ページ番号1007412 更新日 平成30年2月19日

湾岸アラブ産油国の王家/首長家:その歴史的背景と政治の現状(各国王族間の外交関係をめぐる情勢等を含む)に関する概論

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レポートID 1007412
作成日 2018-01-22 01:00:00 +0900
更新日 2018-02-19 19:08:27 +0900
公開フラグ 1
媒体 石油・天然ガスレビュー
分野 エネルギー一般基礎情報
著者 濱田 秀明
著者直接入力
年度 2018
Vol 52
No 1
ページ数
抽出データ 国際石油開発帝石株式会社(INPEX)ユーラシア・中東事業本部 アブダビユニット濱田 秀明湾岸アラブ産油国の王家/首長家:その歴史的背景と政治の現状(各国王族間の外交関係をめぐる情勢等を含む)に関する概論はじめにっしょうれんこう アラビア半島にあるGCC(Gulf Cooperation Council:湾岸協力会議)加盟諸国の総面積は267万?で、世界の陸地面積(1億4,724万4,000?)の1.8%を占めるに過ぎない。降雨量が少なく、文字どおり水のさ少ない沙漠地帯である。また、人口でも現在では約5,000万人に達するが、それでも、世界人口の1%に満たない。この限られた地域に世界の石油・ガスの埋蔵が集中している。アラビア(ペルシャ)湾を隔てて対岸のイランとイラクを含めればアラビア(ペルシャ)湾岸周辺地域では、世界の原油埋蔵量の約半分(47.7%、BP統計2017)を占める。動力機関の燃料をはじめとして世界はいまだ石油に依存しており、この地域の重要性は依然として高く、その政治変動や経済発展の動向は全世界の関心を集めてきたし、今もそれは変わらない。 GCC諸国は父系出自集団である部族社会が生きており、政治面でも、部族制のなかで王家/首長家が従連衡を繰り返してきた。ただし、1930年代に入って、アラビア半島で石油・天然ガス田が発見されるまでは、支配領域を拡張することよりも、支配領民を増大することに重きが置かれてきた。そして、こうした属人的な側面は沙漠地帯に暮らす遊牧民族の特徴でもある。 2017年6月5日、世界最大の原油輸出国のサウディはUAE、バハレーン、エジプトとともに、世界最大のLNG輸出国のカタルと断交。その後、正常化に向けたさまざまな動きは見られるものの、いまだ国交は断たれたままとなっている。 しかし、サウディは自国に居住しているカタルのサーニー首長家のメンバーを擁立しようとするなどの姿勢も見せており、国レベルでの対立や緊張というよりも、むしろ、サウード王家のサルマーン現国王およびムハンマド皇太子と、カタルのタミーム首長の政策の衝突という側面が前面に現れている。4カ国とカタルとの仲介をクウェイト首長が担い、各国を訪問して何度もトップ会談を繰り返し、仲介努力を続けている。こうした動きの背景の一つである、それぞれの王家/首長家の来し方や特徴、他家との関係を整理し、それらを踏まえて現在の王家/首長家同士の関係と今後について展望する。合が1. サウディアラビア王国(1)サウード家の勃興 アラビア語による国名は「サウード家によるアラビア王国」と示されるとおり、同国は建国以来サウード家が統治してきた。「サウード家」による統治の正統性や、同家が指向する事柄を含め、現在のサウード家の体制上、強く特徴づけている点が育まれたのは、建国の経緯によるところが大きいので、ここで簡単に振り返ってみる。 イスラーム教の預言者ムハンマドが、アラビア半島西1石油・天然ガスレビューアナリシスx戦海岸マスカットサラーラアラビア海ハドリーヤジュベイルムタイル族アジュマーン族ウヤイナ侯国カティーフリヤード侯国リヤードデルイア侯国ディラム侯国ハラドハージル族ムッラ族ペルシャ湾ダンマームアブカイクドーハカフターン族スフール族スバイウ族ダワーシル族ダワーシル族ルブアルハーリー沙漠シャンマルムタイル族ーハーイルブライダ侯国ムブライダオネイザ侯国マディーナハルブ族ナジドマハテーアッタハフウタイバ族カハターン族ドルママッカターイフトゥラバガーミド族ブクーム族カハターン族アブハーア スサーヌシャフラーン族ナジュラーンーザーンィ ー ル シ紅 海サヌアボデイダアデンウトラマハドチグリス川チグリス川バグダードユーフラテス川ユーフラテス川バスラクウェイトジャハラザフィール族ムンタフィク族アナーザ族ジャウフシャンマルナフードラシード侯国族カシルワーラ族 ズ族ージャ ークシャラこっきヒホワ イタート族アカバジェッダアレッポラビーグタブークヤンブーベイルートアンマーンダマスカスエルサレムジュハイナ族バニー・アティーヤ族側のマッカ(メッカ)からマディーナ(メディナ)に拠点を移して、共同体を建設し始めたのは西暦では622年である。その後、1,000年以上経過した18世紀のアラビア半島中央内陸のナジド地方での社会生活は、イスラーム当初の理念からかけ離れ、定住民を中心に岩、樹木への信仰や聖者崇拝が復活拡大びょうし、聖者廟への参詣などもなされ、社会規範についても各部族の慣習によってバラバラに規定されるようになっていた。 それでも、ナジド地方の遊牧民は物質的なぜいたくから離れた質素な生活を送っていた。必需品だけを残した簡素な生活であり、そのなかで彼らは自身の厳しさを誇りにし、その誇りから、自らの禁欲的姿勢に美徳を見出した。クルアーン(コーラン)自体が克己と迷信的な悪弊の廃止を命じていた。そして、イスラーム初期の理念に立ち返るための改革を求める機運が生じていた。 18世紀に、ナジド出身の思想的指導者として、ムハンマド イブン・アブドルワッハーブ(1691~1792)が現れ、13世紀から14世紀に活躍したイスラーム法学者のイブン・タイミーヤの思想に影響を受けて、預言者ムハンマドの教義への回帰を説いた。 ムハンマド イブン・アブドルワッハーブは特に、その慣習がオスマーン帝国の領域に拡大していたハナフィー学派とイラクやペルシャのシーア派を批判した。この思想はその後に「ワッハーブ主義/理念」ともされているが、「タウヒード(唯一神信仰)」の実践を徹底させることを特徴とする。①「デルイアの盟約」 18世紀のサウード家はナジド地方リヤードのデルイア地域を支配していた。ここの首長であったムハンマド イブン・サウード(在位1742~1765年)は現在のサウード王家の祖先であり、ムハンマド イブン・アブドルワッハーブが起こした社会政治改革に賛同し、この思想を基にした国家建設を進めることを1745年に誓約した。ム出所:各種資料よりJOGMEC作成図11900~1930年のアラビア半島ハンマド イブン・アブドルワッハーブの子孫は現在にもつながる「シェイク家」であるが、この一族は、サウード家と次の盟約を結んでともに国家運営を進めた。 1. サウード家はワッハーブ主義実現のためにイスラーム法を施行して国家を広げる。  2.統治権はサウード家に属する。  3. 宗教界の長とイスラーム法上の決定権はシェイク家に属する。  4. 国家の重要な決定にはシェイク家の同意を必要とする。  この新しい指導者の下で、運動には宗教的側面だけではなく、民族的側面が加わり、彼は部族内のワッハーブ派参加者を一連の戦役に駆り出し、宗教的熱情による駆動力で、彼らを次々に勝利に導いた。しかし、ナジド地方の外側では、ワッハーブ運動を偏狭だと位置づけ、嫌悪を示す者や拒否する者も多かった。 この理念を実現していくために、この2人のムハンマドは姻戚関係を結んで結束し、サウード家は統治地域を22018.1 Vol.52 No.1アナリシスフ思想的指導者、イブン・アブドルワッハーブの優れた理念と政治的指導力に負うところが大であった。サウード家による統治は、各州にサウード家の臣下を知事として任命し、さらにイスラーム法裁判官を派遣することによった。 しかし、ワッハーブ勢力に対立する者としては、アラビアの土着遊牧民とは性格を異にするザフィールなどの北部部族がいた。さらに、アハサー地方とカティーフ地方のバニー・ハーリド部族は当時、ペルシャのシーア派と通商関係を結んで大きな利益を上げていた。ナジド地方のアブドルアジーズ・サウード首長が要求した進貢には応じたものの、決して心底からサウード家に帰順することはなかった。とりわけ、シーア派は、当時のアブドルワッハーブ勢力によって異教徒と見なされ、アハサー地方からマッカまでの伝統的巡礼者の通行を禁止された。このことは、シーア派世界の憤激を買い、首長のアブドルアジーズは1803年にカルバラーから来たペルシャ人に暗殺された。 しかし、この頃から、アラビア半島西側のヒジャーズ地方を支配するマッカ大公ザイド家と、自身こそがマッカ、マディーナの「2聖都の守護者」としていたオスマーン帝国は、サウード家の版図拡大を警戒し、サウード家と対立して、小競り合いが起きるようになった。 しかし、この時期、オスマーン帝国には重大な危機が訪れ、ヒジャーズ地方に軍事力を割く余裕は全くなくなる。1789年にフランス革命が勃発。その混乱のなかからナポレオンが現れてフランスを指導してイタリア、オーストリアを平定し、1798年にはエジプトのアレクサンドリアに上陸して、オスマーン帝国支配下のカイロを占領した。当時、インドを植民地としていた英国は、植民地との貿易ルートが寸断される危機に直面して、ネルソン提督の艦隊を出撃させアブキール沖でフランス艦隊を撃滅させた。さらに英国はオスマーン帝国、ロシア、オーストリア(ハプスブルク家)などとともにフランスに対抗するための同盟を結んだ。オスマーン帝国軍は英軍の支援を受けてフランス軍を迎え撃ち、1801年にはフランス軍をアレクサンドリアから撤退させた。 こうした間に着実に勢力を拡大していったサウード家は、1802年にシーア派の聖蹟が数多くあるカルバラーを占領し、翌1803年にはマッカに進駐し、数カ月にわたり駐屯した。同年、アブドルアジーズの後を継いでサウードが首長の座に就き、1805年1月から6月までマッカを包囲した後に再度進駐し、翌年にはヒジャーズ地方を占領した。その後は現在のイラクとシリアの南部に度々進撃して、1810年にはシリアのダマスカス近郊にさデルイアの村からナジド地方、さらにはアラビア半島全域に拡大していった。 同時に、減税の実行もなされた。当時のナジド地方の領主たちは、農民から収穫物の半分から3分の2を取り立てていたが、イブン・アブドルワッハーブは、当面の徴税を断念するよう主張した。その代わり、将来的な版図拡大での戦利品獲得や貢租収入が期待できると説得した。領民にとってワッハーブ思想の受け入れには、経済的な利得という現実的な側面もあった。後年、デルイア侯(君主)国の貢租は、農作物の場合に降雨地は10分の1、んがい漑地は20分の1、ヒツジは40頭につき1頭分などと定められていた。戦利品の収入は、貢租収入の数倍に達し、新たに支配地域を拡大させる構造を備えていた。 当時のデルイア侯国は人口約1,000人程度の貧しい町だったが、ワッハーブ理念に共鳴し、あるいは経済的な展望により、周辺から多数の信奉者が集まってきた。反対に、ワッハーブ理念に対して非難する者も現れた。イブン・アブドルワッハーブは敵対的な態度を示す部族や町村に対しては戦う必要があると考え、また領主たるムハンマド イブン・サウードも戦いを実行することを主張した。とはいっても当初は、イスラーム共同体が形成された初期の時代に倣い、デルイアの住民と外来の住民との共同生活を推奨した。日中は労働に勤しみ、夜はワッハーブ理念の普及の徹底に努めた。 それでも敵対的勢力が互いに結び付き始めたため、1746年には、イブン・サウードのデルイア侯国は軍事行動を開始した。その後、ウヤイナ、マンフーハ、ホライムラ、ドルマなど近隣の町村がワッハーブ理念を受け入れていった。灌かいそ②拡大するデルイア侯国とその滅亡 1765年、デルイア侯国の首長ムハンマド イブン・サウードが亡くなると、長子アブドルアジーズが後を継いだ。この機に、敵対勢力が攻め寄せたが、アブドルアジーズは、40代半ばであったが、それまで父親とともに数多くの軍事経験と政治的交渉が豊富にあり、徐々に勢力を拡大した。1773年にはリヤードを陥落させ、ナジド地方の強大な勢力となった。バニー・ハーリド族、ザフィール族などの敵対勢力が内紛を起こす間に、ナジド地方を統一し、1783年には、アハサー地方に勢力拡大の一歩を踏み出した。 1792年、今度はデルイアでムハンマド イブン・アブドルワッハーブが死去した。それまでナジド地方では中小侯国が興亡盛衰を繰り返したが、デルイア侯国が一大勢力として急速に発展してナジドを統一できたのは、こ3石油・天然ガスレビュー湾岸アラブ産油国の王家/首長家:その歴史的背景と政治の現状(各国王族間の外交関係をめぐる情勢等を含む)に関する概論ワで迫る勢いを見せた。さらにアラビア半島東側ではワッハーブ理念を受け入れたカーシミー部族連合と結び、海上交易においても勢力拡大に手を広げた。そうしてアラビア半島ほぼ全域を支配下に収めた。 こうしたサウード家の勢力伸長によってオスマーン帝国は、「2大聖地の守護者」としての地位を失い、巡礼者からの収入も失うこととなった。オスマーン帝国の皇帝は、バルカン半島出身で非正規軍部隊の士官からカイロの総督になっていたムハンマド アリーに対し、マッカ、マディーナの2大聖地からワッハーブ勢力を排除することを命じた。ムハンマド アリーは子息の1人をダマスカス総督に就ける内諾を得て、コーヒー産地のイエメン支配を目指した。1811年、ムハンマド アリーは次男トーソンを派遣、兵力はヤンブーに到着する頃には1万4,000人に達していた。 そうしたさなかの1811年、ナポレオンは腹心のド・ラスカリをデルイアに派遣し、共に同盟してオスマーン帝国を攻撃するように提案した。一方、英国はカールスラレー卿を派遣して、サウードにオスマーン軍への攻撃をやめ、フランスに味方しなければ、英国はコンスタンチノープル(現・イスタンブール)の皇帝にサウードの王位を認めさせると約束した。英国とフランスとの両方から提案を受けたサウードは、この時フランスを選んだが、これは後に裏目に出る。 1812年1月に、ヤンブーとマディーナの中間にあるサフラ渓谷でワッハーブ軍とオスマーン帝国軍との最初の戦いが行われた。勝敗はワッハーブ側の大勝となった。峰の上に待ち伏せしていたワッハーブ軍の急襲を受けたオスマーン軍8,000人は大混乱を来して総崩れとなり、甚大な損失を被った。トーソンはヤンブーに帰還して戦力を立て直し、今度はジュハイナ族、ハルブ族といった地元遊牧民の族長たちへの懐柔工作を行った。資金、物資を大量に投入し、時間もかけてヒジャーズ地方におけるワッハーブ勢力に対する不満や敵意を高めるよう努めた。10月に、トーソンは再び大軍を率いてマディーナを目指した。今度は、途中で襲撃を受けることなくマディーナ近郊までたどり着いた。マディーナはイエメンに近いアスィール地方からのワッハーブ軍7,000人が守っていたが、夏の間に疫病が広がり、疲弊していた。戦闘が開始され、籠城戦となったが、ワッハーブ軍側は助命と撤退を条件に降服した。しかし、オスマーン帝国の主力となっていたエジプト軍は、撤退途中のワッハーブ軍のアスィール兵を襲撃して多数を討ち取った。これはヒジャーズ地方の部族民に深い不信感を残すこととなった。この時期、ワッハーブ側は、デルイア侯国自体ろうの内部事情や経済不安定などに悩まされていたため、エジプトからの軍勢に反撃する態勢にはなかった。 1812年の冬は、サウードと結んだナポレオン軍がロシアで大敗を喫した。これにより、オスマーン帝国はフランスから攻撃を受ける心配がなくなり、ワッハーブ軍に全力で戦えることとなった。 1813年1月、エジプト軍は抵抗を受けることなくマディーナに進攻した。この年、ムハンマド アリー自身がマッカまで赴き、1815年までかけて自身の勢力基盤を強固にするために、何度となく出撃し、かつ各地の部族の長にも、自分に忠誠を誓う者を任命した。 これに先立つ1814年5月、サウード首長は亡くなり、子息アブドッラーが後を継いだ。しかし、ワッハーブ側は既にヒジャーズ地方、バハレーン、オマーンといった支配地域を失いつつあり、デルイア侯国に昔日の勢いはなかった。アブドッラー首長も、武将としては勇猛であったが、統治者としての知略や柔軟性に関しては父に及ばなかった。新たに支配領域が増えなくなり、戦利品獲得が激減したことで、多くの遊牧民部族がエジプト軍側に寝返った。アブドッラーは、1815年にオスマーン帝国側の司令官トーソンと和議を結び、カシーム地区とナジド地方はワッハーブ側、ヒジャーズ地方はオスマーン帝国側と分けたが、和議の条件から漏れた地域では、度々、両勢力は衝突した。一方、エジプトにとってはカイロからの補給路は伸び、巨額の遠征費用を賄っていくには、さらなる対策が求められた。