles堆積盆の重質油田が多数発見され、充足可能となった。順次需要が増加し、供給源が発見されるという好調な循環が続いた。の掘削まで約42年間、Drake井が綱掘りリグの模範となった。 Drake井では、孔壁の崩壊を防止し、崩壊の起きた時には坑井を保護し、地層からの流体が上位の層に混入しないようにするために、鉄管を一定の深度まで坑内に降ろすというケーシングを施していた。Drakeは、あいにく特許を申請しなかったため、ケーシング技術は今日、広範に、自由に利用されている。 図5には、1860~1910年におけるアメリカ合衆国の原油・天然ガス生産量推移と坑井掘削数に関して、ま Drake井は相当に難掘であったが、水平型の蒸気機関つなりリグが用いられた。綱掘りリグは、ワイヤーによる綱きりを付け、定常的に上下させて、その錐で地層の先端に錐を砕き、掘りくずを水の空洞に収めて、地表に持ってくることで坑井を掘削する機械である。1800年頃には木の弾性を利用して錐(これも木製)を上下させて坑井を掘った。約50年で、金属製の錐と蒸気機関による綱(cable)の上下動により、坑井を掘削する方式が確立された。Drake井は、綱掘りリグでの掘削機械として、完成度の高いものであった。Drake井以後、Spindletop井掘ぼ6. 石油採掘の技術伝播出所:Howell (1934)に加筆図5アメリカ合衆国の原油・天然ガス生産量推移と石油開発・石油に関する出来事7石油・天然ガスレビューアナリシス_本田.indd 72016/01/12 17:22:071870:1870:石油探鉱開発における技術革新と石油鉱業(その2)OGMECK YMCた石油開発・石油に関する出来事、掘削関係の事項を付記した。1859年から1901年までは、ビットの改良などはあったが、Drake井型綱掘リグによる石油井の掘削の時代であった。ビットを坑芯の方向を軸に回転させるロータリー型の掘削が始まるのは、Spindletop油田の北方に発見されるCoddo Lake油田での掘削(1904~1905年)からであった。19世紀後半の北米での石油生産は、坑井数の増加による増産傾向が明瞭である。 社会インフラストラクチャーの入れ替えは、相当な時間を要すると考えるべきである。一旦定着した習慣が抜き難い以上に、社会インフラストラクチャーの入れ替えには膨大な労力と投資を要する。21世紀初頭の現在、内燃機関動力の自動車を電気自動車に転換する試みが始まっている。しかし遅々として進まない原因の一つには、一般家庭での充電では、フルチャージに掛かる時間が長く、かつ大容量充電器のある場所が限定されていることが挙げられよう。燃料電池車にも同様なインフラストラクチャーの整備上の壁があろう。7. 石炭生産量の推移と石油生産量の推移の比較 鯨油と石油は異種燃料間での代替の対象となった。石油の燃料としての登場によって、石炭の生産量はどうなったであろうか。図6には石炭の世界生産量の推移(Hubbert, 1976)を石油の生産の増加段階に区切り、どのような対応を石炭の生産量が示しているかを観察した。時間の幅は1800年から1980年までである。石油の生産段階は第1段階が1859年(Drake井)から1901年(Spindletop発見)まで、第2段階が1901年から1945年(第二次世界大戦終結)まで、第3段階がそれ以後である。大局的に見て、石炭の生産量は石油生産の発展による影響は認めらOPECTexas Rail Road CommissionGreat DepressionThirdPetroleumGrowthPeriodGhawarEast TexasCalifornian HeavyOklahoma-Kansas LightSpindletopWorld War-IWorld War-IISecondPetroleumGrowthPeriodFirstPetroleumGrowthPeriod182018401860188019001920194019601980Year3,0002,0001,00050001800(MMShortTons)ProductionRateof Coal and Lignite(注)Short Ton(米トン)=907kg出所:Hubbert, 1969, Fig.8;Hubbert, 1974図6世界の石炭亜炭の生産量の推移と石油鉱業の発展段階との関係8アナリシス_本田.indd 82016/01/12 17:22:072016.1 Vol.50 No.1アナリシスOGMECK YMCく支配しているものである。第1段階での両者の並行増加傾向は、新資源としての石油がそう簡単には、社会に受け入れられなかったことを示すと考える。ランプ灯油は鯨油がなくなった以上、代替物である石油灯油を使わざるを得なくなったということであろう。