ページ番号1001426 更新日 平成30年2月16日

日韓大陸棚協定にっかんたいりくだなきょうてい
英語表記
分野
その他

「日本国と大韓民国との間の両国に隣接する大陸棚の北部の境界画定に関する協定」(以下北部協定という)と「日本国と大韓民国との間の両国に隣接する大陸棚の南部の共同開発に関する協定」(以下南部協定という)を合わせて日韓大陸棚協定と通称する。
前者は、北緯 33 度付近から同 36 度付近にかけての両国の大陸棚の境界を画定したものである。この境界線は対馬海峡西水道を通過するが、両国の領海基線に対してほぼ中間線となっている。200m 等深線に囲まれる浅い舟状海盆は日本側に入るが、境界線設定に影響を及ぼしていない。この北部協定は 1974 年 1 月 30 日ソウルで署名され、1978 年 6 月 22 日発効した。南部協定は、署名・批准・発効の日付は北部協定と同一であるが、大陸棚境界画定に関する両国の立場を害しない、すなわち境界画定を棚上げして石油・天然ガス資源の共同開発についてのみ細目にわたり協定したという点が本質的に北部協定とは異なっている。また50年の最低効力期間を設けた点も北部協定と異なる。以上の両協定締結の契機となったのは、韓国が日韓中間線を超えて南側の東シナ海の大陸棚および沖縄舟状海盆の一部に鉱区を設定したことにある(1972 年 5 月)。このため大陸棚の境界画定に関して両国間に紛争が生じたが、交渉の結果(南部協定にあるような)共同開発協定として妥協したものである。これら協定は韓国側では署名後直ちに批准されたが、わが国では協定実施のための国内法として「日本国と大韓民国との間の両国に隣接する大陸棚の南部の共同開発に関する協定の実施に伴う石油および可燃性天然ガス資源の開発に関する特別措置法」案を、1974 年(昭和 49 年)の第 72 通常国会に提出したが廃案となった。そして以後再提出、継続審議または廃案を繰り返し、4 年あまりを経て 1978 年(昭和 53 年)第 84 国会で成立し、批准書の交換、特別措置法の施行となった。このような曲折をたどったのには多くの原因があるが、大きなものは二つあり、一つは南部協定の共同開発区域が完全に日韓中間線以南の“日本側”大陸棚に設定されていること、他の一つは中国(当時未承認国)の自国大陸棚への侵犯とする激しい抗議であった。これらの背景にはわが国が主張した境界画定の中間線原則と、韓中両国の主張の基盤を成す大陸棚自然延長論との衝突があった。日韓両国の交渉開始直前に(1969 年)、北海大陸棚事件に関して出た国際司法裁判所の判決がこの交渉に大きな影響を与えたものと推測される。そもそも東シナ海の大陸棚の石油ポテンシャルを予想し、熱心に調査を日本政府に勧めたのは東京水産大学の新野弘教授であったが、その要望が受け入れられなかったところから、米国ウッズホール海洋研究所の K. O. Emery 博士と共同で米海軍海洋研究部の支援の下に ECAFE(現 ESCAP )のプロジェクトとし、1968 年にハント号を使用して黄海・東シナ海の海象並びに地磁気・スパーカー( 3 万ジュール)調査を行った。その結果石油資源の潜在ポテンシャルが高いと報告されたところから、にわかに沿岸諸国が強い関心を示し始めたのが本協定の生まれる背景となった。共同開発区域は図に示すとおりであるが、1985 年末現在、第 5 、第 7 、および第 8 小区域でそれぞれ 2 坑、3 坑、および 1 坑、計 6 坑の試掘が終了している。最大掘削深度は第 7 小区における 4,486m である。

図 日韓大陸棚協定による大陸棚境界線および共同開発区域