ムハンマド アリーはヒジャーズ地方を手に入れたことでオスマーン帝国内での地位を向上させたが、シリア地方の統治権も手に入れるためには、ナジドのデルイア侯国を叩き潰してアラビア半島での自身の基盤を安定させることが必要だとの決意を固めた。 再度の遠征に、ムハンマド アリーは長子イブラーヒームを指揮官に任命した。そして、交通手段の確保と地元住民の懐柔を基本戦略として、遊牧民を味方にするため貢租免除などの努力を払っていった。軍事面でも、元ナポレオン軍の訓練指揮官やモロッコやリビアからの騎兵を従軍させるとともに、防壁構築技術を持ち、各種大砲の操作に練達した兵を参加させて軍事力を増強した。1816年10月からデルイア侯国への遠征が行われた。エジプト軍は、報奨金を分配し、遊牧民の歓心をかい、補給路を確保し、攻城戦では投降した兵士を追撃することなく、ゆっくりと、しかし、着実に前進していった。こうして1818年4月までにナジドを攻略してデルイア市に迫った。既にアブドッラー首長の下から遊牧民の大半は姿を消し、ワッハーブ思想の下、最後までサウード家42018.1 Vol.52 No.1アナリシスノ忠誠を尽くす者たちが続々とデルイアに集まった。同年9月11日、アブドッラーは降伏し、サウード家は壊滅的打撃を受け、デルイアの町も破壊された。 アブドッラー当主は捕らえられ、戦勝に沸き立つカイロを経由してオスマーン帝国の首都であったコンスタンチノープルに送られ、そこで処刑された。イブラーヒームの軍は、デルイア陥落後は、略奪と破壊をほしいままにした。サウード家の者はもちろん、ワッハーブ派の有力者や諸部族の長も次々と捕らえられて殺害され、財産は没収された。 オスマーン帝国のイブラーヒームは、ナジド地方の制圧の後にアハサー地方に進軍したが、既にカイロから数千キロメートル以上離れ、補給路は伸び切り、住民からの敵意は増大していたため、補給部隊に対する襲撃も繰り返された。さらに、この年はナジド地方が干ばつに見舞われ飢餓が発生して、占領の内部からも反乱が起きた。もはや進駐軍の駐留経費を現地で賄うことは不可能な状況に陥った。 1819年5月、ムハンマド アリーは長子イブラーヒームに対してナジド地方から撤収して、ヒジャーズの占領に専念するよう命じた。エジプト軍は、ナジド地方にサウード家が再興することのないように、サウード家とイブン・アブドルワッハーブの家系の者たちの全員をエジプトに強制移住させた。約400人がマディーナを経由してカイロに送られたが、一部に途中で脱走した者があった。 そうした脱走者の1人であるアブドッラーの弟ミシュアルが1820年4月にデルイアに帰還した。アブドッラーの子息トルキーとその兄弟もエジプト軍の追跡を逃れて帰還した。しかし、ミシュアルは、地元豪族によって捕らえられ、後に獄死する。サウード家は再び四散したが、エジプト軍に反感を持つ勢力を集めてトルキーが代わって立つ。しかし、再びエジプト軍が進撃してくる。トルキーは籠城戦のさなか、包囲を破って脱出し、南部に逃れた後、1823年に再びナジドへの帰還を果たす。そして1824年に、サウード家の後を継いだトルキー ビン・アブドッラー首長は再びリヤードを奪回して、再興させた。 この時期、オスマーン帝国ではギリシャが独立を目指して反乱を起こし、これを鎮圧したものの、戦後処理をめぐってエジプトのムハンマド アリーとコンスタンチノープルの皇帝が関係を著しく悪化させた。このため、オスマーン帝国にはナジド地方に出兵する余裕はなく、その間に、トルキーはサウード侯国の再興を進めていった。しかしトルキーは内紛によって1834年に、暗殺される。トルキーの子息ファイサルが再びリヤードを奪還するが、オスマーン帝国エジプト軍の襲撃を受けて1838年に捕らえられてエジプトに送られる。なんとか5年後に脱出して、再びリヤードを制圧した。 1844年、ファイサルはアハサー地方を支配地域にすると、アラビア半島東側のクウェイト、カタル、バハレーン、オマーンへ支配領域を拡大しようとした。このうち、オスマーン帝国が支配下に置いていたクウェイトとは、良好な関係を維持した。しかし、バハレーンとは、同国のハリーファ首長家の内紛と英国の思惑が関係して紛争が絶えなかった。オマーン側でも同国のブライミー・オアシスの領有をめぐりサウード家は、英国と結んだオマーンとの緊張が絶えなかった。③繰り返される内紛 1865年12月、ファイサル イブン・トルキーが亡くなると、長子アブドッラーが後を継いだが、この後の20年間は次男ムハンマド、三男サウードが加わって一族の間で激しい跡目争いを繰り広げ、互いに首長位を奪い合い、何度も当主が入れ代わるという事態を招いた。 1875年1月に三男サウードが病死し、四男のアブドッラフマーンが後を継いだが、2人の兄であるアブドッラーとムハンマドがこれを認めず、手勢を率いて進撃してきたためアブドッラフマーンは故サウードの遺児5人とともに応戦した。しかし1876年になると、今度は5人の遺児が反乱を起こして実権を掌握し、アブドッラフマーンはリヤードを追われる。その後、長兄のアブドッラーと組んでリヤードに帰還を果たした。 しかし、このような政争を続けた結果、サウード家そのものが弱体化した。1891年、このすきにラシード家によって、サウード家はリヤードを追われ、アブドッラフマーンがラシード家に反撃するも、敗北を喫してリヤード奪還を果たすことはできなかった。④ラシード家の台頭 当時のラシード家は、シャンマル山岳地帯とこれに隣接するハイバルとジョウフの緑地帯を本拠地とし、シャンマル部族連合に支持基盤を置くワッハーブ派の勢力であり、人口は6万~8万人、定住民と遊牧民が半々であった。ファイサル イブン・サウードの時代には、ラシード家の当主アブドッラーはサウード家と良好な関係を結んでいた。アブドッラーが1847年に亡くなると息子のタラールが後を継ぎ、1868年にタラールが亡くなると弟のムトイブが後を継いだが、更にタラールの長子バンダルがムトイブを暗殺して後を継いだ。1874年、伯父に当たるムハンマド イブン・アブドッラーがバンダルを殺害して首長に就任すると、バンダルの5人の息子た5石油・天然ガスレビュー湾岸アラブ産油国の王家/首長家:その歴史的背景と政治の現状(各国王族間の外交関係をめぐる情勢等を含む)に関する概論ソを追跡して4人までを殺害した。ラシード家でも政治抗争が繰り広げられたが、1874年から1897年までのムハンマドの時代には、ラシード家は繁栄と発展を遂げ、政治的にも安定していた。 ラシード家は、英国およびオスマーン帝国と通じていたが、クウェイトとは対立していたことから、リヤードを追われたサウード家のアブドッラフマーンとその家族は、1893年、クウェイトの首長サバーハ家に身を寄せ、約10年間を過ごした。⑤リヤード奪還 アブドッラフマーンの子息で、成人したばかりのアブドルアジーズは1901年末、クウェイト首長から40頭のラクダと食料を譲り受け、従兄弟のアブドッラー ジルウィーや60人の部下とともにリヤード奪回に向けて出立した。途中でオアシスや井戸に立ち寄ったものの、約50日間の期間、ルブアルハーリー沙漠に潜伏して消息を断ち、オスマーン帝国の官憲やラシード家からの追っ手を完全にかわした。 ラマダーン月の明けた1902年1月、アブドルアジーズの一行はリヤードに達し、黎明のなかにマスマク城に奇襲をかけてラシード家の総督アジュラーンを討ち、守備兵との戦闘にも勝利して、マスマク城の奪還に成功した。 クウェイトではこの報に沸き立ち、同国のムバーラク首長はアブドルアジーズの弟サアドに700人の増援部隊を託してリヤードに派遣した。5月に父のアブドッラフマーンと家族がクウェイトからリヤードに到着し、首長の座をアブドルアジーズに譲り、ここに22歳の若き首長が誕生した。 父がリヤードの守りを固める一方、息子のアブドルアジーズは南部に転戦し、ラシード家の支配に抵抗を続けていたナジド南部の部族を味方に付けたことで、ナジド南部と中央部を支配下に収めた。この後の数年は、サウード家が勢力を拡大し、ラシード家は戦闘の度に勢力を弱めて北方に退いていく。 1904年7月、ブカイリーヤ村近くで、オスマーン帝国軍とラシード家の連合軍に対して、アブドルアジーズの下に集まった遊牧民の軍勢が衝突し、この時の戦いではアブドルアジーズは敗れ、自身も左手と膝を負傷してしまう。一時、彼の軍勢は崩壊するが、それでも、その後、アブドルアジーズ自らムタイル族、オタイバ族、ダワーシル族、ムンタフィク族などの部族の長に直接会って支援を求め、馬、ラクダ、部族の若者の提供を受け、翌年の1905年にリヤードの北、シナナー村近傍の敵に対して奇襲をかけた。今度は、味方の士気が最も高まる時を捉えて、ラシードの軍を無視して直接にオスマーン軍の歩兵部隊に突撃、敵の中央撃破を試みた。オスマーン軍の防衛線が突破されると、ラシードの勢力は浮足立った。オスマーン軍が反撃に出るとアブドルアジーズは巧みな駆け引きで、彼らを沙漠地帯に引きずり込み、消耗戦に陥らせることで勝利を重ねた。 この戦闘後、アブドルアジーズはオスマーン軍と交渉し、ナジド全域の主権を認めさせる代わりにカシーム地方とオネイザ、ブライダの町にオスマーン軍の駐留を受け入れた。この妥協に対しては、アブドルアジーズを支援した部族たちから非難の声が上がった。 しかし、カシーム地方に司令部を設置したオスマーン軍はバスラから補給を受けたが、正体不明のゲリラが出没して、襲撃と略奪を受けるようになる。補給は滞り、オスマーン兵は疲弊しきって1906年10月末に撤退した。 1906年4月半ば、ブライダ西方のラウダト・ムハンナでサウード軍とラシード軍が対峙し、サウード軍が未明にラシード軍の陣営に突入した。この日は悪天候で砂塵が舞い、視界が遮られて大混戦となり、そのなかでラシード家の当主イブン・ムトイブは討ち取られた。総大将を失ったシャンマル軍は総崩れとなって敗走した。 1913年5月、アブドルアジーズの軍はアハサー地域に進攻してホフーフ市を陥落させ、約50年間続いたオスマーン朝の支配を終わらせた。その後、アラビア半島の各地に勢力を拡大していき、ラシード一族を追放して、現在の領土まで拡大していった。(2) 第3次サウード王朝の特徴―イフワーン(〈注・解説〉*1参照)軍団― 第1次サウード王朝は、その拡張政策がオスマーン帝国という大国と衝突し、有効な外交的戦略を採れずに崩壊した。第2次サウード王朝は内紛に乗じて他家につけ入るすきを与えてしまった。こうした失敗を重大な教訓として第3次サウード王朝は新しい政策を形成していった。 一つは、英国と1914年8月にカティーフで条約を結び、英国はアブドルアジーズにナジドとアハサーの支配を認め経済支援と武器を供与することとなった。アブドルアジーズは、英国の同意なしに領土を割譲・租借・利権供与などを行わないこととした。 一族の団結を強めると共に、有力部族と姻籍関係を構築して、アブドルアジーズ当主を中心にした絆を強めた。 加えて、遊牧民部族から若者を選んで入植地に定住させ、イフワーン(「同胞」の意)と呼ばれる集団を形成させた。そしてイフワーンの軍団は、ワッハーブ思想を拡大する意欲と、領土を拡大した先での戦利品獲得を目指し62018.1 Vol.52 No.1アナリシスト強力な戦力となった。1920年にはアラビア半島南西部のアスィール地方を支配下に収め、翌1921年にはラシード家をマディーナ北東約400kmのハーイルで討ち破った。1924年にはヒジャーズの要衝ターイフを陥落させ、翌1925年12月にはジェッダに進撃しヒジャーズ地方を完全に制覇した。しかし、イフワーン軍団は、とどまるところを知らず、クウェイト、ヨルダン、イラクの境界線を越えて進撃しようとし、英国の権益との衝突が危ぶまれた。アブドルアジーズはイスラーム学者を交えて集会を開き自制を求めたが、イフワーン側は応じず、逆に英国と条約を締結し近代化を進めるアブドルアジーズの政策に反対の意を示していた。アブドルアジーズは都市住民で構成した3万人の部隊によって、ハーイル西方のシビラで、8,000人のイフワーン反乱軍を鎮圧した。 この後、アブドルアジーズはワッハーブ思想を拡大していくことと、領土を拡大することを切り離し、国外への出版物の流布や宣教師を養成して派遣するなどの方法を採ることで国内宗教界を納得させた。(3)王国の建国と石油、対米外交 1932年9月23日、アハサー、カティーフ、ヒジャーズとナジドの各地方の複合王国を「サウード家のアラビア王国」という名の下に統合、建国した。 建国直後の1933年5月には、米国のStandard Oil Company of California(Socal)の子会社であるCalifornia Arabian Standard Oil Company(CASOC)と石油利権に関する合意文書に調印した。CASOC社は1944年に社名を変更して、Arabia American Company(Aramco)となり、1988年11月に国有化されてSaudi Aramcoとなる。商業量の油田が発見されたのは、1938年3月初めであり、ダンマン第7油井からであった。 当時の米国は国内の油田が枯渇に向かいつつあり、中東の石油を確保する必要性を感じていた。1945年2月14日には、アブドルアジーズ国王はスエズ運河に停泊した米巡洋艦クインシー上でルーズベルト大統領と会談、以降、米国企業による石油確保と、米国がサウディの安全保障を担う関係が築かれていった。(4)歴代国王の治世と王位継承のルール 初代:アブドルアジーズ国王(在位1932~1953年) 1932年9月23日、ヒジャーズ地方のナジドの複合王国を「サウード家のアラビア王国」の名の下に統合した。 1953年にアブドルアジーズ初代国王は死去し、以来、現在に至るまで、その子息たちが王位を継承してきた。初代アブドルアジーズ国王の遺言に従って、親から子へという縦への相続ではなく、兄から弟へという横への相続を実行することを遵守してきた。これには、現在の王国建国に至るまでの歴史過程において、度重なる内紛にサウード イブン・ムハンマド イブン・ムクリンサウード イブン・ムハンマド イブン・ムクリンムハンマド(1)ムハンマド(1)1742~17651742~1765アブドルアジーズ(2)アブドルアジーズ(2)1765~18031765~1803サウード(3)サウード(3)1803~18141803~1814アブドッラー(4)アブドッラー(4)1814~18181814~1818ミシュアル(5)ミシュアル(5)1818~18201818~1820ハーリド(8)ハーリド(8)1838~18411838~1841アブドッラーアブドッラートルキー(6)トルキー(6)1824~18341824~1834ファイサル(7)、(10)ファイサル(7)、(10)1834~1838、1834~1838、1843~18651843~1865ツナヤーンツナヤーンアブドッラー(9)アブドッラー(9)1841~18431841~1843ジルウィージルウィー子孫が知事就任子孫が知事就任アブドッラー(11)、(14)アブドッラー(11)、(14)1865~1871、1875~18891865~1871、1875~1889サウード(12)サウード(12)1871~18751871~1875アブドッラフマーン(13)、(15)アブドッラフマーン(13)、(15)1875、1889~18911875、1889~1891アブドルアジーズ(16)アブドルアジーズ(16)首長  1903~1932首長  1903~1932初代国王1932~1953初代国王1932~1953サウードサウードファイサルファイサルムハンマドムハンマドハーリドハーリドファハドファハドアブドッラーアブドッラースルタンスルタンサルマーンサルマーンムクリンムクリンアハマドアハマド出所:各種情報に基づき筆者作成図2サウディアラビア王国 サウード家系図(1)数字は首長在任期間7石油・天然ガスレビュー湾岸アラブ産油国の王家/首長家:その歴史的背景と政治の現状(各国王族間の外交関係をめぐる情勢等を含む)に関する概論謔チて弱体化した教訓が強く生かされており、徹底して一家の結束を強化することを最優先して、兄弟間で王権を引き継いできた。これまでのところ建国以来、サウード家の内紛が現れることはなく安定さを示しているが、兄弟間での相続を続けているために、代を経るごとに国王が高齢化してくるという弊害が現れている。公式発表でも、先代アブドッラー国王は享年91歳、現サルマーン国王も81歳となっている。たとえ初代アブドルアジーズ国王の遺言であったとしても、アブドルアジーズ国王の子の世代の兄弟間で、王権相続を未来へ向けて継続させるのは不可能である。やがては孫の世代に引き渡す時が来るのは避けられない。