また新たに登場した内燃機関燃料としては、それを使うように設計された機械である以上、石油を使うことになる。こうして、すき石油は従前の資源の隙を埋めつつ、新たに生じた空間に浸透していったと考えられる。間まれない。両者、並行して明瞭な増加傾向を示す。 特に、第1段階では、需要供給の構成が相対的に単純であるため、石炭は、指数関数的な増加傾向を示す。これは、石炭に対する需要要素と、石油に対する需要要素が重ならないことを示す。石炭は、日常の熱源燃料として機能し、工業用の熱源としての重複量は少ないのであろう。この時期ではまだ従来の燃料を使用する形式の炉、ボイラーが主流であったことを示すと考える。社会インフラストラクチャーは、機械設備などのいわゆるハード面のみならず、人間の習慣、判断などのソフト面が大き8. その他おけ 新たな資源が大量に生産されるようになると、その初期にはその資源をいかに取り扱うかの問題が生じる。代替燃料の模索時には、混合油が爆発するような事件も生じた。また、Drake井の直後の坑井からの原油の生産では、大型の桶に坑井からの地層流体(原油と地層水の混濁流体)を入れ、浮力による選別を行っていた。このため、桶から漏れ出た原油が石油坑井の敷地内や周辺に満ちあふれるような事態が生じた。原油でその敷地と周辺が汚染されたということである。この汚染では表層だけではなく、地下の透水層まで染み込み、有機酸が地層水に混入した。地層内の珪酸塩鉱物がこれによって溶解し、溶解した珪素イオンがその透水層の近傍地域で珪酸鉱物として沈殿し、透水目詰まりを起こすことも生じた(Bennet, et al, 1988)。同様な現象として、現在ではパイプライン事故の場所の近傍で透水層が劣化しているということがある。新たな資源を日常に取り入れるには、新たな技術を開発する必要が生じる。 技術・技能の伝達は多くの場合、見よう見まねであることが普通であった。その技術・技能の内容を多数の事例と理論的考察から、理解しやすく整理し、伝える教育機関がまず必要であった。19世紀後半では、諸事実の記録が集積される段階で、探鉱技術、生産技術、掘削技術などの教本・教科書が編集されるまでには至らなかった。20世紀に入り、ようやく教本が現れた(例えば、Hager, 1916)。Drake井から約60年経過していた。 日本では、石油需要の発展の初期段階に、幕末(黒船来航(1853、1854年)を迎え、新たな科学技術の発展期に、その発展を享受できた。極めて効率の高い科学技術移植が可能であった。まとめ 19世紀後半での石油開発の進展を見た。ここでは、鯨油供給の衰退に伴うランプ灯油需要を石油灯油が充足することから石油の社会浸透が始まることが認識できた。石油の需要は緩やかに拡大する傾向を示した。その代替・浸透過程には競合相手がなく、単一の機能(ランプ灯油)が浸透受容条件となった。そのため、石油の社会インフラストラクチャーへの受容は、石炭との競合もなく、孤立した資源として始まったが、新たな需要の発生により、容易に実行に移された。石油に対する新たな需要が発生し、その需要を充足するための新たな技術が要請された。 石油の代替過程初期では、ビジネスモデルが想定されたと推察できる。そのモデルの現実化には、石油の社会浸透を企図した、Rockefellerの強引なまでの経営方針が大きく寄与した。石油の必需品化を図ったと見える。9石油・天然ガスレビューアナリシス_本田.indd 92016/01/12 17:22:07石油探鉱開発における技術革新と石油鉱業(その2)OGMECK YMC<注・解説>*:  松の樹脂を水蒸気蒸留した揮発性のある油で、松根を乾溜して抽出する松根油と同類。ガソリンに似ており代替燃料とされる他、油絵具の希釈油としても用いられる。【引用文献】1. Bennett, P. C., Melcer, M. E., Stegel, D. I. and Hasset, J. P., 1988;The dissolution of quartz in dilute aqueous solutions of organic acids at 25°C, Geochimica et Cosmochimica Acta, 52: 1521-1530.BP Global, 2015;BP Statistical Review of World Energy June 2015;MS-EXEL file (1,618KM) http://www.bp.com/statisticalreviewHager, D., 1916;Practical oil geology, the application of geology to oilfield problems, second ed., McGraw Hill Book Company, Inc., London. 