現ムハンマド ビン・サルマーン皇太子(32歳)が王位に就くとなれば、孫の第3世代から初めて国王が誕生することになるが、一気に50歳程の若返りを果たすことになる。第2代 : サウード国王(在位1953~1964年)つまず 経済政策と外交の両面で躓き、歴代国王のなかでは唯一、生前に王位を禅譲した。1960年にはタリーキー石油鉱物資源大臣を就任させた。 第3代:ファイサル国王(在位1964~1975年) 首相だった1962年にヤマニーを鉱物資源大臣に就け、1973年10月6日に開戦した第4次中東戦争で石油の禁ファイサルファイサルアブドッラフマーンアブドッラフマーンアブドルアジーズアブドルアジーズ初代国王(1932~1953)初代国王(1932~1953)サウードサウード第2代国王第2代国王1953~19641953~1964ファイサルファイサル第3代国王第3代国王1964~19751964~1975ハーリドハーリド第4代国王第4代国王1975~19821975~1982ファハドファハド第5代国王第5代国王1982~20051982~2005アブドッラーアブドッラー第6代国王第6代国王2005~20152005~2015スルターンスルターンナーイフナーイフ元皇太子・元皇太子・内相内相サルマーンサルマーン第7代国王第7代国王2015~2015~ムクリンムクリンアハマドアハマドハーリドハーリドサウードサウード元外相元外相ムトイブムトイブトルキートルキーサウードサウード東部東部州知事州知事ムハンマドムハンマド前皇太子前皇太子アブドルアブドルアジーズアジーズバンダルバンダル元駐米大使・諜報長官元駐米大使・諜報長官出所:各種情報に基づき筆者作成図3サウディアラビア王国 サウード家系図(2)数字は国王在任期間ムハンマドムハンマド皇太子・国防相皇太子・国防相2017~2017~アリーアリーアブドッラー(1)アブドッラー(1)1835~18471835~1847タラール(2)タラール(2)1847~18681847~1868ムトイブ(3)ムトイブ(3)18681868ムハンマド(5)ムハンマド(5)1874~18971874~1897オベイドオベイドハムードハムードバンダル(4)バンダル(4)1868~18741868~1874ナーイフナーイフタラールタラールアブドッラーアブドッラームハンマド(12)ムハンマド(12)19211921出所:各種情報に基づき筆者作成アブドルアジーズ(6)アブドルアジーズ(6)1897~19061897~1906ファイサルファイサルスルターン(8)スルターン(8)1907~19081907~1908サウード(9)サウード(9)19091909マ-ジドマ-ジドオベイドオベイドムトイブ(7)ムトイブ(7)1906~19071906~1907ミシュアルミシュアルムハンマドムハンマドサウード(10)サウード(10)1909~19201909~1920アブドッラー(11)アブドッラー(11)1920~19211920~1921図4サウディアラビア ラシード家系図数字は首長在任期間82018.1 Vol.52 No.1アナリシスA措置の発動に踏み切った。第4代:ハーリド国王(在位1975~1982年) 外国人労働者の受け入れを増やし、米国からの武器輸入を拡大したが、1979年にはマッカ・モスクの占拠事件が起きた。第5代:ファハド国王(在位1982~2005年) 1986年、ヤマニー石油大臣を更迭し、ナーゼル企画大臣を石油大臣に就任させた。1995年には体調を崩し、晩年はアブドッラー皇太子が補佐した。同年、アリー アン・ヌアイミー前石油鉱物資源大臣が、アブドッラー皇太子の支援もあって就任した。第6代:アブドッラー国王(在位2005~2015年) 1995年から、体調を崩したファハド国王を補佐して、国政を取り仕切った。対米協調を基本とした穏健な政策に変化はなかった。しかし内政課題として雇用問題や貧困問題が表面化してきたが、原油高による経常黒字が続くなかで、インフラ整備や外資と民間企業を活用した石油化学プロジェクトを推進することで、解決の方向に導いた。第 7代:サルマーン現国王(1935年12月31日生。2015年~) 国王の正当性はマッカとマディーナの安定した統治を通じて、世界からの巡礼者に安全を保障し、もって世界16億人のムスリムに安心や希望を与えることであり、その統治者としての正当性を自ら体現しようとしている。2. クウェイト クウェイト市から海上北東約20km沖合、長さ12km、幅6kmのファイラカ島で1958年、デンマークの考古学調査団が、BC3,000~1,000年頃までの青銅器時代の遺跡を発掘した。出土品にはメソポタミアで発掘されたシュメール文明の遺物と同じ赤レンガなどがあり、またバハレーン島で発見された滑石の印章と同じものや陶器なども含まれていた。これらの史実によって、ファイラカ島はBC2800年頃、バハレーン島に興ったディルムン文明と密接な関わりを持っていたことが判明した。 クウェイトにおける最初の定住地の建設は、1710年頃と考えられている。18世紀初頭、干ばつのために、中央アラビアの純血遊牧民の一派が、自らの土地を追われ、水と草を求めて移動した。彼らはアラビア半島の部族のなかでも保守的なオネイザ連合のグループであり、現在のクウェイト湾南西岸にたどり着き、豊かな湧水を発見して定住した。このグループのなかに、現在の首長家であるアル・サバーハ家の祖先と、バハレーン王家の祖先がいた。後に、クウェイトの有力商人となるアル・ガニム シェムランや、ムッラー家で知られるアル・サーリハなど、他の諸豪族も、この時の定住民のなかに、その祖先を見い出すことができる。 国名であるクウェイトは、アラビア語で「城塞」を意味するが、初期定住グループにとって公的な環境を見い出し、当初の幕営地を定住地にすることを決意し、自らの共同体を守るために構築した小さな砦(クート)に由来するとの説がある。アラビア語で「クート」の縮小形が「クウェイト」である。(1)ウトゥーブ一族のサバーハ家 18世紀末に、サウディのアハサー地方と現在クウェイトが位置する地域はアラビア北東部を支配していた強大なハサブ部族のなかのバニー・ハーリド部族の領土の一部を形成していた。そして、バニー・ハーリド族に次いで、オネイザ部族の一支族であったウトゥーブ族が勢力を増して、カタルをはじめ、クウェイト、バハレーンに独自の領土を保持していた。ナジド地方からアラビア半島北部一帯に居を構えていたウトゥーブ族(バニー・ウトゥーブ)がクウェイトに到達したのは1716年頃と言われている。当時の中央アラビアを襲った飢饉から逃れるためなどの説が残っている。アラビア語ではウトゥーブの縮小形がオタイバであり、オタイバ部族は現在でも有力部族である。 このウトゥーブ族に現在のクウェイトのサバーハ首長家、バハレーンのハリーファ王家、さらにはザーイド家やジャラーヒマ家などの現在の有力ファミリーが含まれていた。まず、カタル半島の各地に定着し、ここから航海力を高めて1716年頃からアハサー地方北端のクウェイトに集まり、アラビア湾の海上活動で勢力を広めていった。当初は、バニー・ハーリド族の首長のムハンマド イブン・グライアルに税を納めて、その庇護下に入っていた。1723年にムハンマドが亡くなるとバニー・ハーリド族は跡目をめぐって内紛を起こし、アハサー各地の支配に動揺が生じた。クウェイトのウトゥーブ族は徐々に独立の志向を強め、1752年、スレイマーン族長が亡くなると、再び部族内の覇権闘争が起き、さらには中央9石油・天然ガスレビュー湾岸アラブ産油国の王家/首長家:その歴史的背景と政治の現状(各国王族間の外交関係をめぐる情勢等を含む)に関する概論Aラビアではサウード家が勢力を拡大した。こうした状況下、クウェイトにおける政治的・経済的安定を求めて、ウトゥーブ一族と他の住民は合議の下に、1756年、サバーハ家を政務担当に選び、初代クウェイト首長としてサバーハ ビン・ジャービル ビン・アズビーを選出した。 同時に、ハリーファ家は財務、ジャラーヒマ家は真珠採取業を担当することが主要部族間で取り決められた。 サバーハ家が政治を任されたのは、遊牧部族民との外交・交渉の技量を評価されたためである。当時の新来の移住民は、バスラにあった強大なオスマーン帝国の前線庁から、放逐、あるいは朝貢を要求されたりすることを懸念して、使節を派遣したことが伝えられている。この使節の交渉でサバーハ家の一員が、その有能さと、双肩に担わせるに値することを示したことによるとの記録もある。 しかし、サバーハ家の権力は、対内的には尊重されるも、真珠採取業や貿易業などで経済力をつけた商家部族の発言力は強く、現在のクウェイト社会にもいまだ根強く残っている。この点は、周辺国と異なるクウェイトの国柄の大きな特徴と言えよう。 初期のクウェイトについての記録は少ないが、1764年にクウェイトを訪問したデンマークの探検家カールステン・ニーブールによれば、居住人口は約1万人と推定、交易、漁業、真珠採取業などの船舶は800隻を運航させ、バニー・ハーリド部族支配下のバハレーンにも出漁していた。好漁期になると、住民は出漁するか交易に出るかで、集落はほとんど無人になったと言われていると記録している。一度も征服されることはなかった。 1775年から1779年の間、クウェイトは例外的繁栄を誇った。それはペルシャ人によるバスラ攻囲と占領の間、多くの貿易が交易路を変えて、クウェイトを通じて行われたからであった。当時のクウェイト商人は、明らかに宗教的論争よりも商業に心を奪われていた。しかし、周辺の遊牧民のなかでは、数多くの人々が実践的にではなくとも信条の上でワッハーブ派に加わった。(3)サウード家との戦い 1790年、バニー・ハーリド部族の勢力下にあったアハサー地方がサウード家の支配下に入った。当時、インドを植民地にした英国が、中継地となるアラビア半島の沿岸部に覇権を有していた。さらに、オスマーン帝国もアラビア半島に覇権を有していたため、サウード家は英国とオスマーン帝国の両方と対峙することとなった。 1793年、サウードの軍勢が、クウェイトに攻撃してきた。アハサーでバニー・ハーリド部族を討ち破ったイブラーヒーム ビン・ウファイサーンがサウード軍を率いた。クウェイト軍は同市郊外でサウード軍を迎え撃ったが、30名が戦死し、武器も失った。この時、クウェイトには、英国の東インド会社商館が設置されていた。史料によっては、商館は中立を保ったと記すものもあるが、英国は商館保護を理由に軍艦を派遣し、大砲2門を陸揚げし、商館付きのインド人警備兵が戦闘に参加して4,000人から成るサウード軍を撃退したとの記録もある。1795年までに、数次にわたりサウード軍はクウェイトに攻めてきたが、クウェイトはこれを撃退している。(2)ワッハーブ派の台頭 サウジを主な舞台にしたワッハーブ運動が盛んな間、クウェイトはワッハーブ派の活動の主流には加わらなかったが、アラブ世界の一員として、ナジド全土に及んだ動乱の影響を感じないではいられなかった。ナジドと同様にクウェイトでも伝統的イスラーム教徒が優勢であったものの、クウェイトはペルシャ(イラン)やイラクのシーア派と交易しており、既にかなり多数のシーア派ムスリムが居住していた。貿易を活発に行い異邦人も受け入れていた寛容な態度は、ワッハーブ思想が流入する上で役には立たなかった。クウェイトのアブドッラー首長が、自衛のため、ワッハーブ派と何らかの暫定協定を結んだことは考えられる。しかし、それが事実であったとしても、この協定は彼の領土を侵略から守らなかったであろう。サウディアラビアの領土にクウェイトを併合する試みが数回にわたって行われたが、クウェイトはあつれき(4)建国初期の発展期 オスマーン帝国によって、ペルシャからバスラが奪回された後、東インド会社の駐在員であった英国人サミュエル・マネスティがオスマーン帝国政府との間に軋轢を生じ、1793年4月、トルコ支社と、その駐在員をクウェイトに移した。彼らが、クウェイトに移動してオスマーン政府の妨害から逃れた事実は、とりもなおさず、クウェイトのオスマーン帝国からの独立を意味するものであった。 数度にわたるワッハーブ派のクウェイト来襲のうちの1度は、東インド会社駐在員がクウェイトに滞在していた間に起きた。マネスティは、東インド会社船の1隻から岸へ大砲を運ばせ、現地兵は欧州人の宿営する町の外側に陣を敷いた。総勢500人のワッハーブ勢力は、地元勢力と大砲によって押し返され、さらに海岸伝いに退却する途中でも何名かが海上からの砲撃によって斃れた。 1805年に、アブドッラー首長が英国側と折衝し、自たお102018.1 Vol.52 No.1アナリシス唐ェ覇権を争った地だが、1798年10月、英国はマスカットのスルターンと外交条約を締結した。さらに1800年1月には新たな条約を結んだが、それによりアラビア湾の貿易独占に加えて、湾岸一帯の主権を狙っていることが明らかになった。現在のUAEのシャルジャとラッスルヘイマの首長家であるカーシミー部族連合は、フランスとの同盟関係にあったことから、英国はカーシミー部族と海上の交易権をめぐって度々、小競り合いを繰り返していた。そして、サウード家がオスマーン帝国に倒された翌年の1819年11月に英国は軍艦9隻、輸送船18隻、インド兵1,400人を含む陸戦隊3,000人から成る大部隊で、ラッスルヘイマをはじめウンムルカイワインなどの周辺にも上陸侵攻する大規模攻撃を行い、カーシミー部族連合の輸送船団を全て破壊して、海上交易権を獲得した。1820年1月には、カーシミー部族連合の首長たちと「一般平和条約」を結んだ。この条約にはアブダビ、ドバイ、アジュマン、ウンムルカイワインに加えて、バハレーンも加わった。1835年に英国は「海上休戦条約」をこれら首長たちとの間で個別に結び、1853年には「恒久休戦条約」、1892年には「排外条約」を締結した。 しかし、クウェイトはこれらの条約には参加していない。その理由には公式に発表されていないが、クウェイトが海上交易の面で英国との協力関係を維持したこと、クウェイトの外交政策に対するオスマーン帝国の疑惑を避けることなどが主な理由だと考えられている。(6)クウェイト歴代首長のサウード家との関係 アブドッラー首長(在位1866~1892年) の時代、1891年、ラシード一族との戦いに敗れたサウード家の一族が、沙漠地帯での2年間に及ぶ逃亡生活の後にアブドッラフマーン ビン・ファイサル首長に率いられてクウェイトに亡命してきた。当時のオスマーン帝国は、アラビア半島統一を2度も実現したサウード家の実力を警戒したため、サウード家を沙漠で野放しにしておくよりも、自らの影響が及ぶクウェイトに閉じ込めておいたほうが得策であると判断し、クウェイトの首長にサウード一族の保護を命じ、サウード家の生活費もオスマーン帝国が負担した。また、ラシード家がオスマーン帝国に敵対してきた場合にも、サウード家をもって対抗させるための布石でもあった。 次のムハンマド首長(在位1892~1896年)は、オスマーン帝国との関係を維持しつつ保守的に統治するも、政権はクーデターにより短命で終わった。 ムバーラク首長(在位1896~1915年)は、1896年、ブーシールの英国駐在官の協力を得て、クーデターで就任し身とズバラの首長がワッハーブ勢力の圧迫から逃れるため、クウェイト本土を離れる場合、バハレーンへの安全な撤退を英国が保証するかどうか打診した。そうしなければワッハーブ勢力は、英国の貿易を妨害するよう彼らに強いるであろうとも示唆した。しかし英国はクウェイト首長の申し出を受け付けなかった。 1809年にアブドッラー首長がオマーンのカーシミー族を掃討する遠征に助力を申し出た際も再び、英国はこの提案を退けた。英国の政策は、湾岸首長国間の相互関係に対する介入を最小限にとどめる一方、相互の独立を維持させるというものであった。 この時、既にアブドッラーから子息ジャービルが首長位を継いでいた。統治期間中、彼らは英国と友好関係を保ち、またオスマーン帝国に対しても、一応同じように振る舞った。1838年から翌1839年にかけて、ワッハーブ派との抗争に巻き込まれたエジプトのムハンマド アリーの軍隊がアラビア半島を横断して侵攻し、アハサー地方に至った時、英国はクウェイトの独立を維持させ、保護するために、公使をクウェイトに駐在させた。しかし、オスマーン帝国がクウェイトの繁栄を羨望の目差しで眺めたとしても、サバーハ家の統治が国内に平和と秩序を維持している限り、介入の口実はなかった。 クウェイトの最初の5人の支配者の地位は、父親から嫡に伝えられたが世襲制は強制的とは考えられていなかった。ある首長の没後に後継者は遊牧民が指導者を選ぶ場合と同じ基準で、人物、指導力、幸運などの点で資格を持つと立証された首長一族のメンバーから、国民によって選出された。 石油が経済と国政の双方に複雑さをもたらす以前の時代に、クウェイトの首長は、利害に大きな開きがあって度々紛争を起こしていた二つの集団を統治していた。それは市街地の住民と遊牧生活を送る沙漠の民のベドウィンである。初期を除いて、市街地の人口は、恒常的にベドウィン人口を上回っていたと思われ、彼らの活動によって地域は繁栄を得ていた。しかし、ベドウィンは人口数では劣りこそすれ、彼らは、最も輝かしく雄々しい仁徳を具現し、名誉と士道の沙漠の掟を維持して、国家の戦闘力を構成していた。定住民社会では、一部の市街住民はベドウィンを畏怖しながらも、野蛮で奇妙だと見くびっていた。それでいながらも、久しい昔に沙漠の生活を放棄した一族出身の多くの有力商人が、自由な沙漠の民の家臣を誇りにしていた。正せいちゃく(5)周辺国との違い マスカット(オマーン)は、英国とフランスのナポレオ11石油・天然ガスレビュー湾岸アラブ産油国の王家/首長家:その歴史的背景と政治の現状(各国王族間の外交関係をめぐる情勢等を含む)に関する概論ス。ムバーラク首長の政策は、前々代首長以来の親オスマーン帝国政策を放棄し、独立維持を目的として親英政策への転換となった。1899年1月23日、英国はクウェイトと保護条約を結び、クウェイトは英国の同意なしに他国と外交関係を樹立しないこと、他国に自国領土の一部を割譲、租借しないこと、英国はクウェイトの防衛責任を担い、他国の侵略から守ることなどを取り決めた。 オスマーン帝国にとっては、こうした動きを容認できる訳もなく、ラシード家に資金と武器を与えムバーラク首長を討伐したならば領土を与える、と約束してクウェイト攻撃をけしかけた。1901年3月17日、両家はサリーフで激突するが、部族の裏切りに遭いクウェイトは大敗を喫した。 1901年秋、サウード家当主の若き長子アブドルアジーズは、クウェイトの軍事力を頼りにせず自らラシード家を攻撃する決意を固め、ムバーラク首長からラクダや武器などの援助を得て、40人余りの仲間とともに沙漠に潜入。1902年1月15日早朝、リヤードのマスマク城を奇襲してラシード家のアジュラーンを斃して城を奪還。この勝利を足掛かりにして、周辺に勢力を拡大し、1925年にはマッカとマディーナのあるヒジャーズ地方を併合。1932年に、サウディアラビア王国を建国して初代国王に就いた。 この間、1920年代に入るとクウェイトとサウード家の関係は一時的に大きく悪化する。ムバーラク サバーハ首長の死後、ジャービル ムバーラク首長は温厚でイブン・サウードとは馬が合った。しかし、ジャービル首長の後を継いだ弟サーリム ムバーラク首長はイブン・サウードとはそりが合わなくなる。原因としてはサーリム首長の気性に荒さがあり、性格的に頑迷な面があることが指摘されるが、政策面ではサーリム首長がイブン・サウードの拡大政策に脅威を感じ、ナジドとの境界確定を急いだことである。クウェイトの領域は1913年に英国とオスマーン帝国との条約で決められていたが、そこでは遊牧民に徴税権を行使できる「間接領土」をクウェイトに認めるものとなっていた。1920年1月、サーリム首長はイブン・サウードに、マニーファ付近のポルポルにクウェイトの要塞を築き、これをナジドとクウェイトとの南部国境とするとの意思を伝えた。 これに対してイブン・サウードはクウェイトが主張する領域の内側に、配下のムタイル部族の兵士を駐屯させるよう命じて対立が鮮明化した。 サーリム首長は従兄弟のドアイジ アッ・サバーハ以下400人の部隊を出動させたが、イブン・サウード側はムタイル部族が1,000人の戦力でクウェイト部隊を急襲し、壊滅的打撃を与える。 この後、サーリム首長はクウェイトの防壁を構築し、英国にも支援を要請。さらにサウード家のライバルであるシャンマル部族にも支援を求めて援軍が出撃した。10月にはイブン・サウード側のムタイル部族軍とクウェイト軍は交戦する。 翌1921年2月にサーリム首長は急死した。クウェイト指導層は、イブン・サウードとの、それ以上の争いは望まず、前々首長ジャービルの長男でイブン・サウードとの関係もよかったアハマドを首長に選出して、イブン・サウードとの関係改善に努め、両国間には平和が戻った。(7)第一次世界大戦 1914年の第一次世界大戦勃発当時、オスマーン帝国はドイツと同盟関係にあった。英国との友好関係に忠実であったクウェイトのムバーラク首長は、即座に連合国側に付くと宣言した。英国政府はクウェイトの忠誠と軍事援助に応えて、自分たちが勝利を収めた暁には「イラクにある五つのナツメヤシの大農園は恒久的にあらゆる税を免除される」との約束を文書でクウェイトに伝えた。これは、これらの農園に対するクウェイトの権利が是認されて、ムバーラク首長とその後継者が英国政府によって常にクウェイトの首長として支持されることを意味した。 ところが、英国によるイラク委任統治末期の1921年に、イラク政府はクウェイト首長のナツメヤシ農園については英国の約束に拘束されないと考えた。イラクは一貫してこれらの農園への課税を要求し、法廷でサバーハ家の所有権に挑戦した。 ナツメヤシ農園をめぐって、イラクとクウェイト首長の係争は延々と続き、クウェイト駐在の英国出先機関の管轄に係る問題の一つとなった。 1904年に、この約束が最初に取り交わされた時、その意図は、クウェイトと英国の条約の厳密な遵守を保証するため、現地に英国人担当官を置くことにあった。英国の保護に応えて、クウェイトは英国に当初はインド政府を通じて、国家の外交問題を差配することを許した。これは、欧州列強への利権の譲渡だけでなく、さらに直接的かつ複雑なことにクウェイトの対ナジト、対イラクの関係への利権も含んでいた。(8)石油をめぐって 石油はクウェイトのみならずアラビア半島全域に、新しい生き方をもたらした。数百年の間、クウェイトは、質素な暮らしで過ごしてきたが、石油の富によって、かつて例のない急速な発展に活況を呈し、外国の先進技術122018.1 Vol.52 No.1アナリシスェ流れ込んできた。 米国における最初の石油掘削から10年後の1869年にエジプトで石油が発見された。その後、39年経過し1908年にペルシャのマスジド・スレイマン油井から出油した。それからさらに24年後、バハレーンで石油が発見され、そして1938年2月26日、クウェイトでも石油が発見され、1938年5月14日、ブルガン第1号井が掘削された。 その後、第二次世界大戦で石油開発の活動は一時停止したが、大戦の終結とともに、油田開発計画は実行されていった。1945年に石油の開発現場に戻ってきた人々は、1935年から1942年にかけて活躍した人々であった。間もなく、数年の間に沙漠の表面を変貌させた飛躍的拡張のなかで、米国と英国の地質技師が活躍した。 1946年6月までに、8カ所の生産性の高い油井が、第1号集油センターと接続された。これらの油井では13万b/dの生産があった。 1946年6月30日、アハマド アル・ジャービル アッ・サバーハ首長は、クウェイトの石油ターミナルの操業を開始するにあたって式典を開催し、クウェイトにおける原油開発が本格的に始まった。(9)英国からの独立とイラクによる領有宣言 1950年、アハマド首長が死去し、長年同首長を支えてきたアブドッラー アッ・サーリムが首長に就いた。新首長は石油の富を国造り、人づくりに投資する一方、国政に民意を反映させるための民選委員会の設立を計画した。一方、周辺諸国では英国が影響力を強めて、植民地化を進めていた。これに対して、民族主義による独立運動が強まり、反英国の機運が高まってきた。 1960年9月、クウェイト、サウディアラビア、イラク、イラン、ベネズエラの5カ国の代表がバグダードに集まり、石油価格の安定維持、国家利益の最大化を目指した石油輸出国機構(OPEC)を結成した。 反英主義の台頭を反映してアブドッラー首長は、郵便事業をはじめ外交的責務を果たすために自国の独立を英国に訴え、英国は民選政府の設立や憲法導入などをクウェイトに進言した。1961年6月19日、クウェイトが英国から完全に独立する友好協力条約が調印され、主権国家としての独立を果たした。 しかし、その6日後の1961年6月25日、イラクが「クウェイトはオスマーン帝国バスラ州の管轄下にあった一地方であり、イラクにとっては切り離すことのできない自国領土の一部である」と主張して、クウェイトを領有すると喧伝した。イラクは、第一次世界大戦後、英国のけんでん委任統治下にあったが1932年に王制国家として独立していた。しかし、1958年7月、民族主義を主張したアブドルカリーム カーセム大佐がクーデターを起こして共和制に改め、自身が大統領となっていた。クウェイトはアラブ連盟に支援を要請し、アラブ連合共和国(エジプト、シリア)、サウディアラビア、スーダンによる多国籍軍が派遣され、英国も直ちに軍艦を派遣し、援軍をクウェイトに上陸させ、イラクはクウェイト領有を断念した。その後、7月にはアラブ連盟に加盟した。 1962年11月、アブドッラー首長が批准して憲法を公布、この憲法に基づいて国民議会選挙が行われて議会も発足した。 1963年5月には国際連合にも加盟した。(10)石油生産と近代化 クウェイト国内と中立地帯の石油生産量は、開発当初の20年間には、毎年、大きく増加し続け、1966年には合計706%増に達した。ブルガン油田の産油量の増加が大きく寄与した。生産原油のほとんどがクウェイト石油(KOC)の油田からのものであり、同油田は1953年にはクウェイトの石油生産の全てを占めたが、1967年にはGulf Oilと日本のアラビア石油による原油生産が加わったが、それでも91%をKOCが生産していた。 1965年11月24日、石油の時代になってからの2人目の首長のアブドッラーが死去し、弟のサバーハ アッ・サーリム アッ・サバーハ首長(在位:1965~1977年)が誕生した。新首長は、1755年の同名の祖先から数えて12代目となり、石油の時代では3代目となった。新民主憲法に基づいて選出された最初の元首となった。 新サバーハ首長は中央銀行、クウェイト大学、国営通信(KUNA)などを創設して近代化を進めたが、国民議会の民族主義派と急進派の対立によって内政面で困難な時期であった。 一方、1960年代後半から1970年代初期には産油国が発言力を高め、価格決定権がメジャーズから産油国に移りつつあった。自国内の石油の探鉱、生産、販売に至る一貫操業を自国が所有・経営しようとアルジェリア、リビア、イラクでは石油会社の完全国有化が実施された。クウェイトでも、1973年にKOCに対して、25%の事業参加を実施した。同年10月6日には、イスラエル占領下のシナイ半島奪還のためにエジプト、シリアが開戦し、アラブ産油国は生産削減と親イスラエル国に対する禁輸でこれに協力した。1974年にはKOCの参加比率は60%に引き上げられたが、クウェイト国民議会は、1日も早い100%国有化を求めた。1975年末に、完全国有13石油・天然ガスレビュー湾岸アラブ産油国の王家/首長家:その歴史的背景と政治の現状(各国王族間の外交関係をめぐる情勢等を含む)に関する概論サを達成。中立地帯のAMINOILは1977年に完全国有化された。 1977年12月、サバーハ首長が死去。次代のジャービル アル・アハマド アル・ジャービル首長(在位:1977~2006年)が即位した。国内ではインフラ整備を拡充し続け、ショッピングモール、近代的ホテル、そしてオフィスビルが建設されて近代化が一層進んだが、外政面では大きく揺れた時期となった。 1979年1月には、イランでイスラーム共和革命が勃発し、1980年9月には、イラン・イラク戦争が始まった。クウェイトはイラクを支援したが、クウェイト国内で米国大使館爆破事件やジャービル首長暗殺未遂事件が発生した。1981年5月25日、アブダビにおいてサウディアラビア、UAE、クウェイト、バハレーン、オマーン、カタルの6カ国が湾岸協力会議(GCC)を結成し、本部をリヤードとした。ただし、設立目的は加盟国間の経済・金融・通貨・貿易・行政における共通制度を確立することとされている。(11)イラクによる侵攻と多国籍軍による解放 1990年7月17日、イラクのサッダームフセイン大統領は、革命22周年記念式典で、クウェイトとUAEが、OPEC生産割当量を無視して増産したために自国が大損害を被ったと非難した。さらに数日後、今度はアラブ連盟に対して「クウェイトはイラクのルメイラ油田から石油を盗掘し、イラク領土内に軍事基地、民間農場施設を建設した」との抗議文を公にした。そして、石油盗掘による損失の賠償金として24億ドルをクウェイトに要求した。クウェイトは直ちにアラブ連盟にイラクの主張は事実無根だと反論した。これに対して当初はアラブ連盟に仲裁を求めていたイラク政府は、両国問題は当事者間の2国間で解決されるべきだと主張し始めた。この時、エジプトのムバーラク大統領が仲介に入って、サッダーム大統領と交渉し、イラク政府は武力行使をせず、話し合いによる平和的解決を図ることを約束した。7月31日、サウディアラビアのファハド国王の仲介で、ジェッダでイラクのイッザト イブラーヒーム革命評議会副議長と、クウェイトのサアド皇太子兼首相が会談に臨んだが、両者は自らの主張を繰り返し、物別れに終わった。8月1日夜にサアド皇太子はクウェイトに帰国。そして2日の午前2時にイラク軍はクウェイト全土に侵攻した。当初、イラクがクウェイトを侵攻するとしても、ブビヤン、ワルバ両島の占拠とリッガ油田を確保するとの楽観的な見方もあったが全く裏切られることとなった。 クウェイトのジャービル首長はサウディアラビアのターイフで亡命政権を樹立した。8月7日、米国のブッシュ(Bush, G・H・W:父)大統領はクウェイトをイラクから解放するためにサウディアラビアへの派兵を発表。約サバーハ(1)サバーハ(1)1718~17641718~1764アブドッラー(2)アブドッラー(2)1764~18141764~1814ジャーベル(3)ジャーベル(3)1814~18591814~1859サバーハ(4)サバーハ(4)1859~18661859~1866アブドッラー(5)アブドッラー(5)1866~18921866~1892ムハンマド(6)ムハンマド(6)1892~18961892~1896ムバーラク(7)ムバーラク(7)1896~19151896~1915ハマドハマドムバーラクムバーラクジャーベルジャーベルジャービル(8)ジャービル(8)1915~19171915~1917サーリム(9)サーリム(9)1917~19211917~1921アハマド(10)アハマド(10)1921~19501921~1950ハムードハムードアブドッラー(11)アブドッラー(11)1950~19651950~1965サバーハ(12)サバーハ(12)1965~19771965~1977ファハドファハドアハマドアハマドサバーハ(15)サバーハ(15)2006~2006~ムハンマドムハンマドナーセルナーセルジャービル(13)ジャービル(13)1977~20061977~2006ナワーフナワーフアハマドアハマドサアド(14)サアド(14)20062006ムハンマドムハンマド副首相・外相副首相・外相2006~20112006~2011出所:各種情報に基づき筆者作成図5クウェイト国アル・サバーハ首長家系図数字は首長在任期間142018.1 Vol.52 No.1アナリシスi12)米のイラク侵攻とGCC 湾岸戦争を通じてGCC諸国は米国と軍事関係を強めることとなった。たとえクウェイト全土が占領されても、米国が最新装備で50万の兵士を派遣し、半年で独立を回復させることができたことから、他のGCC諸国が米国と巨額の防衛装備品取引を重ねることとなった。 2003年3月20日、イラクが大量破壊兵器を保有していることを理由に米軍中心の多国籍軍はイラクに進攻した。5月にはブッシュ(Bush, G・W:子)米大統領は大規模戦闘終結宣言を行ったが、イラクの治安は、むしろ、それから本格的に悪化していく。イラクには2011年12月14日にオバマ大統領が米軍の完全撤収とイラク戦争の終結を宣言するまで米軍が駐留して、約150万人が従軍したが、クウェイトは地上部隊の補給路となり、さまざまな影響を受けることとなった。進攻の理由とされた大量破壊兵器はイラクに見つからず、戦後の治安悪化と、それによるイラク住民の犠牲が大量に発生したことは、湾岸アラブ諸国の親米政策に影を落とすこととなった。加えてサッダーム政権後は、イラク中央政府にはシーア派政権が誕生し、クルド地域は分離独立の動きを見せ、2014年夏からはスンナ派地域で国際的テロ集団の梁跋扈を許しているのが現状である。ょうりょうばっこ跳ち30カ国から成る多国籍軍兵員は総数約50万に達した。クウェイトにいた外国人労働者とその家族が人質に取られ、日本人多数も12月までイラクに連行され人間の盾にされた。