187pp.2. 3. 4. 本田博巳,2015;石油探鉱開発における技術革新と石油鉱業(その1)、石油天然ガスレビュー,46(6);1-11. 石5. 6. 7. 油・天然ガス資源情報サイト http://oilgas-info.jogmec.go.jp/report_pdf.pl?pdf=201511_001a.pdf&id=6550Howell, J. V., 1934;Part I. Historical development of structural theory of accumulation of oil and gas;in AAPG Special Volume, Problems of petroleum geology;1-23.Hubbert, M. K., 1976;Earth resources: a scientific and cultural dilemma, Bull. Am. Eng. Geol., 13(2);82-124.Yergin, D., 2008 (originally 1990);The prize,;the epic quest for oil, money and power, reissue version, Free Press, 928pp..【参考文献】1. Harper, J. A., 1995;"Samuel Kier - Medicine man & refiner;excerpt from Yo-Ho-Ho and a bottle of unrefined complex liquid hydrocarbons. Pennsylvania Geology, v. 26, No. 1, p. -. Oil Region Alliance of Business, Industry & Tourism. Retrieved 2008-12-12. (http://www.oil150.com/essays/article?article_id=68)  Kierの出自から業種の変化に即して章分けされ、彼の死去まで書いてあります。"Titusville, Pennsylvania, 1896". World Digital Library. 1896.                      http://www.wdl.org/en/item/11368/ Titusvilleの鳥瞰図です。よく描けている絵地図ですから、見て楽しめると思います。Edgar Wesley Owen, 1975;The early oil industry;in Trek of the Oil Finders, Tulsa, Okla.: Am. Assoc. Petrol. Geol., Special Volume;p.1-14. AAPG HP Publication Search.  AAPG のHPでDLできます。Trek of the Oil Findersは入手し難いので、DLするほうが速いと思います。Tarbell, I.M., 1963;The history of the Standard Oil Company. Gloucester, MA: Peter Smith. この巻は2巻から構成される完全版の縮刷版(Briefer version)というより、初めの8章のみに限定した版です。2巻の完全版は、安価に入手できるので、完全版を入手すべきでしょう。2. 3. 4. 執筆者紹介本田 博巳(ほんだ ひろみ)1975~2012年まで、石油資源開発(株)、インドネシア石油(現・国際石油開発帝石〈株〉)などで、主に探鉱プロジェクトに従事。現在、京都大学大学院工学研究科で、シェール資源を中心に非在来型資源に関し勉強中。古都京都の歴史の重層性のなかで、横道に迷いつつ、思わぬ出会いを楽しんでいる。その多くは美味を伴うのが、幸せなこと。野外調査では、時に川で泳いだりし(川中での足の不如意で)、還暦を疾うに過ぎた年寄りの冷や水かと思いつつ、いまだに地表調査に出かける。趣味は将棋、詰め将棋、読書など。博士(工学)。とアナリシス_本田.indd 102016/01/12 17:22:07102016.1 Vol.50 No.1アナリシス
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国1 米国
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2016/01/22 [ 2016年01月号 ] 本田 博巳
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