さまざまな平和的解決の試みは成果を出せず、翌年1月17日未明、多国籍軍による「沙漠の嵐」作戦が開始され空爆を行った。同日、イラク軍はカフジをロケット弾攻撃し、日本のアラビア石油の施設も被弾した。19日にはクウェイトの石油施設を攻撃し、陸海ともに環境破壊を被った。2月24日からは地上戦に突入したが、実質的な戦闘は2日で終わった。3月2日に国連安全保障理事会はイラクにクウェイト人捕虜の即時釈放や損害賠償、化学・生物兵器の余罪に関する情報提供を要求する決議686号を採択し、イラク政府は翌3日に正式に受諾した。4日、ジャービル首長とサアド皇太子が母国に帰還した。 クウェイトの約730本の油井がイラク軍撤退に当たり放火されたが、国際チームによって11月8日までに全て鎮火した。さらに油井から流出して燃焼しなかった原油は5,700万バレルに達し、250を超える原油の湖(オイル・レーク)が沙漠に出現、約50万?の土壌が汚染され現在まで影響を残している。3. UAE UAEはアラブ首長国連邦の英語表記(United Arab Emirates)の頭文字を取っており、独立前は19世紀から英国により「休戦海岸」と呼ばれ、それ以前はオマーン海岸と呼ばれていた。 アブダビのウンム アン・ナール付近にメソポタミア文明やインダス文明の諸都市と交流を持っていたことを示す遺跡群が発掘されている。 1421年、後にヴァスコ・ダ・ガマの、アフリカからインドへの航海を助けた水先案内人として有名になったアハマド イブン・マージドがラッスルヘイマに生まれており、既にこの頃には、アラビア湾を出て周辺海域に大きくネットワークを張った海上交易を行っていた船団を有していた。 19世紀初頭、この地域にはアブダビ、ラッスルヘイマ、シャルジャの3首長国があり、前者はバニー・ヤース部族連合から、残りの二つはカーシミー部族連合で構成されていた。主な産業は海上交易と、夏季の天然真珠採取、家畜の遊牧とナツメヤシなどの農業であった。沙漠気候で降雨量が少なくオアシスと井戸に頼る水資源が限られていたこと、夏場の気象環境の厳しさなどから人口は増えず、1800年代初期のオマーン海岸の人口は7万2,000人レベルと見積もられている。 居住地域は、沿岸と内陸では、アル・アイン、ブレイミー、リーワ、ダイドーなどのオアシスがあるだけであった。(1)英国の攻撃と統治家の交代 UAEの国家形成には英国の強い影響が残っているが、英国が行ってきたことについての見解は、現代でも大きく分かれている。英国の立場を代表する文献史料としては、1908年、英国領インド政府の官吏であったJ・G・ロリマーが著した『ペルシャ湾地名辞典―オマーンと中央アラビア』の地理編と、1915年に出版した歴史・系図編がある。 他方、シャルジャ首長国のスルターン ムハンマド ア15石油・天然ガスレビュー湾岸アラブ産油国の王家/首長家:その歴史的背景と政治の現状(各国王族間の外交関係をめぐる情勢等を含む)に関する概論求Eカーシミー首長が1986年に出版した『「アラブ海賊」と言う神話』で、地元アラブ側の主張を展開している。 ここでは、むしろ湾岸アラブ諸国の成り立ちに欧州がどのように深く関わってきたかという、より大きな視点から注目してみたい。 ラッスルヘイマのカーシミー部族は、ワッハーブ理念を受け入れ、デルイア侯国のサウード首長と結んで、オマーンと対立していた。1811年、サウードはフランスからの使節を受け入れナポレオンとの関係を強める。しかし、ナポレオン軍は、この年の末に侵攻していったロシアで壊滅的打撃を被ってしまう。 そして1818年には、オスマーン帝国皇帝の命令を受けたエジプト総督のムハンマド アリーの子息イブラーヒームがデルイア侯国を滅ぼした。英国はインド洋艦隊とワッハーブ勢力とでオスマーン帝国に対抗することを模索したが、この試みは水泡に帰した。 フランスとデルイア侯国の後ろ盾を失ったカーシミー部族に対して、1819年11月、英国はウィリアム・ケア提督指揮下に、軍艦9隻、輸送艦18隻、植民地のインド1,400人を含む3,000人の陸戦隊を投入して大規模な攻撃をラッスルヘイマに加えた。海上から艦砲射撃で城塞と市街地を破壊した上で、兵士を上陸させて住民を殺害した。そして、カーシミー部族連合が保有していた500~3,000トン級の貿易船300隻を全て破壊し、海上交易の活動を完全に止めさせた。ラッスルヘイマの次にはウンムルカイワインなど沿岸の集落を次々と陥落させていったが、沿岸一帯の部族の首長は、反抗するだけの兵力を持ち合わせていなかった。 1819年という年は、英国にとっては、トーマス・ラッフルズがシンガポールに上陸し、ジョホール王国から許可を受けて商館を建設した年であり、後の海峡植民地獲得に向けて動き始めた年でもあった。 1820年、英国政府は、地域の有力な部族の指導者を選別して、「和平に関する一般協定」を締結した。英国はアジュマーンではヌアイミー部族の長と、またウンムルカイワインではムッラー部族の長と協定を個別に結んだ。それまでこの地域を代表していたカーシミー部族の長であったスルターンビン・サクルは、英国に抗議したが聞き入れられず、結果として、アジュマーンとウンムルカイワインはラッスルヘイマから独立し、地域は分割が進められていった。 1833年、アブダビの一部であったドバイは、ブー・ファファラーハファラーハナヒヤーンナヒヤーンイーサーイーサーディヤーブ(1)ディヤーブ(1)~1793~1793シャクブート(2)シャクブート(2)1793~18161793~1816ヒラールヒラールスルターンスルターンハリーファ(5)ハリーファ(5)1833~18451833~1845ザーイド(7)ザーイド(7)1855~19091855~1909スルターンスルターンディヤーブディヤーブムハンマド(3)ムハンマド(3)1816~18181816~1818タハヌーン(4)タハヌーン(4)1818~18331818~1833サイード(6)サイード(6)1845~18551845~1855ハリーファハリーファタハヌーン(8)タハヌーン(8)1909~19121909~1912サイードサイードハムダーン(9)ハムダーン(9)1912~19221912~1922スルターン(10)スルターン(10)1922~19271922~1927サクル(11)サクル(11)1927~19281927~1928ムハンマドムハンマドムハンマドムハンマドシャクブート(12)シャクブート(12)1928~19661928~1966ハッザアハッザアハーリドハーリドハムダーンムバーラクハムダーンムバーラクタハヌーンタハヌーンナヒヤーンナヒヤーンセイフセイフハリーファ(14)ハリーファ(14)2004~2004~スルターンスルターンスルターンスルターンムハンマドムハンマド出所:各種情報に基づき筆者作成ムハンマドムハンマドムハンマドムハンマド現皇太子現皇太子ハーリドハーリドハリーファハリーファザーイド(13)ザーイド(13)1966~20041966~2004ハムダーンハムダーンハッザアハッザアタハヌーンタハヌーンマンスールマンスールアブドッラーアブドッラーセイフセイフ図6アブダビ首長家ナヒヤーン家系図数字は首長在任期間162018.1 Vol.52 No.1アナリシス堰[サ部族のマクトゥーム支族が主導して、アブダビから独立していった。 1848年、アブダビ首長サイード イブン・タハヌーンは、サウード家からブレイミーへの派遣軍が手薄になったすきをついて、ブレイミー地区を占領した。これに対して、アブダビの勢力拡大に反発したドバイ首長とシャルジャ首長が協働してサウード家の復帰を工作した。数カ月後に、ブレイミーから、アブダビ首長一族は追い出された。しかし、2年後の1850年3月にサウード家のブレイミー駐在軍の規模が減少した機会に、アブダビは再びブレイミーを占領し、これに対してドバイ、シャルジャ、ウンムルカイワイン、アジュマーンの各首長が反対したが、今度は共同歩調を取ってサウード家を復帰させることはできなかった。 しかし1853年に、サウード家のファイサルが息子のアブドッラーをブレイミーに派遣すると、周辺首長国の首長や部族の族長たちはアブダビを含め、先を争ってサウード侯国への服従を表明した。サウード侯国の威力は依然として大きく、地元首長たちの間には反抗する者はなかった。 1853年5月、英国市政長官ケンポールは休戦海岸の各首長国と会談し、1820年の「一般平和条約」に代わり、新たに「恒久休戦条約」を締結することに成功した。 1855年、ザーイド イブン・ハリーファがアブダビの首長に就任。周辺諸部族との合従連衡を通じて勢力を拡大していった。 海上交易ができなくなり、より真珠採取に頼るようになっていたこの地域では、より長い海岸線を領有していたアブダビが、ラッスルヘイマに比べて優勢を誇るようになっていた。1868年、ザーイド首長は、シャルジャ首長のハーリド ビン・スルターンを一騎打ちで斃し、この地域におけるアブダビの優位を決定づけると同時に、バニー・ヤース部族がカーシミー部族に対しても優位に立つこととなった。19世紀終わりには、アブダビは400隻の真珠採取船を保有していた。この数は、「シャルジャ360隻、ドバイ335隻、ウンムルカイワン70隻、ラスアルライマ57隻、アジュマーン40隻に勝っていた」(Al Fahim[1995])。(2)真珠採取から石油産出へ 翌年の1869年、ザーイド首長は、オマーン国王と協力して、サウード侯国の勢力をブレイミー・オアシスから追放した。 1892年に1853年の休戦条約を排他的協定として改定し、英国がこの地域の安全を保証する代わりに、排他的な外交権を獲得した。英国は同様の条約をバハレーン、クウェイト、カタルなどと結んでいく。 しかし、ザーイド首長の晩年には英国との関係は、むしろ悪化していった。1895年、ザーイド首長はアジュマーンとシャルジャの間にあるゾラ島に自分たちの居住地を建設しようとしたが、アジュマーン首長に働きかけられた英国が武力の脅しをもってこの動きを阻止した。翌1896年、ザーイド首長は、フランスと通商および政治上の関係を結び、アブダビをフランスの外航本船の寄港地として提供した。さらに1905年には、オマーン領域にいたバニー・カタブ部族とザーイド首長が紛争を起こし、ウンムルカイワインの首長が仲介に入った。ところがザーイド首長はウンムルカイワインの首長を拘束してアブダビに幽閉した。この時、当時の英国の総督代理であったコックス少佐が軍艦を出してアブダビを来訪、ウンムルカイワインの首長を解放するようにザーイド首長に迫り、ザーイド首長は、この要求を受け入れた。これに加えて1907年に英国はこれら地域に武器禁輸を課し、武器と弾薬の輸入を凍結させようと1913年まで圧力を加え続けた。 長期にわたってアブダビを統治したザーイド首長の次の数代は互いに権力闘争で、いずれも短命政権となった。1909年、ザーイド首長は亡くなり、子息のタハヌーンが後を継いだが、3年後には亡くなった。弟のハムダーンが後継者になったが、さらに下の弟のスルターンとの権力闘争を10年以上続けた末に、1922年には暗殺される。後を継いだスルターンも1927年には、弟のサクルの手で暗殺される。そのサクルも翌年には別の兄弟の護衛に暗殺されてしまう。この間の親族内部の不和について、アブダビのムハンマド アル・ファーヒームは著作のなかで、「その原因のほとんどは、欲が絡んでのことであるが、この10年間の親族内部での不和は、その当時の英国人の常套的な策略によって助長され、唆された面がある」と記している。 1928年にシャクブート ビン・スルターンが20代半ばで首長の座に就いた。しかし、この時代のアブダビは経済の低迷に悩むこととなる。1930年代に、天然真珠に比べて大型の養殖真珠が市場に現れると、天然真珠の価格が暴落していく。世界恐慌の時期と重なったこともあり、この地域の天然真珠採取の産業は、次々と破たんしていった。 1932年にバハレーンで石油が発見されると、この地域にも石油の埋蔵の可能性が注目された。ロンドンに本社を置くIraq Petroleumの子会社であるPetroleum Concession(PCL)が、他の国際的石油会社を入れた合弁そそのか17石油・天然ガスレビュー湾岸アラブ産油国の王家/首長家:その歴史的背景と政治の現状(各国王族間の外交関係をめぐる情勢等を含む)に関する概論幕ニであるPetroleum Development(Trucial Coast)-PD(TC)を設立した。この会社とアブダビのシャクブート首長が1939年1月に最初の利権契約を結んだが、同じ年に第二次世界大戦が開戦した。 第二次大戦が始まると、探鉱活動は停止したが、それにも増して、この地域の経済状況はさらに悪化した。カタルまで物資を供給していた定期便船がアブダビへも寄港していたが、この船便が停止したことで、アブダビには外部からの物資供給が途絶えた。このために元来、遊牧民であったアブダビの住民は別の土地に移っていった。アブダビは、アブダビ島に住民の大半がいたが、一時は島内の人口が5,000まで減少した。 大戦が終わると探鉱活動は再開され、1950年に最初の試掘井が掘削された。海上油田の開発のためにBPとTotalが設立したアブダビ海上石油開発会社(ADMA)社が1953年に利権契約を結んだ。1958年には洋上油田で石油が発見され、陸上でも1960年に商業量の石油が発見された。(3)英国からの独立 “休戦海岸諸国”と英国との関係は、インドが1947年に英国から独立を宣言したことで、新たな段階に入った。1968年に英国はスエズ以東からの軍事的撤退を宣言した。それは1892年以来、この地域を外部の侵略者から防衛していた英国の保護の傘が外れていくことを意味していた。 1966年8月、宮廷内クーデターでザーイドが首長に就いた。 1971年12月2日、アブダビ、ドバイ、シャルジャ、アジュマーン、ウンムルカイワイン、フジャイラの6首長国による連邦国家樹立を宣言し、翌年2月にラッス ルヘイマが連邦に参加した。加盟首長国の首長で構成される最高評議会の話し合いでアブダビのザーイド首長が初代大統領に就いた。 2004年11月、ザーイド首長が死去し、皇太子のハリーファがアブダビ首長を継ぎ、最高評議会でUAE大統領に選出された。2014年からハリーファ首長は体調を崩し、ムハンマド皇太子が国政を切り盛りしている。4. バハレーン 他のGCC諸国同様に降雨は少ないが、北東部に湧水地があり、BC3000年頃の遺跡が発掘されている。ギルガメシュ叙事詩に記されているディルムンという交易都市が現在のバハレーン要塞のある場所にあったと考えられている。メソポタミアとインド亜大陸の中継地に位置し、豊富な湧水に恵まれ、インダス文明圏とメソポタミア文明圏の間で交易を行っていた。 しかしBC1800年から1600年にかけて、アーリア人が侵略し、ディルムンとインダス文明の諸都市を破壊した。 BC1000年以降には、アッシリア帝国の属領として漁港と真珠採取の島となる。BC600年頃には新バビロニア帝国の属領となるも、バビロニアがペルシャ帝国に敗北すると、再び交易地となった。イスラーム伝播後は、バハレーン(アラビア語で「海」の双数形)と呼ばれるようになり、その意味するところは海に囲まれていることや、海と豊かな湧水の二つを意味するといった説がある。(1)欧州、近隣勢力による占領と英国の支配 大航海時代に入ると、1521年から1602年までポルトガル人が占領した。1602年から1782年にかけてはイランの支配下にあった。1783年、アラビア半島から来たウトゥーブ部族がペルシャ人を追放し、その長であるハリーファ家がバハレーンを支配した。イランは、今でも、17世紀と18世紀における支配事実を根拠にしてバハレーンに対する領有権を主張することがある。 1799年には、バハレーンのハリーファ家は、マスカット(オマーン)に攻められて一時占領された。ハリーファ家はサウード家に支援を求め、1801年にはサウード家の支援を得てバハレーンを奪還するが、一連の経緯からサウード家のワッハーブ主義を受け入れていた。 1844年、サウード家のファイサルがアハサー地方への支配力を強め、クウェイトからカタル、ブレイミー、オマーンまでのアラビア半島東岸に対する支配権を確保しようとした。それにより、アラビア湾の海上貿易路の支配を目指し、バハレーンとは、度々、衝突が発生して緊張状態が続いていた。これに、バハレーンのハリーファ家の内紛、英国のバハレーン防衛の約束などが絡んでいた。1844年、ファイサルは、バハレーンの前首長アブドッラー イブン・アハマドをダンマームの城塞から追放する一方、バハレーン本島の新首長ムハンマド イブン・182018.1 Vol.52 No.1アナリシス?ハンマドムハンマドアハマド(1)アハマド(1)1783~17961783~1796サルマーン(2)サルマーン(2)1796~18251796~1825ハリーファ(4)ハリーファ(4)1825~18341825~1834アリー(6)アリー(6)1868~18691868~1869イーサー(7)イーサー(7)1869~19321869~1932ハマド(8)ハマド(8)1932~19421932~1942アブドッラー(3)共同統治アブドッラー(3)共同統治1796~18431796~1843ムハンマド(5)ムハンマド(5)1834~18421834~18421844~18681844~18681869~18691869~1869サルマーン(9)サルマーン(9)1942~19611942~1961ハリーファハリーファアリーアリーイーサー(10)イーサー(10)1961~19991961~1999ハマド1999~(11)ハマド1999~(11)(初代国王2002~)(初代国王2002~)ムバーラクムバーラクムハンマドムハンマドサルマーンサルマーン皇太子皇太子アブドッラーアブドッラー出所:各種情報に基づき筆者作成図7バハレーン王国 ハリーファ家系図数字は首長(2002からは国王)在任期間ハリーファには貢租納めの再開を承諾させた。しかし、1845年にはバハレーンはそれを拒否したため、ファイサルは前首長アブドッラーを擁立して後押しし、バハレーン本島への攻撃を開始した。 戦況は一進一退のまま、1847年1月、双方の間で交渉がまとまり、バハレーン側は年間4,000ポンドの貢租の支払いを再開し、サウード家側はアブドッラー イブン・アハマドへの支援を停止した。しかし、この和議は長くは続かず、1850年には、再び戦闘が発生した。バハレーンはカタル半島を支配し、ムハンマド イブン・ハリーファの弟アリーがビドア(現在のドーハ)に分家を設立していた。ファイサルはカタルを攻めて、占領し、アリーをバハレーン本島に追い返した。さらに、遺棄された300隻余りの船を手に入れ、イランに亡命していた前首長アブドッラーの息子のムハンマド イブン・アブドッラーとその弟たちを呼び寄せて、独自に艦隊を編成し、バハレーン本島への上陸を目指した。バハレーン首長ムハンマドは、カティーフの港を封鎖したが、前首長の子息たちは封鎖を突破し、バハレーン攻撃の態勢を整えた。 これを知った英国施政長官へネルは、アラビア湾艦隊の総力をバハレーンに集め、バハレーン防衛のために断固として介入する姿勢を示した。この姿勢の前にファイサルはバハレーン攻撃を断念した。 アブダビ首長サイード イブン・タハヌーンの仲介で、ファイサルとイブン・ハリーファの間に合意が成立し、バハレーンは未払いの貢租に加えて特別の賠償金を支払うこととなった。また、ファイサルはアリー イブン・ハリーファのカタルへの帰還を認めた。ただし、ファイサルはダンマームの要塞にムハンマド イブン・アブドッラーを駐留させて、引き続きバハレーン本島の一族に対抗させた。 1859年には、前首長一族のダンマーム滞在に抗議して、バハレーン本島は貢租の支払いを拒否、再び、ファイサルとバハレーンの緊張が高まった。これを知った英国の施政長官ジョーンズは、ファイサルに対して「英国はバハレーンをいかなる攻撃からも防御する」と通告し、ファイサルは再び攻撃を断念した。 1861年、ジョーンズはバハレーン首長ムハンマド イブン・ハリーファに「恒久休戦条約」の締結を承諾させた。これはバハレーンが一切の対外軍事行動を自制し、防衛に関しては英国の保護に依存するというものであった。さらに英国はダンマームの要塞を攻めて、ムハンマド イブン・アブドッラーを逃走させ、バハレーンは英国の保護国となった。ただし、ムハンマド イブン・ハリーファ首長は、カタルの領土保全と引き換えにファイサルに貢租金を支払い続けた。 1867年半ば、カタル各地の諸部族がハリーファ家の統治に対して反乱を起こした。1868年8月、英国施政長官ペリーは、自ら艦隊を率いてバハレーンに赴き、バハレーン軍を引き揚げさせた。さらに、英国はムハンマド イブン・ハリーファを退位させて、弟のアリーに後を継がせた。 さらに1880年と1892年には、英国以外の国に対しては国土を割譲または放棄しない、英国の同意なしに他国と外交関係を持たないという同意をバハレーンは結ばされた。(2)石油の発見、英国からの独立と現代 1913年、英国とオスマーン帝国の間でバハレーンの独立を認める協定が調印されたが、実際にはバハレーンはその後も英国の保護下にあり続けた。 1932年、湾岸アラブ諸国では最初となる油田がバハレーンで発見された。石油からの収入によって、ハマド ビン・アリー首長の下で、教育や医療の施設建設が開始され、周辺諸国に先駆けてバハレーンは近代化への道を19石油・天然ガスレビュー湾岸アラブ産油国の王家/首長家:その歴史的背景と政治の現状(各国王族間の外交関係をめぐる情勢等を含む)に関する概論烽ン始めた。 1935年、英国は海軍基地をバハレーンに開設した。 1942年に政権の座に就いたサルマーン ビン・ハマド アル・ハリーファ首長によって、社会事業や公共事業が大規模に推進された。 1956年に行われた議会選挙直後、英国人顧問による首長への干渉に抗議するためのストライキが製油所で発生した。翌1957年には外国籍住民に対する裁判権の獲得や英国人に対する自国民としての地位確立などといった、英国からの独立に向けた歩みが見られた。 1961年11月にサルマーン首長が死去し、長男のイーサーが後を継いだ。 1968年に英国はスエズ以東の軍事撤退を発表。これを受けてバハレーンを含む湾岸の9首長国による連邦結成の協定を結んだ。しかし、イランがバハレーンの領有権を主張し、バハレーンは国連に協力を求めつつ、1971年に独自の首長国として建国を宣言した。 1973年には憲法を発布し、総選挙を実施して議会を招集する。 1975年に入ると、首長は議会を解散し、政党活動を禁止した。急進的な反政府活動が起こり、安定を取り戻すためである。ただし、首長家がスンナ派イスラームであるのに対して、国民の過半数がシーア派であるというねじれ現象が背景にあると考えられている。 1999年、イーサー首長が死去し、ハマド ビン・イーサー アル・ハリーファが首長の座に就いた。 2001年には、国民投票を実施した。2002年には国号を王国に改称し、立憲君主制への移行を目指していく。議会設置、普通選挙実施、首相任命、司法権の独立などを進めているが、政党活動は禁止した。5.カタルちょうな 1970年代に英仏が実施した学術調査で、紀元前からカタルにも人が居住していた遺構が発見されており、半島西海岸にあるウンム アル・マーからは、今から6,000年前頃と見られる手斧が発掘されている。アラビア湾はメソポタミア文明とインドをつなぐ重要な水路であったが、BC500年頃のギリシャの歴史家ヘロドトスの著作にも、航海にたけたカナン人がカタルに暮らしていたとの記述が残されている。 イスラーム初期の時代にカタルはアラブ人のムンディール部族が支配しており、直ちにイスラームを受容しただけでなく、近隣諸国に遠征した軍にも参加させた。(1)建国 18世紀後半に入ってから、クウェイトに住んでいたウトゥーブ部族の一部が1766年にカタル半島にやってきて、半島西海岸の港であるズバラに砦を築いた。その後、サーニー家が天然真珠採取の拠点とし、町を形成した。 1867年、当時のカタルはバハレーンの支配下にあったが、カタル半島各地の諸部族が英国の支援を得て、ハリーファ家の統治に対して反乱を起こした。バハレーン首長のムハンマド イブン・ハリーファは反乱を鎮圧するために弟アリーに24隻の艦船と700人の兵を与えて派遣するとともに、バハレーンはアブダビにも支援を求めた。アブダビのザーイド イブン・ハリーファ首長は70隻の艦船と2,000人の兵を派遣した。 これに対して、カタルはムハンマド ビン・サーニーの下に結集して抗戦した。サーニー家は、リヤードの南に位置するジブリン付近に定住していたタミーム部族の分家とされている。既にカタルは、ワッハーブ思想を受け入れていたため、サウード侯国からの支援を期待したが、当時のアブドッラー首長にはカタルまで遠征軍を派遣する余裕はなかった。 カタルとバハレーンの戦いは、容易に決着が付かなかったが、英国がこの戦いに介入した。英国施政長官ペリーは、バハレーンの軍事派遣が1861年の恒久休戦条約に違反し、アラビア湾の平和維持の観点から放置できないとして、1868年8月にバハレーンの派遣軍を引き揚げさせた。 同年9月12日、ペリーはムハンマド ビン・サーニーおよび“休戦海岸”の首長たちと締結した条約と同内容の海上休戦条約を結び、これにより英国はカタルをバーレーンから分離させて独立的地位を保証した。(2)歴代首長の治世と石油産出初代ムハンマド ビン・サーニー首長(在位1850~1878年) オスマーン帝国からアミール(首長)の称号を受けた。第2代ジャーシム首長(在位1878~1913年)202018.1 Vol.52 No.1アナリシス@初代ムハンマド首長の子息として就任。 1871年、ペルシャ湾のほかの全ての国々と同様、カタルもオスマーン帝国の影響下に入るが、その後、第2代ジャーシム首長は、旺盛な独立心を発揮し、1893年にオスマーン帝国がカタルに派遣した軍隊を撃退し、サーニー家の支配を確固たるものとした。現在、カタルは、この第2代首長ジャーシムを実質的な建国者と見なしており、同首長が即位した12月18日を国の祭日としている。第3代アブドッラー首長(在位1913~1940年) 第2代ジャーシム首長の次男。  1913年には、英国はオスマーン帝国と結んだ協定でカタルの自主権を認めさせ、カタルは英国と停戦保護条約の改定について交渉を重ねていた。1916年、第3代アブドッラー ビン・カーシム アッ・サーニー首長は、他の湾岸首長国と同様に、英国との間に保護条約を締結、カタルは外交と防衛に関して英国の保護下に入ることになった。 1935年、他のバハレーン、UAE、クウェイトからは大分遅れて、改定停戦保護協定を批准した。これは、外部からの侵略に対して英国が防衛する代わりに、アラブ側はその領土を譲渡や割譲をしない旨の条約であった。そして、英国は進出を本格化させる。 1935年5月17日、アブドッラー ビン・カーシム首長は、英-イラン社の代表と石油権益に関する協定を締結。地質調査を開始し、半島の西側海岸のドゥハーン地域を有望とした。  1936年8月、新会社Qatar Petroleum Development Companyを設立する。同社は後に「カタル石油:Qatar Oil Company Limited」と商号変更した。 第4代ハマド首長(在位1940~1948年) 第3代アブドッラー首長の長男。 1940年、試掘井ドゥハーン1号井で油徴を発見。しかし、第二次大戦のため、1942年6月28日に同社は操業を停止する。  1946年、同社は業務を再開し、ドゥハーンの市街地、住宅、設備などを建設し、パイプラインの敷設および探鉱活動を行う。ゼクリート港を使用。さらにドゥハーンとメサイードにそれぞれ空港を建設し、ドゥハーン油田からメサイードまでのパイプライン延伸工事が行われた。  1949年、アリー首長はAmerican Superior Oil Companyに対し洋上における探鉱利権を付与する。1949年、英国の政治代表(大使)がドーハに着任。1952年、Royal Dutch Shellは大陸棚全域を開発するための採掘権を取得。1970年までにイッド・シャルギー、ブール・ハニーエなどの洋上油田を発見する。第5代アリー首長(在位1949~1960年) 第4代ハマド首長の実弟。この時、アリー首長は長老おいの意見に従い、甥のハリーファ王子を皇太子に任命した(後に第7代首長となる)。だが、病気を理由に退位するに当たり、ハリーファ皇太子を首長に指名せず、長男のアハマド王子を指名した。 第6代アハマド首長(在位1960~1972年) 第5代アリー首長の指名で即位。 1961年、石油輸出国機構(OPEC)加盟。また1960年代にはUNESCO、WHOなど国際機関に加盟した。  1968年1月16日、英国が1971年末までにスエズ以東からの軍事撤退を発表。  1969年、第11号法で外務省設置法を制定した。バハレーンとUAEの7首長国の合計9首長国での国家建設についての協議を開始。カタルは、9首長国での統一国家建設を主張するも、実現には至らず。  1970年5月29日、第35号法で憲法および閣議など国家としての枠組みを規定する。  1970年6月3日、第1回閣議が開催される。  1971年9月3日、アハマド首長が、英国と1916年の保護協定を終了する条約に調印する。外交と防衛に関する主権を回復して独立を達成。国連、アラブ連盟、非同盟諸国会議などへの加盟を果たす。 同年、Royal Dutch Shellはノース・フィールド・ガス田を掘り当て、1974年までには、このガス田が単一構造としては世界最大のガス田であることが判明。 第7代ハリーファ首長(在位1972~1995年) 第6代アハマド首長のイラン訪問時に、クーデターにより即位。 1981年にGCCに加盟。 1982年、サウディアラビアとの間で相互防衛協定を締結。 1991年7月、カタルはハワール諸島の領有権をめぐってバハレーンとの海上国境線の画定をハーグの国際司法裁判所に提訴した。2001年には一旦、カタルの領有権を認める判決が出たが、バハレーンはなお主権を主張しており2017年現在でも決着はついていない。 1992年9月末、サウディ軍が、カタルのアル・コフォス国境駐屯地を襲撃して一時、緊張が高まったが、12月にエジプトが仲介して緊張は解けた。第8代ハマド首長(在位1995~2013年) 第7代ハリーファ首長の外遊中に、クーデターにより即位。同首長の長男。サウディの傘下から離れて独自外交路線を採り、イラン、イラク、イスラエル、米国との21石油・天然ガスレビュー湾岸アラブ産油国の王家/首長家:その歴史的背景と政治の現状(各国王族間の外交関係をめぐる情勢等を含む)に関する概論?ハンマドムハンマドサーニーサーニームハンマド(1)ムハンマド(1)1850~18781850~1878スハイムスハイムハーリド ナーセルハーリドナーセルハマドハマドアハマドアハマドジャバルジャバルナーセルナーセルハリーファハリーファカーシムカーシムファーラフファーラフナーセルナーセルハマドハマドナーセルナーセルアブアブドッラードッラーサウードサウードアブドルアブドルアジーズアジーズハリーファハリーファアブドッラアブドッラフマーンフマーンジャーシム(2)ジャーシム(2)1878~19131878~1913アブドッラー(3)アブドッラー(3)1913~19401913~19401948~19491948~1949ハマド(4)ハマド(4)1940~19481940~1948ハサンハサンカーシムカーシムアブドルアブドルアジーズアジーズムハンマドムハンマドハリーファ(7)ハリーファ(7)1972~19951972~1995アブドッラフアブドッラフマーンマーンアリー(5)アリー(5)1949~19601949~1960アハマド(6)アハマド(6)1960~19721960~1972アブドルアブドルアジーズアジーズアブドルアブドルアジーズアジーズカーシムカーシムハマドハマドサウードサウードアブアブドッラードッラー出所:各種情報に基づき筆者作成ハマド(8)ハマド(8)1995~20131995~2013アブドルアブドルアジーズアジーズアブアブドッラードッラームハンムハンマドマドカーシムカーシムハマドハマドアブアブドッラードッラームハンムハンマドマドアブドッラフマーンアブドッラフマーンミシャエルミシャエル ファハドファハド カーシムカーシムタミーム(9)タミーム(9)2013~2013~ジャウジャウアーンアーンハーリドハーリド アブドッラーアブドッラー ムハンマドムハンマド ハリーファハリーファ サーニーサーニーアル=アル=カアカーアカアカーア図8カタル首長家サーニー家系図数字は首長在任期間関係改善を進める。 1990年代半ばから、カタルは3,750mの滑走路を備えたウデイド航空基地を建設していく。この基地は、米国中央軍の司令部が置かれ、公に発表されたのは2002年3月であったが、既に2001年9月からアフガニスタンの作戦に使用されていた。 2000年5月、Qatar General Petroleum Company(現Qatar Petroleum:QP)は、ExxonMobilとノース・フィールドに関する共同開発協定に調印。 翌2001年6月、QPとExxonMobilはGTL(Gas to Liquids)プロジェクトの FS(Feasibility Study:企業化調査)実施契約を結び、関係を強めていく。 2001年12月、QPは、アブダビのDolphin Energyと、ノース・フィールド・ガス田の開発とアブダビまでパイプラインを敷設してガスを輸出するプロジェクト開発契約に調印。  2002年1月、カタル政府はバハレーン、クウェイトに対するガス供給合意に調印。  2010年12月、Qatar Gasの780万トン/年のLNG生産を行う第6、第7トレインが竣工。これにより、LNG7,700万トン/年を生産する態勢が整い世界最大のLNG輸出国となる。 2013年3月、QPとWintershall(ドイツ)、三井物産は、洋上のBlock4Nで2.5Tcfの埋蔵量を持つガス田を発見したと発表。ノース・フィールド以来42年ぶりとなる新規ガス田を発見。第 9代タミーム首長(在位2013年6月25日に、第8代ハマド首長の譲位で即位) 第8代ハマド首長の第2王妃モーザとの間に誕生した次男。(3)近隣諸国との関係を再構築  2013年6月25日、ハマド首長は、自らの意思で首長位を退任し、皇太子のタミームに権限を委譲することを発表した。宮廷クーデターという例外はあるものの、当代首長がいまだ健在であるにもかかわらず、生前に首長位を禅譲することは、近隣の君主国群でも極めて珍しい。この首長位禅譲については事前に報道されていたが、背景などについての公式説明は出ていない。 多く指摘されたことは、これまで支援してきたエジプト、シリアの政変が行き詰まり、今後の政治のかじ取りはもとより、カタルの存立基盤さえ危機を招きかねない状況を打破するために政権交代したというものである。カタルはエジプトのムバーラク大統領政権時代からムスリム同胞団への支援を行い、ムスリム同胞団を支持基盤に持つモルシー政権の誕生とともに、政治的プレゼンスの向上を果たした。しかし、モルシー政権が2013年初めから支持を失い始めるに連れて、カタルの外交も行き詰まりを見せていた。既に、カタルはシリアにおいても、アサド政権に反対するムスリム同胞団勢力を支援してい222018.1 Vol.52 No.1アナリシススが、こちらも反政府勢力に、多種多様な勢力が入り込み、統一した動きを取ることができなくなっていた。ハマド ビン・ハリーファ首長は、ハマド ビン・ジャーシム首相兼外相とともに強力なリーダーシップの下、これら思い切った政策を推進してきただけに、政策転換させるために政権交代を行ったという見方である。 タミーム新首長は、就任後直ちに内閣改造を行って首相、外相を交代させ、さらに外交面でも軌道を修正し始めている。 2013年8月2日、タミーム首長はサウディを訪問し、同国のアブドッラー国王との会談を果たしている。しかし、同25日、米国ウォール・ストリート・ジャーナルは、サウディアラビアの諜報機関長官で元駐米大使のバンダルが、カタルについて、「人口300万人程度とTV局があるだけの国」と評した発言を報じた。これはカタル内での批判を巻き起こし、ハーリド アル・アティーヤ外相が自身のツイッターで「カタルの国民1人は国民全体と同じであり、カタルの国民は国家全体に等しい」と反論した。 イランとは、10月15日に、タミーム首長がロウハーニー大統領と電話会談し、同大統領のカタル訪問を招請した。  タミーム首長は残りのGCC4カ国に10月末に訪問、各国首脳らの歓迎を受けた。6. オマーン バット、アル・フトムなどに古代の遺跡が残され、また古代は乳香交易で栄えた。 575年、サーサーン朝ペルシャのホスロー1世がイエメン征服のために軍船を派遣し、その際、オマーンに守備隊を1個残した。 ヒジュラ暦8年(西暦630年)に、預言者ムハンマドはマッカから、オマーンのアズド部族の指導者であったジャウハルとアムルの兄弟に、アムル ビン・アースに親書を持たせて、自分たちへの帰順を促し、アズド族はこれを受け入れた。当時、オマーン半島にはゾロアスター教徒のペルシャ系住民が多数居住していたが、アズド族によって追放されたとの伝承が9世紀から10世紀のアラブの書物に記録されている。この時から、オマーンには、ペルシャ人が居住していたことは、現在のオマーンとイランの関係を考える上で、重要な点である。アハマド イブン・サイード(1) アハマド イブン・サイード(1) ~1775~1775サイード(2)サイード(2)1775~17791775~1779サイフサイフハマド(3)ハマド(3)1779~17921779~1792バドル(5)バドル(5)1804~18061804~1806スルターン(4)スルターン(4)1792~18041792~1804サーリムサーリムサイード(6)サイード(6)1806~18561806~1856スウェイニー(7)スウェイニー(7)1856~18661856~1866サーリム(8)サーリム(8)1866~18681866~1868トルキー(10)トルキー(10)1871~18881871~1888ファイサル(11)ファイサル(11)1888~19131888~1913タイムール(12)タイムール(12)1913~19321913~1932サイード(13)サイード(13)1932~19701932~1970カーブース(14)カーブース(14)1970~1970~カイスカイスアッザーンアッザーンカイスカイスアッザーン(9)アッザーン(9)1868~18711868~1871出所:各種情報に基づき筆者作成図9オマーン国 サイード家系図数字は首長在任期間23石油・天然ガスレビュー中世から現代へ 16世紀から17世紀にはポルトガルが支配する。1650年に、イマーム・ヤルビル王朝がポルトガル人を追放した。 18世紀初め、オマーン湾岸地帯は、イバード派*2アラブ諸民族が居住し、マスカット、ソハール、スールなどの港町を拠点として海上交易活動で繁栄していた。ヒナーウィー部族連合とガーフリー部族連合とに分かれて互いにライバル視し勢力を競っていた。 1744年、イバーディ派のアハマド イブン・サイードが、マスカットからイラン人を追放して、現在の王家であるサイード家の統治を確立し、ヒナーウィーとガーフリーの両部族連合の支持を集めて統治を安定させた。1783年にアハマ湾岸アラブ産油国の王家/首長家:その歴史的背景と政治の現状(各国王族間の外交関係をめぐる情勢等を含む)に関する概論h首長が亡くなると、その跡目をめぐって一族の内紛が起きたが1792年、アハマドの息子の1人スルターンが首長を継承した。スルターン新首長は、海洋貿易を盛んにしてマスカットの経済力を強める政策を採ったが、これはフランスやオランダの影響力を排除してアラビア湾の貿易路の独占を狙った英国の思惑と一致した。1798年、英国東インド会社は、フランス排除でスルターン ビン・アハマドと条約を結んだ。 一方、デルイア侯国からの攻勢が始まる。1796年、アブドルアジーズ サウードは、アハサー地方の征服を果たして、マスカット首長のスルターンをはじめ、ソハール、スールなどの町村領主にイブン・アブドルワッハーブの著作を送って、ワッハーブ派への参加を呼び掛けた。イバーディ派の諸部族は拒否したが、他のスンナ派の諸部族、特にバニー・ヤース族やヌワイミー族はワッハ―ブ派に参加して、デルイア侯国への忠誠を示した。 1800年、アブドルアジーズは、サーリム ハーリクに軍勢を指揮させて進撃を開始し、ブレイミーの緑地帯を占領した。そして、ここに要塞を築いて根拠地とし、オマーンの各町村に対して攻撃を開始した。この時、ラッスルヘイマ首長のサクル イブン・ラシードはワッハーブ派に加わり、サウード家に忠誠を誓ってナジド軍に積極的に協力した。これに続いて周辺村落の首長も相次いでワッハーブ派に加わったため、デルイア侯国の勢力は急激に拡大した。マスカット首長のスルターンは孤立状態に陥り、これ以上の対抗を断念し、デルイア侯国に貢租を納めて服従する。しかし、スルターン首長は永続的に従属する考えはなかった。 1806年にサイード ビン・スルターンが即位し、翌年にはサウード家に忠誠を示した貢租の納税を拒否、離反して戦う準備を始めた。イラン皇帝に支援を求め、イラン側はこれに応じて5,000人規模の軍を派遣した。1808年、マスカットの軍勢はソハールと同盟して、ラッスルヘイマに向かって軍を進めた。しかし、サウード家の支援を受けたラッスルヘイマのカーシミー部族連合軍の強い反撃に屈し、数千人の兵力を失って敗退した。そして再びサウード家に服従して貢租を納めることとなった。 1868年10月、マスカット東方約100kmの内陸にあるラスターク地域の首長であったアッザーンが反乱を起こし、サーリム ビン・スウェイニを追放してマスカットを占領した。1869年4月、ブレイミー首長のトルキー アッ・スデイリーがシャルジャの紛争に介入して死亡すると、6月、アッザーンはブレイミーを占領した。イバーディ派の旗印を掲げて、ワッハーブ勢力に対抗する姿勢を示し、貢租納税を拒否した。サウード家のアブドッラーは、2万人の軍で攻撃すると警告したが、アッザーンはアブドッラーの弟サウードと同盟を結び、さらにアブダビ首長のザーイド イブン・ハリーファとも同盟を結んだ。 1891年に、英国がオマーンと条約を結び、事実上、その保護国となる。その後は、鎖国同然の政策を採っていたが、サイード ビン・タイムールの子息カーブースは英国の支援を得て、1970年7月23日、宮廷クーデターを起こし、国王に就く。翌1971年には国連に加盟した。 1962年より、ドファール地方で反乱が発生した。オマーンは英国からの軍事支援とともに、1972年よりイランから軍部隊を派遣してもらい、1974年までかけて鎮圧した。 2011年からの「アラブの春」ではオマーンでも一部で動揺が起きたが、カーブース国王の政権は安定している。7. 現代の湾岸アラブ諸国の構造 1956年7月26日、エジプトのナセル大統領はスエズ運河を国有化すると宣言した。それまで英国がスエズ運河の管理権を有し軍隊も駐留させていた。英国とフランス、イスラエルの3カ国は協働して10月29日からエジプトのシナイ半島に侵攻した。ところが米国とソ連が停戦と即時全面撤退を通告するとともに、英ポンドを売却して通貨価値を下げるなどの強い圧力をかけて、11月8日までに3カ国の軍は停戦に至った。エジプトは軍事的に追い詰められてはいたが、スエズ運河を取り戻して政治的には大勝利となった。英仏はスエズ運河の利権を失い、英国のアンソニー・イーデン首相は辞任した。英ポンド圏も失墜し、ドル経済圏に取って代わられるきっかけとなった。 1961年6月19日、クウェイトが英国から独立し、翌年、最初の国民議会選挙を行った。 1968年1月、英国は、1971年末までに駐留させていた国軍をスエズ以東から撤退させると宣言した。英国は、現在のUAEの7首長国とカタル、バハレーンの外交と242018.1 Vol.52 No.1アナリシス走hを担っていたため、これらアラビア半島東岸の小国家群では英国撤退後のあり方について模索が始まった。これらの国々では国民人口が限られていて、単独で独立して国家として運営していくには規模が小さ過ぎた。例えば独立後の1975年当時ですらアブダビは自国民の人口が約5万人しかなく、カタル、バハレーンも、それに並ぶ規模に過ぎなかった。 それでも、1932年に石油が発見されて他の湾岸諸国に比べて経済を発展させていたバハレーンは、1971年8月14日、首長国として独立を宣言し、1973年5月には憲法を発布した。同年9月3日には、カタルが独立を宣言し、9月11日にアラブ連盟に、同月21日には国連に加盟を認められた。同年12月2日にアブダビ、ドバイ、シャルジャ、ウンムルカイワイン、アジュマーン、フジャイラの6首長国で「アラブ首長国連邦(UAE)」として建国を宣言。翌年にラッスルヘイマがこれに参加した。 1979年、イランはシーア派革命を起こして、周辺国にシーア派革命を輸出する動きを見せると、湾岸アラブの諸国は、イランに対抗して強く団結した。 1980年9月22日には、シャトル・アラブ川の使用権や領有権をめぐって、イラク軍がイランの空軍基地を爆撃してイラン-イラク戦争が勃発、湾岸のアラブ諸国はイラクを支援した。 1981年5月、サウディアラビア、UAE、クウェイト、バハレーン、オマーン、カタルの6カ国で湾岸協力会議(GCC)を結成する。8. 政治の現状と最近の動き(1)サウディアラビアとイランの対立 2016年1月に、サウディは国内のシーア派説教師を、裁判を経て死刑執行し、これにイラン国内で抗議の声が上がって、在イランのサウディ大使館とマシュハドの総領事館が焼き打ちに遭った。これに抗議する形でサウディはイランと断交した。2011年からのシリア騒乱と2015年からのイエメン内戦においてもサウディとイランの代理戦争の側面が生じたが、いずれの状況もサウディアラビアにとって芳しいものではない。(2)GCCでの動き①サウディ、UAEなど4カ国がカタルと断交 さらに2017年6月にはカタルがテロ組織を支援したことやイランと通じたことなどを理由として、サウディアラビア、UAE、バハレーン、エジプトがカタルと断交し、カタルとの物流と人の流れを停止した。世界最大の原油輸出国と世界最大のLNG輸出国とが断交したものの、当事国ともどもエネルギーの流れには影響を及ぼさないとしている。 カタルに対してはトルコが支援を表明し、空と海から物資を供給した。さらにイランも支援を表明して空路を提供した。8月にカタルは、それまで召還していたイラン駐在大使を復帰させることを発表した。 サウディは、リヤードに暮らすカタル首長家のアブドッラー ビン・アリー ビン・アブドッラー ビン・ジャーシム アッ・サーニーを、擁立する動きを見せた。 同氏は、第5代アリー首長の次男で、第9代タミーム現首長の祖父で第7代ハリーファ首長にクーデターで退位させられた第6代アハマド首長の兄弟に当たる。第6代アハマド首長はサウディに従う政策を採っていた。サウディはカタルのサーニー首長家の統治は認めるものの、自国に再度従うよう政策転換を求めているように見受けられる。 2014年3月にも、サウディはUAE、バハレーンとともにカタルから大使を一時召還したことがあった。この時は2013年11月にカタルがムスリム同胞団への支援を断ち切るために約束した措置を取っていないことを理由とした。2014年2月にはカタル外相がテヘランを訪問したこともサウディ側の不興をかった。この時は、カタルが国内の同胞団幹部を国外退去にし、サウディ側は11月に大使復帰を合意している。②史上初となったサルマーン国王のモスクワ訪問 2017年10月、サルマーン国王はモスクワを訪問してプーチン大統領と会談した。ロシア製防衛装備品の輸入や、2016年12月に合意した原油の協調減産を延長することも協議されたと見られている。 1953年に王制から革命によって共和制に移行したエジプトは、ナセル大統領の時代にサウディやクウェイトなど君主制の国々と対立しイエメンで代理戦争を行った。これに東西冷戦構造が絡んだことからサウディは旧ソ連と間接的に敵対関係にあった。1989年に旧ソ連が25石油・天然ガスレビュー湾岸アラブ産油国の王家/首長家:その歴史的背景と政治の現状(各国王族間の外交関係をめぐる情勢等を含む)に関する概論オた後も、サウディは中央アジアのイスラーム勢力を支援して、ロシアとの関係は発展しなかった。そうした観点から、今回のサルマーン国王のモスクワ訪問が建国以来初のこととして、今後の流れを変えていく分岐点となる重要な動きであると推察される。 11月4日からレバノン首相辞任表明の騒動、イエメンからリヤードへのミサイル攻撃、サウディの王子・閣僚ら要人の汚職疑惑による大量拘束などが同時発生した。これらは、近隣GCC諸国にも大きな衝撃を与えている。③レバノン首相辞任表明の騒動 2017年11月4日、レバノンのハリーリ首相が訪問先のサウディで、TV演説で辞任を表明。「現在、レバノン元首相であった自分の父親が爆殺された時と同じ状況にあり、自分を暗殺する企てを感じたため」と辞任の理由を述べた。同氏の父親は2005年に首都ベイルートで、車列が複数の強力爆弾に見舞われて殺害された。今回の発言はイランの影響下にあるシーア派組織ヒズブッラーがレバノン国内で勢力を強めたことを指しており、事実上、イランが暗殺するだろうと訴えた。 イランは国営メディアを通じて、ハリーリ元首相の主張を退け、ヒズブッラーは、「サウディの意図はレバノンの安定を損なうことだ」と批判した。 7日、イスラエルの専門家のなかには、サウディはレバノンをあえてヒズブッラーに支配させることで、同組織に国内引き締めと称してイスラエルと対峙する動機を与え、イスラエルとヒズブッラー間の戦闘を再発させようとしているとの見方を示した。 10日、サウディ、クウェイト、UAEは自国民のレバノンからの退去ないしは渡航自粛を勧告したことで、一時、サウディがレバノンに軍事行動をとる懸念が高まった。 辞任を表明したハリーリ首相は、7日、UAEのアブダビを訪問してムハンマド皇太子と会談した。18日にはパリを訪問してマクロン大統領と会談、21日にはカイロを訪問してシーシー大統領と会談しキプロスに立ち寄って同日夜に帰国した。帰国後、アウン大統領と会談し、同大統領の要請を受け入れて辞任を留保すると述べた。ただし、ハリーリ首相はサウディ国籍も保有し、息子2人を含む家族はリヤードに暮らしている。④イエメンからのミサイルの迎撃 2016年10月に反政府武装勢力のホウシー派はジェッダのキング・アブドゥルアジーズ空港へ向けて「ブルカーン1」弾道ミサイルを発射したが空中で迎撃された。さらに、2017年5月19日にもトランプ大統領のサウディ訪問の機会を捉えて弾道ミサイルを発射し、サウディ防空軍がリヤード市から約180km南西の無人地帯上空で迎撃している。 2017年11月4日夜、サウディ政府は、ホウシー派がイエメンから首都リヤード北東部に向けて弾道ミサイルを発射し、サウディ防空軍が迎撃したと発表した。 被害はなく、航空機の離発着にも支障は出なかった。ミサイルはイエメンから午後8時7分に発射され、リヤードの民間人の居住地区へ向けて飛来したが、パトリオット・ミサイルによって迎撃され、その破片がキング・ハーリド国際空港の東の無人地帯に落下したと発表。 さらに11月6日にサウディ政府は、今回の弾道ミサイル攻撃を自国に対するイランの侵略と表現し、サウディに対する戦争行為と考えられると発表した。そして国際法に基づいて自国の領土と国民を守るため、イエメンの空路、海路、陸路を一時的に封鎖すると発表した。人道支援・援助関係者の活動については「考慮する」とされた。 他方、ホウシー派は5日に管理下にあるサバア通信社を通じて犯行声明を発出し、リヤード北東部のキング・ハーリド国際空港を標的に弾道ミサイルを発射したと発表した。今回迎撃されたミサイルは射程が800km以上ある「ブルカーン 2-H」弾道ミサイルと見られている。 11月14日、米国のヘイリー国連大使はワシントンで、4日に発射されたミサイルの残がいを示し、イラン製だとして非難した。しかし、イランは直ちに否定した。さらに19日、ホウシー派はリヤードのヤマーマ宮殿に向けてミサイルを発射したと発表した。これもサウディ側が迎撃して、被害は出ていない。⑤「反腐敗委員会設置と要人拘束」 4日夜、サルマーン国王は勅令第38号を出して反腐敗委員会を設置した。ムハンマド皇太子が議長を務め、監視捜査委員会議長、国家反腐敗庁長官、総合監査局、検察総長、国家治安庁長官などが議員として参加し、捜査、逮捕、海外渡航禁止、口座凍結、基金や個人口座の差し押さえなどの権限を持つ。 反腐敗委員会の命令によって拘束されたのは王子11人、閣僚4人、現職と元職の閣僚および副大臣38名、高官2人と、サウディのオカーズ紙は伝えた。 他方、欧米メディアを中心に、サウディの反腐敗委員会の命令によって拘束された者の名前が報じられている。アル・ワリード ビン・タラール王子らに加えて、トルキー ビン・アブドッラー(前国王子息、リヤード前州知事)、アムル アッ・ダッバーグ サウディ総合投262018.1 Vol.52 No.1アナリシス痩@(SAGIA)元総裁、ナーセル ビン・アキール アッ・ターイル(アッ・ターイル・グループ創業者)、ムハンマド ハサン アル・アモウディー(事業家)、アル・ワリード アル・イブラーヒーム(MBC放送局所有者)、ムハンマド アッ・トベイシー(王宮府儀典長)、ハーリド アッ・トウェイジリー(前国王時の王宮府長官)、サーリハ カーメル(アル・バラカ社所有者)、イブラーヒーム アル・アサフ(前財務相)など。 アル・アラビーヤTVサイト版によれば、6日、当局は腐敗の容疑で拘束した容疑者の銀行口座を凍結し、いかなる優遇措置も与えないと述べた。 アル・ジェジーラTVは8日、ムハンマド ビン・ナーイフ前皇太子およびその家族、スルターン ビン・アブドルアジーズ故王子の家族の銀行口座が凍結されたと報じた。 アラビア語メディアは、9日、サアド アブドッラー アル・ムアジブ(判事)が、208人を取り調べ中で、既に7人は容疑が晴れて釈放されたと明らかにしたことを報じた。他方、欧米メディアのなかには、拘束者は数百人に上り厳しい取り調べと拷問で病院に運ばれる者も出ていると報じている。 また、拘束された要人たちがリヤードのリッツ・カールトン・ホテルに収容されているとの報道がある。ここは、10月24日から26日まで、ムハンマド皇太子が主導した「未来投資イニシアチブ」の会場になったホテルである。外部予約サイトから同ホテルは2018年2月14日まで予約を受け付けない状態となった。⑥閣僚級3人交代 4日夜、サルマーン国王は勅令第39~第41号の3件で、閣僚級3人を交代させた。解任されたのは、国家警護隊司令長官(閣僚級)のムトイブ ビン・アブドッラー王子(前アブドッラー国王の子息)、アーデル ファキーフ経済企画大臣、アブドッラー スルターン海軍司令官の3人。特に国家警護隊は部族勢力主体の軍事組織であり、武力面では国軍をしのぐとの評価もある。アブドッラー前国王が1963年に司令官に就任して以来、子息を部隊内の有力ポストに配置して、50年以上、アブドッラー前国王の子息が権力基盤としてきた。今回解任されたムトイブ王子は、有力な王位継承者であったが、2015年1月以来のサルマーン国王による人事のなかで、王位継承の候補者から外し、一歩一歩、権力を削がれていった。そ⑦アシール県副知事がヘリコプター事故で死亡 5日夜、イエメン国境に近いアシール県の副知事マンスール ビン・ムクリン王子が搭乗していたヘリコプターが墜落し、同県次長、アブハー市市長ら同乗の高官らとともに死亡した。拘束を回避するために飛行して墜落したとの臆測を呼んだが、子息マンスール王子を亡くしたムクリン元皇太子には、周辺GCC諸国の王家/首長家から弔問があり、周辺国にも衝撃が及んだ。⑧サルマーン国王とトランプ大統領の電話会談 イエメンからのミサイル攻撃が発生した数時間後の11月4日の深夜、米国のトランプ大統領とサルマーン国王は、電話会談を行った。ホワイトハウスの発表によると、両者はイランに支援されたホウシー派による直前のミサイル攻撃について協議した。また、トランプ大統領はサルマーン国王にミサイル迎撃システムTHAADへの150億ドルの投資を含めた武器購入に感謝した。さらに、大統領はSaudi Aramcoの上場を米国の証券取引所で行うよう要請した。トランプ大統領は4日にツイッターで「サウディがSaudi AramcoのIPO(Initial Public Offering:新規公開株)をニューヨーク証券取引所で行うことにとても感謝している。米国にとって重要なことである!」と述べていた。(3)その他 11月2日、サウディ東部州からバハレーンへの海上架橋が大渋滞を起こした。この日、海上架橋の入国管理ゲートは、午前中から深夜まで大混雑し混乱が続いた。通常は1日で約10万人弱が国境を越えるが、この日は給料日直後の週末となり、大混雑したとされる。他方、4日からの騒動を事前に察知した者たちが移動して混雑を引き起こしたとの見方も後に現れた。 サウディアラビアの経済は、国王の権限により石油開発を行い、その収益で国家経営をし、成功した結果として王族自体が富裕であり、所得税も住民税もなく、内外への経済支援活動を活発にしてきた。したがって、徴税を政府財政の柱とした国とは異なり、王族に関しては、収賄などスキャンダルになりにくい。そのため、ムハンマド皇太子が自身の権力基盤を強化するための粛清であるとする見方が欧米メディアを中心に多数ある。 また、一部では、拘束した者から押収した資産は8,000億ドル(1ドル110円換算で88兆円)に上ると報じられ、資金を吸い上げるのも目的だったとの見方も現れた。27石油・天然ガスレビュー湾岸アラブ産油国の王家/首長家:その歴史的背景と政治の現状(各国王族間の外交関係をめぐる情勢等を含む)に関する概論. 今後の展望 1990年のイラクによるクウェイト侵攻とその後の併合宣言を除けば、1820年以降、湾岸アラブ諸国は主権と独立を長く維持してきた。 GCCは、2017年12月5日に、クウェイトでGCC首脳会議を開催した。首長が出席したのはクウェイトとカタルであり、残り4カ国は閣僚クラスの出席であったが、GCCは継続することとなった。 現在、サウディアラビアの動きは数十年来見られないほど、活発となっている。また、思い切った施策も採っているが、こうした試みが成果を出すまでには相当な時間を要するであろう。 サウディとイランの対立は高まったままであるが、アラブとペルシャの通史を鑑みても、ペルシャが、強大な海軍力を持ってアラビア半島に侵入したことはなく、渡海してアラブ諸国に侵攻したのは、オマーン、バハレーンへの限られた事例があるだけである。むしろ、海事面ではアラブに頼らざるを得ず、ペルシャ側にアラブが海事拠点を築くことさえあった。 現代では、既にアラビア湾の対岸のアラブ諸国には、多くのイラン人移民が暮らしている。そのため、テヘラン政府の号令下でこうした移民が影響力を発揮することが危惧されてはいる。これらのことからアラビア(ペルシャ)湾を越えて直接、イランとアラブ諸国とが直接侵攻し合うということは、可能性としても低く、移民の引き揚げなどの段階を経た先のことであろう。現在の対立関係が解消するまでには、数年間という時間が必要となろうが、双方ともに関係国を巻き込みつつ、ソフトパワーを発揮して、影響力を行使し合うといったせめぎ合いが続くことが考えられる。 (2017年12月30日記)<注・解説>*1: 「イフワーン」:アラビア語で「同胞」を表し、サウディアラビア王国建国の理念としているワッハーブ派の思想に忠実に基づいた社会実現を目指した集団。アブドルアジーズ初代国王が版図を広げる際には軍団を結成して多大な戦績を上げた。宗教的情熱に駆られて政治的妥協を許さなかったことから、武力鎮圧を受け、1930年には収束した。1953年に就任した第2代サウード国王は、地方に散らばっていた元イフワーン軍団の生き残りのなかから、王家への忠誠を誓う者を選抜して軍部隊を編成し、後にこの部隊は「国家警備隊」へと発展していった。*2: イバード派は、イスラム共同体の指導者の選出資格や方法を巡って7世紀末に成立した分派とされる。教学論とは別に、政治・社会的には、スンナ派と親和的、協調的である。<参考>アラブ人名の見方:アラブ、ペルシャの人々は、「本人名+父親名+祖父名+……」と自分の名前に先祖の名前を継ぎ足していく。女性も同様である。「ビン」もしくは「イブン」は、「誰々の息子」を表す。女性の場合は「ビント」を付す。ケースによっては、最後に出身地名、部族名などを置く。本人名が「ムハンマド」などよく付けられるものである場合、本人識別が困難になる場合は、祖父名や著名な先祖、出身地、部族などの名前で呼称する場合がある。<参考文献等>サウディアラビア・森伸生『サウディアラビア 二聖都の守護者』(イスラームを知る 19)山川出版社、 2014年・小杉泰「現代世界の中のサウディアラビア」『サウディ・アラビアの総合的研究』日本国際問題研究所、2001年・小串敏郎『王国のサバイバル-アラビア半島三〇〇年の歴史』日本国際問題研究所、1996年・前嶋信次『アラビア史』修道社、1958年・ジャック・ブノアメシャン著、河野鶴代・牟田口義郎訳『沙漠の豹イブン・サウド』筑摩書房、1962年バハレーン/UAE・“Zayed wa al imaraat”, Dr abd al naser al faraa, Ministry of Culture, UAE 1996.282018.1 Vol.52 No.1アナリシスE スルターン・ムハンマド・アル=カーシミー著、町野武訳、牟田口義郎解題『「アラブ海賊」という神話』リブロポート、1992年・ Michael Quentin Morton “Keeperts of the Golden Shore, A History of the United Arab Emirates”, Reaktion Books, 2016.・Dr Abd Al Naser Al falaa “Zayed wa al Imaraat”, Ministry of Information & Culture, UAE, 1996.・ Mohammed Al Fahim “From Tags to reches:The Story of Abu Dhabi”, The London Center of Arab Studies Ltd., 1995クウェイト・「主要産油国の意思決定システムと要人調査」日本貿易振興会(現・〈独〉日本貿易振興機構〈JETRO〉)1976年3月・「クウェイト」㈱科学新聞社出版局1984年7月20日 ・「クウェイト」クウェイト国大使館、クウェイト国情報省、日本クウェイト協会、2000年2月28日オマーン・Christine Osborne “The Gulf States and Oman”, Croom Helm, 1977.・セルゲイ・ブレハノフ著、遠藤晴男訳『玉座の改革者』朝日新聞出版、2010年12月30日カタル・“Qatar History”, Department of Information & Research, Ministry of Foreign Affairs, Qatar, 2005.・Zahlan, Rosemarie Said, The Creation of Qatar, London, Croom Helm, 1979.執筆者紹介濱田 秀明(はまだ ひであき)職  歴: 国際石油開発帝石株式会社(INPEX)ユーラシア・中東事業本部アブダビユニット。2013年7月~2017年6月までJOGMEC調査部出向。アラビア半島諸国、エジプト、リビア、東地中海担当。近  況: 中東での動静は激しさを増すなかで、より大きな胎動を想定しつつ、資料読み込みに邁進中。Global Disclaimer(免責事項)本稿は石油天然ガス・金属鉱物資源機構(以下「機構」)調査部が信頼できると判断した各種資料に基づいて作成されていますが、機構は本稿に含まれるデータおよび情報の正確性又は完全性を保証するものではありません。また、本稿は読者への一般的な情報提供を目的としたものであり、何らかの投資等に関する特定のアドバイスの提供を目的としたものではありません。したがって、機構は本稿に依拠して行われた投資等の結果については一切責任を負いません。なお、本稿の図表類等を引用等する場合には、機構資料からの引用である旨を明示してくださいますようお願い申し上げます。29石油・天然ガスレビュー湾岸アラブ産油国の王家/首長家:その歴史的背景と政治の現状(各国王族間の外交関係をめぐる情勢等を含む)に関する概論ホ油・天然ガス金属地熱石炭4つの資源をターゲットに8つの事業を推進JOGMECは、日本の資源・エネルギーの安定供給確保を使命とする組織です。「石油・天然ガス」「金属」「石炭」「地熱」を対象に、世界各地で多角的な事業を推進しています。地質構造調査海洋資源開発国内外での新たな探鉱開発事業推進のため、先行的な調査に力を入れています。■海外地質構造調査■JV(ジョイントベンチャー)調査■国内地熱ポテンシャル調査石油・天然ガス金属地熱石炭海洋資源の開発を促進するため、資源量調査や商業化に向けた技術開発を推進しています。■メタンハイドレート■在来型石油・天然ガス資源■海底鉱物資源石油・天然ガス金属金融支援技術開発自主開発プロジェクトに対する資金調達を支援しています。■出資・債務保証■融資(金属のみ)石油・天然ガス金属JAPANテクノロジーで、さらなる資源の確保を目指します。■技術開発■技術ソリューション石油・天然ガス金属地熱石炭地熱石炭鉱害防止鉱害防止事業を多方面から支援し、環境保全に貢献します。■技術支援・技術開発■国際協力■石炭経過業務金属石炭石油・天然ガス金属資源備蓄不測の事態に備えて、資源備蓄を推進しています。■石油・石油ガス備蓄■レアメタル備蓄情報収集・提供情報力で日本企業の資源開発をサポートします。■刊行物の発行■ウェブサイト■講演会等の開催石油・天然ガス金属地熱石炭国際協力/資源外交政府レベルのネットワークを強化して日本の資源確保を支えます。■MOU(覚書)の締結■国際会議・イベント■研修事業・専門家派遣石油・天然ガス金属石炭302018.1 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2018/01/22 [ 2018年01月号 ] 濱田 秀明
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